40 / 42
七章 過ぎ去った時は何のため?
4話 眠る王と、呼ばれない名
しおりを挟む
ミナリーは、怖がって身を縮めるように、トリスの髪の中で小さく震えていた。
アセルの家には、はっきりと“魔王”の気配が漂っていたからだ。
こっそりと後をつけてきた二人。
裏庭に身を潜め。
家の中から漏れてくる声に、耳を澄ませていた。
え……勇者が、もう一人?
魔王がいる?
何を、聞いてしまったんだ――。
トリスの頭は、すっかりこんがらがっていた。
落ち着いたのは、アセルやエリザたちが家を出てからだ。
「これって……意味、わからないよ、ミナリーちゃんは、わかる?」
わかるはずないと思う。
それでもトリスは、声に出すことで、少しだけ呼吸を取り戻していた。
「あたしは……魔王だってことは、わかるよ」
ミナリーは、小さくそう言った。
「どうしてかは、わからないけど……本当に、わかるの」
ミナリー自身にも、理由はわかっていないのだ。
ただ――
目を覚ました時から胸に残っていた違和感。
その正体が、今ようやく、形になっただけなのだと。
「どうしよう? アセルさんを追いかけようか?」
トリスはそう言ってミナリーに視線を向けた。
だが、返事を期待していたわけではなかった。
けれど――
ミナリーは、迷いなく答えた。
「魔王は、いるのに……魔物はいないのは、もう一人の勇者のおかげなのかな?」
トリスは、どこかで思っていた。
あの勇者は――本物ではない、と。
それに……。
もし、魔物のいない世界に、魔王だけがいたなら。
おかしすぎて、もうわけがわからない。
そう考えた瞬間、
胸の奥から、理由のわからない興味が湧き上がってきた。
「……いいこと、思いついたよ」
トリスはそう言って、
エリザたちが去っていった方角を見た。
宮殿へ向かう道だった。
トリスは、バルコニーへと壁をよじ登った。
その身のこなしは、まるで重さを忘れたみたいだった。
あるいは――
ミナリーが、どこかで引っ張っているのかもしれない。
鍵は掛かっていなかった。
拍子抜けするほど、室内へは簡単に入れてしまう。
――宮殿の中に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
「誰もいないみたいだね」
そう言ったミナリーは、足元も周囲も見ていなかった。
視線は高く、天井いっぱいに広がる絵画に吸い寄せられている。
そこには、精霊の姿をした者たちが描かれていた。
人と戯れ、あるいは戯れられているともつかない距離感で、笑みを浮かべている。
ミナリーは、その中を目でなぞっている。
自分と似た輪郭をした精霊を、無意識に探しているようだった。
トリスには確信はない。
あるのは、森の道なき道で何度も頼ってきた、言葉にできない感覚だけだ。
「……たぶん、図書室の近くかな。少し、情報がほしいね」
声を落とし、足音を殺す。
この宮殿は、静かすぎる場所ほど、何かを隠している。
廊下には、初めて目にするほど立派な絨毯が敷かれていた。
踏めば沈み、戻りが遅い。
かえって足音を立ててしまいそうで緊張する。
カ、チャ。
音は小さい。
だが、静けさが大きすぎた。
体を滑り込ませた先は、光のない部屋だった。
棚が、壁ではなく“林”のように立ち並んでいる。
本の匂いがする。
乾いた紙と、古い革と、誰かの時間。
――図書室だ。
「勇者さんの話はこの辺りかしら? 聖なる印よ」
背表紙に書かれたそれは、一番目立つ棚に置かれていた。
金の装丁は新しく、埃がない。
中を見てみれば、誰でも一回は聞いたことのある英雄譚だった。
「きっと個人の書斎がいいよね。上で探そうか?」
周囲の静寂に怯えながらも、二人は階段を上がった。
廊下を探っていくうちに、離れに厳重に守られた扉を見つけた。
どうしても気になったが、その重厚さが躊躇わせる。
何と言っても、そこは王家の紋章が刻まれた特別な空間だった。
一度は引き返そうとしたトリスだった。
だが、ミナリーの呟きが足を止めさせた。
「なんだか……今にも死んじゃいそうな人の匂いがするよ」
「まさか王様! じゃないよね?」
他に思い当たる人物などいない。
ミナリーは「あたしにわかる訳ないでしょ」と首を振る。
「そうだね、確かめてみよう」
覚悟を決めて扉を開けたが、中に人の気配はなかった。
罠も、鍵さえも掛かっていない。
ミナリーの嗅覚に導かれ、いくつもの空室を通り抜けた先に、その寝室はあった。
天蓋付きの寝台に横たわる男は、想像よりもずっと小さく、脆そうに見えた。
呼吸は浅く、音すらない。
ミナリーはトリスの目を見て深く頷く。
男の顔のそばへ飛び、掌をかざした。
その指の間から、わずかな水が一滴だけ零れ落ちる。
男の目が開き、こちらを見た。
「おお、やっぱり盗賊どのであったか。ワシも目が悪くなったのか、近頃、誰が誰だかわからんしの……」
トリスは、返すべき言葉が見つからなかった。
「魔物が蔓延るというのに、勇者殿はいつ来てくれるのだ? 彼女なら、何とかしてくれるはずなのに……」
彼女……?
言葉だけが、妙に遅れて耳に残る。
王の意識は混濁しているのだろうか。
「エリザ……さんのこと、ですか?」
問いかけに王は答えず。
「……勇者じゃ、とにかく盗賊殿、早くみんなを集めてくれ」
差し出された革袋は、拍子抜けするほど軽かった。
中身はほとんど空に近い。
「早く……平和な国を見たいものじゃ」
そのまま、王は再び深い眠りに落ちてしまった。
トリスは、すべてを理解することはできなかった。
「……あたし、魔王なんて大嫌い」
ミナリーが、苦々しく言う。
「だけど――あのエリザって言う勇者さんには、興味が湧いてきちゃったかも」
トリスの胸の奥が、ひやりとした。
それは、声に出すのを避けていた考えと、同じだったからだ。
アセルの家には、はっきりと“魔王”の気配が漂っていたからだ。
こっそりと後をつけてきた二人。
裏庭に身を潜め。
家の中から漏れてくる声に、耳を澄ませていた。
え……勇者が、もう一人?
魔王がいる?
何を、聞いてしまったんだ――。
トリスの頭は、すっかりこんがらがっていた。
落ち着いたのは、アセルやエリザたちが家を出てからだ。
「これって……意味、わからないよ、ミナリーちゃんは、わかる?」
わかるはずないと思う。
それでもトリスは、声に出すことで、少しだけ呼吸を取り戻していた。
「あたしは……魔王だってことは、わかるよ」
ミナリーは、小さくそう言った。
「どうしてかは、わからないけど……本当に、わかるの」
ミナリー自身にも、理由はわかっていないのだ。
ただ――
目を覚ました時から胸に残っていた違和感。
その正体が、今ようやく、形になっただけなのだと。
「どうしよう? アセルさんを追いかけようか?」
トリスはそう言ってミナリーに視線を向けた。
だが、返事を期待していたわけではなかった。
けれど――
ミナリーは、迷いなく答えた。
「魔王は、いるのに……魔物はいないのは、もう一人の勇者のおかげなのかな?」
トリスは、どこかで思っていた。
あの勇者は――本物ではない、と。
それに……。
もし、魔物のいない世界に、魔王だけがいたなら。
おかしすぎて、もうわけがわからない。
そう考えた瞬間、
胸の奥から、理由のわからない興味が湧き上がってきた。
「……いいこと、思いついたよ」
トリスはそう言って、
エリザたちが去っていった方角を見た。
宮殿へ向かう道だった。
トリスは、バルコニーへと壁をよじ登った。
その身のこなしは、まるで重さを忘れたみたいだった。
あるいは――
ミナリーが、どこかで引っ張っているのかもしれない。
鍵は掛かっていなかった。
拍子抜けするほど、室内へは簡単に入れてしまう。
――宮殿の中に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
「誰もいないみたいだね」
そう言ったミナリーは、足元も周囲も見ていなかった。
視線は高く、天井いっぱいに広がる絵画に吸い寄せられている。
そこには、精霊の姿をした者たちが描かれていた。
人と戯れ、あるいは戯れられているともつかない距離感で、笑みを浮かべている。
ミナリーは、その中を目でなぞっている。
自分と似た輪郭をした精霊を、無意識に探しているようだった。
トリスには確信はない。
あるのは、森の道なき道で何度も頼ってきた、言葉にできない感覚だけだ。
「……たぶん、図書室の近くかな。少し、情報がほしいね」
声を落とし、足音を殺す。
この宮殿は、静かすぎる場所ほど、何かを隠している。
廊下には、初めて目にするほど立派な絨毯が敷かれていた。
踏めば沈み、戻りが遅い。
かえって足音を立ててしまいそうで緊張する。
カ、チャ。
音は小さい。
だが、静けさが大きすぎた。
体を滑り込ませた先は、光のない部屋だった。
棚が、壁ではなく“林”のように立ち並んでいる。
本の匂いがする。
乾いた紙と、古い革と、誰かの時間。
――図書室だ。
「勇者さんの話はこの辺りかしら? 聖なる印よ」
背表紙に書かれたそれは、一番目立つ棚に置かれていた。
金の装丁は新しく、埃がない。
中を見てみれば、誰でも一回は聞いたことのある英雄譚だった。
「きっと個人の書斎がいいよね。上で探そうか?」
周囲の静寂に怯えながらも、二人は階段を上がった。
廊下を探っていくうちに、離れに厳重に守られた扉を見つけた。
どうしても気になったが、その重厚さが躊躇わせる。
何と言っても、そこは王家の紋章が刻まれた特別な空間だった。
一度は引き返そうとしたトリスだった。
だが、ミナリーの呟きが足を止めさせた。
「なんだか……今にも死んじゃいそうな人の匂いがするよ」
「まさか王様! じゃないよね?」
他に思い当たる人物などいない。
ミナリーは「あたしにわかる訳ないでしょ」と首を振る。
「そうだね、確かめてみよう」
覚悟を決めて扉を開けたが、中に人の気配はなかった。
罠も、鍵さえも掛かっていない。
ミナリーの嗅覚に導かれ、いくつもの空室を通り抜けた先に、その寝室はあった。
天蓋付きの寝台に横たわる男は、想像よりもずっと小さく、脆そうに見えた。
呼吸は浅く、音すらない。
ミナリーはトリスの目を見て深く頷く。
男の顔のそばへ飛び、掌をかざした。
その指の間から、わずかな水が一滴だけ零れ落ちる。
男の目が開き、こちらを見た。
「おお、やっぱり盗賊どのであったか。ワシも目が悪くなったのか、近頃、誰が誰だかわからんしの……」
トリスは、返すべき言葉が見つからなかった。
「魔物が蔓延るというのに、勇者殿はいつ来てくれるのだ? 彼女なら、何とかしてくれるはずなのに……」
彼女……?
言葉だけが、妙に遅れて耳に残る。
王の意識は混濁しているのだろうか。
「エリザ……さんのこと、ですか?」
問いかけに王は答えず。
「……勇者じゃ、とにかく盗賊殿、早くみんなを集めてくれ」
差し出された革袋は、拍子抜けするほど軽かった。
中身はほとんど空に近い。
「早く……平和な国を見たいものじゃ」
そのまま、王は再び深い眠りに落ちてしまった。
トリスは、すべてを理解することはできなかった。
「……あたし、魔王なんて大嫌い」
ミナリーが、苦々しく言う。
「だけど――あのエリザって言う勇者さんには、興味が湧いてきちゃったかも」
トリスの胸の奥が、ひやりとした。
それは、声に出すのを避けていた考えと、同じだったからだ。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる