神事舞

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第三部 土の声

第二章 注の連鎖

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午前。
 報告書の版面を整えるため、私は脚注の番号をゼロから振り直していた。
 本文の末尾に「[1]」と打ち、脚注欄に対応する注を貼り付ける。
 「[2]」「[3]」……単純な作業だ。
 しかし、十個ほど進めたところで、番号の順序が微かにずれているのに気づいた。
 本文の「[6]」が、脚注欄では「[7]」の説明と結びついている。
 自分の操作ミスだろう。
 念のため手動でリンクを切り、再設定する。
 うまくいかない。
 カーソルを置き、参照ダイアログのチェックを外し、再びつける。
 その瞬間、脚注欄全体の番号が静かに並び替えられ、配置が変わった。

《作業ログ/2025-06-07 朝》
・エディタ:汎用ワープロ。自動脚注機能オン。
・操作:脚注リンク再設定→全体が再配列。
・症状:本文側の番号は固定のまま、脚注欄のみ語義近接で再配置。
・再現性:中程度(保存→再起動後も発生)。

 語義近接。
 そう書いたのは、再配列された脚注の並びが意味で寄り集まっているように見えたからだ。
 「願ひ」「返す」「沈む」「渡す」——蔵の原本で見た語が、番号をまたいで互いの隣へ寄っている。
 偶然にしては、整いすぎている。
 私は一度、番号そのものを外して注をプレーンテキストへ落とし、段落記号で区切って見出しを付け直した。
 それでも、保存して戻ると、注の塊は同じ群を作っている。
 機能の不具合か、私の目の錯覚か。
 どちらでも、作業は進む。
 私は深呼吸を三度繰り返し、現象を記述する側へ立ち直す。

《注の内容(抜粋)》
[a]「願ひ返す」:近世説話に見られる〈願いの返納〉。受けた恩/許を下へ戻す観念。
[b]「沈むほどに豊けく」:土葬域の土壌肥沃化に関する民間語彙。死=肥やしの観念。
[c]「神に渡す」:「渡し」の語は移譲/移送の両義。川・境界・媒介の比喩。
[d]「目のあらぬところ」:視線の不在を条件とする行為。観者の遮蔽=儀礼の成立。

 注の四つが、番号の論理ではなく語の構造で並ぶ。
 語が順を作り、順が息を作る。
 息の順序は、あの舞で見た間と似ている。
 ——願ひを返す/沈むほどに豊けく/神に渡す。
 私は画面を閉じ、紙の束(前刷り)へ視線を移した。
 紙の上の脚注番号は崩れず、きちんと下に対応している。
 つまり、紙は順を守り、画面は構造を優先する。
 両者のあいだに、僅かなズレが生まれた。

《観察メモ》
・紙=固定。番号の秩序。
・画面=可塑。意味の連結。
・ズレ=読者(=私)の頭の中で補われる。
→ “読む”とは、欠落を埋める祈りに近い。

 午後。
 私は脚注番号をローマ数字に置換することにした。
 順序が視覚的に際立ち、機械的な再配列が起きても、目で追いやすい。
 置換後、念のため順を声に出して読む。
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ——問題ない。
 本文を一章分スクロールし、脚注欄に戻る。
 そこで、違和に気づいた。
 ローマ数字の姿が、扇の骨に見える。
 とくにⅤやⅥの左の開き。
 扇は閉じても骨の間が残る。
 骨の間を、言葉が抜ける。
 私は苦笑し、声に出して再び読む。
 Ⅰ(願ひ)、Ⅱ(返す)、Ⅲ(沈む)、Ⅳ(渡す)——
 読むうちに、指先が机の上で拍を刻んだ。
 「読む」行為の最中に、舞が二指の間に帰ってくる。

《自己観察》
・読下しのとき:拍(tap)が入る。
・拍は文節の切れ目。
・切れ目は「願ひ|返す|沈む|渡す」の位置と一致。
→ 脚注を読む=小舞の基礎。身体の側で再生。

 メールの通知音。
 差出人は記号だけで名乗らない。
 添付のPDFが一つ。
 開くと、整然と番号と見出しが並び、その背後に淡いグレーの参照グリッド。
 文体は冷たく、測定値と判断と短い命令文が交互に現れる。
 末尾の欄外注に、ひとつだけ黒塗りがない箇所があった。
 小さな文字で、こう書かれている。

注:番号の整列は作業者の意図によらず、参照方向によって変位しうる。
その場合、番号を信用しないこと。

 私は画面から目を離し、机上の紙束に視線を戻した。
 番号を信用しない。
 番号を疑い、語の向きを見る。
 “向き”は、読み手の視線が決める。
 視線の向きを変えるたび、脚注は別の順で読めてしまう。
 私は紙面の下端を持ち、右から左へ、左から右へ、そして上下に追いをかけた。
 順は意味に従って自ずと変形し、祈りの並びをとる。

《読順試験》
(右→左):「渡す→沈む→返す→願ひ」=遡行(海→土→手→心)
(左→右):「願ひ→返す→沈む→渡す」=流下(心→手→土→海)
(上下) :本文→注→本文→注=応答(呼気→吸気)

 ふと、止栄での子どもの言葉を思い出した。
 ——海はしゃべる。沈んだ人の声だと思う。
 彼の言葉は番号ではなく、順路だった。
 順路は声のための道であり、祈りのための動線だ。
 脚注の連結は、その動線を紙の上に作ってしまう。
 私はペンで紙面に細い矢印を引き、互いに参照している注同士を結んだ。
 矢印が増えるほど、紙面は神楽殿の梁に似てくる。
 梁と梁の交点が暗く、そこに“間”の影が沈む。

《図版メモ》
・脚注間リンク=梁。
・梁の交点=間の影(無音域)。
・読者の視線=舞手。
→ 読者が線を辿るほど、舞いは成立する。

 夕刻、窓の光が薄くなった。
 照度を落とすと、紙面の黒は深くなる。
 黒が深いと、白は濁る。
 どんよりとした光の下では、紙の余白が呼吸し、注の語が前景化する。
 私は試しに、注のタイトルを声に出して順に読んだ。
 ——願ひ。返す。沈む。渡す。目のあらぬところ。
 声に出すと、語と語のあいだに無音が生まれる。
 その無音が、息と一致する。
 息が、読まれる。
 読まれた息が、祈りに似てくる。

《読誦(どくじゅ)メモ》
・声に出したとき:
 呼(のどの開き)=「願ひ」
 守(舌の収束) =「返す」
 沈(胸の落下) =「沈む」
 渡(口唇の前進)=「渡す」
・無音の位置と胸郭の運動が一致。
→ 読む=呼吸の祭式。

 集中が切れたのか、在席通知が手元の画面に光った。
 差出人は見目|《みめ》。
 短いテキストが一行だけ。

注は連鎖します。必要なら、切ってください。

 「切る」。
 彼女はいつも、力の側の語を使う。
 連鎖を切るとは、リンクを外すことではない。
 読順を断つことだ。
 読むのをやめる。
 目を閉じる。
 あるいは、頁を閉じる。
 私は数秒だけ目を閉じ、呼吸だけに意識を落とした。
 吸う。吐く。
 紙は、そこで静かに物体へ戻る。
 再び目を開き、注の列を追うと、連鎖は——まだそこにある。
 連鎖は、私の読む意志が作っている。
 私は読もうとし、紙は祈りの順序を受け取る。

《結論(暫定)》
・脚注の番号は見かけの秩序。
・語の近接と読順の選択が構造を生む。
・構造は、読む者の呼吸を通じて祈りに似る。
→ 「注を読む」ことは、祈りの模倣である。

 夜。
 版面を確定させる前に、もう一度だけ蔵の断片を読み返した。
 > 願ひを返すもの、沈むほどに豊けく、渡すは身なり。
 語尾の「なり」を、私はずっと断定だと読んできた。
 しかし、脚注の連鎖を経由すると、「なり」は結びに近くなる。
 語が輪になって戻る結び。
 輪は扇であり、梁であり、注の参照線だ。
 私は紙の下端に鉛筆で小さな円を描き、そこに極細の矢印を一つだけ入れた。
 円の中に矢印があると、動きが祈りになる。
 動きが外へ出ない。
 外へ出なければ、誰も傷つけない。
 その考えは、一瞬だけ、安堵に似た温度を私にくれた。

《追補》
・“読む祈り”は、外部への効果を持たない。
・行為が外へ出ない限り、共同体への負荷はない。
・ただし観察者の身体には残る(呼吸・拍)。
→ 記録者の消耗として顕在化。

 最後に、本文末尾の脚注[*](無番号注)に、短い注釈を差し込んだ。
 注には注を足さない——という原則に反するが、ここだけは、呼吸のために必要だと思えた。

[*]注を読むあいだに生じる呼吸の位置は、読者ごとに異なる。
ゆえに「注の連鎖」は再現されない。
それでも、読む者は似た祈りへ辿り着く。
図式ではなく、息として。

 保存。
 印刷。
 紙がプリンタから一枚ずつ吐き出され、束となって積まれる。
 最上面の白は、やはり少し濁って見える。
 どんよりした光が、紙の上で息をしている。
 私は束の端を揃え、両手でゆっくり持ち上げた。
 重さは、呼吸の重さに近い。
 机におろすとき、紙の中の空気が小さく鳴った。
 ——しずかに。
 耳の底で、誰でもない声が言った気がした。
 私はうなずき、灯りをわずかに絞った。
 読むことが、祈ることに近づく手前で止めるために。
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