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第二王子が“茶番を見て笑い転げていた”
しおりを挟む廊下に出た瞬間、肺の奥まで冷たい空気が入ってきた。
舞踏会の熱気と視線にさらされ続けていた肌が、ようやく風に触れる。
私は胸元に手を置いて、ひとつ深く、息を吐いた。
――終わった。
いや、正確には“始まった”のだろう。
あの場で私が告げたのは、逃げでも敗北でもない。
この人生を、自分の手で書き換えていくという、宣戦布告。
けれど、それでも。
身体の奥に、鉛のような疲労がじわりと広がっていくのを感じた。
魂が、静かに痺れている。
ひとりになりたかった。誰の声も、何も聞きたくなかった。
……なのに。
「──あーっはっはっはっはっ!!」
突如、あまりにも豪快で、場違いな笑い声が空気を割った。
その声に、思わず足を止める。
控えの間の奥。
厚いカーテンの陰で、まるで腹筋を壊す勢いで笑い転げている男がひとりいた。
「……なに……?」
呆気にとられて見ていると、彼はこちらに気づいたのか、ぴたりと笑いを収めた。
そして顔を上げ――口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「いや、ごめんごめん。タイミング的に最高すぎてさ、つい……」
そう言って立ち上がったその男は、くだけた雰囲気をまといながらも、ただ者ではない威圧感を漂わせていた。
整った顔立ち、けれど端正すぎず、どこか“演じること”を生業にしていそうな気配。
その笑い皺の奥には、退屈を楽しむ知性が光っていた。
「……第二王子、アルフォンス殿下。で、よろしかったですか?」
「うん、それ僕。間違いなく僕」
彼は悪びれもせずに頷いた。
「そして君は……そうだな、舞台の終盤に主役を食って登場する、真打ちタイプってとこかな」
「は?」
「いやあ、最高だったよ。あの流れ。
“王子と新聖女の涙の演出”ってやつ、あそこまで堂々と茶番だと、逆に芸術だったね」
彼はまた肩を揺らし、目元を拭いながら笑う。
その姿は、王族というより、気の利いた劇評家のようだった。
「“マリーさんのこと……悪く思ってないですぅ……”って泣きながら許すシーン。
あれ、学芸会の台本でも最近はやらないよ。あんなベタ、逆に貴重だよね」
私はただ、黙って彼の言葉を聞いていた。
挑発ではない。
けれど、彼の目には明らかに“観察者”の光があった。
この茶番のすべてを外から見ていた、ひとりの観客としての目。
「……でさ、マリー嬢。ちょっと聞いていい?」
声のトーンが、少しだけ落ちた。
彼は片手を口元に添えて、わざとらしく声をひそめた。
「“黒バラのお方”って、君でしょ?」
その言葉に、私は反応しなかった。
眉ひとつ動かさず、視線だけで答える。
彼は、私の無言を楽しんでいるようだった。
「いや、別に深い意味はないんだ。
ただね、昔読んだ本に出てきたんだよ。
“黒バラのお方”――どこまでも優雅で、美しくて。
でも、誰よりも冷静で、毒を忍ばせることも躊躇わない。
そういう人がいたなぁ、って思い出してさ」
彼はそう言って、首をかしげた。
「……黒バラって、手折ろうとすると、棘が刺さるんだよね。
だけど、遠目で見るには本当に美しい。
誰にも手折らせない。けれど、咲き誇る花」
沈黙が流れる。
その言葉に、私は心のどこかでわずかに引っかかりを覚えた。
でもそれは動揺ではない。
“理解された”という奇妙な感覚だった。
「……睨まれた。こわ。
でも、そういうところも含めて、君って、ほんとにいいキャラしてるよ」
彼は肩をすくめて、ひらりと軽く手を振る。
「王子より、ずっと見応えがある。
──ああいう“都合のいい物語”じゃ、君の役にはちょっと狭すぎる」
その言葉に、私はわずかに片眉を上げた。
「……あなたのほうがよっぽど“物語の外側”にいるみたいですね」
「でしょ?」
彼は、ニッと笑った。
「だから君がああやって、筋書きぶっ壊してくれたの、見てて最高だったんだよ」
そのまま、彼はふっと私の前をすり抜ける。
すれ違いざま、私の耳元でささやくように言った。
「じゃあ、またどこかで。
黒バラのお方――今度は、舞台じゃなくて、外で会おう」
その背中は、軽やかに去っていった。
そして私は、そこにただひとり立っていた。
ほんの少しだけ、心の奥が揺れていた。
あの視線。あの言葉。
“この国の中で、初めて私を物語の主人公として見た目だった”。
私の物語は、あの舞踏会で終わったのではない。
始まったのだ。
そしてその“観客”は、思いがけないところにいたのだ。
──黒バラは、踏みにじられるために咲いているわけじゃない。
いずれ、自らの意志で、誰にも手折られぬまま、咲き誇る。
それを見届ける者がいるなら、なおのこと。
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