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三章 境界のどちらが先に揺れたのか
2話 赤い葉の向こう
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トリスは用事を終えて帰ると、いつものカウンターに母の姿があった。
「母さん、ただいま。山のせいで近場への行商はなくなったけど……北東部の森林越えなら問題ないって。獣がいなくて、むしろ静かだってさ」
木造の館は、声をすとんと吸い込む。
近くで話しても響かない。
古い木だが、たまに ギッ と鳴る床を除けば、がっしりと落ち着いた建物だった。
母は、それを聞いても返事はしなかった。
ただ、じっとトリスを見つめた。
このところ、急に大人になった気がしたのだろう。
その目は――あの時から姿を消した夫の面影を、ふいに重ねてしまったようだった。
「ん?」
「いいえ。お前が……立派になってきたと思っただけよ」
そう言いかけた母は、結局、優しいまなざしを向けるだけにした。
口に出せば、何かがほどけてしまいそうで。
代わりに、仕事の話を切り出した。
「じゃあ、ミル村に行ってくれるかい。食料の他にも――あの村には回復呪文を使える者がいないからね。医療品も、なるべく多く持って行っておくれ」
「ああ、わかったよ。三人で行くから、一週間もあれば帰ってこられるよ」
その村の名産は、木彫りの人形だった。
関節が動くようになっていて、腕も脚も、思いのままにポーズを取らせられる。
素朴な衣装を着せて、玄関や窓辺に置く。
外から帰ってきた子どもが服を掛けたり、客の前で踊らせる者もいる。
そして――何より、この地方では“魔除け”として重宝されていた。
姿勢を変えるたび、良い気を招き、悪い影を追い払ってくれると信じられている。
トリスたちは、その人形を生活品と交換し、町へ運んで売っていた。
それが、彼らの行商の大事な収入源だった。
村への途中、仲間の一人が突然、猿のように慌てだした。
「み、見ろよトリス! あれ! 空、あれなんだよ……変な色の雲が出てる!」
指さす先を見上げると、そこには――
まるで光の層を無理やり混ぜたような、虹色の濁った塊が浮かんでいた。
雲とも霧ともつかず、ゆっくりと渦を巻きながら空に滲んでいく。
……アセル。
胸を掴むと、実際に心臓を掴んだ気になる。
これまで、あの山の周囲では獣が妙に増えていた。
まるで山を守るために集められているようで――それ自体が異常だった。
だが、あんな雲は一度も見たことがない。
視線を細める。
にじむ虹色。その中に、墨を垂らしたような黒の群れがある。
……鳥か?
そう思ったが、数が多すぎる。
まるで空そのものがざわざわと蠢いているように見えた。
風にさからう、その雲だけが生き物みたいに揺れている。
嫌な予感が体中に伝わると、さっきまでの額の汗が、そこでぴたりと止まった。
とにかく――ミル村へ急がないと。
そう思った瞬間から、足は勝手に速くなっていた。
誰とも話さず、黙々と歩く。
不安をごまかすように、呼吸が荒くなるほど歩幅を詰める。
疲れてくることで、胸の奥に湧き上がる“気持ち悪さ”を押しつぶしていた。
切られた木々の目印をたどっていくと、
やがて同じ造りの小屋が並ぶミル村が見えてきた。
……そして村の奥から、荒れた声が響いてきた。
怒鳴り合いとも、必死の訴えともつかない、大勢の声。
気を張りながら足を速めると、広場には見慣れた顔が集まっていた。
いつも世話になっている村人たちが、村長を取り囲んでいる。
その多くは女性で、泣きながら村長にすがっていた。
トリスは、村人たちの様子を一目見て悟った。
――あの雲のことだ。
あんな色の雲を見た者なら、誰だって嫌な予感を抱くだろう。
トリスたちに気づくと、村長が駆け寄ってきた。
労いの言葉をかけてくれたが、その声は聞いたことがないほど弱かった。
やはり村の子供たち数人が、何も言わずに――
あの不吉な雲へ向かったのだという。
村の“戦士”と呼ばれる壮年の者たちは、すでに追いかけたらしい。
だが人数が足りていない。
焦りが、村の空気を乾いた藁のようにきしませている。
トリスたち行商の三人は、この辺りの山道には慣れている。
捜索の手伝いを買って出た。
「僕たちも……探しに行きます」
荷物を村に預け、身軽になった途端、
トリスたちは一斉に駆け出した。
行商人の足腰は強い。
重い荷を抱えて山を越えるのが日常だ。
荷がないだけで、羽が生えたように身体が軽くなる。
山道は驚くほど早く進めた。
やがて、村の“戦士”たちを見つけた。
「見つけたか!?」
戦士たちは首を振るだけだった。
どうやら、朝早くに出た若者たちは、まだ先を行っているようだ。
足跡は、まっすぐあの山へ向かっているとトリスたちは教えてもらった。
礼だけ言うと、まるで三頭の馬の速さで駆け抜けていった。
若者たちを見つけた――
しかし、それはトリスたちが想像していた中で、最悪な形だった。
一歩、近づくごとに、黒い影が枝から枝へと乱れ飛ぶ。
森の中から、狂気にわめく鳴き声。
まるで、山が叫んでいるようだった。
その中央に若者たちがいた。
大木を背に逃げ場を失くし、降りかかるくちばしから、頼りない枝で防いでいた。
「なんだ、この鳥は……」
地面に動かず落ちている鳥たちは――見れば変わったこともない、ただの鳥だった。
「普通の鳥たちがどうして? いや、とにかく三人で囲みあいながらいくぞ」
剣を抜き、盾を持ち上げて若者たちへ駆け寄ろうとした――
その時だった。
「まて!」
トリスの声は、喉に貼りつくような細さだった。
それ以上の言葉は出なかった。
だが、仲間に伝わるように
剣先を、森の奥へ向ける。
トリスたち三人は、息を呑んだ。
薄暗い森。
頭上を覆う木々の葉は、赤や黄や深い緑をまとい、
まるで色の壁のように視界を塞いでいる。
その隙間――
白い “何か” がいた。
獣に間違いはないが、何か生えている。
……枝か、蔦で囲われた、その体。
それらがすべて色素が抜けた、この森にはそぐわない、真っ白な姿をしていた。
「お、おい。なんだよ……まさか魔物? そんな訳ないよな?」
「いや、あれは、ジャガーだろ……たぶん、な。色々おかしいけど……!」
仲間たちは、喋り続けることで恐怖を押し込めていた。
声が震えていても、口を動かすことで正気を保とうとしているのが分かる。
トリスは黙ったまま、白い獣を見つめていた。
だが、早く子供たちを助けたい――
その気持ちだった。
その時、“あれ” と何かが通じた――
言葉ではなく、形にもならない感覚だけが。
白い獣は、音を立てずにゆっくりと体の向きを変えた。
その動きは、生き物というよりも、
白い影が滑る ようで、幽霊じみていた。
次の瞬間、気配ごと、すうっと森に溶けていった。
それを追うように、狂ったように飛び交っていた鳥たちの声が、ぱたりと止む。
空の黒い群れが森のカーテンの外へ飛んで行った。
一本、また一本と木々の色が戻る。
森が、ようやく “森の匂い” を取り戻した。
助け出した若者たちを、トリスの仲間たちが手早く手当てしていた。
擦り傷や切り傷は多いものの、命に関わるものではなかったようだ。
ひと息ついて、彼らは村へ急ぎ足で戻っていった。
「……あれは、警告、か」
トリスはぽつりと呟きながら、白い獣が消えていった森の奥を見つめていた。
今では、あの山は“結界”だと揶揄されていた。
しかし、本当にそこへは誰にも行けないよう、獣たちに塞がれている。
その獣から守るため、結界の北と西側には、国の兵士が固めているはずだった。
子どもたちは、そのほんの狭い隙間を通り抜けてしまったのだろうか。
帰ろうと踵を返した、その瞬間――
ぽたり、と頬に水滴が落ちた。
反射的に拭った指先が、赤い。
トリスはぴたりと動きを止めた。
「……雨?」
森を見上げる。
今では静寂な、風で葉がささやく森だ。
目を凝らした。
木々の赤い葉の、その奥。
さらに奥の、紅葉の影に紛れて――
“何か”が、揺れた、そして、それと視線が合ってしまった。
赤い葉の群れの裏側。
枝という枝に、無数の人影がぶら下がっていた。
まるで木そのものが、実の代わりに“人間”を実らせているかのように。
風が吹くたびに、影たちは――
揺れた。
「母さん、ただいま。山のせいで近場への行商はなくなったけど……北東部の森林越えなら問題ないって。獣がいなくて、むしろ静かだってさ」
木造の館は、声をすとんと吸い込む。
近くで話しても響かない。
古い木だが、たまに ギッ と鳴る床を除けば、がっしりと落ち着いた建物だった。
母は、それを聞いても返事はしなかった。
ただ、じっとトリスを見つめた。
このところ、急に大人になった気がしたのだろう。
その目は――あの時から姿を消した夫の面影を、ふいに重ねてしまったようだった。
「ん?」
「いいえ。お前が……立派になってきたと思っただけよ」
そう言いかけた母は、結局、優しいまなざしを向けるだけにした。
口に出せば、何かがほどけてしまいそうで。
代わりに、仕事の話を切り出した。
「じゃあ、ミル村に行ってくれるかい。食料の他にも――あの村には回復呪文を使える者がいないからね。医療品も、なるべく多く持って行っておくれ」
「ああ、わかったよ。三人で行くから、一週間もあれば帰ってこられるよ」
その村の名産は、木彫りの人形だった。
関節が動くようになっていて、腕も脚も、思いのままにポーズを取らせられる。
素朴な衣装を着せて、玄関や窓辺に置く。
外から帰ってきた子どもが服を掛けたり、客の前で踊らせる者もいる。
そして――何より、この地方では“魔除け”として重宝されていた。
姿勢を変えるたび、良い気を招き、悪い影を追い払ってくれると信じられている。
トリスたちは、その人形を生活品と交換し、町へ運んで売っていた。
それが、彼らの行商の大事な収入源だった。
村への途中、仲間の一人が突然、猿のように慌てだした。
「み、見ろよトリス! あれ! 空、あれなんだよ……変な色の雲が出てる!」
指さす先を見上げると、そこには――
まるで光の層を無理やり混ぜたような、虹色の濁った塊が浮かんでいた。
雲とも霧ともつかず、ゆっくりと渦を巻きながら空に滲んでいく。
……アセル。
胸を掴むと、実際に心臓を掴んだ気になる。
これまで、あの山の周囲では獣が妙に増えていた。
まるで山を守るために集められているようで――それ自体が異常だった。
だが、あんな雲は一度も見たことがない。
視線を細める。
にじむ虹色。その中に、墨を垂らしたような黒の群れがある。
……鳥か?
そう思ったが、数が多すぎる。
まるで空そのものがざわざわと蠢いているように見えた。
風にさからう、その雲だけが生き物みたいに揺れている。
嫌な予感が体中に伝わると、さっきまでの額の汗が、そこでぴたりと止まった。
とにかく――ミル村へ急がないと。
そう思った瞬間から、足は勝手に速くなっていた。
誰とも話さず、黙々と歩く。
不安をごまかすように、呼吸が荒くなるほど歩幅を詰める。
疲れてくることで、胸の奥に湧き上がる“気持ち悪さ”を押しつぶしていた。
切られた木々の目印をたどっていくと、
やがて同じ造りの小屋が並ぶミル村が見えてきた。
……そして村の奥から、荒れた声が響いてきた。
怒鳴り合いとも、必死の訴えともつかない、大勢の声。
気を張りながら足を速めると、広場には見慣れた顔が集まっていた。
いつも世話になっている村人たちが、村長を取り囲んでいる。
その多くは女性で、泣きながら村長にすがっていた。
トリスは、村人たちの様子を一目見て悟った。
――あの雲のことだ。
あんな色の雲を見た者なら、誰だって嫌な予感を抱くだろう。
トリスたちに気づくと、村長が駆け寄ってきた。
労いの言葉をかけてくれたが、その声は聞いたことがないほど弱かった。
やはり村の子供たち数人が、何も言わずに――
あの不吉な雲へ向かったのだという。
村の“戦士”と呼ばれる壮年の者たちは、すでに追いかけたらしい。
だが人数が足りていない。
焦りが、村の空気を乾いた藁のようにきしませている。
トリスたち行商の三人は、この辺りの山道には慣れている。
捜索の手伝いを買って出た。
「僕たちも……探しに行きます」
荷物を村に預け、身軽になった途端、
トリスたちは一斉に駆け出した。
行商人の足腰は強い。
重い荷を抱えて山を越えるのが日常だ。
荷がないだけで、羽が生えたように身体が軽くなる。
山道は驚くほど早く進めた。
やがて、村の“戦士”たちを見つけた。
「見つけたか!?」
戦士たちは首を振るだけだった。
どうやら、朝早くに出た若者たちは、まだ先を行っているようだ。
足跡は、まっすぐあの山へ向かっているとトリスたちは教えてもらった。
礼だけ言うと、まるで三頭の馬の速さで駆け抜けていった。
若者たちを見つけた――
しかし、それはトリスたちが想像していた中で、最悪な形だった。
一歩、近づくごとに、黒い影が枝から枝へと乱れ飛ぶ。
森の中から、狂気にわめく鳴き声。
まるで、山が叫んでいるようだった。
その中央に若者たちがいた。
大木を背に逃げ場を失くし、降りかかるくちばしから、頼りない枝で防いでいた。
「なんだ、この鳥は……」
地面に動かず落ちている鳥たちは――見れば変わったこともない、ただの鳥だった。
「普通の鳥たちがどうして? いや、とにかく三人で囲みあいながらいくぞ」
剣を抜き、盾を持ち上げて若者たちへ駆け寄ろうとした――
その時だった。
「まて!」
トリスの声は、喉に貼りつくような細さだった。
それ以上の言葉は出なかった。
だが、仲間に伝わるように
剣先を、森の奥へ向ける。
トリスたち三人は、息を呑んだ。
薄暗い森。
頭上を覆う木々の葉は、赤や黄や深い緑をまとい、
まるで色の壁のように視界を塞いでいる。
その隙間――
白い “何か” がいた。
獣に間違いはないが、何か生えている。
……枝か、蔦で囲われた、その体。
それらがすべて色素が抜けた、この森にはそぐわない、真っ白な姿をしていた。
「お、おい。なんだよ……まさか魔物? そんな訳ないよな?」
「いや、あれは、ジャガーだろ……たぶん、な。色々おかしいけど……!」
仲間たちは、喋り続けることで恐怖を押し込めていた。
声が震えていても、口を動かすことで正気を保とうとしているのが分かる。
トリスは黙ったまま、白い獣を見つめていた。
だが、早く子供たちを助けたい――
その気持ちだった。
その時、“あれ” と何かが通じた――
言葉ではなく、形にもならない感覚だけが。
白い獣は、音を立てずにゆっくりと体の向きを変えた。
その動きは、生き物というよりも、
白い影が滑る ようで、幽霊じみていた。
次の瞬間、気配ごと、すうっと森に溶けていった。
それを追うように、狂ったように飛び交っていた鳥たちの声が、ぱたりと止む。
空の黒い群れが森のカーテンの外へ飛んで行った。
一本、また一本と木々の色が戻る。
森が、ようやく “森の匂い” を取り戻した。
助け出した若者たちを、トリスの仲間たちが手早く手当てしていた。
擦り傷や切り傷は多いものの、命に関わるものではなかったようだ。
ひと息ついて、彼らは村へ急ぎ足で戻っていった。
「……あれは、警告、か」
トリスはぽつりと呟きながら、白い獣が消えていった森の奥を見つめていた。
今では、あの山は“結界”だと揶揄されていた。
しかし、本当にそこへは誰にも行けないよう、獣たちに塞がれている。
その獣から守るため、結界の北と西側には、国の兵士が固めているはずだった。
子どもたちは、そのほんの狭い隙間を通り抜けてしまったのだろうか。
帰ろうと踵を返した、その瞬間――
ぽたり、と頬に水滴が落ちた。
反射的に拭った指先が、赤い。
トリスはぴたりと動きを止めた。
「……雨?」
森を見上げる。
今では静寂な、風で葉がささやく森だ。
目を凝らした。
木々の赤い葉の、その奥。
さらに奥の、紅葉の影に紛れて――
“何か”が、揺れた、そして、それと視線が合ってしまった。
赤い葉の群れの裏側。
枝という枝に、無数の人影がぶら下がっていた。
まるで木そのものが、実の代わりに“人間”を実らせているかのように。
風が吹くたびに、影たちは――
揺れた。
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