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ケインの誕生日
夫と息子が、夕食を食べに来なくなった。
来ないというより、あっちに行ってしまったのである。
鍋がない。調味料がない。布巾がない。食器がない。全部アンナの家にある。どうやって作って、何で食べるというんだ。
うちの夫と息子が、こんなにアホだとは思わなかった。
仕方がないので、自分は王宮の食堂で食べることにした。
朝も、昼も、夜も。
栄養的には満たされている。温かいものが出てくる。文句を言う理由は、何もない。
ないのだが。
なぜか、戸惑う。
食堂の椅子に座るたびに、少しだけ、何かが引っかかる。うまく言葉にならない。ただ、静かすぎる気がする。誰かに「できたよ」と声をかける必要も、「おかわりは?」と聞く必要も、ない。
それが、戸惑う。
離婚を考えながら、スープを飲む。
そういえば、と思う。
私の料理は、まずかったのだろうか。
いや、違う。調味料がなければまずくなる。当たり前だ。私の腕の問題ではない。材料の問題だ。道具の問題だ。
そうだ。私は悪くない。
もう一度、スープを飲んだ。
少し、味が違う気がした。
その日、私は張り切っていた。
ケインの誕生日だった。
仕事の帰り市場に寄って、ケインの好きなものを選んで、ケーキも注文していたものを受け取って、両手に荷物を抱えて帰ってきた。
家族で過ごす。それだけを考えていた。
玄関を開けて、台所に食材を置いた。
着替えようと寝室に向かって、戻ってきたら。
ケーキが、なかった。
食材も、なかった。
夫も、息子も、いなかった。
しばらく、台所に立っていた。
さっきまで確かにここにあったものが、全部消えていた。
アンナのところに行ったのだと、すぐわかった。
絶望感が、静かに襲ってきた。
怒りより先に、それが来た。
誕生日を祝いたかった。ケインの好きなものを作って、ケーキを囲んで、それだけでよかった。彼の成長を祝いたかった。
その気持ちが、誰にも告げられないまま、どこかに持っていかれた。
あんまりだと思った。
あんまりだった。
今頃、三人で食卓囲んでいるだろう。
ケインが目を輝かせて、ろうそくの火を見ている。夫が隣で笑っている。アンナが優しい顔で歌っている。
ろうそくは、九本頼んでいた。
私が頼んだ、九本のろうそくで。
あーあ。
あんな息子、アンナにくれてやる。
夫も、息子も、もう、いらない。
とぼとぼと、王宮に帰った。
両手は空っぽだった。
張り切って市場を歩いたのが、ずっと遠い気がした。
王宮の食堂で、机に突っ伏した。
情けないとは思う。思うが、起きていられなかった。
ケーキを持っていかれた。食材も。
食糧庫を開けたら、あるはずのものがなかった。
誰かが来て、アンナが必要だからと持っていって、そのまま帰らなかった。
家がぐちゃぐちゃだ。
家というのは、住んでいる人それぞれのものだ。ジャンはそこがわかっていない。
ずっとわかっていなかった。
私のものと、家族のものと、
家のものの区別が、あの人の中では曖昧なままだった。
だから、こうなった。
涙は見せたくない。
でも、落ち込んでいる。隠しようがない。
ハロルドが向かいに座った。
突っ伏したまま、話した。ケーキのこと、食材のこと、鍋のこと、羽布団のこと、全部。声がくぐもっていたと思う。顔を上げなかった。
食堂なのに、静かだった。
妙に静かだった。
「……それは、ひどいな」
ハロルドが言った。
慰めの言葉は、うまくない人だ。でも、ひどいな、の一言で十分だった。
立ち直れない。さすがに、これは立ち直れない。
誰かが、机に何かをことりと置いた。
顔を上げなかったから、見えなかった。でも、みかんの匂いがした。
しばらくして、また、何かがまた、置かれた音がした。
また、置かれた。
また。
顔を上げたら、目の前の机の上にお菓子が山になっていた。
みかん、クッキー、ケーキ、飴、干し果物。こんもりと、積み上がっていた。
「……これ?お供え?」
「差し入れだ」
笑いながら、ハロルドが言った。
食堂を見回したら、文官が、庭師が、警備の人間が、知らない顔も混じって、みんなこちらを見ていた。目が合うと、そっと頷く人もいた。
「なんでーーー!」
大声で叫んでしまった!
ハロルドが、小刻みに震えていた。
ジュリアの家庭事情は、王宮で噂になっていた。
口さがない話が広まるのは早い。でも、王宮でのそれは少し違った。
怒りだった。
幼馴染とはいえ、他人だ。
なぜジュリアが我慢しなければいけない。なぜ、せっかく築いた家のものを、見知らぬ女に差し出さなければいけない。鍋も、調味料も、食器も、羽布団も。ジュリアが長い年月をかけて揃えたものを。
ジャンが良ければ、ジュリアはどうでもいいのか。
そういう怒りが、王宮の中で静かに広がっていた。
仲間意識が強いというより、これはジュリアが作った人脈だった。
長く王宮に仕えて、丁寧に仕事をして、誰に対しても誠実だった。文官も、庭師も、警備の人間も、王太子妃様でさえ、ジュリアのことを知っていた。
ジュリア自身は、そんなつもりはなかっただろう。
ただ、毎日仕事をしていただけだ。
でも、人というのは、そういうものを、ちゃんと見ている。
みかんを置いたのは、誰だったのか。
最初の一個が、全部を動かした。
来ないというより、あっちに行ってしまったのである。
鍋がない。調味料がない。布巾がない。食器がない。全部アンナの家にある。どうやって作って、何で食べるというんだ。
うちの夫と息子が、こんなにアホだとは思わなかった。
仕方がないので、自分は王宮の食堂で食べることにした。
朝も、昼も、夜も。
栄養的には満たされている。温かいものが出てくる。文句を言う理由は、何もない。
ないのだが。
なぜか、戸惑う。
食堂の椅子に座るたびに、少しだけ、何かが引っかかる。うまく言葉にならない。ただ、静かすぎる気がする。誰かに「できたよ」と声をかける必要も、「おかわりは?」と聞く必要も、ない。
それが、戸惑う。
離婚を考えながら、スープを飲む。
そういえば、と思う。
私の料理は、まずかったのだろうか。
いや、違う。調味料がなければまずくなる。当たり前だ。私の腕の問題ではない。材料の問題だ。道具の問題だ。
そうだ。私は悪くない。
もう一度、スープを飲んだ。
少し、味が違う気がした。
その日、私は張り切っていた。
ケインの誕生日だった。
仕事の帰り市場に寄って、ケインの好きなものを選んで、ケーキも注文していたものを受け取って、両手に荷物を抱えて帰ってきた。
家族で過ごす。それだけを考えていた。
玄関を開けて、台所に食材を置いた。
着替えようと寝室に向かって、戻ってきたら。
ケーキが、なかった。
食材も、なかった。
夫も、息子も、いなかった。
しばらく、台所に立っていた。
さっきまで確かにここにあったものが、全部消えていた。
アンナのところに行ったのだと、すぐわかった。
絶望感が、静かに襲ってきた。
怒りより先に、それが来た。
誕生日を祝いたかった。ケインの好きなものを作って、ケーキを囲んで、それだけでよかった。彼の成長を祝いたかった。
その気持ちが、誰にも告げられないまま、どこかに持っていかれた。
あんまりだと思った。
あんまりだった。
今頃、三人で食卓囲んでいるだろう。
ケインが目を輝かせて、ろうそくの火を見ている。夫が隣で笑っている。アンナが優しい顔で歌っている。
ろうそくは、九本頼んでいた。
私が頼んだ、九本のろうそくで。
あーあ。
あんな息子、アンナにくれてやる。
夫も、息子も、もう、いらない。
とぼとぼと、王宮に帰った。
両手は空っぽだった。
張り切って市場を歩いたのが、ずっと遠い気がした。
王宮の食堂で、机に突っ伏した。
情けないとは思う。思うが、起きていられなかった。
ケーキを持っていかれた。食材も。
食糧庫を開けたら、あるはずのものがなかった。
誰かが来て、アンナが必要だからと持っていって、そのまま帰らなかった。
家がぐちゃぐちゃだ。
家というのは、住んでいる人それぞれのものだ。ジャンはそこがわかっていない。
ずっとわかっていなかった。
私のものと、家族のものと、
家のものの区別が、あの人の中では曖昧なままだった。
だから、こうなった。
涙は見せたくない。
でも、落ち込んでいる。隠しようがない。
ハロルドが向かいに座った。
突っ伏したまま、話した。ケーキのこと、食材のこと、鍋のこと、羽布団のこと、全部。声がくぐもっていたと思う。顔を上げなかった。
食堂なのに、静かだった。
妙に静かだった。
「……それは、ひどいな」
ハロルドが言った。
慰めの言葉は、うまくない人だ。でも、ひどいな、の一言で十分だった。
立ち直れない。さすがに、これは立ち直れない。
誰かが、机に何かをことりと置いた。
顔を上げなかったから、見えなかった。でも、みかんの匂いがした。
しばらくして、また、何かがまた、置かれた音がした。
また、置かれた。
また。
顔を上げたら、目の前の机の上にお菓子が山になっていた。
みかん、クッキー、ケーキ、飴、干し果物。こんもりと、積み上がっていた。
「……これ?お供え?」
「差し入れだ」
笑いながら、ハロルドが言った。
食堂を見回したら、文官が、庭師が、警備の人間が、知らない顔も混じって、みんなこちらを見ていた。目が合うと、そっと頷く人もいた。
「なんでーーー!」
大声で叫んでしまった!
ハロルドが、小刻みに震えていた。
ジュリアの家庭事情は、王宮で噂になっていた。
口さがない話が広まるのは早い。でも、王宮でのそれは少し違った。
怒りだった。
幼馴染とはいえ、他人だ。
なぜジュリアが我慢しなければいけない。なぜ、せっかく築いた家のものを、見知らぬ女に差し出さなければいけない。鍋も、調味料も、食器も、羽布団も。ジュリアが長い年月をかけて揃えたものを。
ジャンが良ければ、ジュリアはどうでもいいのか。
そういう怒りが、王宮の中で静かに広がっていた。
仲間意識が強いというより、これはジュリアが作った人脈だった。
長く王宮に仕えて、丁寧に仕事をして、誰に対しても誠実だった。文官も、庭師も、警備の人間も、王太子妃様でさえ、ジュリアのことを知っていた。
ジュリア自身は、そんなつもりはなかっただろう。
ただ、毎日仕事をしていただけだ。
でも、人というのは、そういうものを、ちゃんと見ている。
みかんを置いたのは、誰だったのか。
最初の一個が、全部を動かした。
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