神事舞

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第四部 「返礼」

最終章 返礼

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──三度哲夫・終記

 夜明け前、窓の向こうの山がまだ黒い。
 風は止み、海の音もない。
 この町に来てから、こんな静けさは初めてだ。
 眠れず、私は机の上に昨夜のノートを広げた。
 もう書く必要はないのかもしれない。
 だが、書かずにいると、何かが戻ってくる気がした。
 返る、という言葉が頭の中で繰り返される。
 この語の響きが、すべての始まりであり、終わりなのだと思う。

1 祈りの構造の終端

 神事舞──しんじまい。
 私はこれを「祈りの設計」として理解しようと試みてきた。
 だが、もう一段深く掘ると、そこにあるのは祈りではなく、返礼の仕組みだ。

 祈りとは、本来、神に向かって放つ行為である。
 しかしこの舞では、祈りは「返される」。
 つまり、祈る者が、自身の祈りを再び受け取る構造になっている。
 「願ひ返す」「沈むほどに豊けく」「神に渡す」――その三句はいずれも、
 与えたものが必ず戻るという因果の環を示している。
 この循環を断てば共同体が崩壊する。
 だが、続ければ個人が削られる。
 構造としての呪いとは、この選択不能な循環のことだ。

2 返礼の設計者

 誰がこの構造をつくったのか。
 記録に残る「異人イチリョウ」──その名は異国の響きを装っているが、
 筆跡の癖、言葉の選び方、地名の残滓を照らすと、
 彼がこの地の人間であった可能性が高い。
 市亮|《いちりょう》、もしくは一領。
 封建期の帳面には「非人の一領」という記録がある。

 かつて海宮家が所有した土地の近くに、
 石を割る部落があった。
 彼らは“土”を扱い、“祈り”の道具を作った。
 その中の青年が、海宮家の奉公人として仕え、
 あるとき理不尽に殺されかけたという口伝が残っている。
 その後、彼は「流浪の医者」として戻り、村の病を治した。
 その謝礼として教えたのが、神事舞であった。

 だがそれは、祈りの教えではなく、
 返礼の教えだったのではないか。
 “祈れ”ではなく、“返せ”。
 “祈る者を神に導く”のではなく、
 “祈る者を神へ返す”。
 この一点で、舞は祝祭から呪詛へと反転する。

3 「死んじまえ」という構文

 記録を読み返すうちに、私はある発音の揺らぎに再び目を留めた。
 神事舞──しんじまい。
 この地では語尾が曖昧に発音され、「しんじまへ」「しんじまえ」と聞こえることがある。
 私は以前、それを方言的な訛りと注釈した。
 だが今は、それが本来の形であったように思えてならない。

 「しんじまえ」。
 命令形である。
 祈りの言葉ではなく、死の勧め。
 市亮は、おそらくこの命令形を祝詞の韻律に偽装した。
 村人たちはそれを神語として記憶し、
 代々の舞手が、無自覚のまま**“死を舞い続けた”**。

 だが市亮の意図は単なる復讐ではなかった。
 彼は「祈りの形式」に“死”を埋め込み、
 共同体の倫理そのものを腐蝕装置に変えた。
 祈りをすればするほど、家は衰える。
 豊かになろうと努力すればするほど、装置が作動する。
 その結果が、今の止栄町である。
 穏やかで、貧しく、どこか幸福そうな、静かな地獄。

4 見目の不在と静寂

 昼過ぎ、文化館を訪れたが、見目の姿はなかった。
 机の上には鍵束だけが残されており、
 受付の紙には「県へ戻ります」と一行だけ書かれていた。
 その筆跡を見た瞬間、私は妙な安堵を覚えた。
 あの女性は、最初からこの場所に長く留まるべきではなかったのだ。
 彼女が何者だったのか、いまも分からない。
 ただ、彼女の背後にあった組織が、
 この儀礼に「特異性がない」と判断したのだろう。
 私はその判断を、奇妙な正しさとして受け入れた。

 確かに、“異常”はない。
 ただ、人が作り出した異常な構造が、
 あまりにも自然に風景へ溶けているだけだ。

5 祈りをやめる

 夜。
 私は留里神社の神楽殿に立った。
 扉は開いていた。
 中は埃をかぶり、太鼓の皮が乾いている。
 舞台の中央に立つと、空気が微かに震えた。
 拍の間隔を、身体が思い出す。
 1.47秒。
 それを意識した瞬間、喉が乾いた。

 私は一歩下がり、呼吸を乱す。
 息を早め、止め、また吸う。
 「反復を断つ」。
 それが、私にできる唯一の“祈り”だった。

 それでも耳の奥で、音が続いていた。
 誰も叩いていないはずの太鼓が、
 遠くで、拍を刻んでいる。

 ——続いている。
 誰かが、どこかで。

6 終記

《記録》
・止栄町における神事舞の本質は「返す祈り」である。
・祈りの形式が返送構造を取り、自己循環的な装置となる。
・設計者は市亮。人為的呪術による倫理構築の実験。
・その目的は「祈りの無限化」、すなわち祈る者の自己消費。
・異常性は“存在”ではなく、“構造”にある。

 ここまで書いて、私は気づいた。
 この記録そのものも、また「返礼」の一部である。
 書くことで、私は祈りを延命させている。
 ならば、ここでやめるしかない。

 ペンを置く。
 紙の上に落ちた光が、灰色の海のように揺れる。
 外では風が吹いている。
 その風が、遠い拍の残響を運んできた気がした。
 だが、もう確かめない。

 この土地の祈りは、ここで止める。
 それが、私にできる最後の返礼だ。
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