なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原

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四章 境界は混ざる誰も知らずに

4話 冒険者たち越えて

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 トリスが大きく遠回りしてアセルの家へ向かう。
 山肌を撫でる空気は、いつのまにか冬の気配を帯びていた。

「そんな高い場所じゃないのに……」

 皮膚を刺すような感覚の直後、ぽつ、と雨粒が頬に落ちる。
 すぐに二つ、三つと増え、細かな雨脚が周囲の木々を薄く霞ませはじめた。

「まずいな……」

 足を速める。
 だが、それに合わせるように雨足も急速に強まった。

 風も何か変だ――
 木々の間で散らばるどころか、どこからともなく集まる。
 蛇のようにうねりながら横殴りに吹きつけてくる。

「……こんな天気、さっきまでは絶対にありえなかったろ」

 舞い落ちる紅葉に、舞い上がる枯葉が交ざる。
 冷たい雨と風が四方からぶつかり合い、世界がかき乱されていくようだった。

 トリスは感じていた。
 ――山に拒まれている、と。

 それでも、止まるわけにはいかない。

「……今だけは、絶対に会わないと」

 自分に言い聞かせ、アセルのもとへ急ぐ。



 荒れ狂う風を裂くように、硬い音が響いた。
「っ……!」

 数歩先の木に、金属の鎧の一部が突き刺さっていた。
 肩当てか胸甲の破片か……原型はほとんど残っていない。

「なんで、こんなものが……」

 嫌な汗が背筋を滑ったその時――
 森の奥で、白い閃光が走った。

 音はない。
 遠くのようでいて、すぐ近くにも思える。

 トリスは、自分が先行していると思っていた。
 だが――それは違った。

 エバガードたちも速い。
 獣たちと戦いながら、それでもなお速い。

「……急がないと」
 アセルの元へ。



 ……この雨と、葉の吹雪の中で僕より速いなんて……。
 あの爺さんたちは、みんな元冒険者か。

 トリスは、今さらになって自分がどれほど“驕っていた”のか思い知る。
 エバガードも、あの老人たちも。
 兵士たちでさえ、魔物と戦い抜いてきた精鋭の集団だ。

 今では、その者たちや獣に見つからないように進む道など考えられない。
 それでは、追いつけもしないのだ。

 トリスは余計な思考を切り捨てる。
 今は――
 もっと速く、ただ、前だけを見る。

 トリスは、自分では気づかなかった――
 足跡が雨に溶けるどころか、最初からひとつも残っていなかったことに。

 やがて、視界に“それ”が現れる。

 転がる獣の骸。
 折り重なるように倒れた兵士たちの骸。

 ……音楽が聞こえる。
 風に運ばれ、木々に反響し、どこから鳴ているのかはわからない。
 それ混じって、誰かの声。
 次の瞬間、橙の光が森の奥から天へと立ち上がった。

 まるで焔の柱が空へ向かって伸びているかのように。

 それは“後方”で起きていることだった。
 だが――振り返らない。
 いまはただ、アセルの元へ急ぐだけだった。



 アセルの家が視界に入った時だった。

 さっきまでの暴風雨が嘘のように消え失せ――
 澄んだ碧空の下では小鳥たちが枝で囀っていた。

「アセルさん……」

 畑の前では、アセルが背を向けたままでいた。
 いつものようにひょいとバケツに腰を下ろし、土をいじっている。

 その、あまりに“普段どおり”の姿に、トリスの胸が一気に熱くなった。

 久しぶりに見るその背中に、何を声にすればいいのかわからない。
 戸惑いながらも、一歩、また一歩と近づいていく。

「ずぶ濡れじゃないか。いつもの場所で火でも焚いていけよ」
 アセルはちらりと振り返るだけで、また畑へと手を戻した。

「あ、はい……いや、それどころじゃなくて。勇者教の連中が来てるんです。早く何とかしないと……」

「大丈夫さ。勇者教なんて、ここまで来られやしないよ」
 アセルは相変わらず畑をいじり続ける。
 マルチツール伝説の剣で土をほじくる音が聞こえた。

 ついさっきまで、この目で地獄みたいな光景を見てきたはずだ。
 それなのに――そう言われても、トリスの胸はどうしても落ち着かなかった。

 来た道を振り返る。
 獣の咆哮も聞こえない。
 兵士たちが命を削ったあの戦いの痕跡すらもない。
 まるで風がすべてを撫で消したかのようだ。

 見上げれば、嘘のように澄んだ青空。
 ――今までの出来事のほうが幻だったのか?

 アセルが、まるで独り言みたいにぽつりと言った。
「まあ、さっきの通り雨はすごかったけどな……」

「え? やっぱりここでも?」
 思わず声を上げるトリス。
 だが足元を見ると首をかしげる。

 地面には、濡れた跡ひとつない。
 葉の色も土の匂いも、雨上がりのそれじゃない。

 ……じゃあ、いったいどこで雨は降ったんだ。
 疑問を抱えたまま、アセルへ近づいた。

 だが、次の瞬間、背筋に寒気が走る。
 “何かがおかしい”。

 アセルは畑で作業をしている……ように見えた。
 だが実際には、ただ掘った穴へ水を延々と流し込んでいるだけだ。

 手も止めず、表情も変わらず、ひたすらその一点へ。

 理由も、意味もわからない。
 その“無意味さ“が、逆に恐ろしかった。

「ねえ? アセルさんは何をしてるの?」
 ようやく声を絞り出しながら問いかける。
 だがアセルは振り向かず、穴に水を注ぎ続けた。

「いや、この子たちは、すぐ行ってしまうから――」
 ぽつりとアセルは続けた。
「一人くらい、いてくれてもいいだろ?」

 トリスは反射的に一歩下がった。
 言っている意味がわからない。
 “子“とは何だ。
 今、誰のことを呼んだ?

 胸が圧迫されるようだった。
 アセルはただ座っているだけなのに――息が苦しい。

 “どちらを”見たとしても、正しいものはわからない気がした。

 そうか。
 来るのだ。
 ゆっくりと、静かに、一本道を。

 ――あの騎士が。

 出会った瞬間から、いずれこうなることは決まっていたのだろう。

 もう目の前まで来ている。
 勇者教の騎士、エバガード。

 しかしアセルは振り向こうともしない。

 そして――ただ一言。

「やあ、”戦士さん”じゃないか。あれ以来だね……」
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