なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原

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三章 境界のどちらが先に揺れたのか

1話 密命落ち静寂に

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 魔王が倒れてから数十年――
 今年もフェドル国は、木々が色づきはじめる穏やかな季節を迎えていた。

 ――しかし、果実たちが勝手に発酵し、甘い香りで罠に誘うような。
 そんな“不穏な山”の噂が、ひそりと広まりつつあった。

 かつて国を導いた王は、いまや老いの床に伏している。
 すでに冬の底に手が届き、その先にあるはずの春を――
 もう迎えることはないだろう。

 政務の重荷を預かるのは、今ではヘッター王子だ。
 若き日の血気盛んな面影は薄れ、代わりに静かな思慮が眉の上に宿っている。

 その王子の手元に、ある日、一通の封書が運び込まれた。
 〈要注意〉と赤字で記された、山岳警備隊からの報告書。

 “南の森、獣の異常増加。鳥の移動も活発。
 魔物化の兆しは無し。
 しかし――南区域一部、まるで聖域のように守られている区域が在り”

 ヘッターは自然と眉を寄せた。
(……聞いていた“あれ”か?)
 ふと、昔、妻に言われた言葉が――
 唐突によみがえった。

 しばらくの思案あと、執務机の端に置いていた小さな真鍮のベルを手に取る。
 そして、いつもと同じように――
 しかし今日は少しゆっくりと、二度鳴らした。

 チン……チン……

「はい、ご用は何でございましょう」

 従者は足音ひとつ響かせず、部屋の香の揺らぎとともに王子のそばへ現れる。
 その気配は、部屋の暖気と同化しているようだった。

「数は要らぬ。ただ――腕の立つ者を」

 細かい指示などは要らなかった。
 それだけ聞いた従者は、静かに一礼すると、影の奥へと溶け込むように姿を消した。

 ヘッターとしては、もちろん気にかかっていた。
 しかし――西方の争いに薪をくべ続ける日々では、構える余裕などどこにもない。
 だから翌日には、昨日の“気がかり”でさえ、
 忙しさの中に埋もれてしまった。



 ヴァルター侯爵家 私設武装調査官のひとり、エレンス・ターム。
 蔦に呑まれた館の奥で、昼間から酒に沈んでいた。

「あいつは変わった」
 仲間たちはそう囁く。
 だが本人は──そんな声など届かないようだった。

 頬は赤く、まぶたは重たげに垂れ、
 まるで眠りと酩酊の境目を彷徨う死人のようだ。
 しかし、その瞳だけは違った。

 閉じきらぬその目は、
 “ここではない何か” を、固く、焼き付けるように見つめていた。

「エレンス、仕事だ。俺と山に入るぞ」
 縁に王家の文様が刻まれた紙が、無造作にエレンスの前へ差し出された。

「デルタか……俺は行かんぞ」
 内容など見ようともしない。
 エレンスの吐いた大きなため息が、その紙を揺らした。

「まぁ、そう言うと思ったが――これはお前がずっと追っていた“冒険者”の件だ。禁止区の許可が下りたんだぞ。お前にも来てもらう」

「お前ひとりで行けるだろう」
 エレンスはゆっくり頭を振る。
「それに……命令が届いたのがお前で良かった。前から言ってるだろ――それを守れば、俺みたいには……ならんさ」

 舌の回りはまだ鈍い。
 だが、アルコールが抜け始めたのか、エレンスの瞳だけが急に澄んだ。
 その奥に宿るのは、酔いではなかった。
 もっと黴臭く、深い恐怖の色だった。

 そうは思ったが、本当にデルタの興味が“それだけ”だと知ると、気に掛かる。
 あいつは山そのものには関心がない。
 ――なぜ”あんなのに”会いたいんだ。

 エレンスは黙って水樽へ向かう。
 手にした酒瓶をそこへ突っ込み、冷たい水をすくい上げると、そのまま頭からあびせた。
 口から漂う酒の匂いを、水で押し込む。
 水滴が顎から落ちるころ、苦い覚悟を飲み込んだ。

 結局、一緒に行くしかないと思った。

 準備を整え、南部――
 最端のカルド町へ近づくにつれ、エレンスの足取りは目に見えて重くなっていった。

 肩で息をするたび、いまでも酒が抜けきらなかったのかと思うほど顔色は青い。
 デルタに何度「大丈夫か」と聞かれていた。
 エレンスは返事もせず、ただ “思考を捨てるように” 無心で歩き続けた。

 町の外壁が見えた瞬間、エレンスの喉がひくりと動いた。
 逃げたい、戻りたい――
 その感情を押しつぶすように、彼は早足で行商者の集まる館へ向かった。

 あの若者は、どうなったのか。
 それだけが、胸の奥で疼いていた。
 怯えでも、罪悪感でも、後悔でもない。
 もっと厄介な、言葉にできない感情だった。

 あの若者は、すでに町へ戻っていた。
 外見は以前と何ひとつ変わらない――その事実が、逆にエレンスの背筋を冷たくした。
 自分がしたことを思い返すと、それが“あり得ない光景”に思えるほどだった。

 エレンスは、デルタを館に残したまま、若者を外へ呼び出した。
 後ろから不意打ちした相手の顔を、知られているはずはない――
 そう思い込もうとしていた。

 ……だが、若者の瞳がこちらを向いた瞬間、あの時の恐怖が胸に刺さる。
 まるで“すべてを知っている”と告げるような、静かな視線だった。

 若者は少しだけ目を見開いたが、それ以上の反応はなかった。
 エレンスへの恐怖も、怒りも、軽蔑すらも――どこにも見当たらない。

「金は、あの嬢ちゃんと坊ちゃんが持って逃げた。あれで北部へ」

 若者はそれを淡々と聞いている。

「俺がきっちり返す。すまん」
 それは本心だった。
 償いというより、自分の手でつけた汚れを、せめて清算しなければならないと思った。

「許してほしい」
 エレンスの声は、酒が抜けた直後のように乾いていた。

 若者は、少しだけ首をかしげるようにして答えた。
「――私に傷をつけられたら」

 その一言を聞いた瞬間、エレンスの背筋に、ぞわりと悪寒が走った。

 この若者が言っていい台詞ではない。
 その言葉は、血と鉄と戦場を知る者が、最後に口にする類いのものだ。
 絶対に、一般の若者の口から出る重さではなかった。

 ――もしかして、あの時、背筋に刺さった“あの不快な恐怖”は、この若者が原因だったのか?
 いや、違う。
 あれはもっと……得体の知れない“何か”だったと、エレンス自身が一番よく分かっている。

「ただ、試してみたいだけです。――さあ、やりましょう」
 若者は、まるで子どもが遊びを急かすように、しかし笑っていない声でせっついてくる。

 エレンスの手は、気づけば震えていた。
「……許してくれ。俺を、その持っている木刀で……好きなだけ打ってくれ」

 傷をひとつ付けるのが怖い――そんな恐怖を初めて知った。
 彼を前にすると、なぜか“踏み越えてはいけない線”があると本能が叫んでいた。

 若者は小さく息を吸い、静かに言う。
「いえ。“本気”でやってくれなければ、許しませんよ」
 その声音だけは、冗談ではなかった。

 それから、およそ一時間後。
 デルタが、全身に打ち身と切り傷を負い、地面の上にしゃがみ込むエレンスを見つけた。

「エレンス!? おい、どうしたその傷……!」
「デルタか……。やっぱり、俺と来てよかったな」
「は? 何言ってるんだよ。立てるか」
 デルタは慌てて肩を貸し、引き上げる。

 エレンスは傷ついて疲れているが、顔には笑みを浮かべていた。

「……やっぱり山には入らない方がいい」
「まさか魔物でも出たのか?」

「いや――まだ魔物の方がマシかもしれん」
 エレンスは担がれているデルタの肩を軽く叩いた。
「この山にいる大量の獣ども……どうやら“あいつ”が操っているらしい」

「それならどうするんだよ。折角きたのに帰るのか? そりゃないぜ」
 デルタは大きく溜め息をついた。

「いや、帰るのは――俺の傷が治ってからだろ。見た目より、かなり……やられてる」
 エレンスは苦笑し、肩を押さえた。

 そして、ぽつりとこぼした。
「あの若者……やばいな。俺が本気を出しても、勝てないかもしれん」

 デルタはその言葉に返す言葉を失った。
 どれほどの怪物を相手にしたのか、想像が追いつかない。

 夜風が二人の間を通り抜ける。
 山の方角だけが、妙に静かだった。

 ――それが、何より不気味だった。
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