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第一部
第20話 図書館と未亡人
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図書館に入った途端、水を得た魚の気持ちが、よくわかった。
落ち着く。この上なく、落ち着く。
馬車の中は、完全なる敵陣地だったが、ここは間違いなく、わたしの領域だ。
大きく息を吸い込んで深呼吸すると、古い本たちの持つ知識の香りが、胸いっぱいに広がる。
王立図書館。
この国で最も多くの書物が集められている場所。
壁一面の書架、遥かに見上げる吹き抜けの天井近くにまで、本がびっしりと並べられている。
いつ来ても、この景色は圧巻だった。
「罪作りですねぇ……」
思わず、ほうっと溜め息交じりの呟きが漏れた瞬間、後ろに騎士が控えていることを思い出し、慌てて口を噤む。
引き籠もりは独り言が多いのだ。気を付けねば。
どれほど長生きできたとしても、人生のすべての時間を読書に費やせたとしても、ここの蔵書全てを読み切ることはできないだろう。
この場所は、足を運ぶ度、わたしを魅了しすぎる。
ほんの少しの物音でも響きわたる静けさ。混雑はしていないが、それでも、どの棚の前にも本を選んだり読んだりしている本の虫たちがいる。
そして、その本の虫たちはすれ違い様、皆一様に、真っ黒づくめのわたしと、その後ろを歩く真っ黒な制服を着た二人の騎士を、ぎょっとしたように見やる。
目撃者、たっぷり。
この世にこれ以上、安全な場所はないように思えた。これで、今日のところは絶対に生き延びた。
うきうきと書棚の間を歩き始める。
ウェイン卿と女性騎士のオデイエ卿が、決して目を離さずにぴったりと同じ距離をとったまま、後を付いてくる。
相変わらず、二人とも非の打ちどころのない無表情だが、張り詰めた緊張感は、少し解けたように感じた。
それもこれも、グラミス伯爵夫人のお陰であろう。
人生があとどれほど残っているかはわからないが、この御恩は、一生忘れまい。
本当はもっと長居したかったが、今日のところは、『時と共に去りぬ』という長編物語と『旧市街・王都に眠る地下水道の歴史』の二冊を借りることにする。
『時と共に去りぬ』は、フランシーヌという一人の女性の激動の人生を描いた物語である。
もう何度も借りた本が、何度目であっても、感動で泣けるのだ。
何と言っても、二冊とも、題名が怪しくない。
まあ……、今更だという自覚はあるけれども。
先ほど、俎板の上の鯉の気持ちを存分に味わい尽くした緊張疲れから、今日はもう、早く居心地の良い屋根裏部屋に帰りたくて仕方がなかった。
それに……ちらりと後ろの騎士に目をやる。
ウェイン卿とオデイエ卿のマントは、いつもの黒より、もっと深い漆黒に染まったままだ。すぐに乾くと言っていたが、あれでは体が冷えるだろう。
もう帰ります、と伝えて図書館を出ると、黒塗りの馬車の前で、シュロー・ラッド卿と女性が談笑しているのが目に入った。
女性は乳母車を押し、幼い子が二人、その脇に立っている。買い物帰りにたまたま通りかかったのだろうか。葉っぱ模様が描かれた園芸店の紙袋を提げていた。
「セシリア!」
わたしの後ろにいたオデイエ卿が、思わず、といった風に上げた明るい声に反応して、セシリアと呼ばれた女性がこちらを向いた。
優し気な雰囲気の、線の細い綺麗な女性だった。ほっそりした体に上品な紺色のドレスを纏い、後ろで一つに纏めた薄茶の髪が腰のあたりまで伸び、毛先が上品なカールを描いている。
「ルイーズ! それに、ウェイン卿も。ご無沙汰しております。」
セシリアは、柔らかく微笑むと、優美な仕草で頭を下げた。顔だけでなく、声まで優しげで麗しい。
図書館から出てきたわたしたちに気付き、離れたところに馬を止めていたアルフレッド・キャリエール卿もセシリアに向かって穏やかな視線を向けつつ、こちらに戻ってくる。
「そう言えば、この辺りにお住まいでしたね。子ども達も、ずいぶん、大きくなって。お元気でしたか?」
ルイーズ・オデイエ卿が懐かしそうな声を出した。
ついさっきまで、獲物を狙う肉食獣のような光を宿していた琥珀色の瞳は、打って変わって柔らかい。
改めて観察すると、オデイエ卿も大変美しい女性だ。
すらりとした肢体に、炎を連想させる艶やかな赤い髪が波打ちながら腰まで伸びている様は、物語の女主人公のようだった。
セシリアはふわりと砂糖菓子のような笑みを浮かべて答えた。
「ええ、お陰様で。ロイが亡くなってから、ノワゼット公爵様にはずいぶん良くしていただいて。十分過ぎる暮らしをさせてもらっているわ。皆さんは、お変わりない?」
「なら良かった。ええ、わたし達も、お陰様で元気にしています。」
ラッド卿もキャリエール卿もオデイエ卿も、当然ながら、先程までの態度とは全く違う、穏やかな顔でセシリアを見ていた。
ウェイン卿だけが一歩引いたところにいるが、それでもセシリアと子供達に向けられる視線は、ほんの僅かに和らいだように見える。
わたしはと言うと、セシリアの連れている子供達と乳母車の中の赤ん坊にすっかり気を取られていた。
小さな丸い顔をした赤ちゃんは、一歳くらいだろうか。乳母車の中で、すやすやと寝息を立てて気持ち良さげに眠っている。絹の上掛けから覗く、もみじのような手がこの上なく愛らしい。
二歳くらいの女の子と四、五歳くらいと思われる男の子も活発そうで、柔らかそうなほっぺはふくふくと丸く膨らんでいて、とても可愛らしかった。
眺めているだけで胸がほんわり温まり、きゅんきゅんするようである。
外套の裾をくいっと引っ張られた感触に視線を下げると、いつの間にか足元に移動した女の子が、わたしの顔を見上げていた。その目は真ん丸に見開かれ、口はぽかんと開かれ、頬はびっくりしたように紅潮している。フードを深く被り、醜い顔を隠していても、こうして真下から覗かれると顔が見えてしまう。
昔から、大人には固まられるほど忌み嫌われるが、子どもにはそうでもない。こうして興味津々といった風情で顔を覗かれ、瞳を輝かせ、くっついてくれる。
きっと、幼なさ故に美醜の判断がつかず、この顔を見ても平気なのだろう。
腰を屈め、女の子と視線を合わせて挨拶する。
「こんにちは」
女の子は首を傾げて、なおもフードの中の顔を覗き込み、天使の笑みを浮かべる。
「こんにちは。あたし、えばっていうの」
「エバ、素敵なお名前ね。わたしはー」
自己紹介しようとしたところで、我ながら見るからに怪しげなわたしの存在に、セシリアが気付いた。
「ごめんなさい。お仕事中ですわね」
セシリアから視線と言葉を向けられ、慌てて立ち上がった。
「いえ、どうぞ、わたくしにはお気遣いありませんように。ごゆっくりお話しなさってください。お可愛いらしいお子様達ですね。おいくつでいらっしゃいますか?」
「上から、五歳、三歳、一歳でございますの。夫のロイが先の戦争で亡くなった時、下の子はまだお腹におりましたので」
セシリアは少し寂しそうに微笑む。騎士達も、しんみりと目を伏せた。
そういえば、ロイ、という名には心当たりがあった。
「……ロイ・カント卿の奥さまでいらっしゃいますか?」
「はい……」
セシリアは、儚げに頷いた。
ロイ・カント卿と言えば、ノワゼット公爵の直属の第二騎士団の副団長だった方だ。
四年前に始まり、二年かけてようやく終結したハイドランジアとの戦争で、残念ながら終戦間近に帰らぬ人となられた時には、新聞に大きく載っていたと思う。
ちなみに後任の副団長は、今、わたしの命を狙っていらっしゃる、こちらのレクター・ウェイン卿である。
「お悔やみ申し上げます。……お子さまがお小さいのに……」
言葉が見つけられずにいると、セシリアは、間髪入れずに明るく言った。
「お気遣いありがとうございます。あれから随分たちましたし、ノワゼット公爵が気遣ってくださって、十分な年金を受け取れるように手配してくださいました。
子ども達も、ロイに似て腕白なところもありますが、……今日も外を元気に走り回っていたので、どろんこでございましょう?ですから、何も不自由はしておりませんの」
「そうですか……」
その場にいた騎士たちは、目元を柔らかくしている。
セシリアの纏う穏やかな雰囲気のお陰で、先程までの不穏に殺気走った空気は、嘘のように消えていた。
「そういえば、よろしければ、皆さん、一度、家に遊びにきてはいただけませんか?ロイを見送っていただいたとき以来、久しぶりにお会いできたんだもの。子ども達も喜ぶし、みんなの近況も聞きたいわ」
「いいんですか? もちろん、ぜひ」
「喜んで」
「今日はお会いできて良かった」
などと、オデイエ卿、キャリエール卿、ラッド卿。和気藹々ムードである。
自分とは関係のない話題に転じたところで、また、くいっと裾を引かれた。今度はエバとエバに引っ張られた五歳のお兄ちゃんまでいる。男の子もわたしの顔を目を見開いて、瞬きもせず、食い入るように見つめていた。
腰を屈めようとすると、オデイエ卿の声で遮られた。
「エバ! クリス!」
五歳の男の子は、クリスと言う名前らしい。
騎士達が、わたしが子供達に近付くのを警戒しているのを察し、少し下がる。
オデイエ卿は、エバとクリスの前にそっと跪いた。
「エバ、クリス、わたしはルイーズ。覚えてないだろうけど、二人がうんと小さい時に会ったことがあるのよ」
二人に話し掛けるオデイエ卿の声は耳に優しく響いた。
「ぱぱの、おともだち?」
エバは、ぱあっと顔を明るくした。
クリスの方は、オデイエ卿よりも黒ずくめの格好が珍しいのか、相変わらずわたしの顔を食い入るように見上げ、口を開けてふっくらした頬を赤くしている。
「そうよ」
オデイエ卿はエバの質問ににっこり頷いた。
「るいーずも、ぱぱにあえる?」
「え?」
「エバはね、あえるの。だから、さみしくないの」
困惑顔で、何と返すべきか躊躇う様子のオデイエ卿に、セシリアが慌てたように言う。
「あの、混乱させちゃってごめんなさい。子供達には、『パパの姿は見えないけど、ずっとこの家にいて、皆を見守ってるのよ』って普段から教えているものだから」
ああ、とオデイエ卿は微笑んで頷く。
「エバは、いいわね。パパは一緒にいるのね」
エバは瞳を輝かせ、得意気ににっこり笑った。
「うん!きょうは それで おかいものをしたの」
オデイエ卿が、まだ言葉の拙いエバの相手に苦戦を強いられている隣で、セシリアが、ウェイン卿に向けて話し掛けた。
「ウェイン卿も、ぜひ、一緒にいらしてね」
セシリアは、わたしの後方一歩下がったところに油断なく張り付きながら、全体を見守っていたウェイン卿にも優しく微笑みかけた。
「いえ、わたしは」
「ロイは、ウェイン卿のことが好きだったもの。よく、家でレクターは、って話をしていたわ。ウェイン卿も来てくださったら、ロイもきっと喜ぶわ」
柔らかな笑みを浮かべる儚げなセシリアにこれほど誘われて、断れるものはいるまい。
「……せっか――」
ウェイン卿は、相変わらず、感情の読めない顔で、口を開きかけた。
「その際は、わたくしもご一緒させていただいても宜しいでしょうか?」
突然、横から物凄ーく、厚かましいことを堂々と言い出したのは、誰あろう、このわたしである。
ウェイン卿はじめ騎士達は、一様に、ぎょっとしてこちらを見やる。
セシリアも当惑の色を瞳に映し、口にこそ出さないが、その場にいる全員の顔に、
『オマエは誘ってない』
と書いてあった。
全くもって同感であったが、ここは、怯まずに続ける。
よく考えずとも、騎士達とわたしの関係は、暗殺者とその標的という、もはやこれ以上、悪い方に転がりようもなく拗れているのだ。
今更、取り繕う必要もない。
「わたくし、どうしても、伺いたいのです。一生に一度、騎士様のお宅なるものに、いつか伺ってみたいと、夢に見ておりました。この機会を逃すと、もう二度と、チャンスは巡ってこないかも知れません。どうか、どうか、お願いいたします!」
黒ずくめの上、顔もよく見えない、名も知らぬ怪しげなわたしの気迫に押されて、セシリアは、
「……はあ、あのう、そういうことでしたら、ぜひ、ご一緒に……」
と、引き潮の如くではあるが、了承してくれた。
ここまで言われて、断れる人はなかなかいるまい。わたしは満足げに頷き、さらに言い募った。
「ありがとうございます! では、いつにいたしますか? 明日か、明後日では、急すぎますでしょうか? では、三日後はいかがでございますか?」
ウェイン卿、ラッド卿、オデイエ卿は、奇妙極まりない生物を目にしたように至極疑わしげな顔をしている。
キャリエール卿に至っては、可哀そうな生き物を見る目で、わたしを見ていた。
その視線は堪えた。
でも、めげない。
落ち着く。この上なく、落ち着く。
馬車の中は、完全なる敵陣地だったが、ここは間違いなく、わたしの領域だ。
大きく息を吸い込んで深呼吸すると、古い本たちの持つ知識の香りが、胸いっぱいに広がる。
王立図書館。
この国で最も多くの書物が集められている場所。
壁一面の書架、遥かに見上げる吹き抜けの天井近くにまで、本がびっしりと並べられている。
いつ来ても、この景色は圧巻だった。
「罪作りですねぇ……」
思わず、ほうっと溜め息交じりの呟きが漏れた瞬間、後ろに騎士が控えていることを思い出し、慌てて口を噤む。
引き籠もりは独り言が多いのだ。気を付けねば。
どれほど長生きできたとしても、人生のすべての時間を読書に費やせたとしても、ここの蔵書全てを読み切ることはできないだろう。
この場所は、足を運ぶ度、わたしを魅了しすぎる。
ほんの少しの物音でも響きわたる静けさ。混雑はしていないが、それでも、どの棚の前にも本を選んだり読んだりしている本の虫たちがいる。
そして、その本の虫たちはすれ違い様、皆一様に、真っ黒づくめのわたしと、その後ろを歩く真っ黒な制服を着た二人の騎士を、ぎょっとしたように見やる。
目撃者、たっぷり。
この世にこれ以上、安全な場所はないように思えた。これで、今日のところは絶対に生き延びた。
うきうきと書棚の間を歩き始める。
ウェイン卿と女性騎士のオデイエ卿が、決して目を離さずにぴったりと同じ距離をとったまま、後を付いてくる。
相変わらず、二人とも非の打ちどころのない無表情だが、張り詰めた緊張感は、少し解けたように感じた。
それもこれも、グラミス伯爵夫人のお陰であろう。
人生があとどれほど残っているかはわからないが、この御恩は、一生忘れまい。
本当はもっと長居したかったが、今日のところは、『時と共に去りぬ』という長編物語と『旧市街・王都に眠る地下水道の歴史』の二冊を借りることにする。
『時と共に去りぬ』は、フランシーヌという一人の女性の激動の人生を描いた物語である。
もう何度も借りた本が、何度目であっても、感動で泣けるのだ。
何と言っても、二冊とも、題名が怪しくない。
まあ……、今更だという自覚はあるけれども。
先ほど、俎板の上の鯉の気持ちを存分に味わい尽くした緊張疲れから、今日はもう、早く居心地の良い屋根裏部屋に帰りたくて仕方がなかった。
それに……ちらりと後ろの騎士に目をやる。
ウェイン卿とオデイエ卿のマントは、いつもの黒より、もっと深い漆黒に染まったままだ。すぐに乾くと言っていたが、あれでは体が冷えるだろう。
もう帰ります、と伝えて図書館を出ると、黒塗りの馬車の前で、シュロー・ラッド卿と女性が談笑しているのが目に入った。
女性は乳母車を押し、幼い子が二人、その脇に立っている。買い物帰りにたまたま通りかかったのだろうか。葉っぱ模様が描かれた園芸店の紙袋を提げていた。
「セシリア!」
わたしの後ろにいたオデイエ卿が、思わず、といった風に上げた明るい声に反応して、セシリアと呼ばれた女性がこちらを向いた。
優し気な雰囲気の、線の細い綺麗な女性だった。ほっそりした体に上品な紺色のドレスを纏い、後ろで一つに纏めた薄茶の髪が腰のあたりまで伸び、毛先が上品なカールを描いている。
「ルイーズ! それに、ウェイン卿も。ご無沙汰しております。」
セシリアは、柔らかく微笑むと、優美な仕草で頭を下げた。顔だけでなく、声まで優しげで麗しい。
図書館から出てきたわたしたちに気付き、離れたところに馬を止めていたアルフレッド・キャリエール卿もセシリアに向かって穏やかな視線を向けつつ、こちらに戻ってくる。
「そう言えば、この辺りにお住まいでしたね。子ども達も、ずいぶん、大きくなって。お元気でしたか?」
ルイーズ・オデイエ卿が懐かしそうな声を出した。
ついさっきまで、獲物を狙う肉食獣のような光を宿していた琥珀色の瞳は、打って変わって柔らかい。
改めて観察すると、オデイエ卿も大変美しい女性だ。
すらりとした肢体に、炎を連想させる艶やかな赤い髪が波打ちながら腰まで伸びている様は、物語の女主人公のようだった。
セシリアはふわりと砂糖菓子のような笑みを浮かべて答えた。
「ええ、お陰様で。ロイが亡くなってから、ノワゼット公爵様にはずいぶん良くしていただいて。十分過ぎる暮らしをさせてもらっているわ。皆さんは、お変わりない?」
「なら良かった。ええ、わたし達も、お陰様で元気にしています。」
ラッド卿もキャリエール卿もオデイエ卿も、当然ながら、先程までの態度とは全く違う、穏やかな顔でセシリアを見ていた。
ウェイン卿だけが一歩引いたところにいるが、それでもセシリアと子供達に向けられる視線は、ほんの僅かに和らいだように見える。
わたしはと言うと、セシリアの連れている子供達と乳母車の中の赤ん坊にすっかり気を取られていた。
小さな丸い顔をした赤ちゃんは、一歳くらいだろうか。乳母車の中で、すやすやと寝息を立てて気持ち良さげに眠っている。絹の上掛けから覗く、もみじのような手がこの上なく愛らしい。
二歳くらいの女の子と四、五歳くらいと思われる男の子も活発そうで、柔らかそうなほっぺはふくふくと丸く膨らんでいて、とても可愛らしかった。
眺めているだけで胸がほんわり温まり、きゅんきゅんするようである。
外套の裾をくいっと引っ張られた感触に視線を下げると、いつの間にか足元に移動した女の子が、わたしの顔を見上げていた。その目は真ん丸に見開かれ、口はぽかんと開かれ、頬はびっくりしたように紅潮している。フードを深く被り、醜い顔を隠していても、こうして真下から覗かれると顔が見えてしまう。
昔から、大人には固まられるほど忌み嫌われるが、子どもにはそうでもない。こうして興味津々といった風情で顔を覗かれ、瞳を輝かせ、くっついてくれる。
きっと、幼なさ故に美醜の判断がつかず、この顔を見ても平気なのだろう。
腰を屈め、女の子と視線を合わせて挨拶する。
「こんにちは」
女の子は首を傾げて、なおもフードの中の顔を覗き込み、天使の笑みを浮かべる。
「こんにちは。あたし、えばっていうの」
「エバ、素敵なお名前ね。わたしはー」
自己紹介しようとしたところで、我ながら見るからに怪しげなわたしの存在に、セシリアが気付いた。
「ごめんなさい。お仕事中ですわね」
セシリアから視線と言葉を向けられ、慌てて立ち上がった。
「いえ、どうぞ、わたくしにはお気遣いありませんように。ごゆっくりお話しなさってください。お可愛いらしいお子様達ですね。おいくつでいらっしゃいますか?」
「上から、五歳、三歳、一歳でございますの。夫のロイが先の戦争で亡くなった時、下の子はまだお腹におりましたので」
セシリアは少し寂しそうに微笑む。騎士達も、しんみりと目を伏せた。
そういえば、ロイ、という名には心当たりがあった。
「……ロイ・カント卿の奥さまでいらっしゃいますか?」
「はい……」
セシリアは、儚げに頷いた。
ロイ・カント卿と言えば、ノワゼット公爵の直属の第二騎士団の副団長だった方だ。
四年前に始まり、二年かけてようやく終結したハイドランジアとの戦争で、残念ながら終戦間近に帰らぬ人となられた時には、新聞に大きく載っていたと思う。
ちなみに後任の副団長は、今、わたしの命を狙っていらっしゃる、こちらのレクター・ウェイン卿である。
「お悔やみ申し上げます。……お子さまがお小さいのに……」
言葉が見つけられずにいると、セシリアは、間髪入れずに明るく言った。
「お気遣いありがとうございます。あれから随分たちましたし、ノワゼット公爵が気遣ってくださって、十分な年金を受け取れるように手配してくださいました。
子ども達も、ロイに似て腕白なところもありますが、……今日も外を元気に走り回っていたので、どろんこでございましょう?ですから、何も不自由はしておりませんの」
「そうですか……」
その場にいた騎士たちは、目元を柔らかくしている。
セシリアの纏う穏やかな雰囲気のお陰で、先程までの不穏に殺気走った空気は、嘘のように消えていた。
「そういえば、よろしければ、皆さん、一度、家に遊びにきてはいただけませんか?ロイを見送っていただいたとき以来、久しぶりにお会いできたんだもの。子ども達も喜ぶし、みんなの近況も聞きたいわ」
「いいんですか? もちろん、ぜひ」
「喜んで」
「今日はお会いできて良かった」
などと、オデイエ卿、キャリエール卿、ラッド卿。和気藹々ムードである。
自分とは関係のない話題に転じたところで、また、くいっと裾を引かれた。今度はエバとエバに引っ張られた五歳のお兄ちゃんまでいる。男の子もわたしの顔を目を見開いて、瞬きもせず、食い入るように見つめていた。
腰を屈めようとすると、オデイエ卿の声で遮られた。
「エバ! クリス!」
五歳の男の子は、クリスと言う名前らしい。
騎士達が、わたしが子供達に近付くのを警戒しているのを察し、少し下がる。
オデイエ卿は、エバとクリスの前にそっと跪いた。
「エバ、クリス、わたしはルイーズ。覚えてないだろうけど、二人がうんと小さい時に会ったことがあるのよ」
二人に話し掛けるオデイエ卿の声は耳に優しく響いた。
「ぱぱの、おともだち?」
エバは、ぱあっと顔を明るくした。
クリスの方は、オデイエ卿よりも黒ずくめの格好が珍しいのか、相変わらずわたしの顔を食い入るように見上げ、口を開けてふっくらした頬を赤くしている。
「そうよ」
オデイエ卿はエバの質問ににっこり頷いた。
「るいーずも、ぱぱにあえる?」
「え?」
「エバはね、あえるの。だから、さみしくないの」
困惑顔で、何と返すべきか躊躇う様子のオデイエ卿に、セシリアが慌てたように言う。
「あの、混乱させちゃってごめんなさい。子供達には、『パパの姿は見えないけど、ずっとこの家にいて、皆を見守ってるのよ』って普段から教えているものだから」
ああ、とオデイエ卿は微笑んで頷く。
「エバは、いいわね。パパは一緒にいるのね」
エバは瞳を輝かせ、得意気ににっこり笑った。
「うん!きょうは それで おかいものをしたの」
オデイエ卿が、まだ言葉の拙いエバの相手に苦戦を強いられている隣で、セシリアが、ウェイン卿に向けて話し掛けた。
「ウェイン卿も、ぜひ、一緒にいらしてね」
セシリアは、わたしの後方一歩下がったところに油断なく張り付きながら、全体を見守っていたウェイン卿にも優しく微笑みかけた。
「いえ、わたしは」
「ロイは、ウェイン卿のことが好きだったもの。よく、家でレクターは、って話をしていたわ。ウェイン卿も来てくださったら、ロイもきっと喜ぶわ」
柔らかな笑みを浮かべる儚げなセシリアにこれほど誘われて、断れるものはいるまい。
「……せっか――」
ウェイン卿は、相変わらず、感情の読めない顔で、口を開きかけた。
「その際は、わたくしもご一緒させていただいても宜しいでしょうか?」
突然、横から物凄ーく、厚かましいことを堂々と言い出したのは、誰あろう、このわたしである。
ウェイン卿はじめ騎士達は、一様に、ぎょっとしてこちらを見やる。
セシリアも当惑の色を瞳に映し、口にこそ出さないが、その場にいる全員の顔に、
『オマエは誘ってない』
と書いてあった。
全くもって同感であったが、ここは、怯まずに続ける。
よく考えずとも、騎士達とわたしの関係は、暗殺者とその標的という、もはやこれ以上、悪い方に転がりようもなく拗れているのだ。
今更、取り繕う必要もない。
「わたくし、どうしても、伺いたいのです。一生に一度、騎士様のお宅なるものに、いつか伺ってみたいと、夢に見ておりました。この機会を逃すと、もう二度と、チャンスは巡ってこないかも知れません。どうか、どうか、お願いいたします!」
黒ずくめの上、顔もよく見えない、名も知らぬ怪しげなわたしの気迫に押されて、セシリアは、
「……はあ、あのう、そういうことでしたら、ぜひ、ご一緒に……」
と、引き潮の如くではあるが、了承してくれた。
ここまで言われて、断れる人はなかなかいるまい。わたしは満足げに頷き、さらに言い募った。
「ありがとうございます! では、いつにいたしますか? 明日か、明後日では、急すぎますでしょうか? では、三日後はいかがでございますか?」
ウェイン卿、ラッド卿、オデイエ卿は、奇妙極まりない生物を目にしたように至極疑わしげな顔をしている。
キャリエール卿に至っては、可哀そうな生き物を見る目で、わたしを見ていた。
その視線は堪えた。
でも、めげない。
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