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四章 境界は混ざる誰も知らずに
3話 竜の息に灰は舞い
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山肌の上から、じわりと緊張が忍び寄ってくる。
白い獣――今にも飛びかかろうとしている。
だが、まるで剥製のようにも見えた。
まったく微動だにしない。
伝わる緊張で集団は止まる。
呼吸さえしていないようだ。
その中で、トリスは固唾を飲み込む。
――もし、あの牙が自分には向かないのだとしたら。
この集団を離れ、アセルのもとへ向かえるのではないか――
そんな考えが頭をよぎった。
ぎゃぁ――。
後方から住人の叫び声が森の静けさを裂いた。
「どうした!」
トリスは反射的に振り向く。
――え?
そこにいたのは、体長二メートルを超える大きな虎だった。
だが、この地域にはいるはずもない。
しかも――虎とは、こんな姿だっただろうか。
橙ではなく、くすんだ灰金色の毛並み。
黒い縞は深く刻まれた傷跡のように見え、
この森には似つかわしくない鋭い光を帯びていた。
怪物だ――
そう思ったが、虎の口には住人が咥えられ、必死にもがいている。
「助けてくれ!」という叫びを聞いた瞬間、違和感が芽生えた。
殺す気なら、とっくに噛み砕いている。
なのに虎はただ咥えているだけだ。
まるで“見せつける”ように。
虎はその場から動かない。
牙も力も、いつでも振るえるはずなのに。
――これは囮だ。
トリスがそう悟った時には、もう“普通”の獣たちが木陰から姿を現していた。
ガサリ、ガサリ。
獣たちは吠えもしない。
素早くただ黙って、住人たちに襲い掛かる。
武器を握る暇などない。
咥えられた住人も、囲まれた住人も成す術がなく、
来た道へ、転げ落ちるように追い戻されていく。
「うわっ……! や、やめろ!」
「逃げろ――!」
慌てふためく声とともに、後部にいた住人たち。
転げ落ちるように帰路へと追いやられた。
それは、まるで一息で終わる夢の断片のように――あっという間だった。
兵士たちは動けない……いや、動かない。
もし動いたら、“守りの円”が崩れる。
その時、自分たちに死が訪れると死ぬと知っているからだ。
ほとんどの兵士は白い獣に意識を向けている。
剣を抜いたまま、背を向けない。
後方の悲鳴など聞こえないかのようだ。
トリスもまた一歩も動けなかった。
たしかに、ここで意図的に殺されることはないだろう。
獣たちの行動は明らかに“追い返すため”のものだ。
だが、それでも。
目前にある白い牙は――
人の皮膚など、まるで柔らかいバターのように容易く切り裂くだろう。
「間違いはない」などと言えるはずがない。
その想像だけで、足の裏がじっとりと凍りついた。
兵士の列の中で一人だけ、ぽつんと楽器を鳴らす者がいた。
高い音が、霧の残滓のように山肌へ広がっていく。
それだけで、体が軽くなるようだった。
それが合図だったのか。
白い獣が、ぬるり、と動き出した。
トリスのいる方へ向かい、わざと視界に入るように山肌を下っていく。
「後ろにまわる……?」
後方にはもう、住人は一人も残っていない。
完全に“盾のいない後衛”を狙っているのだ。
その後衛の中で、しわがれた声が聞こえた。
「ほっほー……久しぶりじゃよ。あやつは、もはや魔物と変わりないじゃろ」
老人のようなその声は、妙に落ち着いていて。
それなのに温かいスープを飲んだように、体の芯から力が湧いてくる。
「それじゃあ、こちらからやらせてもらおうかの」
腰の曲がった爺さんが、兵士たちの前へぬっと出た。
荒れた山肌の上なのに、足取りだけは不思議としっかりしている。
ゆっくりと杖を掲げ、息を吸いこむ。
「いつぶりかのぉ……儂の”とっておき”じゃ。――竜の炎じゃ」
老人の口から漏れたその息は――
それはただの息ではなかった。
吐き出された瞬間、山気を巻き込みながら何倍にも膨れ上がる。
ごう、と空気を震わせ、濃い橙の炎へと姿を変えた。
背後の兵士たちの影が、岩肌に大きく伸びあがる。
歪んだ影は、一瞬だけ巨大な竜のようにも見えた。
秋の冷えた山の空気が、一気に“夏”へ変わった。
肌を刺す熱気が波のように押し寄せてくる。
老人が吐いた炎は山肌一面を燃やし尽くす。
枯葉は触れられた瞬間、溶けるように灰になった。
その灼熱の息の只中――
白い獣だけが炎を纏ったまま、鳴き声もない。
先ほどの勢いそのままに兵士へ突撃してくる。
「おい、これでは火の属性を与えただけじゃろが!」
炎の中から白い獣が平然と歩み出るのを見て、誰かが叫んだ。
「わかっておる。我らでエバガードさまをお守りするわい」
フードや兜で顔を隠した兵士は多い。
その中で、騎士の周囲だけは驚くほど“年寄り”ばかりだった。
だが誰一人、背は曲がっていない。
声はしわがれても、歩幅は若い兵士のように大きい。
その屈強な老人たちが、一斉に動いた。
白い獣は目前。
纏った炎に怯む者はいない。
ひとり、またひとりと白い獣へ剣を掲げる。
跳躍する白い獣。
軽々と兵士たちの頭上を飛び越えた。
地を蹴る音すらなく、まわりに纏う植物だけが弾ける。
エバガードは前だけを見ていた。
一度も下を見ない。
迫る殺意より、山の頂を踏むことの方が重要らしい。
トリスは息を呑む。
白い獣の動きから、目を離すことができなかった。
だが――その白影は、空中で「止まった」
重い質量が静止し。
異様な感覚だけが残る。
兵士の固まりの中から、きらりと閃いた。
それは長い――あまりに長い槍だった。
「なんだ、あれ……」
トリスは驚いた。
今この瞬間に伸びたとしか思えない槍が、白い獣の腹を貫く。
そのまま炎に包んだ。
だが、肉の焦げる匂いはしない。
枯れ枝が火にくべられたような乾いた音だけが残った。
灰は落ちず、森の中に溶けるように消えていく。
エバガードは白い獣が灰になったことに、一言も発さなかった。
ただ、背後に控える楽団へ手をひと振りする。
高らかな勝利の旋律が、山の静寂をねじ伏せるように鳴り響いた。
賞賛も感謝も言葉にせず。
そこにあるのは、ただの音だけだった。
エバガードは振り返りもせず、さらに山の奥――
頂を目指して歩を進める。
そしてトリスは、静かに隊列から離れた。
足音ひとつ立てず。
誰にも――“全て”にも気づかれないよう。
アセルのもとへ、誰よりも早く辿り着くために――。
白い獣――今にも飛びかかろうとしている。
だが、まるで剥製のようにも見えた。
まったく微動だにしない。
伝わる緊張で集団は止まる。
呼吸さえしていないようだ。
その中で、トリスは固唾を飲み込む。
――もし、あの牙が自分には向かないのだとしたら。
この集団を離れ、アセルのもとへ向かえるのではないか――
そんな考えが頭をよぎった。
ぎゃぁ――。
後方から住人の叫び声が森の静けさを裂いた。
「どうした!」
トリスは反射的に振り向く。
――え?
そこにいたのは、体長二メートルを超える大きな虎だった。
だが、この地域にはいるはずもない。
しかも――虎とは、こんな姿だっただろうか。
橙ではなく、くすんだ灰金色の毛並み。
黒い縞は深く刻まれた傷跡のように見え、
この森には似つかわしくない鋭い光を帯びていた。
怪物だ――
そう思ったが、虎の口には住人が咥えられ、必死にもがいている。
「助けてくれ!」という叫びを聞いた瞬間、違和感が芽生えた。
殺す気なら、とっくに噛み砕いている。
なのに虎はただ咥えているだけだ。
まるで“見せつける”ように。
虎はその場から動かない。
牙も力も、いつでも振るえるはずなのに。
――これは囮だ。
トリスがそう悟った時には、もう“普通”の獣たちが木陰から姿を現していた。
ガサリ、ガサリ。
獣たちは吠えもしない。
素早くただ黙って、住人たちに襲い掛かる。
武器を握る暇などない。
咥えられた住人も、囲まれた住人も成す術がなく、
来た道へ、転げ落ちるように追い戻されていく。
「うわっ……! や、やめろ!」
「逃げろ――!」
慌てふためく声とともに、後部にいた住人たち。
転げ落ちるように帰路へと追いやられた。
それは、まるで一息で終わる夢の断片のように――あっという間だった。
兵士たちは動けない……いや、動かない。
もし動いたら、“守りの円”が崩れる。
その時、自分たちに死が訪れると死ぬと知っているからだ。
ほとんどの兵士は白い獣に意識を向けている。
剣を抜いたまま、背を向けない。
後方の悲鳴など聞こえないかのようだ。
トリスもまた一歩も動けなかった。
たしかに、ここで意図的に殺されることはないだろう。
獣たちの行動は明らかに“追い返すため”のものだ。
だが、それでも。
目前にある白い牙は――
人の皮膚など、まるで柔らかいバターのように容易く切り裂くだろう。
「間違いはない」などと言えるはずがない。
その想像だけで、足の裏がじっとりと凍りついた。
兵士の列の中で一人だけ、ぽつんと楽器を鳴らす者がいた。
高い音が、霧の残滓のように山肌へ広がっていく。
それだけで、体が軽くなるようだった。
それが合図だったのか。
白い獣が、ぬるり、と動き出した。
トリスのいる方へ向かい、わざと視界に入るように山肌を下っていく。
「後ろにまわる……?」
後方にはもう、住人は一人も残っていない。
完全に“盾のいない後衛”を狙っているのだ。
その後衛の中で、しわがれた声が聞こえた。
「ほっほー……久しぶりじゃよ。あやつは、もはや魔物と変わりないじゃろ」
老人のようなその声は、妙に落ち着いていて。
それなのに温かいスープを飲んだように、体の芯から力が湧いてくる。
「それじゃあ、こちらからやらせてもらおうかの」
腰の曲がった爺さんが、兵士たちの前へぬっと出た。
荒れた山肌の上なのに、足取りだけは不思議としっかりしている。
ゆっくりと杖を掲げ、息を吸いこむ。
「いつぶりかのぉ……儂の”とっておき”じゃ。――竜の炎じゃ」
老人の口から漏れたその息は――
それはただの息ではなかった。
吐き出された瞬間、山気を巻き込みながら何倍にも膨れ上がる。
ごう、と空気を震わせ、濃い橙の炎へと姿を変えた。
背後の兵士たちの影が、岩肌に大きく伸びあがる。
歪んだ影は、一瞬だけ巨大な竜のようにも見えた。
秋の冷えた山の空気が、一気に“夏”へ変わった。
肌を刺す熱気が波のように押し寄せてくる。
老人が吐いた炎は山肌一面を燃やし尽くす。
枯葉は触れられた瞬間、溶けるように灰になった。
その灼熱の息の只中――
白い獣だけが炎を纏ったまま、鳴き声もない。
先ほどの勢いそのままに兵士へ突撃してくる。
「おい、これでは火の属性を与えただけじゃろが!」
炎の中から白い獣が平然と歩み出るのを見て、誰かが叫んだ。
「わかっておる。我らでエバガードさまをお守りするわい」
フードや兜で顔を隠した兵士は多い。
その中で、騎士の周囲だけは驚くほど“年寄り”ばかりだった。
だが誰一人、背は曲がっていない。
声はしわがれても、歩幅は若い兵士のように大きい。
その屈強な老人たちが、一斉に動いた。
白い獣は目前。
纏った炎に怯む者はいない。
ひとり、またひとりと白い獣へ剣を掲げる。
跳躍する白い獣。
軽々と兵士たちの頭上を飛び越えた。
地を蹴る音すらなく、まわりに纏う植物だけが弾ける。
エバガードは前だけを見ていた。
一度も下を見ない。
迫る殺意より、山の頂を踏むことの方が重要らしい。
トリスは息を呑む。
白い獣の動きから、目を離すことができなかった。
だが――その白影は、空中で「止まった」
重い質量が静止し。
異様な感覚だけが残る。
兵士の固まりの中から、きらりと閃いた。
それは長い――あまりに長い槍だった。
「なんだ、あれ……」
トリスは驚いた。
今この瞬間に伸びたとしか思えない槍が、白い獣の腹を貫く。
そのまま炎に包んだ。
だが、肉の焦げる匂いはしない。
枯れ枝が火にくべられたような乾いた音だけが残った。
灰は落ちず、森の中に溶けるように消えていく。
エバガードは白い獣が灰になったことに、一言も発さなかった。
ただ、背後に控える楽団へ手をひと振りする。
高らかな勝利の旋律が、山の静寂をねじ伏せるように鳴り響いた。
賞賛も感謝も言葉にせず。
そこにあるのは、ただの音だけだった。
エバガードは振り返りもせず、さらに山の奥――
頂を目指して歩を進める。
そしてトリスは、静かに隊列から離れた。
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