上 下
40 / 66

第40話・達観3

しおりを挟む
 
「ねえ怒ってる? って聞いてきたんだよ。だから」

 それでも旧友との数年ぶりの再会である。
 積もる話もあるし、仕事上のグチは有っても零さないのが常識だ。
 そう、常識だと思ってたんだが……

「別に怒ってないよって言ったんだ、そしたら」

 まさかチカの方からグチを零してくるとは思わなかった。

「ほら怒ってる、だってさ。もうどう言えと」

 夫婦の間のつまらない行き違い。
 それもよく聞くお定まりのパターンだ。

「……知らね」

 だからそう言った。
 高速道路のガード近くにある、昨日教えられた喫茶店の中で。
 隣の席の若そうなカップルも、少しうんざりした顔でこちらを見ている。

「冷たいなあ、これはカジの後学にもなるんだぞ。そもそも嫁ってのは……」

 続けるチカ。
 まあすぐに終わるだろうと適当に相槌をうちながら、昼間の事を思い出す。
 例の、超失礼な掃除屋の女だ。

「まあ、なんだかんだ言っても夜のお勤めで万事丸く収まるんだが……」

 あんなんで、よくも周囲と衝突しないで仕事を続けられるもんだと思う。
 いやマジで感心する。

「おおっと、これはカジにはまだ早かったかな……って」

 いや、掃除自体はキチンとやってたんだ。
 主に作業員の方々が、だが。
 それでも作業の段取りや指示の出し方には文句の付け所は無くて。
 まあ、やれば出来るんじゃないかと思い直しもしたんだが。

「ふむ、そろそろいいかな……」

 しかし夕方帰り際に、また明日も来なきゃならないなんてウンザリだわ。
 なんて言い放ちやがったから、評価は一気に最低に戻ったんだけどな。

「おいカジ、おいって」
「うんうんチカのゆーとーり……ん?」

 チカがなんか雰囲気を変えてきた。

「待たせたな、これからが今日の本番だ」

 本番? と思って隣を見る(失礼!)と、カップルが居なくなっていた。
 同時に聞こえてきた、ありがとうございましたの声で、更に周囲を見る。
 すると、一番奥の席に陣取った俺ら以外に客は居なくなっていたのだ。

 い、いつの間に……

「いやスマンかったな、退屈だったろ」
「……どういう事だ?」

 いきなりシリアスな表情になったチカに、合いの手代わりに訊いてみる。
 だいたいの察しは付いたのだが。

「実は昨日の基板の設計者について、今日社内の人間に聞いたんだ」

 思った通り、グチ話は人払い目的だったのだろう。
 チカは、俺の問いかけを昨日の続きの催促と思ったようで。
 前置き無しに話し始めた。

「ちなみに、あの設計者は浅香あさか 純音すみおという男性だ」
「え? だ、だんせい……?」
「ああ、昨日カジが女性みたいに言ってたから、気になってな」

 てっきり、すみ“ね”と読む女性だと思ってた。
 まあ確かに、すみ“お”とも読めるわな。

「我が社であの手のブツの設計者は皆男性なんだよ。……それでだ」

 チカが更に表情を硬いものに変えて。

「これから言う事は我が社の機密事項かもしれんから口頭のみだ、スマン」

 と拝んできた。
 まあそこら辺は予想通りなので。

「ああ分かってる。俺はたまたま誰かの独り言を聞いた、って事にする」
「理解が速くて助かるよ」

 と、本格的に話始める前に喉を湿らせようとしたのか。
 チカがとっくに空になってるカップに手を伸ばしかけたところへ。
 唐突に新たなコーヒーカップが斜め上からテーブルに置かれた。

「お代わりはサービスとさせて頂きます、白いスタリオンのお客様」

 いつの間にかテーブルの横に立っていた、この店のマスター。
 70絡みくらいに見える顔、綺麗に横分けされたグレイの髪。
 白いスタンドカラーのシャツに黒いスラックス、白い前掛けを着けている。
 全体的に細身で上品な空気を纏っていた。

「え、あの……?」

 チカの方に置いたのでは?
 と戸惑ったところで、次に俺の前にも同じコーヒーが置かれた。

「ああ、この方は我が社つまり早河の元社員で、信用のおける人だから」

 と、チカが話を聞かれても問題ない人物だと紹介してくれる。
 しかし気になったのは、コーヒーの数だけじゃなく。
 俺の車の詳細を知ってるっぽい雰囲気に対してもだった。

「こっちは私の学生時代からの友人で、加治屋という男です」

 そう紹介されて、座りっぱなしではマズいと思って立ち上がり。

「初めまして、加治屋 九郎と申します」

 と最敬礼で挨拶した。
 こういうのは、やり過ぎで失礼になる方が足りないのよりマシだからな。

「職業は、色々あって公にできないのですが」

 と、チカが助け舟を出してくれる。
 ナイスだチカ。
 これなら距離感が掴めずに最敬礼になったことの言い訳にもなる。
 
 しかし……

「ああお気遣いなく、法帖さんとこへお手伝いに行ってる方でしょう?」

 と、驚愕のツッコミを放ってきた。
 なんでバレてる?
 と思った瞬間に思い出す、この田舎ではクルマが名刺代わりになるのだと。

「ひょっとして大田原市にお知り合いが?」

 聞くと、例の衣料品店の女性と親戚らしい。
 なるほど、品の良い感じがどことなく似ている。
 あの女性が俺の事をどう話していたのかは気になったが。

「ほうじょうって、あの那須の法帖家か!?」

 チカが目を丸くする。
 矢板には数年しかいなかった自分でも知ってる、北関東の主の所かと。

「スマンかった」

 昨日、仕事を明かさなかった事に対して詫びを入れる。
 しかしチカは、法帖絡みなら無理ないさと納得してくれた。

「それなら無理に基板設計者のことを教えてもらわなくても」

 と遠慮したのだが。
 どうも昨日の、車検証のメモ情報が早河電機的には重要事項だったようで。
 情報提供者に独り言を聞かれるくらいは問題にならないと言ってきた。

「峠道の麓という場所柄、多くの走り屋と呼ばれる人たちを見てきました」

 と割って入るマスター。
 そう言えば、あのスタリオンの前のオーナーが例の基板設計者だったな。

「あのスタリオンの人とも何度かお話をさせていただきました」

 とても不思議な人だったので、その後の事を知りたいとも。

「なるほど、分かりました」

 と言ったチカは。

「その人は数年前に我が社を辞めていて、しかも最近亡くなったそうで……」

 と、他人の人生を語るに相応しい重い口調で話し始めた。



しおりを挟む

処理中です...