光の射す方へ

弐式

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15.最後の記憶と最初の記憶

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 そのことを知った母親の嘆き様は言葉では言い表せないものだった。

 少女に投げかけられる絶望に満ちた尋常ではない言葉の数々を事情を知らない者が聞いたら、少女が核ミサイルのスイッチでも押したか、世界を滅ぼす呪文でも唱えたのかと思うことだろう。

 絶望と失望を嘆く罵りの言葉が小一時間ほど続き、その後は「あなたのために私がここまでしてあげているのにどうして分かってくれないのか」と何度何度も繰り返した。

 今までだったら、終わることを知らない母親の罵声に少女の方が耐え切れなくなり、母親の命令に従って陸上を、走ることを捨てたはずだった。

 そうして、母親も少女が自分の所有物であることを再確認して終わるはずだった。

 だが、今回だけは少女も譲らなかった。

「もう私にはピアノを続けて行く自信がない。何よりも、ようやく自分がやりたいことが見つけられた。どうか分かってほしい……」

 初めての少女の反抗に母親は全く聞く耳を持たなかった。少女の母親に、少女の言葉を受け入れるとか聞き入れるという選択肢はないのだから、妥協点を見出すことなどできようはずもない。

 いや、理解はしていたのだろう。少女が、自分の意志を持ってそれを主張していること。しかし、母親からしてみれば、糸のついた操り人形が勝手に走りだしたも同然だった。

 自分の意のままに踊らない操り人形はただのゴミでしかない。

 ゴミとなった操り人形は捨てられて、燃やされるだけだ。
 
「ピアノを続けられないのなら私の娘じゃない。出て行け!」

 母親から突き付けられた最後通牒を受けて、少女は泣きながら家を飛び出した。

 少女は行くあてもないまま、とぼとぼと近くの国道沿いの歩道を歩いていた。夜の国道を、ライトをつけた
 
 家には帰りたくない。この先、母親と理解しあえる自信はなかったが、親という存在なしに、生きてはいけないことが分からないほど、少女は物を知らない子供ではなかった。

 だからと言って、母親に赦しを乞うことなどできなかった。自分が間違っていたなどと口にしたら、自分がピアノを弾くための人形だったのだと、自分自身で認めることになる。それだけは我慢できなかった。

 自分がするべきことは一つだ……と少女は思った。

 路肩の縁石の上に足をかけると、眼前に迫ってきた大型トラックの前に身を躍らせた。 

 恐怖は全く感じなかった。

 飛び出した瞬間に少女は小さく笑った。これで楽になれると思ったからなのか……。その笑みの意味は本人にも分からなかった。

 ヘッドライトの激しい光があまりにまぶしく咄嗟に腕で光をさえぎった。ブレーキの音は少女の耳には届かなかった。あるいはブレーキがかからなったのかもしれない。いずれにせよ、トラックの車体は少女を避けることなく直撃した。

 直撃したのに不思議と痛みは感じなかった。

 足がふわりと道路から離れ、地球の引力から解放されたように思えた。頭上にあったはずの星の瞬きが今は自分の正面にあった。ほんの少し手を伸ばせば、届くんじゃないか……。

 自分は自由になれた……そう思えたのは一瞬だった。地球の引力は少女をとらえて離さなかった。黒光りするアスファルトが少女の目に写った。

 ほんの数秒前まで少女が立っていた場所に、黒い影が立っているのが見えた。

 ……死神?

 その影がしゃがみ込み、少女をのぞき込む。その影に向かって少女は呟く。

「助けて……」

   *   *   *

「助けて……」

 アカリは少女の最後の言葉を思わず口にしていた。絵日記を両手で持ったままで、膝のあたりまで下ろすと、もう一度、飾られていた3枚の絵に目をやった。 

 この3枚の絵は同じ人間を描いたもの。

 そして、おそらく、この絵日記にでてくる少女と同じ人間。

 即ち、アカリとこの絵日記にでてくる少女と同じ人間ということを意味する。

 目元が潤んできたのが分かり、天井を向いて涙をこらえようとしたが、つぅっと滴が頬を伝い、顎からこぼれ落ちた。

 少女の最後の姿が、アカリの最初の記憶と重なる。

 光に包まれた少女の姿。

 光に包まれた自分自身の姿。

 この館でピアノを弾いた時に耳の中に蘇ってきた声も重なる。あの罵りの言葉に、どれほど苦しめられてきただろう。

 私は……どれだけ苦しめられてきただろう?

 私は……どれだけ……。

 アカリの全身から力が抜けた。絵日記がアカリの手から滑り落ちた。がくっと、両膝を床につけてアカリはへたり込んだ。

 その時、床に落ちた絵日記の裏表紙にアカリの目が向いた。

 背表紙には絵日記の持ち主の名前が記されていた。

 一之瀬灯いちのせ あかり……これが、私の本当の名前……。
 
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