神事舞

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第二部 眼の底

第三章 報告の余白

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 都市へ戻った翌朝、研究室の窓は白い膜を貼ったように曇っていた。
 止栄の灰はここにはないはずなのに、光はどんよりしている。
 机にノート、録音機、地籍図の写し、蔵で転記した断片。
 そして、新しく置いたのは白紙の——報告書。

 報告を書くとき、私はまず余白の形を決める。
 どこまで事実、どこから推測。
 どこで「わからない」と言い切るか。
 余白の広さは、観察者の倫理に比例する。
 止栄で学んだのはそれだ。

《報告草案/構成》

調査目的(現地儀礼の記録・音響観察)

調査方法(録音・転記・聞き取り)

結果
 3-1. 神楽殿:社殿欠如/神楽殿中心の構造
 3-2. 蔵:床下埋蔵原本/断片転記
 3-3. 音:波形周期(約7秒)/無音の記録

考察(観察者依存/予期の問題)

倫理(記録=乾燥の懸念)

結語(未解決のまま保留)

 キーボードを打つ手は軽いのに、文は重く沈んでいく。
 「何も起こらない」という事実を、どれほどの語で支えればいいのか。
 無音は、音よりも多くの言葉を要する。
 私は項目の境目に空行を入れ、呼吸を置いた。

 昼前、携帯が震えた。
 差出人は見目|《みめ》。
 ——あの若い管理担当は、もう町を離れている。
 画面には短い文が現れた。
 《差分、受領。こちらも整理完了。件の地点は非該当。
  以後の介入は不要と判断》
 淡白な定型句の配列。
 私は返信した。
 《了解。報告、読ませてもらえますか》
 少し間を置いて、返ってきたのは一枚のファイルだった。
 拡張子は見慣れない。
 開くと、ページの上部に細い罫線と小さな番号。
 頁ごとの識別子がやけに長い。
 本文は、ほとんどが観測値と時刻の羅列。
 末尾に矩形の黒塗りがいくつか。
 その下、わずかな灰色の余白にこうある。

対象:局所習俗。
状態:散逸。
危険:観察者依存。
処置:教育的記録のみ。

 私は目を閉じた。
 ——彼女は「何もない」を確定したのだ。
 いくつかの手順を踏み、いくつかの数字を見て、
 「危険は観察者側に帰属する」と言葉にした。
 そこには彼女の癖も情もなく、制度の声があった。
 制度の声は、誰の声でもないから強い。

 送信時刻の脇に、短い追伸。
 《これで私は離れます。
  ——先生は先生の方法で、残してください》
 残すという語が、画面の白で少しだけ浮いた。
 私はそのまま、画面を閉じた。

 報告の第三章「結果」を埋める。
 フィールドノートを引用し、必要な固有名詞に最少のルビを付す。
 **本気|《マジ》**で伝えるために、過剰な飾りを捨てる。
 ——神楽殿には社がない。
 ——床下に紙片「返/沈/渡」。
——蔵に原本。
——原本の文:

願ひを返すもの、沈むほどに豊けく、渡すは身なり。
目のあらぬところにて、ことをおこなふ。

 ここで筆が止まる。
 この文を報告に載せるか。
 載せれば、戻らん。
 蔵の暗がりで善利が言った語が、机の上で再生される。
 私は一度、指を浮かせた。
 そして、打ち込む。
 載せる。
 載せたうえで、余白にこう注ぐ。

《注》
・本断片の読解は未確定。
・語の境界は行間(=間)に託されており、意図的な不明瞭さが保たれている。
・明瞭化を求める処理(例:音声の帯域抽出・減算)は、現象の厚みを損なう。
・したがって、ここでは「不明」を報告の結果とする。

 「不明」を結果として提出するには、観察者に骨が要る。
 だが、それが倫理の骨でもある。
 私は骨の位置を確かめるように背を伸ばし、項を進めた。

《第三節:音》
・止栄浜(午前)録音:周期7.2sの揺らぎ(基底 72–75Hz)。
・同(夜間)録音:低周波優勢、母音様残響。
・神楽殿(再訪)録音:無音(-60dB以下)。
・評価:
 a)音の存在は予期によって強化される。
 b)予期の強さは、聴取者の身体(鼓動・呼吸)と同期。
 c)無音は対象の欠如ではなく、観察者の飽和である。

 書き終えると、窓の外で風が動いた。
 五月のはずの空気が、やけに重い。
 私は席を立ち、蛇口で水を飲んだ。
 冷たさが喉から胸へ落ち、沈む。
 沈むほどに、体内の音がよく聞こえる。
 耳は、身体の一部というより、身体の底だ。

 夕方、メールボックスに一本の通知。
 差出人は名を記していない。
 署名は数字と短い語の並び。
 本文は、簡潔な依頼だけ。

以前に共有いただいた差分音源、原本の断片と併せて保管済み。
以後、現地への再訪はお控えください。
研究の継続は妨げませんが、写真・録音は再度の許諾を。
担当者は撤収しました。
以上。

 担当者——見目のことだ。
 撤収、という語が彼女に似合いすぎて、少し笑ってしまう。
 所在を問わない職種の人間。
 どこにも属していないように見え、実際にはどこかへ帰っていく。
 添付の文書は黒塗りが少なく、ただ項目が整然と並ぶ。

・危険度評価:低
・影響範囲:局所
・推奨:追跡不要、教育資料としての扱い
・備考:観察者依存性が高く、再現性なし

 私はモニターの前で背筋を伸ばした。
 再現性なし——その四字に、救われた気がした。
 救われたというより、戻されたのかもしれない。
 止栄の地形、蔵の湿気、神楽殿の板の冷たさ。
 それらはここでは再現できない。
 だからこそ、ここでは書ける。
 わからないまま、書ける。

 机に戻り、報告の最後を閉じる段に入る。
 結語を端的に。
 言い切らないが、曖昧でもない文章。
 私は、三度という名に恥じないほどに三度読み直してから、打ち込んだ。

結語
本件の儀礼は、記述可能性の限界を明示した。
「見る/書く/残す」ことは、しばしば祈りの形式を壊す。
しかし、記憶の輪郭を保つには、書くほかない。
よって本報告は、不明を最終の知として提出する。
なお、現地共同体への負荷を避けるため、追加の写真・録音は行わない。
余白は、ここに残す。

 送信の前に、ふと手が止まる。
 余白の末尾——空白の一行が呼吸している。
 余白を残すということは、誰かの呼吸を残すことだ。
 呼吸が残れば、祈りは生きる。
 私はファイルを閉じた。

 夜。
 窓の外の光ははっきりと輪郭を持ち、止栄のものとは別物だ。
 それでも、机の上の紙はやさしく濁って見える。
 私は録音機を手に取り、再生を押すかどうか迷った。
 押せば、まへが現れる。
 押さなければ、無音が残る。
 ——どちらも、私の側の問題だ。

 押さないことにした。
 かわりに、ノートを開き、短く書く。

《覚書》
・耳の底に沈む声は、対象ではない。
・それは観察者の倫理が鳴らす小さな鈴である。
・鳴らない夜は、よい夜である。

 ペン先が紙の繊維を撫でる。
 その摩擦音が、奇妙に心地よい。
 私は灯りを少しだけ絞り、どんよりした光の中で目を閉じた。
 無音は、思ったよりも暖かい。
 その暖かさを、今日は残すことにする。
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