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二章 孤独の庭に落ちた雫
6話 双葉の目覚め
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トリスへの長い看病は、思ったほど苦ではなかった。
父親を知らないこいつへの詫び……いや、建前だ。
俺が本当に詫びたいのは、ずっと昔に信じなかった――あの男だ。
傷のほうは、少しずつだが確かに治ってきた。
骨折も、綺麗に折れていたおかげか、わりと早くくっついた。
痛みが引き、気力が戻るにつれて――トリスは、まず謝った。
「アセルさん……ごめんなさい。宝石……全部、持っていかれて……」
震える声の奥に、俺に迷惑をかけたことへの罪悪感が滲んでいた。
まるで自分は、触るだけで羽がもげる虫だと思った。
トリスは知らない。
あんな宝石を、俺が自分の所有物だと思ったことなんて、一度もない。
「気にするな――そう言っても、お前は無理だろうけどな」
トリスは、返す言葉を探して口を開きかけ、また閉じた。
どう言えばいいのか、本当にわからないらしい。
「早く動けるようになれ。きついだろうけど……やるぞ」
あれから、ひと月が過ぎた。
薬草のおかげで、骨折はだいぶ良くなった。
けれど――立ち上がったトリスは、まるで乾いたゾンビだ。
足を一歩出すたびに、顔をしかめ、
踏みしめる音すら痛みに耐えるように弱い。
杖なしで歩こうとするたび、膝が震えた。
結局、まともに自分の足で歩けるようになるまで、
さらにひと月はかかった。
最近は梅雨空で、地面はぬかるんで歩きにくい。
それでもトリスは、雨に負けず、よく外へ出るようになった。
傷が治ってきた証拠だろう。
「アセルさんは……僕が誰に襲われたのか、聞かないんですね」
トリスが、唐突にそう言った。
濡れた前髪を指で払うしぐさが、妙に慎重だ。
まさか、慰めてほしいわけじゃないだろう。
そういう甘え方はしない。
「……誰だか、知っているんですね?」
雨がトリスの頬に流れつたう。
身体に刻まれた傷跡。
切り傷、刺し傷、火傷の跡まである。
その並び方や深さで、どう動いて、どう倒れたのか――
だいたいわかる。
そして、どんな手を使う連中なのかも。
……ただ、なぜトリスを襲ったのかだけは分からなかった。
俺は何も言わなかった。
教えても今は嵐にさせるようなものだから。
トリスは、小雨の中を歩き出した。
濡れた毛並みを細くした狐みたいに、足早に。
調査隊の三人は、あれから一度も山に入ってこなかった。
最初は、俺の恫喝が効いているだけだと思った。
ああいう連中は、時間がたてば恐怖なんてすぐ薄れる。
――そのはずだった。
……来ない。
静けさが、逆に不気味だった。
あれほど騒がしかったのに、ぴたりと途絶える――
そういう“空白”が、一番嫌な予兆だ。
余計なものを、この山に呼び寄せている可能性もある。
厄介事は、気配を消して近づくものだから。
やっぱり、トリスには早く強くなってもらいたい。
あいつに感じる才能は――確かにある。
あとは、それを引きずり出すだけだった。
「まずは剣技から――その木刀で始めよう」
マルチツールで削り出した木刀を手渡す。
触れれば、木の温もりが掌にすっと馴染む。
絹、とは言わないが……引っかかりのない、よく育った木の肌だ。
戦士と遊びで手合わせしたとき、ふざけて刻んだ文様も再現した。
木刀の表面に走るその模様は、今ではただの冗談ではない。
“剣を扱う感覚”をトリスに刻むための目印にもなる。
「僕、剣なんて使ったことないです」
剣を教えるのは、斬るためじゃない。
雨風をしのぐ傘を渡すように――
ただ、身を守る術を与えるためだ。
何も知らない手には、これくらいが丁度いい。
トリスの背後で、虹の双葉が朝陽を浴びていた。
朝露にそっと口づけられたみたいに、その色をさらに深めていく。
骨折した脚と腕はまだ庇うようで、動きはぎこちない。
それでも、痛みの影はもう薄いようだった。
「一度、母に会ってきます」
剣技の練習中、トリスがふと切り出した。
数か月も姿を見せていないのだから、心配しているだろう。
帰るのは悪くない。
「……あ、たぶん心配はしてないと思います。行商で何も言わず出かけてしまうこと、何度もあったので。ただ――今回は、ちょっと長かったので……顔を見せようかと」
言いながらトリスは、まるで”帰る理由”を、今まで懸命に考えていたようだった。
一緒に話していても、俺としては調査隊の奴らが気にならないわけじゃない。
トリスが家に戻ると言い出したのなら、なおさらだ。
「――気を張って行け。油断するなよ」
そう伝えた。
言いながら、“暗闇に紛れろ” と続けそうになって、慌てて呑み込んだ。
こいつを盗賊に仕立てるつもりは、毛ほどもない。
喉の奥に引っかかった言葉を、自分で踏みつぶすように飲み込んだ。
トリスが山を下りて、久々に静かな日が訪れた。
聞こえるのは、小鳥の声だけ。
その穏やかさに、ふっと肩の力が抜けた。
……ああ、安らぐ。
そう思った瞬間――胸の奥が冷えた。
この静けさの中に、あの“孤独の恐怖”がまた顔を覗かせる。
……もう平気だと思っていたのに。
一度飲んだそれは、ぬるま湯を口にしただけでぶり返す。
体の奥に刺さったトゲは、やっぱり抜けていない。
帰ってきたはずの平穏が、俺を怯えさせるものになる。
眠っている時だけが安らぎならば、永遠に――
そう思いかけた、その時だった。
ざわめく――俺のまわりが山肌ごと、地面の奥ごと。
……え?
視線を感じた。
間違いじゃない。
俺を見ている。
いつも蒔いてきた“虹の種”が、
土の間から、まるで二つの目を生やしたかのように、
虹色の双葉たちがこちらをじっと見つめていた。
父親を知らないこいつへの詫び……いや、建前だ。
俺が本当に詫びたいのは、ずっと昔に信じなかった――あの男だ。
傷のほうは、少しずつだが確かに治ってきた。
骨折も、綺麗に折れていたおかげか、わりと早くくっついた。
痛みが引き、気力が戻るにつれて――トリスは、まず謝った。
「アセルさん……ごめんなさい。宝石……全部、持っていかれて……」
震える声の奥に、俺に迷惑をかけたことへの罪悪感が滲んでいた。
まるで自分は、触るだけで羽がもげる虫だと思った。
トリスは知らない。
あんな宝石を、俺が自分の所有物だと思ったことなんて、一度もない。
「気にするな――そう言っても、お前は無理だろうけどな」
トリスは、返す言葉を探して口を開きかけ、また閉じた。
どう言えばいいのか、本当にわからないらしい。
「早く動けるようになれ。きついだろうけど……やるぞ」
あれから、ひと月が過ぎた。
薬草のおかげで、骨折はだいぶ良くなった。
けれど――立ち上がったトリスは、まるで乾いたゾンビだ。
足を一歩出すたびに、顔をしかめ、
踏みしめる音すら痛みに耐えるように弱い。
杖なしで歩こうとするたび、膝が震えた。
結局、まともに自分の足で歩けるようになるまで、
さらにひと月はかかった。
最近は梅雨空で、地面はぬかるんで歩きにくい。
それでもトリスは、雨に負けず、よく外へ出るようになった。
傷が治ってきた証拠だろう。
「アセルさんは……僕が誰に襲われたのか、聞かないんですね」
トリスが、唐突にそう言った。
濡れた前髪を指で払うしぐさが、妙に慎重だ。
まさか、慰めてほしいわけじゃないだろう。
そういう甘え方はしない。
「……誰だか、知っているんですね?」
雨がトリスの頬に流れつたう。
身体に刻まれた傷跡。
切り傷、刺し傷、火傷の跡まである。
その並び方や深さで、どう動いて、どう倒れたのか――
だいたいわかる。
そして、どんな手を使う連中なのかも。
……ただ、なぜトリスを襲ったのかだけは分からなかった。
俺は何も言わなかった。
教えても今は嵐にさせるようなものだから。
トリスは、小雨の中を歩き出した。
濡れた毛並みを細くした狐みたいに、足早に。
調査隊の三人は、あれから一度も山に入ってこなかった。
最初は、俺の恫喝が効いているだけだと思った。
ああいう連中は、時間がたてば恐怖なんてすぐ薄れる。
――そのはずだった。
……来ない。
静けさが、逆に不気味だった。
あれほど騒がしかったのに、ぴたりと途絶える――
そういう“空白”が、一番嫌な予兆だ。
余計なものを、この山に呼び寄せている可能性もある。
厄介事は、気配を消して近づくものだから。
やっぱり、トリスには早く強くなってもらいたい。
あいつに感じる才能は――確かにある。
あとは、それを引きずり出すだけだった。
「まずは剣技から――その木刀で始めよう」
マルチツールで削り出した木刀を手渡す。
触れれば、木の温もりが掌にすっと馴染む。
絹、とは言わないが……引っかかりのない、よく育った木の肌だ。
戦士と遊びで手合わせしたとき、ふざけて刻んだ文様も再現した。
木刀の表面に走るその模様は、今ではただの冗談ではない。
“剣を扱う感覚”をトリスに刻むための目印にもなる。
「僕、剣なんて使ったことないです」
剣を教えるのは、斬るためじゃない。
雨風をしのぐ傘を渡すように――
ただ、身を守る術を与えるためだ。
何も知らない手には、これくらいが丁度いい。
トリスの背後で、虹の双葉が朝陽を浴びていた。
朝露にそっと口づけられたみたいに、その色をさらに深めていく。
骨折した脚と腕はまだ庇うようで、動きはぎこちない。
それでも、痛みの影はもう薄いようだった。
「一度、母に会ってきます」
剣技の練習中、トリスがふと切り出した。
数か月も姿を見せていないのだから、心配しているだろう。
帰るのは悪くない。
「……あ、たぶん心配はしてないと思います。行商で何も言わず出かけてしまうこと、何度もあったので。ただ――今回は、ちょっと長かったので……顔を見せようかと」
言いながらトリスは、まるで”帰る理由”を、今まで懸命に考えていたようだった。
一緒に話していても、俺としては調査隊の奴らが気にならないわけじゃない。
トリスが家に戻ると言い出したのなら、なおさらだ。
「――気を張って行け。油断するなよ」
そう伝えた。
言いながら、“暗闇に紛れろ” と続けそうになって、慌てて呑み込んだ。
こいつを盗賊に仕立てるつもりは、毛ほどもない。
喉の奥に引っかかった言葉を、自分で踏みつぶすように飲み込んだ。
トリスが山を下りて、久々に静かな日が訪れた。
聞こえるのは、小鳥の声だけ。
その穏やかさに、ふっと肩の力が抜けた。
……ああ、安らぐ。
そう思った瞬間――胸の奥が冷えた。
この静けさの中に、あの“孤独の恐怖”がまた顔を覗かせる。
……もう平気だと思っていたのに。
一度飲んだそれは、ぬるま湯を口にしただけでぶり返す。
体の奥に刺さったトゲは、やっぱり抜けていない。
帰ってきたはずの平穏が、俺を怯えさせるものになる。
眠っている時だけが安らぎならば、永遠に――
そう思いかけた、その時だった。
ざわめく――俺のまわりが山肌ごと、地面の奥ごと。
……え?
視線を感じた。
間違いじゃない。
俺を見ている。
いつも蒔いてきた“虹の種”が、
土の間から、まるで二つの目を生やしたかのように、
虹色の双葉たちがこちらをじっと見つめていた。
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