なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原

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二章 孤独の庭に落ちた雫

5話 雨が落とした

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 あれから、しばらく経った。
 俺は、同じ動作しかできない操り人形みたいに過ごしていた。

 何も考えず、誰にも触れられず、ただ立つだけ。
 その単純さが、妙に心地よかった。
 休まるっていうのは――
 きっと、こういうことなんだろう。

 そう実感し始めた頃だ。
 “すぐに”、騒がしい奴はやってきた。

 アーサーを探す為の冒険者でも見つけたのだろか?
 トリスがきたので糸を切り離して外へ出た。

「あ、アセルさん。見つかりましたよ」
 息を切らしたトリスは、それでも笑顔だった。

 やっぱり、そうか。
 元冒険者の ジロート とかいう男らしい。

「そいつは戦士か?」

「え? ……わかりません。以前、冒険者をしていた方としか……」
 トリスは視線を落とし、少し申し訳なさそうに続けた。
「でも……お金を出せば、どんな依頼でもやってくれるみたいですよ」

 冒険者なら、それは当たり前なのだが……。
「俺が金を払うことは知らないのか?」
 依頼主に会いに来ないとは、冒険者らしくない。

「その辺りも話してありますよ。ただ、カルド町の酒場で取引したいらしいです。だから、アセルさんの代わりに私が行ってきますよ」
 いつもの“任せてください顔”。
 頼まれると出る、あのドヤァとした表情だ。

 ……気になる。
 だが、面倒なことには変わりない。

「今ある金はこれだけだ。お前がこれで話をつけろ――できるか?」

 任されたと思ったのだろう。
 トリスは背嚢を受け取ると、中の宝石を一つひとつ数えはじめた。

「……こんなに……」

 驚きよりも、その顔はやけに真剣だった。
 あんな表情を、今まで見たことがあっただろうか。

 そして帰っていくトリスの背中を見て、ふと、あの父親の影が重なった。



 森の木々が、夜の帳のカーテンを閉める。
 あたりは、さっきまでの夕暮れが一瞬で暗くなった。

 ――気になることが、こんな早さで的中するなんて。
 “あのとき”以来だ。

 俺は、トリスがいつも使う獣道を駆け下りた。
 そこには――
 折れた若木のように、トリスが倒れていた。

 今なら、トリスにこんなことをした連中にも追いつける。
 だが――この血の量では間に合わない。
 俺は短く息を吐き、そっと肩に抱えた。
 元来た道には戻らず、温泉の方へ歩きだした。

 洞窟の奥。
 砂地がほんのり温かい場所に、トリスを横たえた。
 背嚢は血で重くなり、服がべったりと肌に張りついている。

「聞こえるか……? ここにいれば大丈夫だからな」
 折れた骨は、枯れ枝が風に折られたような角度をしていた。
 それでも胸は、かすかに波打っている。

 致命だけは、ぎりぎり外していた。
 ――やっぱり、血だな。流石だ。

「ゆっくりでいい。ここなら癒える。……待ってろ」

 洞窟を出ると、山の中腹から見える夜空で、雲がゆっくり流れていた。
 さっきまでまとわりついていたトリスの体温と血の匂いが、風にさらわれていく。

 俺はしばらく、その場に立ち尽くした。
 胸の奥が、じりっと焦げつくように苛立っている。

「あぁ、面倒だ……」

 雪へ八つ当たりするみたいに足を踏み出す。
 踏みしめた音は、夜に溶けていくはずなのに――
 今の俺には、誰かの悲鳴に聞こえた。

「こんなに……うるさいのかよ」

 家までの道のりは、やけに長い。
 風が止むと、森の奥から何かの息遣いが聞こえてくる。
 魔物じゃない。
 ただの夜の生き物だ。
 それすら今は、耳に触る。

 ひとりの笑いは、風にかき消された。
 遠回りして辿り着いた家は、息をひそめるように静かだった。

 この山には、誰もいない。
 誰も来ない。
 世界が俺を忘れてくれる場所。

 ――そのはずなのに。

「……いや。お前は、俺を見ているのか?」

 畑に蒔いた虹の芽。
 土の奥から、ほのかに虹色の光が滲みだしていた。
 まるで、暗闇の中で誰かがそっと手をのばしてくるように。

 空も――喜んでいるのか?
 降りだした雨が、俺の汚れを洗い流そうとしている。
 だが、簡単には落ちないらしい。
 雲まで、俺の上に集まってきていた。

 家は、風に叩かれながら五月蠅く軋んでいる。
 木々も地面も、思い思いに鳴り響いて、まるで世界の方がざわついているみたいだ。

 俺はしゃがみ込み、虹の芽をかばった。
 畑はもう水浸しだ。

 それでも、雨はすぐに弱まってきた。
 ――まるで“俺の汚れがもう十分落ちた”と言われているみたいに。

 一瞬、目が眩むほどの、虹色が世界を包んだ。
 光がひいていくと、そこには双葉になった虹の芽が立っていた。
 小さな二枚の葉は、まるで目のようにこちらを見上げている。
 静かに、確かに、俺だけを。

「あぁ……ありがとう。安らぐよ」

 ***

「ア、アセルさん……いるんですか……」

「いるよ」

 声の方向を探すように、トリスが手をはわせていた。
 砂地を、海に向かう亀みたいにゆっくりと。

「どうやら……何も見えないみたいで。ぼ、僕……」

「洞窟の奥だ。光が届かないだけだぞ」

「ほ、本当ですか……?」

「本当だよ。まだ寝ていればいい。次に起きた時には――飯が食えるさ」

 安心したのか、トリスの肩の力がふっと抜けていく。
 そのまま目を閉じ、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。

 …寝たな。
 あいつが生きているのが……少しだけ、ほっとした。

 しばらくして、俺は飯の支度をすることにした。
 誰かのために料理をするなんて――いつ以来だろう。

 盗賊が狩って、
 魔法使いとプリーストが手際よく味を整えていた。
 俺も……たまに手伝った、気がする。

「これ、美味く作れるか……?」
 洞窟の奥、淡い光と火に照らされた鍋の中につぶやいた。

 松明を一本、壁に立てかける。
 少しだけ明るくすると、湯気の色まで温かく見える。

 そろそろ、トリスに付けた薬草の効き目が切れるころだ。
 体のぜんぶが痛むだろうが――まずは飯だ。
 無理やり起こして、口元まで椀を運んだ。

 トリスがゆっくり食べている間に、
 薬草の替えを準備する。
 細かく刻み、大きな葉に包んで、手早く束ねる。

 食べ終わったのを見計らって、
 古い薬草を外してやり、新しいのを当てた。
 トリスはわずかに息を震わせたが、文句は言わなかった。



 トリスが歩けるようになった。
 杖を突きながら、ゆっくり俺の家へ戻っていく。
 まだ元のように動けるまでには、しばらく時間がかかるだろう。

 その運動のついでだ。
 戦闘術でも仕込んでやるか……。
 二度と、同じ目に遭わないくらいには、な。
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