古への守(もり)

弐式

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七.

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 ……夜中に目が覚めた。

 一度寝たら、朝までそうそう起きることのない奈津にしては珍しいことだった。奈津を含めて家族は皆――亡くなった母も含めて、一度寝てしまうと、そう簡単には目を覚まさないのは血筋のようである。母が生きていた頃、夜中に震度4のそこそこ大きな揺れが街を襲ったことがあったのだが一家4人、誰も起き出してこず、次の日に学校で同級生に呆れられた記憶がある。

 今夜に限って目が覚めてしまったのは、やっぱり奈津も枕が変わると眠れないクチだったのか。答えは否である。奈津は頭だけを動かして横を見ると、そこに沙奈の姿がなかった。

「あの子……」

 奈津は天井を見上げて呟いた。

「人のこと、踏んづけていきやがった」

 いくら5歳の軽い体重とはいえ、完全に油断しているところをやられた。お腹の右側は、沙奈に踏んづけられた衝撃で、まだジンジンとしていた。

     *     *     *

 時間は草木も眠る午前2時。

 時計を確かめると、沙奈は布団からはい出した。少し、沙奈のことが心配になったのと、起きたのだから自分もトイレに行こうと思ったのである。

「迷ってないといいけれど」

 昼間一通り歩いたし、迷うほどトイレまで距離が離れたり入り組んでいるわけではないけれど、真っ暗で何も見えない。一つ部屋を間違えたら、幼い子供ならパニックになってしまうかもしれない。

 しばらく経つと、目も慣れて来て、手探りでトイレの場所へと向かう。その途中で、耳の中に、奇妙な音が入ってきた。

 虫の音ではない。

 雨の音でもない。

 何かの音楽が鳴っていた。

 春人が音楽プレーヤーでも鳴らしているのだろうか。それともテレビがつけっぱなしになっているのだろうか。

 音の出所を確かめようとしたのは、奈津の母親的な意識からくる行動だった。家にいるとテレビをつけたままで藤次が寝てしまうのはしょっちゅうだし、沙奈が脱いだ上着だの靴下だのを放りっぱなしにするのなど日常茶飯事だし。

 寝る前に玄関のカギを確認して、水道の蛇口から水が零れていないか確かめて……それを毎日続けていると、些細なことでも確かめなければ気が済まない性格になっていた。

 聞き覚えのある曲だった。クラシックの名曲だけれど、名前は思い出せない。こうして聞いていると、随分難しそうな曲に聞こえた。

「……オルガン? エレクトーンかな」

 電子的な音の感じで、そんなふうに考えながら、音の方に向かっていくと、ようやく音の出てくる部屋の扉の前に辿り着いた。

『葉月の部屋』のプレートがかかった部屋。実を言うと、ここに来るまで、この部屋ではないかという妙な予感があった。

 奈津は何も考えずに扉のノブに手をかけた。

 何も考えずに扉のノブを握る手に力を込め、ゆっくりと回した。

 キィ、と扉を開く微かな音が耳の中に入って来た時は、さすがに何も考えないわけではなかった。「開けるな」と言われたことを忘れたわけではない。しかし、好奇心は抑えられなかった。

 それに、大義名分だってある。

 この中には、確かに何か……いや、誰かが間違いなくいるのだから。

 部屋の中は、8畳くらいの洋室だった。

 ベッドがあり、机があり、本棚があり。

 本棚の上とかベッドの枕元には、いかにも女の子の部屋といった感じの可愛らしいぬいぐるみがいくつも置かれている。誰かがここで生活している様だった。この家には、自分が知らない別の誰かがいるのだろうか。あるいは、家を出た、誰かの部屋なのかもしれないと思ったが、それならなぜ鍵をかけないのだろう。

 一歩、部屋の中に入る。

 机の横には、キーボードが置かれていた。さっきまでの電子音は、これが鳴っていたのだろうか。誰かが引いていたのだろうか。足元を見ると、キーボードから伸びたコードが、コンセントに刺さっていて、キーボードの本体の電源が入っている。

 その時、視界の端で何かが動いた。

 そちらに目を向けた奈津は、はっと息を呑んだ。

 奈津が入った出入り口の正面に窓が一つ、取り付けられている。いや、それは窓ではなく、戸だった。横開きのガラス戸で、そこからベランダに出られるようになっている様だった。2階の部屋を何故そんな構造にしたのか分からないが、その前に大人の身長より高い桃色のカーテンがかかっていて、それがひらひらと揺れていた。

 そう……そのガラス戸は開いていた。

 そして、その夜にしては明るい月明かりに照らされ、カーテンにくっきりとシルエットが映し出されていた。

 カーテンの後ろに潜む人影が――。

「誰?」と声をかけようとした時、「何をしている?」という静かな男の声が、後ろ――部屋の出入り口のあたりから聞こえた。

 背中を震わせ、恐る恐る振り返ると、春人の姿があった。いつの間にか、真っ暗だった廊下の電灯が点いている。

「この部屋には入らないようにと、言ったはずだけれど」

 冷めたような視線が突き付けられる。感情が籠っていないような声だから、かえって薄気味が悪い。

「今、この部屋で、音楽が鳴ってて……それに……」

 そうだ。確かにこの部屋に誰かがいた。奈津はカーテンの方を指さした。

「カーテンの後ろに誰かが……」

 相変わらず、月明かりに照らし出されたカーテンの向こう側は誰かいる気配もなかった。カーテンも閉まったまま、ピクリとも動かない。

「誰かがいたんです」

 ずかずかと入って行った奈津は、カーテンを開く。そこには誰もいなかった。戸も開いてはいなかった。

「本当に誰かが……ここに」

「もういい。出なさい」

 ため息混じりの命令口調に、奈津は大人しく従うよりなかった。

 肩を落としてカーテンを閉めようとした奈津は、何かがくっついているのに気が付いて、指先で摘まんだ。

「草の葉?」

 カーテンについていたのは、緑糸の小さい葉と、細い茎だった。匂いを嗅ぐと、つんとした青葉の匂いと、土の匂いが混じったような匂いがした。

「……ここに」

「君は……」

 春人にさらに怒られそうな気配があったので、慌ててカーテンを閉めて、部屋の外に飛び出した。

 明るい廊下に出てから、ふと思った。どうして、春人はこの部屋の電灯を点けなかったのだろう、と。

     *     *     *
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