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三章 境界のどちらが先に揺れたのか
3話 虹の子らの寝床
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アセルはまぶたを閉じ、ゆっくり深呼吸をした。
「……生きている。山が」
ゆっくりと目を開く。
夕焼けが世界を赤く染め、イワシ雲が細い筋となって空を泳いだ。
涼しい秋風が、マントの代わりに巻き付いた。
そのまま尾根を伝い次の山へと抜けて行く。
誰もいない頂に立ち、眼下を見下ろす。
紅葉が谷一面に広がり、まるで誰かが、多彩な絵具で塗りたくったようだった。
気がつけば、誰もいない世界が、ずいぶん落ち着く場所に戻ってきた。
誰かに――いや、虹の双葉たちにさえ見られていない静けさ。
いま視線を寄せてくるものがあるとすれば。
家の前に植えた、あの双葉たちくらいだ。
ただ帰ってきてから、その双葉たちが――
「助けて。苦しい。はやく……!」
俺に、そんな声を掛けてくる。
いや――本当は、俺も助けてあげたかった。
見ているだけでわかるほどだ。
成長しているのは、その葉っぱ。
大きく広がって、重なり合う。
以前、一度だけ別々の場所に植え直そうとしたことがある。
だが、根は深く絡み合い、とても解けるものではなかった。
マルチツールで切り分けようとした時でさえ――
……聞こえるんだ。
「痛いよ」と。
でも――やはり、仕方のないことなのだろうか。
最初に種を近くに植えたのが悪い。
そう俺が……。
「なるだけ優しくするからね。ほどけるところは、ちゃんとほどくよ」
一斉に、双葉たちの目が俺を見つめた。
手が震える。
根っこを覆う土をそっと払う。
……はは。
淡い虹の光が、どんどん濃くなる、あふれてくる。
そこらじゅう、みんな虹色だ。
細い根をほどくたび、プチッ、プチッと音がし切れる。
そのたびに、一滴、また一滴と体液がにじみ、俺の手を”赤く”染めていった。
「……もう、平気だよ」
声を出して見ても、分けられたのは結局ひと苗だ。
「君たちは……また今度にするよ」
他の双葉たちの光が揺れた。
その視線は嫉妬なのか、不満なのか――俺にはわからなかった。
土を丁寧に戻してやる。
さっきまでの突き刺す視線も光も、柔らかく穏やかになった。
さて――分けたひと苗を、どこに埋めればいいだろう。
……しばらく悩んだあと、ふと閃いた。
以前、軽い金属で作っておいたバケツがあるじゃないか。
大きめのそのバケツは、根を伸ばす余裕もたっぷりあった。
柔らかくした土を入れる。
その中央に苗をそっと置く。
まるで、ベッドに寝かせるように、優しく土を重ねた。
これなら、しばらくは安心だろう。
その間に、この子に一番合う場所をゆっくり探せばいい。
風の通り、陽の角度、土の匂い……。
「一緒に連れて歩けるな」
そう思うと、桶の中の小さな双葉が、まるで嬉しそうに揺れた気がした。
次の日、目が覚めた。
……まさか。
バケツの中の双葉が、しおれて元気がない。
昨夜まであんなに張りを見せていた葉が、力なく垂れている。
「……大変だ」
俺に出来ることは、元の場所に戻すしかなかった。
慌てて、この子には起きもらい、バケツから出てもらう。
掛けた土をそっとどかしてみた。
弱々しい光る体があらわになる。
まわりの土が腐っているのか、ぐちゃぐちゃになっていた。
鼻を刺す酸っぱい匂いが、喉の奥まで突き上げてくる。
「ああ……俺はこの子を病気にさせてしまったのか」
その時、俺の肩に手をのせる感触があった――
振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
でも、肩にはまだ温もりが残っていた。
……アーサーの手の感触だ。
ああ、忘れていたはずの記憶が、一気に蘇った。
そうだ。
この虹の種を譲り受けたとき、アーサーが言っていた。
植物など育てたことのない俺に教えてくれたこと。
地面に植える場合の他にも、ポットでの育て方など。
その声が、驚くほど鮮明に蘇った。
まるで今、耳もとで囁かれたかのように。
俺は愚かだ。
――このバケツじゃ、この子は“溺れる”。
底に、水が抜ける穴がない。
これじゃあ根が呼吸できるはずもない。
頭を抱えたその瞬間、アーサーの言葉がもう一度よみがえる。
「まず、息ができる場所を作れ」
……そうだったな。
すぐにマルチツールを手に取り、底へ穴を開けた。
続けて、側面にも細い隙間を刻む。
こうすれば、土が息をする。
まずは土だけを入れる。
手で押しほぐす。
水をたっぷりと含ませると、底からぽたぽたと清らかな滴が落ちていく。
「……きっとこれで大丈夫だよな」
他にも、アーサーは肥料のことを言っていた。
肥料は近づけすぎるな。根を焼くからと。
……だが、それは今はない。
アーサーのことを心配するが、どうにも出来ないことだった。
ゆっくり、この子を“ベッド”に戻した。
触れることも、無理に立たせることもできない。
俺にできるのは――ただ見守る、看病だけだった。
雲ひとつない空で、太陽がゆっくり天へ昇っていく。
その光が差し込むにつれ、双葉も呼吸を取り戻していく。
しおれていた葉が、かすかに震え、
茎が鮮やかな緑に染まり直し、
やがて、大きな双葉をしっかりと支えはじめた。
……よかった。
胸の奥で、ひとつ息がほどけた。
「……生きている。山が」
ゆっくりと目を開く。
夕焼けが世界を赤く染め、イワシ雲が細い筋となって空を泳いだ。
涼しい秋風が、マントの代わりに巻き付いた。
そのまま尾根を伝い次の山へと抜けて行く。
誰もいない頂に立ち、眼下を見下ろす。
紅葉が谷一面に広がり、まるで誰かが、多彩な絵具で塗りたくったようだった。
気がつけば、誰もいない世界が、ずいぶん落ち着く場所に戻ってきた。
誰かに――いや、虹の双葉たちにさえ見られていない静けさ。
いま視線を寄せてくるものがあるとすれば。
家の前に植えた、あの双葉たちくらいだ。
ただ帰ってきてから、その双葉たちが――
「助けて。苦しい。はやく……!」
俺に、そんな声を掛けてくる。
いや――本当は、俺も助けてあげたかった。
見ているだけでわかるほどだ。
成長しているのは、その葉っぱ。
大きく広がって、重なり合う。
以前、一度だけ別々の場所に植え直そうとしたことがある。
だが、根は深く絡み合い、とても解けるものではなかった。
マルチツールで切り分けようとした時でさえ――
……聞こえるんだ。
「痛いよ」と。
でも――やはり、仕方のないことなのだろうか。
最初に種を近くに植えたのが悪い。
そう俺が……。
「なるだけ優しくするからね。ほどけるところは、ちゃんとほどくよ」
一斉に、双葉たちの目が俺を見つめた。
手が震える。
根っこを覆う土をそっと払う。
……はは。
淡い虹の光が、どんどん濃くなる、あふれてくる。
そこらじゅう、みんな虹色だ。
細い根をほどくたび、プチッ、プチッと音がし切れる。
そのたびに、一滴、また一滴と体液がにじみ、俺の手を”赤く”染めていった。
「……もう、平気だよ」
声を出して見ても、分けられたのは結局ひと苗だ。
「君たちは……また今度にするよ」
他の双葉たちの光が揺れた。
その視線は嫉妬なのか、不満なのか――俺にはわからなかった。
土を丁寧に戻してやる。
さっきまでの突き刺す視線も光も、柔らかく穏やかになった。
さて――分けたひと苗を、どこに埋めればいいだろう。
……しばらく悩んだあと、ふと閃いた。
以前、軽い金属で作っておいたバケツがあるじゃないか。
大きめのそのバケツは、根を伸ばす余裕もたっぷりあった。
柔らかくした土を入れる。
その中央に苗をそっと置く。
まるで、ベッドに寝かせるように、優しく土を重ねた。
これなら、しばらくは安心だろう。
その間に、この子に一番合う場所をゆっくり探せばいい。
風の通り、陽の角度、土の匂い……。
「一緒に連れて歩けるな」
そう思うと、桶の中の小さな双葉が、まるで嬉しそうに揺れた気がした。
次の日、目が覚めた。
……まさか。
バケツの中の双葉が、しおれて元気がない。
昨夜まであんなに張りを見せていた葉が、力なく垂れている。
「……大変だ」
俺に出来ることは、元の場所に戻すしかなかった。
慌てて、この子には起きもらい、バケツから出てもらう。
掛けた土をそっとどかしてみた。
弱々しい光る体があらわになる。
まわりの土が腐っているのか、ぐちゃぐちゃになっていた。
鼻を刺す酸っぱい匂いが、喉の奥まで突き上げてくる。
「ああ……俺はこの子を病気にさせてしまったのか」
その時、俺の肩に手をのせる感触があった――
振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
でも、肩にはまだ温もりが残っていた。
……アーサーの手の感触だ。
ああ、忘れていたはずの記憶が、一気に蘇った。
そうだ。
この虹の種を譲り受けたとき、アーサーが言っていた。
植物など育てたことのない俺に教えてくれたこと。
地面に植える場合の他にも、ポットでの育て方など。
その声が、驚くほど鮮明に蘇った。
まるで今、耳もとで囁かれたかのように。
俺は愚かだ。
――このバケツじゃ、この子は“溺れる”。
底に、水が抜ける穴がない。
これじゃあ根が呼吸できるはずもない。
頭を抱えたその瞬間、アーサーの言葉がもう一度よみがえる。
「まず、息ができる場所を作れ」
……そうだったな。
すぐにマルチツールを手に取り、底へ穴を開けた。
続けて、側面にも細い隙間を刻む。
こうすれば、土が息をする。
まずは土だけを入れる。
手で押しほぐす。
水をたっぷりと含ませると、底からぽたぽたと清らかな滴が落ちていく。
「……きっとこれで大丈夫だよな」
他にも、アーサーは肥料のことを言っていた。
肥料は近づけすぎるな。根を焼くからと。
……だが、それは今はない。
アーサーのことを心配するが、どうにも出来ないことだった。
ゆっくり、この子を“ベッド”に戻した。
触れることも、無理に立たせることもできない。
俺にできるのは――ただ見守る、看病だけだった。
雲ひとつない空で、太陽がゆっくり天へ昇っていく。
その光が差し込むにつれ、双葉も呼吸を取り戻していく。
しおれていた葉が、かすかに震え、
茎が鮮やかな緑に染まり直し、
やがて、大きな双葉をしっかりと支えはじめた。
……よかった。
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