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一話.一緒に

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 先日面接を受けた会社から、「貴殿のご期待に沿えず――」「これからのご活躍を祈念しております」といった定型文が並んだ不採用通知が届いた。僕はそれをビリビリと破るとゴミ箱に投げ込んだ。
 
 大学を卒業するまでに正社員としての職を見つけることができず、そのままアルバイトで生計を立てる日々が1年以上も続いていた。 

 金もない、将来への展望もない。一日をただ消費するだけの毎日。いわゆるゼロゼロ物件の1Kの部屋の、ロフトベッドの上で横になっていると、憂鬱な気分になってくる。 

 その気持ちが、不意に言葉になって出てきた。 

「あ~あ・・・・・・死んでしまいたいなぁ」 

 その時だった。どこからともなく若い女の声が聞こえた。 

「それなら、一緒に」 

 それは、隣の部屋からだろうか。 

 むしろ、天井から聞こえたような気も・・・・・・。 

 ははは・・・・・・そんなバカな、と僕は体を起こしながら笑った。いくら、安物件とはいえ、そうそう簡単に隣や上の部屋の声なんか聞こえるはずがない。空耳が聞こえるようじゃ、よっぽど疲れているんだろう。それとも知らないうちにうたた寝をしてしまっていたのか。 

 僕は、ロフトベッドに取り付けられた梯子を下りていき、今度はパソコンの前に座った。 

    *     *     * 

 不思議なことに、その声は毎日、時間を決めずに何度も聞こえてくるようになった。 

「ねえ、まだ死なないの?」 

「ねえ、今日は死なないの?」 

「ねえ、どうして死なないの?」 

 言葉は違うが同じ声。決まって僕がロフトベッドの上で横になっているとき。地の底から湧き出すような、絞り出すような怨念に満ち溢れたような、疲れたような女の声で、一言だけ、呟くのだ。 

 時間は一瞬だったが、その声を聞くたびに、ずしりと心臓を握り潰されるかのような苦しみを感じていた。そのたびに、命を削られるような痛みを感じていた。 

 それが、一週間ほど続いた夜。僕の神経は、もはや限界に達していた。だから、再び聞こえてきた「ねえ、一緒に逝きましょうよ」という声に、反射的に叫んでしまっていた。 

「うるさい! 僕はおまえとなんか逝かない」 

 その薄気味の悪い声は沈黙した。いつものように消えてしまったのではない。まだそこに何かがいるような気配は残っていた。 

 仰向けになった僕の目の前の天井が、すぐ目の前にあるような錯覚を覚え、ぞくりと背筋に冷たい物が走った。 

 体を起こすと、額の汗を袖で拭う。 

 誰もいるはずがない・・・・・・はずなのに・・・・・・。 

 僕の額には、たった今拭いたばかりだというのに、冷たい水滴が、びっしりと浮かんでいた。 

 向くな――そっちを向くな。 

 理性が警告を発するが、僕は、誰もいないことを確かめるために、恐怖で全身をがたつかせながら、そちらを向いた。 

 誰もいるはずのない、そこには――。 

 青白い顔の女が、恨めしそうな眼差しで僕を見据えていた。 

「裏切り者・・・・・・」 

 女の絞り出すような声を聞いて、総毛立った。僕は逃げだした。ロフトベッドの梯子を探す余裕すらなく。

 降りようとしたが、そこには何もなかった。

 ぐるり、と部屋が、世界が、反転した。
 
 そして、床へと落ちていく。それは奈落に落ちるかのような長い時間に感じられた。 

 頭の上から強い衝撃が全身を駆けめぐり、次の瞬間、僕の視界は真っ暗く閉ざされた。痛いという感覚は全くなかったのは、幸いだったのだろう。・・・・・・などと思う間もなく、僕の意識は薄らいでいった。 

     *     *     * 

「……ええ。何だか叫ぶような声が聞こえて、大きな音がして。気持ちが悪くて、不動産屋さんに連絡して来てもらったんです」 

 年輩の刑事の刑事に聞かれながら、私は、これは単純な転落事故だろうと思っていた。まぁ、私は単なる遺体の第一発見者なのだから、事件の顛末を想像しても仕方ないのだけれど。 

 隣室の住人は大学を卒業してからずっとフリーターをしているらしいことは知っていた。しかし、せいぜい顔を合わせたときに挨拶をしたり、ちょっと話をする程度の関係である。私より3歳くらい年下くらいの青年に見えたけれど……。

「他に何か、気がついたことは? 最近のこととか」

 と刑事に聞かれても、何も答えられない。

「いえ・・・・・・特に何も・・・・・・」

 と呟くように答えた私は、ちょっと思い出したことがあって付け加えた。 

「そう言えば・・・・・・一週間ほど前に、「死にたいなぁ」って呟くのが聞こえたような・・・・・・この部屋の壁がいくら薄くても、そうそう隣の部屋の声は聞こえないはずですけれど」 

「ふ~ん。なるほど」 

 私の答えに対するこの刑事の反応を見ると、単なる事故死で片付きそうだと私は思った。 

 隣の部屋での簡単な事情聴取が終わって自分の部屋に戻る。ふと部屋の隅に置いた一枚の紙に目が向いた。それには、いわゆる呪いの呪文が書き込まれている。

 私はバカバカしくなってその紙をくしゃくしゃに丸めた。

 先ほど、刑事には言わなかったことがある。「死にたいなぁ」と言う声が聞こえたとき、私は彼氏にフられたばかりで、それこそ、不幸のどん底にいたのだ。 

 私は、せめてもの仕返しにと元彼氏に向けた呪いを書きつづっていたのだけれど、その声が聞こえた瞬間、思わず「じゃぁ、一緒に」と返していた。 

 まぁ、こんな恥ずかしい話、わざわざ他人に聞かせるような話でもない。 

 あの時、感じていた二度と這い上がれないと思えるほどの、どん底に突き落とされたような感覚も、一週間も経つと何も無かったかのような、すっきりした感覚に変わっていた。まぁ、今更にして思えば、あんなつまらない男の言動に振り回されていた自分のバカさ加減に、いやはや、呆れるばかりだ。 

 そう思うと、この呪いの紙も、少しは役に立ってくれたのかもしれない。

 私は、くしゃくしゃに丸めた呪いの紙を、よっとごみ箱に放り込んだ。
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