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人魚の末裔の私3

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 赤い血を滴らせて浅く脈打つそれを、私は両の手の平の上に捧げ持っていた。それはグロテスクな肉の塊なのに、この世の物とは思えないぐらい美しくて、甘美な芳香を放っていた。ぺろりと舐めると、その濃厚な血の味がワインのように私を酔わせていく。色と、匂いと、味と、手の平の感触と、全てが強烈に私の精神を支配していく。これを、口に含んで、噛み千切って、咀嚼して飲み込んで消化して私の血肉にして……そんな想像が私の心を侵食していく。うっとりとそんな幻想に身を委ねて、それを齧ろうとわずかに下を向くと、事切れたその人の姿が視界に入った。
「きゃあああ!」
 私はきしむ心臓を押さえて、起き上がった。闇の中うっすらと浮かび上がる家具で、ここが離れの自分の部屋だとわかった。
『ちゃあんとあったかい心臓を引っ張り出して食べるのよ』
 人魚のセリフが、頭の中でぐるぐる回る。食べられるわけないじゃん、何言ってんだか。昨夜は落ち着きを取り戻して、笑いながらそう思って眠った。でも夢の中の私はたやすくそんな理性の縛りを超えてくる。私は人魚の末裔。人魚の本質は、ちゃんと私の中で生きている。悲しいくらい残酷に。
『お母さんと同じ失敗をしちゃだめよ』
 お母さんは、この誘惑に打ち勝ったんだろう。でも、私は? 夢に見るぐらいにぐらぐらと揺さぶられている。
 博士は人魚の研究者だ。きっとこの事実を知っているのだろう。お母さんのことも。でも、私に伝えはしなかった。あはは、そりゃそうだよね。食べられたくないもんね。動物園の猛獣と一緒だ。変に刺激して、野生の味を教えたくない。「研究対象」は、そばに置いて飼い殺しておくのがいいのだ。
 あーあ。もう一つ嫌なことにも気づいちゃった。博士は私がいつもどうしようもなく博士を好きになってしまうことをすでにあきらめていたのかもしれない。そして、私の気を人魚の本能から逸らすために、あえてあの日記をあそこに置いたままにしておいたのかもしれない。一月に一度の大掃除って、博士が最初にくれた記憶喪失の説明書に書いてあったもん。日記帳が見つかるのは、ある意味必然だった。あの日記帳は、私が追いつめられてとんでもないことをしでかさないよう意識を逸らすのに、とても役にたっていたと思う。毎日博士と積み重ねるちょっとした恋の階段は小さな達成感となっていて、私はとても満足していた。博士に嫌がっている素振りはなかった。毎回失恋させるのに、応えるつもりなんかないのに、私が恋心を膨らませていくのを拒否しない。獣の本能を刺激させないよう、恋に飢えさせないようけれでも与えすぎないよう、確かに、昨日まではバランスがとれていた。
 心臓が痛い。さっきから、心臓が変な音を立てている。
 ああ、博士がそんな腹黒くて残酷な人かも、って思いながらも私は、博士が好きなことをやめられない。だから、博士の裏切りから受けるショックよりも、研究対象の自分と博士が結ばれる可能性がないことの方が、この心臓に痛みをもたらしている。
 博士、苦しいよ。繰り返した過去の恋が私を押しつぶす。決して報われない恋に、そろそろ心臓がもたなくなりそう。
 もう、あの日記は隠し場所にしまい込んだまま、開く気にもなれなかった。

 それから数日は、痛みを隠したままどうにかビーチハウスにバイトに出た。サーファーの皆さんをロッカーへ案内したり、レンタル備品の貸し出しをしたり、お昼どきにはレストランのウェイトレスをしたり。店長は私の顔色が悪いことに気が付いて色々気づかってくれたけれど、私は大丈夫で押し通した。
 その日はいい波が来ていたらしく人が多くて忙しかった。お昼に混むのが目に見えていて、店長が私にごめんねと謝ってヘルプのために下崎を呼んだ。
「なあ、つらいんだろ?」
 仕事が忙しいから、下崎も私に直接絡んでくる余裕なんかないと思ってたが甘かった。お客さんがちょっと途切れてバックヤードに食材を取りに行った所を下崎が追いかけてくる。
「前の時も似たような感じだったもんな。店長は言わないけど、お前自殺未遂でもして記憶失くしたんだろ? その相手、あの時の、あいつなんだろ」
 手が止まってしまった。気づかれた。私の馬鹿!
「でも、うまくいってないからまたお前おかしくなってるんだろ? 慰めが欲しいんだろ? 他の男でもいいんじゃないか?」
 舌なめずりするようなねばりつくような口調が気持ち悪い。でも、下崎の一言が、ぎりぎり保っていた私の心の琴線に触れてしまった。
「あいつの代わりに慰めてやるよ。俺んち、来いよ」
 他の男、代わり。代わりの、他の男の、心臓。代替品の、でも、心臓。赤い、滾るような熱と、滴る血、馨しき香気で私を酔わせる、その胸に埋まった、ただの、ただの肉塊。
 体の奥底からの衝動を押し殺すために、私は両手で体を抱きしめてしゃがみ込んだ。
『ああー!!』
「なんだよ! 変な声出して。おい、大丈夫か?……ひっ」
 下崎が何を見たのかはわからないが、小さく、化け物っと叫んで飛び出していった。
「はは、は」
 そうだ。私は人の殻を被った化け物。こんな私を博士の側にはおいておけない。失恋して、今度こそ死んでしまうべきなのだ。

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