Several

たくひあい

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 それはきっと、恋にも似た、淡い記憶なのだろう。わざわざ言わせても無粋かもしれない。
彼の幸せそうな瞳を見ると、僕もそれ以上を深くは聞く気にはならなかった。

 午後というのは、夜への準備に向けて忙しい。時間はあっという間に過ぎてしまうからだ。
しかし少し昼飯が遅かったため、まだ腹は当分に減らないだろう。

そう思ってから改めて少年に問う。

「きみは」

「はい」

彼はずるりとスパゲティをすすりながらきょとんとしている。

「未だここに居るのか? いや、居てもいいのだが」
「すみません、なんか楽しくて。迷惑なら帰ります」
「いや、どうせ近いんだ。好きなだけ居てくれて構わないが」

言うと、きらきらと目を輝かせた。僕の部屋がそんなに嬉しいだろうか?
「普段は寂しくはないが、僕としても何か作るのには、ちょうど良い距離のある誰かが居た方が安らぐのでね」

家族などは気を置き過ぎてだめなのだ。
「でしたら今日からここに住みます」

「いや、それはどうなのだろうか」

僕は少し考えた。
保護者には足らない気がするので、親御さんにも心配がかかるだろう。
しかし、あのお喋りなコンシェルジュも居ることだし。

「自分の身なら、それなりに守りますので、ご安心を」

考えているうちに、彼はにこりと微笑んだ。なんだか悩むのもめんどうだ。

「依頼が、済んでから考えるよ」

『生きている』とは言っても、少し気がかりでもあった。噂は75日とは言うけれど。
彼女には疲弊することも死さえも許可されていないだろう。安息が存在しないその環境を乗り切った後の精神状態がどういったものなのか。

 それは、僕自身がよく知っている。
そして、それというのは、あまり好ましくはない状態なのだ。どうしたものだろう。

 僕にもあまりにふざけているとしか思えない状況はあったものだ。
ほとんどが救いをさしのべないので、自力でそれを乗り越えてきた。

休養も味方も弁護さえもなく、死さえも与えられない場所での解放は、その悲惨な環境を生き抜くことのみで与えられた。叫ぶだけ叫び泣くだけ泣きながら前だけは見なければならない。
 その後に来る現実への解離感や、記憶や感情に残される後遺症は、なかなかなものだった。

到底払えないだろうこの代償を払わせるのもあまりに無意味なものなので、与えられるこの住居、そして『一生、僕やその周りに近づいてこない』ということがせめてもの代わりとなった。

 別に、何か物品が必要というのではないのだが、そのときの存在自体がいかんせんフラッシュバックの引き金と結び付いてしまっている。
どうしようもなく許す許さないを超越しての特別措置なのだ。
様々な声を、あらゆる姿を、存在を、思い出さない限りは平穏に暮らせるわけだから、他に望むものもない。

こうなってしまう前に、せめてまともな休息があれば良かったのだが、今となればそれにも意味がない。強迫症状に近く、僕はもはや何かしていなければ、精神が保てない身体となっていた。
……が、そんなにすることもないし、体力もそうあるわけではないとなると、大抵日頃は熟睡しているか、本を読み漁るか、無謀に思えるような何かを作成する、などとしている。
 どれにしても、全力で体力を浪費するにはもってこいだ。

「ラルは、見るたびに気だるそうですね」

キリエが心配そうに言う。僕はつるりとスパゲティを平らげて、目をぱちくりと動かす。

「まあ、眠いからね」

訂正。

その綺麗な瞳を見ながらふとそんなことを思う。『救われた』ことなら一度だけはある。
ただ、僕がなぜ僕を手放せなかったのかは誰も知り得ない。
なぜなら僕も覚えてないからだ。酷い喪失感だけをおぼろげに記憶している。

眠気の原因になったものを持ち込んだ、目の前の少年は、とても、僕には眩しい。
本当になぜ、僕の身体は夜更けまで他人に付き合いたがるのだろう。「事件」なんかどうでもいいと言えるならそれが一番というのに。
 深夜になった頃、僕は少し出掛けると言ってコートを羽織った。

「きみも行くか?」

 問うと、ぱあっと目を輝かせる。こんなのはただの外出だろうに。

「何をしに?」

「原稿用紙を買いに」

「何か書かれるのですか」
ぴたり、と玄関先で足を止める。

「それもいいな!」

確かに、詐欺師が何を執着するかを暴くには、まずは中身から入って釣るという手もある。

「しかし、上手く食いつくかね……その彼女、とやらにばかり固執しているように思うが」

雑誌で見た限りでは、片方はどうやら母親のようであるが、家庭が絡むのは増して厄介である。
子どもへの体面を引き合いに出して残酷だと言い張られるかもしれないのだ。

『情』とやらに長年見捨てられてきた僕に言わせれば、それさえも知るか、自業自得だとなるのだが――

ちらりと少年を見る。彼は望まないのかもしれない。
 世の中には子どもに万引きさせ情状酌量を狙う親やらもいると言うし、正しさとやらの境目が、本当にわかりにくい。
灰色の正義とは言ったものだ。
家族、会社、世間。
「大切な誰かのためだった」
それだけでまるで美しい芝居のようになってしまう。まぁ、僕に言わせれば『知るか』なのだが。正義を語りたいのなら、真っ先にその味方であるべきなのではないか。


「先輩とやらに、子どもはいるのかね」

「いいえ。居ないそうですし、家庭も、今のところは僕は詳しくは聞いてませんが」

「そうか……」

立場がそう違うとなると、尚更に自分を責めかねない。少なくとも家庭を責めたとしてバッシングをされる恐れもある。
彼女とやらが僕にもますます心配になってくる。何もかも思いやってはつぶれてしまうが、しかし子どもには罪があるわけではないだろう。
世の中というものは非情なものだ。

「だからこそ燃えるともいうがな」

 さほど熱心に神を信じては居ないが、これの味方がそれに背く行動になるとしても、別にいいのではないかという気もした。
どうもそれほどに『彼女』とやらの境遇は、かつて救われることのなかった僕のなかの琴線に触れていた。

「なんのために原稿用紙を?」

キリエに聞かれて、僕は首をかしげる。

「なんとなくだが?」

単なる直感だ。

「深くは聞きませんよ」

彼は、僕にたいしての諦めがいい。

「いい心がけだ」

二人それぞれが、各々靴を履き、ドアの鍵を開ける。廊下の角にあるエレベーターとやらに進もうとする彼を引き留め、僕はその横の階段を指差した。



・・・・・・・・・・・・・・・

「おまけ」

☆☆☆


 コンシェルジュの佐東さんは、いつもニコニコしている。
おれがここに引っ越してきたときにも荷物の運びだしやらなんやらと、相談に乗ってくれた、優しそうなお姉さんだ。
45歳という歳には見えない小柄で若々しい人で、いつも短めの髪をひとつに纏めている。
ちなみに、コンシェルジュというのは、管理人のことで、ホテルや大きなマンションに居るスタッフだ。



 引っ越しは大変だった。『いろいろと』無ければまさか、こんなばかでかいマンションにおれみたいな一般市民のガキが入るわけがない……のだが、それについてはまたいずれ。

「きみが、例の子?」

入り口のきんきらなドアを抜け、そのそばで出迎えた佐東さんに言われたときは、びくんと緊張した。
「はい、よろしくお願いします」

しっかりと頭を下げると挨拶できて偉いわと彼女が微笑んだので、すぐに、いい人だと思ったんだ。
褒められてる……!
嬉しくてへへっと笑っていると、「きみは、沢山悩みがあるね」と言われる。

普段は笑顔でいると悟られないから驚いた。

「わかりますか?」

おれがじりっと後ろに下がりながら言うと、彼女はカウンターに行って、一枚、そこにあるメモ用紙を破り、万年筆でさらさらと何か記す。

「この部屋、訪ねて」

「へっ?」

「頼りになる人が居るのよ」

「あの、でも」

「あの子のためにも、ね?」

あまりに悲痛そうに言われ、おれは戸惑ったが、うなずいた。
あの子のため?

……まあ、いい。

握りしめた部屋の号室を確認すると、俺のフロアのすぐ真上。近いじゃないか。
挨拶も兼ね、まず訪ねてみようかなぁ。少ない荷物を部屋に少しずつ運びながら、そんなことを思っていた。








 理由は無かった。
いやあったのだろうか。細々したことを考えると頭が重たく、リスクがあるなら移動はしたくないなどと思ってしまう。

明くる日、荷物を運び込んできた彼を見ながら、僕は飲んでいたミルクティーのカップに口を付けた。
窓の外は桜が咲いている。好きな花だ。
しかし、『人』を思い起こすせいでその名を口にするたびに苦しく、純粋に愛でてやることが出来なかった。
まるで、言葉が汚れたかのようで。思い起こすのが嫌なそれだけのことで汚れたなどというのは人間の傲慢なのだろうが、なんだかため息を吐きそうになる。

 けれど、かつてのような少し何か言うやらやるやらで大嘘を解釈されるかのような日々は、さすがにもう無いのだろう。
僕の心理など、誰も知ることは出来ないのに。
そう、僕も知らない。


 朝は夢見が悪く、だから僕の機嫌も最悪だった。
 そんなことは露知らず、同居人の瀬部キリエは楽しげに部屋を掃いている。ロッキングチェアの上で踞る僕は、ただのマスコットみたいにじっとしていた。

「いつまでだ」

「なにがです」

「春休み」

僕の問いに、瀬部キリエはげっ、と形のいい顔を歪ませた。

「一日中他人がいたら、落ち着かないですか」

「いいや、違うよ」

ふあ、とあくびを噛み殺して僕は言う。

「落差が苦手でね。記念日とか、イベントとか。その日が終わると、また平凡な毎日……なんだか一気にエネルギーを浪費してしまう気がして」
「そうですか? 楽しめばいいじゃないですか」

首をかしげる彼を見ながら、その通りだなと思う。

「幼い頃、身体が弱くてね。何か楽しい出来事につれていってもらえる日に限って熱を出した」

目を閉じて、半分くらいうとうとしながら話す。悪夢から現実へと生還したせいなのか、なんだか彼と、他愛ない話をするうちは安らかな気持ちになるようなのだった。

「そうするとイベントの度に、参加していた周囲と、しなかった僕との溝が広まった」

たまに調子のいい日に、数回出たくらいでは楽しみかたもわからないものなのだし、親や教師からの「気を遣ってやりなさいね」という気遣いで紹介される人間でありたくは、正直なかった。

「それは。まあ、そうですね、どんなイベントにも慣れや熟練というものがどうしても存在しますから」

楽しいと思うイベントは僕には無い。周囲との落差、そして日常との差には寂しくなるばかりだ。

「ラルは」

と、キリエは僕を見た。淡い瞳は、なんだか僕を劣等へ引き込むようでありつつ、対等へ引き上げられるかのような感覚さえある。
それを美しいと思った。一部だけインクの汚れが落ちないような痛々しい肌と、彼の宝石では違うのだと。

「寂しくないですか、こんな、部屋に、一人で」

「慣れたよ」

はっきりした答えは僕は持っていない。持たないことにしているから。

「些細なことで、ひいひい泣くのに比べたら、大抵のことを穏やかに過ごせるなんてずっとマシなもんさ」

ハハッと笑うと、彼は怪訝そうな顔をした。

「おや、その目はなんだ?」

「いや、些細なことでそうなるラルは想像がつかないと思いました」

なるほど、よく聞く言葉だ。今では、確かにそうなのだが。

「僕にだってね、若い時代というやつはあるんだ」

ぶふっ、と吹き出される。何がおかしいのだか。
「若いって、いうか、今も、年齢不詳みたいなとこあります……」

「ハタチだ」

「それって、本当なんですか? 佐東さんも言いましたが」

たぶん僕の名前を売っただろうこのマンションのコンシェルジュの名前を言い、彼は首を傾げる。
「ああ、明か」
 知り合いですか、なんて無意味なことは聞かれなかった。きっと彼のいいところだ。

「仲、いいんですね」

「良心は、あるのだろうか」

僕は違うことを言う。

「両親?」

カップの中身に口をつけようとして、それが無くなったことに気がつく。しまったなと僕はため息を吐くと、テーブルへと歩いていく。二杯目が飲みたい。

「執着が酷い場合、うまく事が運んでも単なる追放だけで済むのかわからない……」

似たようなケースでは、と昔見ていた、なんらかの番組の場面を思い出す。いや、同一視できるかも怪しいが。

「どういうことです」

僕は、ポットからお湯を注いで、二つのカップに入れながら、彼を見つめた。まっすぐな目で僕を見返している。

「見えない場所で再び詐欺を働くケース、あまりの喪失感から死を選ぶケース、などがある。窃盗などの類いは特に再犯率が高い傾向と言われるらしいよ」
 ちらりと、夜中に見た雑誌が頭を過る。多少良さそうな暮らしをしている気はした。するだけかもしれないが。

 もしも見栄を張り、過去の栄華にしがみつくタイプの場合は、自分の惨めな立場を受け入れることを拒むことも考えられた。事件というのには、本来『終わり』がない。何らかの形で続いていくのだ。
何が正しいのか、正しくないのかなど、だからこそ僕にも判断がつかない。
「大丈夫ですか」

苦しそうな顔をしていたのだろう。彼がそっと僕の頬に触れた。
僕はじっと彼を見つめて紅茶が冷めるからと言い訳してカップにティーバッグを付ける。

これまで失ってきたもの全てが失いたくないものだった。
今更どうにもならないことはよくわかっているのだけれど、ときどき、酷く焦燥にかられてしまう。あのときこうしていたらなんて、無意味だというのに。

「大丈夫だ」

僕は言う。

「勘違いも自己嫌悪も、その人間の思考のうちで、そういう人間であるという、決定的なものなんだ。建前にはならないのだよ、だから」

身体が、冷たく凍えているような気がした。
口にするにもおぞましいが、そう植え付けられたものは簡単に覆らない。『そこ』に逃げてはいけないし、僕は思考し続けなければならない。
「『それ』を受け入れない、軽々しい人間を僕はつい軽蔑してしまうし、自分にも許しはしない。ああ、そう。少し、自己を恨みそうになっただけで、意味はないんだ」

何に対してなぜ勘違いをし、どうして自己嫌悪するのかを、分析して把握出来ないままに過ごしても、また繰り返す。
間違いは誰にでもあろうと、間違いの少ない人間ならいる。

開き直って近寄るくらいなら、口をつぐむ方がまだ賢いと僕は本気で考えているのだ。
だが依頼人というやつは僕にはお気楽なことが多い。大抵が事件が終われば一切関わりを持たないようにしている。

解決をするまでは、やり口をあれこれ責められるが、最後は急に気分よく帰る相手というのは、ケロッとしてそれを再び繰り返すに違いないからだ。同じ相手に何度も勝手知ったる顔で、期待を裏切らない裏切りを見せられてはさすがに僕にも堪える。
 勘違いでしたなどと聞かされても、気が晴れないものは晴れないだろうし、不快にしたものは不快にしたのだ。一時の思考や言動について責任を持てなかった自分を許すというのは僕には逃げである気がする。



指先を見ると、真っ白くて思わず舌打ちした。
彼は『それ』は間違いだなど余計なことを言わなかった。
冷蔵庫から牛乳を取ってもらって注ぐ。流れるのは、束の間に静かで穏やかな時間。
のだ。
「何か、思い出しましたか」
瀬部キリエが、片方のカップに口をつけながら言う。僕は夢見が悪かったのだと口にした。





それは懐かしい夢だ。

「だからそれは、間違いで」
そう言っている僕の耳に入るのは嘲笑である。
「間違い? 自己責任ではないですかね」
目の前の男はわざとらしく両手を広げている。
目をつけられたのは町の権力者だった。様子にざわめく周囲。路地裏にいつになく観覧者が集まる。
「管理が悪かったのです」
「そんな、こと」

観覧者からは、その通りだという声だけが続々と寄せられる。それが次第に思考を蝕み始める。
僕には傷ついている感覚はなかった。『あの子』を守るためだ。ただそれだけしか頭に無いので、ああ無事で良かったとだけを考えていた。
こういったとき、案外してはならないのは、緊張を緩めてはいけないということだ。
気を張れなくなるほどに悲惨なことはないのだ。僕には『あの子』がいればよかった。
だからこれから建て直すことを考えていたのに。
 残酷なことに、世界はうまくはいかない。

「少し、やりすぎではないですか」

的確に、すべてを無駄にしてしまう邪魔が入った。
騒ぎはそれほどだっただろう。
張り詰めていた気も、これから徐々に攻撃体勢をとるつもりだった精神も、どこぞの紳士の言葉で一気に潰された。
ギリギリまで保っていた何かは、その正論からとたんに崩壊を見せた。
僕は叫んだ。叫ぶしかなくなってしまった。
周囲が二分され、組み立てていたはずのなにかは粉々になる。

「わからないのか、この場に優しさなどいらない」
そう言おうとした喉はほとんど使い物にならないうちに、汚い正論だけが増してしまう。
傷ついている君を知らなかったと誰かが叫ぶ。
これほどに吐き気がしたことが、かつてあっただろうか。
僕はかつてのように死を覚悟した。パフォーマンスに利用されるのは御免こうむりたいところだった。
わからないのか、この場に優しさなどいらない。
何度思っただろう。緊張せねばならないし、僕なりの何かに闘争すべきなのだ。
そんな塵のような無駄よりかは、僕が張っていた気丈を早く返して欲しいところである。
誰も居ない場所に行かねば、つぶれてしまう。
優しさという名の、強い弛緩剤が本能や精神に打撃を与える。

恐怖の中で気を上手く張ることを許されないという事態は、もはや狂っていると言えたし、そうならざるを得ないだろう。
 さながら、お化け屋敷で前後から脅かし役に襲われており、腕には手錠、足には枷という姿で、ずるずると後に他の人々を引いて出口に逃げるかのような重みだ。

固まっていたある物質を、いきなり燃やし、温まるどころか一気に収縮を見せてしまうように、僕は死にかけていた。
汚い正論など、なんの役に立つのだろう。張り詰めた糸を、使い物にならなくしただけではないかという言葉は、誰かの、ありがたがりなさいという有り難いお言葉に消えていく。
これはもはや、笑う他あるまいと僕やらあの子でなくとも思うだろう。
戦場で一人だけ、緊張感の無いままにされた兵士が狙われる図と思えば悲惨さがわかるのではないだろうか。
緩ませてはならないのだ。
世間の子どもの好む、
不穏なフラグとやらと酷似し、不安をよりいっそう煽るものである。
 程よく頼れる他人をすべて失った僕は、ふらふらと路地をさ迷う。
正気に戻るには適度な冷たさと、適度な普通さが必要だった。
周りにあるものは、決して愛などではなくエゴであり、何か異様なものに取りつかれた不気味な集団のような気がした。
あんなものに囲まれていては、廃人になるに等しい。

そこまで思ってから目を覚ます。また寝ていた。どうやら姿勢は椅子についたままだった。

「本当に、夢見が悪いようですね」

キリエが眉を寄せる。
僕は頷いた。

「情というものは本当に、僕を世界一傷つけるよ」

「なんです、それ」

「いや。敵、味方という考えはないものでね。
僕には周囲が珍しいんだ。だって居て当たり前のものをにらむなんて、労力の無駄だろう?
すぐに気を張ってどうするかを考えている方がマシだね。

だのに、多くの他人と来たら、大抵は自己嫌悪の当て付けのための対象を決めたがる。腹立たしいといったらない」


誰かのせいで傷ついた、
などと傲慢なことを言うくらいなら、自己嫌悪する人間の方が、口をつぐむ人間の次にマシなのだろうが。




 その日の午後、瀬部キリエは「用がある」と言って、自分のフロアの部屋へ戻って行った。
僕はカップを片付けながら、またうとうととしていた。
ふいにチャイムが鳴ったのは13時のことだ。

「次々に出てくるな」
彼が手にしていた、タブレットとやらには、新刊情報というのが載っており、さらに、もう片手にはその本の実物があった。

わざわざ買ってくるなりしたのだろう。
「あきれることに、次は露骨に被せ始めました……」
1章節くらいなら盗作には当たらないと、世は主張するらしい。ギリギリをついてくる、本当にやり手である。人生を口先だけでどうにかしてきた経験が多そうだった。

「電話、しますか」

彼はメモ帳を手にしていて、僕に聞いてくる。
たぶん先輩とやらのだろう。

「知らない人間からのものに出るかな、僕は出ないがね」

「あなたと彼女は、違うでしょう?」

「さあね」

そんなことはわからない。
「こんな、卑劣なのに、怒りがわかないですか?」

そんなことを言われても、僕の感情は、ずいぶん昔にぐちゃぐちゃになっているので、取り戻すまではかかりそうだった。
「なんか、見たことがある。服が派手でブランドを身に付けているが、そんなに似合ってはいない、というような話に似ている」

「わけがわかりません……」
「器用だな、ということだよ」

「はぁ……」

「僕の友人の友人にも居たんだが勝利することや、プライドを保つこと自体に感動を覚えてしまうんだよ」

僕がクスクス笑うと、彼はじとっと僕を見た。

「なにに笑いを見いだすかわかりません……というか、器用となんの関係が?」

「ああ、それはね」

言おうとして、僕はさっきもらった本の方を開く。それから続けた。

「キャラクターとして見ると、魅力的だし、位置付けかたが器用な人が多いんだ」

勝ちに拘っていて、周囲を気にしない。なる気はないけれど、ある意味羨ましい性格だ。

「うーん、ラルの基準がわかりません」

彼は、いまいち解せないという感じだった。
そのまま、キリエは、難しい顔をして、すらすらと口を開いた。

「昨日の夜、電子百科事典で『詐欺』を調べました。それを満たす条件がまず必要ですが、組織的に行った場合には、組織的犯罪処罰法が適用されたりして、罪が重くなるとありましたが」
 僕は、聞きながらも真面目にページをめくり始めていた。

「これは、詐欺だと思うか、窃盗だろうかと、きみは聞きたいのかな」

「いいえ」
彼は、澄んだ目をしていた。まっすぐこちらを捉えてくる。

「違うのかい」

「ただ、罪も無い人たちをも、善意に漬け込んで組織的犯罪者の一端にしているのでしょうか……そう思うと、やりきれなくて」

また泣きそうになる彼に、僕はまた戸惑う。そんなに真っ直ぐな感情をこちらに向けないでくれ。そう思う反面で、その美しさに羨ましい気持ちさえある。

「応援しているつもりのものが、じつは犯罪の手助けをさせられていたとしたら、すごく、悲しいじゃないですか」

いや。僕に言われたってどうにもならないが、と言おうとしたがやめた。
「美しいじゃないか。その彼らは身も心も、地位も差し出してまでそばに居たいのだから。
その人とやらのためなら破滅さえありがたいのだろう。存分にその立場を楽しませてやるのも一興。崩れ行く足場を眺めるのも案外快感に等しいかもしれない」

シンクの下にある引き出しから、ホットケーキミックスを取り出すと、フライパンとボウルも用意する。そして、粉と卵と牛乳を混ぜつつ考えた。
詐欺なら横取り、窃盗なら……

「おやつでも食べながら考えよう」

「貴方は、どうして、そんなに寂しそうなことを言うんです?」

寂しい?
僕は寂しがった覚えはない。だからまた笑ってしまった。

ミックスの材料をそろえて、少しだけはちみつやら砂糖をいれて、かしゃかしゃ、とボウルで混ぜていく。
 こうも『まともに』他人と交流するのは初めてだ。生きてきた証というものを生まれて数年より総じてクズ扱いされてきたことのある僕は、全身がその塊だからなのだかとても後ろめたい居心地の良さがあった。

「僕にはなにもないからな」
「ない?」

「過去と自我の密接さが現在の人間を形作っている」
何をして、何を食べてという些細な経験を凡て身体に記憶して、活用することで人々は暮らしをできる。


「理由があり、それを僕は一時期を欠片にも持たない」

そういうと彼は目を丸くした。それからすぐに、そうですかと特には驚かずに頷く。聡明な子だ。


その虚ろな状態のままに、どうしてか死を選べず生きろと無理矢理現世に縛られている。
ちらりと、目の前の少年を見るとタブレットで何やら検索していた。


「大方、キリエもやつのお節介といったところか」

呟くと、なんですか?
と言われ僕はため息を吐いた。

 彼は悪くないのに、なぜだか僕を苛立たせるときがある。


信頼していたはずの彼女さえ、「悲しみを乗り越える話」だと勘違いしているものだから、乗り越えられないという、わけのわからぬ矛盾のサイクルに陥るせいだ。



自己啓発をいちいち勧めてくるコンシェルジュの明にも、内心は困っている。
気持ちはありがたくはあるのだが……
優しさなどあれば、尚更に気分が悪化してしまうのだから、なにかされる度に望まれる笑顔などは永久に見せられることはない。

心をヴァイオリンとすると、緩んだまま張り方を思い出せなくなった弦がひとつあるという感じ。
あらゆる恐怖と向き合うのに必要だった『緊張』とか『生存のための危機回避の神経のひとつ』、そう名付くような部分である。それを、張り直したいのだが、周りに人が居るとどうしてもうまく張れない。

というか僕は、僕にまだ適応できていないという単なるそれだけなので少し落ち着く時間を欲しがっただけである。
しばらく誰にも会わずなにも起こらないことが僕には最適で最大の治療であると判断している。

だのにやたらに管理人が人を寄越すので気疲れしてしまい、なかなか休まらないし、器用ではないから他人にまで気が回らない。

 フライパンで生地を焼きながら、「電話してみてくれ」と言うと、
彼は例の彼女に連絡をとった。
 ホットケーキを三段にして焼いてバターを乗せたものを二つ作ってから、片方を食べる。
キリエは送話口の向こうとしばらく他愛無い話をしていた。
それから一度会話を止めて僕に言う。

「いくらかは、自宅にあった原稿だったそうですが、なぜだか消えたと」

「おいおい、魔法でも使ったのか?」

思わず吹き出しそうになった。なんだそれは。

「近隣に、おかしな人が居る可能性もありますね」

「真偽はわからんが、侵入罪が加わる場合もあるな。まあ、明確な証拠があるかはわからんが」

やり手の詐欺師だろう、魔法のように消えていたというのならば、その辺りはうまく逃れているかもしれないので、そこは難しそうだった。


「それですよね。彼女が言うには、使われるのが一番心配だと」


「だろうな、返却されたときに手遅れではもっとも意味がないからな。なぁキリエ」

「はい」


テーブルを挟んですぐ斜め隣に居る彼をじっと、見つめる。
特に意味は無い。
少し跳ねた毛先だとか、小さな顔立ちだとか、自分とは違う他人のパーツを眺めたかったのだと思う。

しばらく近距離で彼を見つめてから、にっこりと笑顔を作った。

「うん、ありがとう」

「何がですかっ!」

ぼた、とフォークの先の生地を落下させた彼が赤くなる。

「あ、そうだ、服! 洗ってもらったままじゃないですか」

 そういえばそうだ、と昨日取り込んでおいたものを渡す。

「ありがとう、ございます……」

そう言った彼はしばらくきょろきょろした後、ソファの上にそれらを畳んで置いた。

「あの、そういえばラルは好きな方とか、おられないんですか」

「好きな?」

「恋人というか、この人しか居ない、という方は」

僕はただにっこり微笑む。わかりましたよ、と彼は言った。

「ああ、見た目や、金品の話しかしない人間には気をつけた方がいいぞ。
君は見目がいいから、中身の薄い人間が寄ってくるだろう」

無意識に付けていたテレビでは、格好良さや可愛いさに惹かれたという相思相愛な二人が映っていた。だが、どうにもそれ以外が見えて来ないと僕は思った。
なぜ思ったのかはわからない。それが具体的でないからだろうか。
疑うだのなんだのは興味がないし、どんな関係でも僕に関係ないけれど。

「髪色が好きなら染めればいいし、目の色が好きならコンタクトレンズもある。他にも、外側だけならどうとでも言えることは沢山あるが、それがすべて愛とは限らないからな」

「そういう部分にね、中身が薄いなと思ったら確かめることも、大事だ」

僕は言う。

「ラル。まるで実感があるみたいなことを、言いますね」

彼は、にっこりと笑う。なぜか少し切なそうに。
「僕は、苦手な人間をかぎ分けているだけさ。
例えば横文字や専門用語ばかり並べるやつだな。資料を噛み砕かず丸飲みしているのがバレバレだ」
「例えば」

「これにはカルシウムが含まれているからこういうふうに身体に良くて、しかもそれが何グラム配合されているから、とても良い」

「頭良さそうに見えますがね」

「カルシウムとは? なぜそれだけ配合するととても良い結果になる? 身体にいい根拠は? 細かく基本を聞いてみればいいさ。知る範囲の話をするわけではなく、
わからないなどと逆ギレするようなら、そういうことだ」

「なるほど」

「煙に巻くにはいいだろうが、難しげにしたがるということはそれだけの何かや知っている部分、自分なりの理解した内容を持つということ。
単語を並べただけなどと言えば余計惨めだからだ。
せめて最低限「覚えてない」などとは、吐かない。
知らないわけが無いからな」

ああ、そうだ、と僕は思い出す。

「東京では、全国の土産が買えるのか?」

「いきなりどうしたんですか」

「いや。ずいぶん前、海外旅行したという知り合いが買った菓子の製造時刻表示が、時差と合わなかったもので。

そういう輩も居るんだ。なかなか楽しい娯楽になるから、是非揺さぶってみるといいんじゃないかな?」
あのときは最高だった!と僕が腹を抱えて笑うと、キリエは、不思議なものを見るような目で僕を見た。

「笑いのツボがわかりません……」

「派手好きだが、頭は無かったらしい!」

知っているか、それもいい歳をしたおばさんでね、バブル時代の栄光を引きずっているような格好をしている。
見栄っ張りだが、張り方を間違えているみたいで可哀想な人なんだよ。
と言うとキリエはやや引き気味に、そして悲しい目で僕を見た。

「は、はぁ……でも詳しく考えず騙されてしまう人もいるのでしょうね。おれならいちいち確認しませんよ」

「そう、大抵の人はしない。
だからこそ、いい暇潰しになる。
これからは、ん? と思ったとき、考えてみるといい」


「そういえば、キリエ」

「はい」

彼が、ぱちくりとこちらを見る。

「まだ繋がっているか、通話」

彼は手にしていた携帯電話を見て、首を横に振る。

「さっきうっかり終了を押したみたいで」

「そうか。そのうち向かうと言っておいてくれるか」
「わかりました」


僕らの会話は一旦途切れ、二人でもくもくとホットケーキを食べる。
現代は管理社会といわれ、なにからなにまでバーコードや数字がある。
窮屈だが、探偵的にはやりやすいということだ。
そこまで言ってから、僕はふらりと机に伏した。
「いきなり大笑いしたから、疲れた」

力がうまくはいらず、頭がぼんやりする。
徹夜も効いたんだろう。
「体力無さすぎでは」

言われて、僕はじとっと上目づかいで睨む。

「それは、思っていた……眠いから運べ」

ぐったりして、キリエに手を伸ばす。


「昨日はしなかったですが」
「いーやーだ、布団で無いと寝たくない、眠い、寝る、でも動けない!」

駄々を捏ねていると、彼は諦めたように椅子の横までやってきて僕を持ち上げる。

「少しは体力を考えてくださいよ」

「僕は部屋の主人だ」

「……もういいです」


 寝かせられ、ついでにベッドに引きずり込む。呆れた声がしたが、彼はおとなしく布団に入ってくれた。最近は夢見が悪くて寝不足だったので、なんだかいい具合に落ち着きそうだった。




 次の朝、言われたアパートの一室に訪ねに行くと、出迎えてくれた彼女は想像よりは穏やかな顔をしていた。

「これ、あげます」

入るなり、チョコレートの箱を一箱渡される。
よく見るような、ありふれた2DKの部屋の中は、さっぱりと片付きあまり物が無かった。
 住人もこれまたごく普通の、線の細い素朴な少女だ。

「チョコレート? どうして」

僕が近付いて聞くと、彼女は苦しげに笑った。

「一番知られたくない人に作品を知られてしまって、その上にその人まで私を責めているんです」

「ええと、このチョコレートは」

「その人がくれました。作品に出てくるので」

手頃な値段の、有名なメーカーのものだった。
個包装されたチョコレートが沢山入っている。

「ああ、挨拶とお礼がまだでした、わざわざ力になって頂いて本当にありがたいです」

「きみは僕と似ているね」
僕は彼女に歩みより、にこりと笑う。

「そんなに、苦しそうに、絞り出すように礼を言わなくても構わないんだよ。きみに感謝されるためにやってるのではないんだ。僕は知りたいことを知りたい」
「知りたいことは、何ですか」

少し、間をおいたものの彼女は言う。
玄関先だったので、部屋の様子はわかりそうにないななど思った。少なくとも、清潔そうではある。

「まず、きみが一番苦しめられているのはそれだね?」

「えぇ。その人から何か渡されたり何か言われる度に、すべてが苦痛です」

なりたくなかったのに、と彼女は頭を抱えた。
泣きそうにも見えたが泣きはしなかった。
小さな頭はさらさらと流れるように黒髪が動き、うつ向く。

「作品に関連した言葉をいちいち、投げられています……一番、聞かれたく無い人から。気がおかしくなりそう」

彼女はかつての虐待の苦痛から逃れたくて、ああいった逃避を好んでいたらしい。そして、その当人に話題になったことにより知られてしまった。

「逃げようとするたびに……私のものに似た作品が逐一話題になるたびに、あのチョコレートを渡してくるんです。

あなたは何もしないで、一切見ないでと、何回か叫んでしまいました」

彼女の苦痛は、手に取るようにわかった。
「そうしたら、その人の知り合いがやってきて、こいつは充分に反省してる、って、だから、関わらせてやって欲しいと」

そういった問題ではないことはよくわかる。
少年少女の繊細な気持ちなどに、望まれもしないのに踏み入るものじゃない。
そっとしといてやるべきなのだ。


痛みから逃れた世界を、痛みに蹂躙され、思い出させられる苦痛とともに、思い出を手渡される――――

元凶になった詐欺師がいなければそれは起こり得なかったことだ。

「嫌だ、逃げたいと、何度も思ったんです。でも、私が逃げたら、あれが、『あの人』のものになっちゃう」

「それは辛いね」

「死んでしまいたかったの。でも、みんなのためだけではなくて、私、もう、その件のことで、例のひとに私の話題として関わられたくなかった」

話題にされることが嫌で、でも話題にならなければ存在が認知されなくて、死んでしまいたくて、でもそうしたら大事なものは消えてしまう。
七転八倒どころではない、なにかしらの苦痛を強制的に選ばなければならない。
まるでそれは、昔の僕だった。
 すみません、と彼女は目を覆う。少ししてやや赤い目で僕の後ろに居たキリエに挨拶する。

「瀬部くん、来てくれたんだね」

彼女が言うと、彼は恥ずかしそうにおじゃましてますと言った。

「なんか……いろいろ、その、おれ」

何を言おうかとあれこれ逡巡している彼をしばらく見ていた彼女は、この人誰? と僕を指し、聞いた。
「ああ、引っ越した家の、ご近所さんで、電話で話した通りの、なんかすごい人」

なんか?
まあいい、と僕は彼女を見た。
性的被害ではないとはいえ、彼女はいわゆるセカンドレイプのような状態なのだ。その上、今でもそれを思い出させられ続けて精神的な逃げ場が無い。

「周りの友達は差別するな、って言うんです。そのくらい受け入れろ、終わったことだと」
「終わらない痛みは、何かと創作と繋がることが多いよ」

僕は、遠回しな気休めを言う。

「どうしても何か嫌になったなら、僕を訪ねておいで。終わったことなんて言わないし、君にできることをするよ」

「優しいですね」

乾いた心がそのまま伝わるような、そんな返事だった。

「私が、嫌だと言うと、面白がる人からメンヘラ扱いされるので泣くこともまともに出来そうにありません」

ふふ、と笑う彼女は、本当に消えてしまいそうだ。被害者から無理矢理被害の話をさせて、その上に批判するというのは、どこででも聞く話だ。

「辛いね、本当に、きみは、よく耐えてる」

僕らは、ただ単純に生きようとしているだけで、一体どれだけのものを背負わなくてはならないのだろうか。
『あの頃』の僕にも味方は居なかった。本来なら自らを絶っていたっておかしくなかったが、死が許されなかったので、代わりに心が死んでしまったのだ。
うまく笑えるようになる頃には、大多数の他人の価値が塵のひとつに思えたし、天国で生きているかのようなふわふわした解離感のままで、生の実感などないままに、夢の中から覚めないかのように生きている。

視界に入る人間は、みんな似たようにしか思えないから、だからこそ僕は、似たようではない側の人間を探して、生きている自分を確かめようとしてしまうのだろう。
1割だけ、気分が場ちがいにも高揚してはいた。そして9割の同情があった。

部屋に来てください、と腕をひかれて、台所のあるスペースに行くと、そこのテーブルにノートパソコンがあった。

「書籍や漫画です」

彼女は、いくつかの本が載ったサイトのページを見せてきた。有志がネットで話題にしたのが幸か不幸か、彼女のセカンドレイプは世界的に広まっていた。
しかもいくらかは有名な作者が面白おかしくしている。もう少し、判断力のある人かと思っていた名前まで沢山あったので、僕まで驚いた。 死ぬにも死ねず、抗うにも抗えず、精神的な逃げ場もないのに、彼女はひたすら笑っていた。
まるで、取り繕うようだ。
「私、嫌なんです、これでまた、解決したとしたって今度はどうなると思いますか?」

商品価値の損害、宣伝の取り消しの損害、ありとあらゆる差別、当て付け……
浅ましい行動が起こす被害の大きさは、悲惨過ぎた。

「みんな、生活があるんです。わかっています」

「わからなくて、いいよ。おれらは、子どもじゃないか、そんなのに巻き込まれるなんておかしいじゃない」

瀬部が泣いている。
彼女すら、どうにか笑っているのに。

「『私は悪くない』とか、そんな詭弁では明らかに収まらないですよね。商品価値になっているんだから、沢山の人にたいして広めるわけでしょ、いい大人が、だけど」


それでも、それを読む人は、関わる人は、悪いわけではない、ということだろう。
なんと質の悪い。
「本当にそうだな、何もかもの元凶というのを作るのは、いい歳して幼い大人だ」
 お前なんか要らない、価値がない、消えてしまえと、叫んだ頃を思い出す。何一つするな、僕に何一つ関わるな。名前さえ口に出すな。目の前にだけは存在するな。今更のように崇拝をいいわけにして口をつぐめない大人は、世界で一番汚いし、今でも、消えてしまえばいいのにと思いそうになる。
それらが僕に触れるだけでも汚いからだ。過去を否定などさせないし取り消しなどさせたりしない。

「二番目に、残念なのは、『この世界』さえ既に汚れて見えてしまうことです」
画面に映る本をそっと指でなぞって、彼女は言った。
「なんだか、要らないものばかり、もらっています」
僕が抱えたままだったチョコレートを睨み付けながら彼女は言った。
「『その人』からでなければ、好きなものだったのに。ひたすらに、汚いものに見えるの、もうさわらないで欲しいのに、ネットがある限りは、嗅ぎ付けてしまうでしょうし」
現実では、それを許して笑うために吐き出そうと書いていた。前を向くためにあったものだという。
しかし境目が無くなっては、無意味だ。
手書きにすればよいのではないかと言おうとして思い当たる。
「紙にしてあった原稿が盗まれていたそうだね」


「ええ。部屋に置いておくことすらも許されないみたい」

あははと彼女は笑う。それは、息が詰まるような最悪だった。
「今の私が許されていることは、食事などの行為、朝起きて、昼間は学校、夜は寝ること。あぁ、あとゲームくらいですか」
「あまり、瀬部くんとも遊べなくてごめんね」
彼女は、あははと笑った。キリエは未だに泣いているのでそろそろ格好をつけて欲しいと思う。
「どういう関係で?」
「いろいろとあった知り合いです」

彼がどうにか我に返って言う。

「言葉は、心にだけ留めて欲しいのに、また『これ』さえ知られたら、ネタにされちゃうのかなぁ」

「大丈夫だ肝心なことだけは、一切、僕らも秘密にするから」

同情という言い訳で三回目の感情への暴力が行われる可能性もあった。
思い出すのも嫌なはずなのに、また商品になってしまっては、被害が続く。
事故の話を聞き、事故現場の映像を見せながら、大丈夫だと言って売り出す便乗商法が、災害時などにはよく流行るが、当人たちからは逆に嫌悪の対象として叩かれる場合もある。

気味の悪い自己満足に過ぎないからだ。


「なにもできない」 のだ。どうにもならない。僕らはせいぜい「邪魔をしない」くらいだ。なので、僕らのこの記録については、何割かは切り取ることにしているし記されることにも深く触れないで欲しいと考える。
彼女の内心などは僕はあまり触れないし、これさえも外側からの会話として、そして彼女の世話になった礼として、ファイルにできたギリギリだ。
「キリエ」
しばらくわたわたしていた彼に声をかけると、はい、と威勢のやたらいい返事が返ってきた。

「腹が減らないか」
「さっきホットケーキ食べたでしょ」
彼が呆れた声で言う。
「なぁ、彼女」
キリエを無視して僕は少女に笑いかける。
「これは、僕の恩人の言葉だが。知らん大人のどうでもいい都合背負わなくてもいいぞ」
「えっ」
少女は、きょとんとしていた。小さな顔がこちらを見る。

「大方、詐欺師が悪いし、判断力と良識に欠ける周囲がいけないんだ」
「あの……」
 彼女が、口を挟む。少し、悲しげに見えた。
「来て、くださってたということですよね? こんな小さな町にある学校の図書館なんて、ほとんど目につかなくて当たり前で。だから、お客さんでもあったんですよね」
僕は、ふっと笑って、その頭を軽く撫でた。
「そう、かもしれないな」
沢山のことに心を痛めなくてはならなかった彼女は、少しだけ寂しそうに、けれどやはり笑う。
「そうですよね」
それは、自分に言い聞かせるような、飲み込むような、そんな呟きだった。
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