神事舞

M712

文字の大きさ
17 / 25
第三部 土の声

第四章 記述の死

しおりを挟む
──三度哲夫・現地記録

止栄町に来て十五日目。
この町の空気は、もう私の体に染みついてしまったようだ。
朝の光はどこまでも灰色で、昼になっても濃度を変えない。
夜になると、風が山から降りてきて海へ抜ける。
そのたびに家々の屋根が鳴り、犬が一斉に吠える。
住民にとっては、ただの「日常の音」らしい。
だが私には、それが祈りの残響のように聞こえる。

今日は、海宮家の分家が寄贈したという資料の整理を手伝うことになった。
文化館の一角──旧図書室の奥にある段ボール群。
そこに、「舞譜」と墨書された和綴じの冊子があった。
見目が箱を開けながら言う。
「これ、危ないですよ。崩れかけてるんで」
彼女の声がほこりの中に溶けていく。
紙の縁が湿気で波打ち、糸綴じがほどけかけていた。

机に広げると、墨線がまだ黒々としていた。
しかしその線は、文字ではない。
まるで楽譜のように、細い筆致が流線を描いている。
等間隔の印があり、その下に小さく「左」「右」「止」「回」と書かれている。
踊りの所作を図式化したものだとすぐに分かった。
だが、ある頁から、筆線が変質する。
線がひとりでに震え、微細な波を打っていた。
まるで、書き手の手が震えていたのではなく、筆そのものが動いていたかのように。

私は慎重にルーペをあてた。
墨の濃淡が呼吸のように反復している。
一筆ごとに「濃・淡・濃・淡」と波をつくり、紙の繊維に吸い込まれていく。
そこだけが“生きて”いた。

1 舞譜の異物

注記には「明治十一年/海宮ミヨ筆」とある。
女性の名だ。
先代の舞手だろうか。
彼女が書き残したこの舞譜は、すでに「舞」ではなく「記述」に変わっている。
動きが言葉になり、祈りが形になる。
それ自体は文化人類学的には自然な変化だ。
しかし、私はこの舞譜に“異物”を感じた。

線が生きている。
記録が記録であることを拒んでいるようだった。
私はノートを取り出し、その曲線を模写した。
一筆目、二筆目……筆圧を真似し、呼吸を合わせる。
すると、奇妙なことに、筆先の動きが自動的になっていく。
私の意思よりも早く、手が走る。
書いているのに、書かされている。

ペンの音が止まったとき、頁の上には舞譜とほぼ同じ線が現れていた。
まるで写しではなく、転写。
“記録”ではなく“継承”。
筆跡が変質する瞬間を、自分の手で感じた。

《フィールドノート》
・筆線の震えは、手の震えではなく呼吸周期と一致。
・模写中、無意識に息を止める。
・描写行為が自律化し、書記者の主観を逸脱。
・これは“記録”ではなく“反復儀礼”である可能性。

2 線の呼吸

昼過ぎ、見目がコーヒーを持ってきた。
「先生、ずっと書いてますね」
「これは……文字ではないんです。舞の呼吸の図なんです」
「へえ、なんか呪文みたい」
彼女はそれだけ言って去った。
机の上には、模写した線が十数枚並んでいる。
どの線も微妙に違い、だが全体として一つの呼吸をしているように見える。
視線を落とすたび、紙の上の墨がかすかに脈動した。

私は無意識に手首を押さえた。
脈の速さが、線のリズムと同期している。
「記述は、生きている」──そんな言葉が脳裏をよぎる。
私はその瞬間、背筋に寒気を覚えた。
学問としての距離が、少しずつ失われていく。

3 文字という呪具

夜、宿で舞譜の分析を続けた。
照明の下で線を拡大撮影し、デジタル化した。
ところが、画面上で見ると、線はただのデータになってしまう。
呼吸も温度も消えた。
そこに残るのは、無機質な波形だけ。
私は溜息をついた。

——書けば書くほど、意味は遠ざかる。
——解釈すればするほど、信仰は死んでいく。

私はノートの端に、こう書いた。

「記録行為は、信仰の剥製化である」

書きながら、自分が何をしているのか分からなくなっていった。
再現という名の模倣。
分析という名の分解。
祈りを対象化した瞬間、祈りは“死体”になる。
それでも私は筆を止められなかった。
線の意味を追うことが、私自身の“祈り”になっていたのかもしれない。

4 終章の記録

夜明け前、ノートを閉じた。
窓の外では、山が霧を吐いている。
遠くで鶏が鳴いた。
世界が少しずつ光を取り戻していくのに、胸の奥は重かった。
机の上の紙を一枚めくる。
最後の頁に、無意識のうちに書いた線が残っていた。
それは、舞譜とも異なり、どこか文字に近かった。
一筆で「死」の字の半分を描き、残りを途中でやめたような形。
そこに意味を見つけようとする自分が嫌だった。

《記録》
・舞譜は“行為の化石”。
・模写によって行為が再構成される。
・再構成は信仰を再現するが、同時に殺す。
・記述は、信仰の死後に残る唯一の形態。

私は最後に、静かにこう記した。

記録とは、祈りの死を保存する技術である。
そして私は、今日もそれを続けている。

ペンを置いたとき、外では風が止まっていた。
止栄の空気が、わずかに湿りを増している。
私はその匂いを嗅ぎながら、目を閉じた。
音もなく、祈りの形が崩れていく音を、心の中で聞いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/18:『いるみねーしょん』の章を追加。2025/12/25の朝4時頃より公開開始予定。 ※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

(ほぼ)5分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ5分で読める怖い話。 フィクションから実話まで。

処理中です...