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3章 命の猶予

32 男になんて興味ないから

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 ともの発言に尻込みして、咲が一歩二歩と足を後ろへ滑らせると、あっという間に背中が壁にぶつかった。
 何か言いたげな顔がせまって来て、咲は逃げることも反撃することもできずにきゅうっと唇を噛む。

 顔一つ分背の高い智が、咲の顔に影を落とした。

「と、とも、いや、アッシュ……久しぶりだね」

 観念かんねんして声を震わせると、智の左手がまっすぐに伸びてきて、咲の顔のすぐ横を軽く叩いた。

 「きゃあ」という黄色い悲鳴がホームから聞こえたのは、この状況が俗にいう『壁ドン』のシチュエーションだからだろう。
 そんな甘い空気など、当人にしてみれば微塵みじんも感じられないけれど。

「お、お前みさぎに告ったんだろ? 私とこんなことしてちゃマズいんじゃないのか?」
「別にお前と気まずいようなことする予定ないし。それとも、するつもりだった?」

 智の笑顔が怖い。こんな状況、り一発で打破だはする自信はあるけれど、今は心情的にも分が悪い。

「いや、絶対ないから」
「なら心配いらないでしょ。けどやっぱりみさぎちゃんはリーナだったんだね」
「…………」
「ここまでバレて黙るつもり?」
「上から物を言うような奴に、教えてやるかよ」
「まぁそうだね。中身がいくら男だって、他人から見たら可愛い咲ちゃんを俺がおどしてるみたいに見えるもんね」
「いや、十分脅してるだろ」

 少し気持ちに余裕ができて、咲は智をにらみ返した。
 「分かったよ」と智の手が壁を離れて、ホッと胸をで下ろす。

「じゃあ、そこの店に行こうか。のど乾いたし」

 そう言って智が指差したのは、あやの居る田中商店だ。他の選択肢がないからそうなってしまうのは仕方ないけれど、絢がいるのが逆に心配だ。
 絢の正体にまで智が気付いているとは思えないけれど。

 咲は「分かった」と答えて、言われるままに智の後を追い掛けた。

   ☆
 店に入った時、ちょうど買い物を済ませた近所のおばあさんとすれ違った。
 客は彼女だけだったようで、中に居た絢が「いらっしゃいませ」と声を掛けてくる。

「あら、珍しい組み合わせね」

 開口一番そんなことを言う彼女の今日のスタイルは、Tシャツにタイトなミニスカートだ。それだけだといつもより大人しめだが、何故か髪はツインテールで網タイツにピンヒールのサンダル、とおかしなことになっている。

「デートじゃないですよ」

 智はそう説明してメロンソーダを二つ注文すると、奥の席へ移動した。
 彼が向こうを向いている間に、咲は絢へ『バレた』と無音で口を動かす。その状況はすぐに伝わって、絢は『ええっ?』とこれまた表情だけで驚愕きょうがくを現した。

 『どうしよう』と女二人で動揺し合うが、智が席に着くのと同時にスッと冷めたように真顔を作る。平常心を装うのに必死だ。

「で、さっきの質問だけど。みさぎちゃんはリーナなんだね?」
「あぁ、そうだよ。記憶は戻ってないけどな。戦わせたくないならそっとしておいてくれ」
「やっぱりそういうことか」

 咲はうなずく。智には話せることと話せないことがあるが、リーナが二人を追って来たというのは事実だ。
 十月一日にお前が死ぬのだとは口が裂けても言えないけれど、智を納得させるのは『追って来た』というだけで十分だった。

 カツカツとヒールを鳴らして、絢がお盆にのせたメロンソーダを運んでくる。

「ご注文の品は、以上になりまぁす」

 絢は空の盆を両手で胸の前に持って、やたらと可愛いポーズを見せてくる。昨晩のメイドごっこが抜けきっていないのかもしれない。

「ありがとうございます」

 智はアラサーメイドに惑わされることなく自分のグラスを手に取ると、よほど喉が渇いていたのか一気に半分以上を飲み干してしまった。
 絢がカウンターの向こうに戻って行ったのを確認して、智は話を続ける。

「そして、お前はリーナを追って来たのか」
「まぁな」

 大正解だ。間違っていない。

「みさぎちゃんちに泊まりに行くって言ってたけど、向こうのお兄さんに対抗意識燃やしてるの?」
「ぐふぅ」

 メロンソーダを口に含んだところで、咲は思わず吹き出しそうになった。
 アッシュとの兵学校時代は長い。寄宿舎に居た一年は部屋も同じで、お互いの事なんかほとんど知り尽くしていた。それを思うと、この一週間バレなかっただけでも長すぎるくらいだと思う。

「アイツを守るのは小さい頃からの僕の使命なんだ。その役目を他の奴に譲りたくない。とりあえず、どんな奴か見てくるよ」
「湊がお前とはタイプが違うって言ってたもんね。まぁ、今は女友達って立場なんだから、ほどほどにしときなよ。けど何で男じゃないの? ルーシャが間違った?」

 ドン、とキッチンの方で何かを打ち付ける様な音がした。こっちの話は筒抜けらしい。
 入って来た時ついていたはずのラジオが消えている。

「ん? 奥で何かあった?」
「本でも落としたんだろ。この身体は、僕がこうしてくれってルーシャに頼んだんだよ。まぁ、色々思う事があってな」

 注意をこっちにそらすと、智は「そうなんだ」と相槌あいづちを打つ。

「けど、やっぱりリーナは来ちゃったんだね。そうなるのかなっては、ちょっとだけ思ってた」
「嬉しいか? お前は……嬉しくないか?」
「どうだろう。こんなこと考えちゃダメなのは分かってるけど、少しだけホッとしてる」
「智……」

 けれど智はすぐに「いや」と否定して、空になったグラスをテーブルに置いた。

「リーナはもうウィザードじゃあないんだもんな。あてになんかしちゃ駄目だよね」
「そう、だな」

 智の中に潜むハロンへ対する恐怖を垣間見て、咲は後ろめたい気持ちでいっぱいになった。

「この間湊に、みさぎちゃんはリーナに似てないかって言ったら、アイツは信じなかったよ」
「アイツは昔から頭硬いからな。けど、湊には言うなよ?」

 「分かったよ」とうなずく智。

 魔法使いはかんがいいと昨日絢が言っていた。

「お前は、みさぎがリーナだって気付いたから告白したのか?」
「まぁね、直感ってやつ? もし間違っててもみさぎちゃん可愛いし」
「相変わらず調子のいいやつだな。けどアイツは……」
「分かってるよ。本当にリーナだったら諦めようとも思ったけど、きちんと返事貰うまではいいかな。だってさ、諦めきれないじゃん?」

 結局答えを出さなかったけれど、リーナはずっとアッシュではなくラルが好きだった。二人を知る人ならみんな知っている。

「俺は、ヒルスお前にまた会えたのも嬉しかったよ」
「智……」

 息が詰まりそうになった。

「僕も……」

 そう答えた口が真実を口走りそうになる。
 お前はもうすぐ死ぬのだと。自分はどうすればいいのかと。
 聞きたくて、話したくてたまらなくなる。

 けれど、すぐそこに絢がいた。
 何も考えず衝動的に告げたら、きっと後悔する。解決策などゼロに近い最悪の現実を突き付けて、精神的に地獄へ落とすことなんてできない。
 だから、出しかけた言葉を飲み込んで、咲は笑顔を取りつくろった。

「僕も、アッシュに会えて良かったよ」
「そういえば、この間もそんなセリフ言ってたな」

 何も知らない智は、屈託くったくのない笑顔を見せた。


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