神事舞

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第三部 土の声

第一章 筆の底

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 報告を出して数日、私はもう一度、すべてを刷り直した。
 紙の束を机に揃えると、都市の光でも、やはりどんよりして見えた。
 止栄の灰がここまで飛んでくるはずはない。
 それでも、光は白く濁って、文字の縁を柔らかくする。
 プリンタのトナーは新品だ。
 紙は上質のものに替えた。
 それでも、黒の“底”が浅い気がしてならなかった。

 私は最初の頁に指を置き、余白をなぞった。
 余白は、呼吸だ。
 どこで息継ぎして、どこで意図的に止めるか。
 止栄で学んだのは、ここを疎かにしてはいけないということだった。
 余白を誤ると、見ることが行為の側へ転じてしまう。

《作業記録/2025-06-03》
・刷り直し:A4上質紙(90g)、モノクロ600dpi
・照明:室内300lx→500lxへ段階上げ
・確認箇所:第三部「報告の余白」p.5/欄外注1~欄外注3
備考:余白の呼吸が浅い。行と行の間(間)に圧迫感。

 欄外注の一つに鉛筆で印をつけた。
 「不明を結果とする」と自分で打ち込んだ一文が、なぜか「不鳴」に見えた。
 鳴かない。
 無音。
 私の目が勝手に意味を差し替えているのだろう。
 照明を少し上げ、距離を変え、視角を狭める。
 輪郭は戻らない。
 黒の底が浅いせいで、冖と口の境目が波打ち、鳴の左側が立ち上がる。
 私は息を吐き、鉛筆で「明」と書き足した。
 上からなぞるのではない。
 印刷の横に、もう一つの“明”を置く。
 その瞬間、紙の上に二つの結果が並んだ。

《観察》
・印刷の「明」→光学的に“浅い”。
・手書きの「明」→筆圧に応じて“深い”。
→ 明瞭は、光ではなく力の側にある。

 ページを送る。
 脚注の行頭に「目のあらぬところにて、ことをおこなふ」とある。
 蔵から転記した、あの最終行だ。
 改めて読むと、「目」の字だけが太く見える。
 フォントの問題かと、別書体で同じ頁をもう一度刷る。
 それでも「目」だけが太い。
 私は指で紙の裏を撫で、指腹の感覚で凹凸を読む。
 トナーの層が他よりわずかに厚いのかもしれない。
 だが、触覚では判断がつかない。
 目と指の情報がずれると、不安が起きる。
 書くことは、指の行為だ。
 読むことは、目の行為だ。
 その二つがすれ違うとき、人は“気味が悪い”と感じる。

《照度・角度試験》
・500lx/45°→「目」太見え。
・500lx/10°→太見え軽減。
・300lx→全体が沈む/「目」の突出が戻る。
→ どんよりした光の下では、「目」が前景化する。

 印刷物の余白に、機械的な線が残っているのを見つけた。
 前頁で引いた鉛筆線の圧痕だ。
 斜めに光を当てると、浅い谷が浮かぶ。
 谷の交点が、丸く擦れ、偶然に瞳の形をしている。
 私は笑って首を振った。
 偶然に過ぎない。
 だが、人間は偶然を意味の方へ倒す。
 民俗は、その力の積み上げだ。
 学は、それをいったん戻す行為だ。

 昼過ぎ、私は原本の転記箇所にルビを加え、読み手の負担を減らす作業に移った。
 「おこなふ」の辺りに|《読み仮名》を置く。
 そこで気づいた。
 行が改行される位置で、「目の」が行末に来ている。
 次の行頭が「あらぬ」。
 改行のせいで、目のとあらぬが物理的に離されている。
 私はカーソルを戻し、語が切れないように句間を調整した。
 調整後、意味は読みやすくなる。
 だが、“目のあらぬ”という距離は、紙の上から消えた。
 ——行の配置が、意味を作る。
 止栄で学んだ“間”は、印刷でも息をしている。

《版面メモ》
・改段により「目の|あらぬ」の距離が生まれる → 視線不在の物理的モデル。
・調整で距離を詰める → 意味は滑らか、不穏は薄まる。
→ 編集は、祈りの“揺らぎ”を均す行為でもある。

 報告書の図版に、波形の簡単な図を添えた。
 七秒周期の揺らぎ。
 間を縦線で示し、そこに薄い鉛筆で点を打つ。
 点が連なり、線になる。
 この線を“まへ”と読めるように配置すると、図そのものが言葉の図になってしまう。
 私は意図的に、点をずらした。
 ずらしすぎると、今度は意味が死ぬ。
 生きた曖昧と、死んだ曖昧がある。
 紙の上では、その境目が刃のように薄い。

 夕方、窓の外が少し暗くなった。
 照明を落とし、紙の束をもう一度めくる。
 ——「不明」を結果とする。
 ——「無音は、観察者の飽和である」。
 そのあたりを読み返していると、欄外の余白に、見覚えのない薄い線を見つけた。
 鉛筆ではない。
 ペンでもない。
 紙繊維の毛羽立ちが、うっすらと輪を作っている。
 輪は二つ。
 上下に並び、瞼のようにわずかに潰れている。
 私は顔を近づけ、息を止めた。
 紙の凹凸は、光と影で目に“図”を見せる。
 目が見たいものを、見せる。
 私はそこに眼を見たのだろう。
 実際には、何もない。
 何もないはずだ。
 私は指で余白をゆっくり押さえつけ、毛羽立ちを寝かせた。
 輪は消えた。
 ただの紙に戻る。
 安堵と同時に、罪悪感のようなものが胸に残った。
 ——私は、余白に目を置いた。
 置いて、すぐに消した。

《覚書》
・見るとは、余白に“図”を置く行為。
・消すとは、図の跡を力で均す行為。
・どちらも紙を傷つける。

 夜、報告の末尾に「追補」を差し込む。
 写真・録音は追加しない。
 余白は残す。
 その二行を、決意として太字にしようかと迷って、やめた。
 太字は、声を張る。
 沈黙に向かう文は、力を抜くほうがいい。
 私は通常の太さのまま、「余白」という語にだけルビを置いた。
 余白|《よはく》。
 声に出すと、よの息が広がる。
 紙の上で、それを呼吸にしたい。

 メールの受信音が一度だけ鳴った。
 差出人の名前は出ない。
 数列と短い語。
 書式は整い、無駄がない。
 添付の小さな文書には、簡潔な承認があった。
 追跡不要。
 教育資料として保管。
 写真・録音の追加は、許諾の上で。
 その文の下に、ごく短い個人的な一文。

 ——書きすぎないでください。

 “どうして”と問い返したくなったが、やめた。
 その質問は、どちらの側からも不要だ。
 私は画面を閉じ、報告のファイルを保存し、プリントアウトした頁を糸で綴じた。
 糸で綴じるという手間をかけると、文が紙に居場所を持つ。
 同時に、戻らなくもなる。
 海宮善利の声が机の上に落ちる。
 ——残ると、戻らん。
 私は針の頭を指で押さえ、糸の端を切った。

 深夜、部屋の照明を落とし、スタンドだけにした。
 どんよりした光が、紙の白を濁らせる。
 視界の端で、何かがわずかに動いた。
 私は顔を上げる。
 動いたのは、カーテンの影だ。
 風が入る隙間はない。
 熱で空気が揺れただけだろう。
 ——**“見る前に見られる”**という感覚は、ここでも起こる。
 私はそれを、知覚の予期として記す。

《知覚ノート/予期》
・“聞く前に聞かれる/見る前に見られる”
→ 観察者の時間が対象に先行する状態。
・祈りは、しばしばこの順序で起こる。
・民俗学における“先取りの語”の位置づけ要検討。

 印刷束の最初の頁に戻る。
 「不明を結果とする」。
 先ほどは「不鳴」に見えた語が、今度は「不眠」に見える。
 何度目をこすっても、眠の下にある民の点が、砂のように揺れる。
 私は立ち上がり、冷たい水で目を洗った。
 戻ってくると、「不明」はちゃんと「不明」に戻っている。
 見目という姓が頭を過ぎり、苦笑が出た。
 見る目。
 名前という記号は、恐ろしくよくできている。

 最後に、余白の下端にひと行、鉛筆で書き足す。

余白は、呼吸であり、視線の不在の模型である。
ここに置いたものは、私が置いた。
ここで消したものも、私が消した。

 筆圧を弱め、紙に跡が残らない程度で止める。
 灯りを落とすと、部屋は静かに沈む。
 耳の底で、海の低い音が一瞬だけした。
 錯覚だ。
 私は机の上の束に手を置き、目を閉じた。
 書くことが祈りを殺すのではない。
 書くことが祈りの代わりになるとき、祈りは薄まる。
 そのことを忘れないために、今日はここで筆を止める。

《終記》
・本章の異変は、すべて編集・照度・紙質・予期で説明可能。
・それでも残る不快の核は、余白に置いておく。
・次章、報告書の注の配列を再検討。
→「目」の重さがどこから来るのか、配列から検証する。
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