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第三部 土の声
第三章 空気の位相
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──三度哲夫・現地記録
止栄町に滞在して十日目。
朝から雨が降り続いていた。窓の外は灰を溶かしたような光で、遠くの海も山も輪郭を失っている。
昨夜はあまり眠れなかった。耳の奥に、あの神事舞の拍子が残響のようにこびりついて離れない。
あの「間」をどうにか記述できないかと考えながら、ノートを開いたとき、机の上の紙箱に気づいた。
ラベルには、手書きでこうあった。
「止栄神事舞・練/1979 録音:海宮康次」
文化館の管理担当の見目に聞くと、「個人の寄贈品らしいです。中身、たぶん聴けますよ」と軽く答えた。
古いカセットテープ。透明ケースの中で、磁気テープが少し波打っている。
私は文化館の奥にある再生機を借り、録音内容を確かめることにした。
1 記録の音
再生ボタンを押すと、まず耳に入ったのは“空気”だった。
音楽ではない。
どこかで木が軋むような低い響き、何かを擦る音、そして遠くの海鳴り。
やがて、かすかな拍が現れる。
三拍子のようで、四拍子にも聞こえる。
その不確かなリズムの上に、女性の衣擦れと息の音が乗っている。
それが舞の練習の音であると気づくのに、数十秒かかった。
「……あれを録ってたのか」
思わず呟いた。
舞の記録は原則として禁じられていたはずだ。
この録音者、海宮康次は誰なのか。帳面によれば、当時の海宮家の分家筋にあたる人物らしい。
彼は神職ではなかった。むしろ、「舞の意味を疑っていた」と傍注にあった。
だとすれば、彼がこの録音を残したのは“保存”ではなく、“確認”のためだったのかもしれない。
2 波形解析
宿に戻り、ノートパソコンにデータを取り込んだ。
波形解析ソフトで音を視覚化する。
スペクトログラム上に、一定間隔の縞模様が現れた。
人間の声の周波数帯ではなく、空気の圧の揺らぎに近い。
鼓膜ではなく、体で感じる音だ。
一拍ごとに微妙な気圧変動がある。
その位相を拡大すると、周期的な呼吸パターンに似た波形が浮かび上がった。
——舞手が息を合わせているのではない。
空間そのものが呼吸している。
このとき、私は奇妙な錯覚を覚えた。
音が流れているのではなく、“空気がそこに戻ってきている”ような感覚。
過去の音が再生されるのではなく、録音された当時の“場”そのものが蘇っている。
フィールドノートにこう記した。
《観察》
・舞の呼吸単位が環境音に同期している。
・風、波、衣擦れが一体化して拍を形成。
・祈りが「声」ではなく「空気の位相」として刻まれている可能性。
・この録音は、“行為の痕跡”というより、“場の再生”である。
私は再生を止め、しばらく沈黙した。
雨がやんでいた。
だが耳の奥には、まだ湿った空気の音が残っている。
3 聞き取り
翌日、録音者・海宮康次の妻に会うため、町外れの集落を訪れた。
八十を超える老女だったが、受け答えははっきりしていた。
「主人が録ったのは、あれ一度きりです」
「どうして録音を?」
「本人は“確かめたかった”って言ってました。なんのことかは分かりませんが」
「再生したことは?」
「ないです。主人は“録れたら終わりや”って言ってました」
終わり。
その言葉の響きが妙に引っかかった。
録ることで終わる。
つまり記録が完成した瞬間、祈りは目的を失う。
それは信仰を閉じる行為だ。
老女はさらに続けた。
「その年の秋に、主人は倒れました。舞の夜から二日後です」
死因は脳出血だったという。
偶然の一致にしても、奇妙な符合だ。
だが、私は記録者であって祈祷師ではない。
この線引きを忘れてはいけない。
4 空気という記憶
宿に戻り、夜更けに再びテープを再生した。
今度はヘッドフォンを使わず、部屋のスピーカーから小さく流す。
音が空気に混じると、まるでその部屋が“息づく”ように感じられる。
記録された空気が、現在の空気を振動させている。
過去と現在の境界が、薄膜のように撓む。
ある瞬間、拍がふっと途切れた。
沈黙。
無音ではない。
空気が「止まった」。
その一瞬、外の風さえも動きを止めたように思えた。
私は息を詰め、再生を止めた。
《記録》
・無音部分の気圧変動、平均0.4hPa上昇。
・人為的操作ではなく、場の圧力変化。
・“祈りの完結”を示す可能性。
・録音者死亡の時期と一致。
祈りとは、音を発することではなく、空気を変えることなのかもしれない。
そう思うと、私は少しだけ震えた。
誰かが祈るたび、世界の空気がわずかに変化し、それが別の人の呼吸に入り込む。
信仰とは、空気の連鎖なのだ。
5 結び
夜が更けた。
窓の外で波の音が細く響いている。
音の高さは潮の満ち引きで変わるが、今日はやけに低い。
まるで誰かが遠くで笛を吹いているようだ。
私は録音機を止め、最後の一行をノートに書いた。
最終的に、注を読むこと自体が祈りに似ている。
私が音を聴くたび、あの場が再び息をする。
祈りは誰のものでもなく、空気そのものに宿る。
筆を置いたとき、ふと気づいた。
部屋の空気が、少しだけ重くなっていた。
それが湿度のせいなのか、記録のせいなのか、私にはもう判断がつかなかった。
止栄町に滞在して十日目。
朝から雨が降り続いていた。窓の外は灰を溶かしたような光で、遠くの海も山も輪郭を失っている。
昨夜はあまり眠れなかった。耳の奥に、あの神事舞の拍子が残響のようにこびりついて離れない。
あの「間」をどうにか記述できないかと考えながら、ノートを開いたとき、机の上の紙箱に気づいた。
ラベルには、手書きでこうあった。
「止栄神事舞・練/1979 録音:海宮康次」
文化館の管理担当の見目に聞くと、「個人の寄贈品らしいです。中身、たぶん聴けますよ」と軽く答えた。
古いカセットテープ。透明ケースの中で、磁気テープが少し波打っている。
私は文化館の奥にある再生機を借り、録音内容を確かめることにした。
1 記録の音
再生ボタンを押すと、まず耳に入ったのは“空気”だった。
音楽ではない。
どこかで木が軋むような低い響き、何かを擦る音、そして遠くの海鳴り。
やがて、かすかな拍が現れる。
三拍子のようで、四拍子にも聞こえる。
その不確かなリズムの上に、女性の衣擦れと息の音が乗っている。
それが舞の練習の音であると気づくのに、数十秒かかった。
「……あれを録ってたのか」
思わず呟いた。
舞の記録は原則として禁じられていたはずだ。
この録音者、海宮康次は誰なのか。帳面によれば、当時の海宮家の分家筋にあたる人物らしい。
彼は神職ではなかった。むしろ、「舞の意味を疑っていた」と傍注にあった。
だとすれば、彼がこの録音を残したのは“保存”ではなく、“確認”のためだったのかもしれない。
2 波形解析
宿に戻り、ノートパソコンにデータを取り込んだ。
波形解析ソフトで音を視覚化する。
スペクトログラム上に、一定間隔の縞模様が現れた。
人間の声の周波数帯ではなく、空気の圧の揺らぎに近い。
鼓膜ではなく、体で感じる音だ。
一拍ごとに微妙な気圧変動がある。
その位相を拡大すると、周期的な呼吸パターンに似た波形が浮かび上がった。
——舞手が息を合わせているのではない。
空間そのものが呼吸している。
このとき、私は奇妙な錯覚を覚えた。
音が流れているのではなく、“空気がそこに戻ってきている”ような感覚。
過去の音が再生されるのではなく、録音された当時の“場”そのものが蘇っている。
フィールドノートにこう記した。
《観察》
・舞の呼吸単位が環境音に同期している。
・風、波、衣擦れが一体化して拍を形成。
・祈りが「声」ではなく「空気の位相」として刻まれている可能性。
・この録音は、“行為の痕跡”というより、“場の再生”である。
私は再生を止め、しばらく沈黙した。
雨がやんでいた。
だが耳の奥には、まだ湿った空気の音が残っている。
3 聞き取り
翌日、録音者・海宮康次の妻に会うため、町外れの集落を訪れた。
八十を超える老女だったが、受け答えははっきりしていた。
「主人が録ったのは、あれ一度きりです」
「どうして録音を?」
「本人は“確かめたかった”って言ってました。なんのことかは分かりませんが」
「再生したことは?」
「ないです。主人は“録れたら終わりや”って言ってました」
終わり。
その言葉の響きが妙に引っかかった。
録ることで終わる。
つまり記録が完成した瞬間、祈りは目的を失う。
それは信仰を閉じる行為だ。
老女はさらに続けた。
「その年の秋に、主人は倒れました。舞の夜から二日後です」
死因は脳出血だったという。
偶然の一致にしても、奇妙な符合だ。
だが、私は記録者であって祈祷師ではない。
この線引きを忘れてはいけない。
4 空気という記憶
宿に戻り、夜更けに再びテープを再生した。
今度はヘッドフォンを使わず、部屋のスピーカーから小さく流す。
音が空気に混じると、まるでその部屋が“息づく”ように感じられる。
記録された空気が、現在の空気を振動させている。
過去と現在の境界が、薄膜のように撓む。
ある瞬間、拍がふっと途切れた。
沈黙。
無音ではない。
空気が「止まった」。
その一瞬、外の風さえも動きを止めたように思えた。
私は息を詰め、再生を止めた。
《記録》
・無音部分の気圧変動、平均0.4hPa上昇。
・人為的操作ではなく、場の圧力変化。
・“祈りの完結”を示す可能性。
・録音者死亡の時期と一致。
祈りとは、音を発することではなく、空気を変えることなのかもしれない。
そう思うと、私は少しだけ震えた。
誰かが祈るたび、世界の空気がわずかに変化し、それが別の人の呼吸に入り込む。
信仰とは、空気の連鎖なのだ。
5 結び
夜が更けた。
窓の外で波の音が細く響いている。
音の高さは潮の満ち引きで変わるが、今日はやけに低い。
まるで誰かが遠くで笛を吹いているようだ。
私は録音機を止め、最後の一行をノートに書いた。
最終的に、注を読むこと自体が祈りに似ている。
私が音を聴くたび、あの場が再び息をする。
祈りは誰のものでもなく、空気そのものに宿る。
筆を置いたとき、ふと気づいた。
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それが湿度のせいなのか、記録のせいなのか、私にはもう判断がつかなかった。
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