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たくひあい

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内容を読んだが、と、僕はやっと笑おうとしている彼女に言わねばならなかった。
「まるで、君が築いたものを総じて揶揄するかのようだね」
 彼女は、ただ悲しそうに笑った。それがつとめだと言うようでもある。内容は、病気の誤解という理不尽な理由で仕事をクビになった主人公が、家庭に馴染めずに家を出て暮らしている話だった。しかし、極力絶望した風には描かない配慮がされていた。
本人曰く「どんな自分も愛して欲しいから」らしい。

「えぇ、ただの、参考程度とは違うんです……
まるで、作品としてさえ見られていない」

件の作者の方は、まるでそれをだらしがない行為のように描き、さらには錯誤を招くかのように彼女の作中の文章を一部だけ変え、大筋を真似ていた。
それが一番悲しいと彼女は寂しげに呟く。

「明らかに、意図を感じます。こういったものを作りたいとか、つい気にしてしまったとか、そういう感じをほとんど受けない」

サイトに挙げられていた大量のセカンドレイプよりも、なおのこと最悪だという。

「それに、まるで私のことのように被せて、弁護するかのようなことを言ってて」

キリエが苦しそうに呟いた。

「主人公の優しさが、なんだか少し、不自然ですよね」

正義感が強いが他人にはさほどキツくは言わない主人公が、物語の後半からいきなり犯人のことを
「確かにこの人は悪くて嘘つきで醜いけれど私は許す」 と言っている。

「犯人だとわかる途端に、敬称さえも無くなり、いきなり名字になる部分は好きだがな」

ハハハハ、と笑うと、キリエが笑うシーンじゃないと言ってくる。

「いきなりドライになる主人公にしては、お優しい」
その人の家庭がどうこうであるとか、まるで、彼女の知人のような書き方でもあった。

「いや、本当に知り合いなら真っ赤な嘘だとわかることばっかりなんですがね……私、こんなだらしなく見えますか?」

彼女は、困ったように眉を寄せる。少なくとも、妬んで閉じ込めたり、悪口を言うことを喜ぶようなタイプには見えそうにない。大勢のために文字通り命を懸けていた。
 これ、と言って彼女はパソコンから、その作者のブログ代わりのSNSを開いた。

「なんだか、気になっちゃって。たまにのぞいてたんですが、自己弁護みたいな呟きが急に増え出しています」

作品の雰囲気が変わるのは、作者の成長の成果だとか、そういったことが述べられていた。
これまでそんなことよりかは、他愛ない日常についてばかり記されていた内容だっただけに、いきなりのファンサービスが違和感がある。

「物は言い様だよな」

キリエが悲しそうに言う。その作者にはサポーターが沢山いる。恋は盲目というけれど、きっとすんなり信用しているだろう。
「成長の成果かもしれないけどそれならば、基本的なことには答えないのはどういうことでしょう? 自信を持っている感じはしませんが」

キリエが、送ったらしいメールがエラーになるのを見せてくる。
内容は彼女とは別人で赤の他人ですよね、という、ごく単純なもの。

 その日付の頃のページにアクセスすると、なにやら機械が故障したと述べてあった。

「有志からの問い合わせを恐れているようにも受け取れますが……」

物がいきなり壊れることは確かによくある。なんとも言い難いけれど的確なタイミングだ。

「成長ついでに言えば」
と、僕は鞄に入れていた文庫本を取り出す。

「働くことについてや、何か事情があることなどは悪いことではないという風に描かれていたな、こっちには」

数年前に出た同じ作者の、違うタイトルの本をひらりと振った。
久しぶりに読書をしたせいかとても新鮮な気持ちだった。

「短期間で、大した成長じゃないか。心境の変化について是非伺いたい!」

「一番に気になるのは、問い合わせられそうなタイミングにぴったりで、他人の言葉を紹介する方に力を注いでいるみたいな投稿ばかりになっているんですよ」

「成る程、自分の言葉では説明しない辺りが器用ですね」

キリエが言う。それはまるで支持者に自分を守らせている安心を得ているようだったから、案外有志たちの言葉が響いている気さえする。

まあ、私も騒がれないなら一番なんですが、比較されるのは苦痛です、と彼女は言う。
知られたくない人に知られ、逃げ場もない上に、その逃げ場に盗作被害まで被せられてしまいそうな姿は、確かに哀れ以外にはなかった。

「嘘か本当かは知らないけど、知り合いが、彼女からブランドのバッグをもらったらしいです……」

その当人の投稿には確かにブランドの名前が沢山出てくる。ちなみに、僕はそれなりに使えればいい。

「世の中、財力っすかね」
キリエが天を恨みそうなことを言っているし、なんだか空気が萎びてくる。わからないが、何か餌を与えて手なづけている人間もいるのだろうか。

僕は後頭部に手をあてて、吐きそうなため息を堪える。
 ブランドや金品よりも良い餌というのがあるなら何だろう?
僕はあまり世間に慣れていないので、釣り上げかたに苦心しそうだった。
 よくわからない何かに腹が立ったのと、朝から何も口に出来なかったと言う彼女の言葉で、僕はチャーハンと味噌汁を三人ぶん作ってテーブルに置いた。

三人で静かな昼飯となる。ホットケーキ数枚程度では僕は満たされないのだ。食器やカトラリーはもちろん拝借した。

「いただきます」
とそれぞれが口にし、食べ始める。味はいつも通り自分の味だった。うまいかどうかはわからないが、少なくとも苦そうな顔は二人にされていないのだから、それなりには食えるはずだ。

「そうだ、知り合いの夫婦の話なんですが」

と、彼女は言う。場をなごませようとしているみたいだった。

「ご主人の方が、事故にあったとき、入院中見舞いにきて気遣ってくれてたけど一ヶ月くらいしたらいなかった恩人に、手紙を出したくって、雑誌に手紙を出したらしいんですよ。
印刷とかの関係の仕事と聞いていたからって理由で!」

彼女が、クスクスと笑う。
「それもあって、連絡を再会したらしいんです」

「面白いですね」

ふふ、とキリエが微笑んだ。
「なんか、希望を捨てかけるけど、そういうなごむこともあるよねと思うと、ほっとします」

彼女もまた、会社や社会に不信感を抱かないようにと関連した優しい話を探して繋いでいるのだろう。そう思うと話に乗ってやるのが大事な気がした。

「今は?」

「結局互いに忙しいので、別々に過ごしたりするらしくて。主人の方は働いているし、彼女の方は身体が強くないそうなので、またそんな無茶をしたら面白いですが」

「確かに」

「と、この前ばったり会った彼女に言ったら『さすがにもう携帯は壊さないわよ』って! ふふふ」

そうだ、推理してみてください。と言われ、僕は戸惑ったが意図を理解して言う。

「入院中で出歩けなかったか、携帯を壊したことへの何か後ろめたいものがあって、連絡が出来なかったのだろうね。

買い換えたのがバレるからな。郵送したあたりからすれば他人に使いを頼む抵抗はなさそうだし、そうだな……」
やがて、はい、時間切れ!
と彼女は楽しそうに笑う。キリエは旦那さんから携帯もらったんだよと言っている。

「僕の予想では、きっと彼女は休みがちで人に慣れてなく、長い時間他人と部屋に詰められて契約する類いが苦手なのではないかな。
だから、買い換えに行けないのだけれど、連絡は一切つかない相手を心配した結果にそんな突飛に走った」

ギリギリに出した答えに彼女は「なぜそう思いますか」と聞く。

「家族とかには内緒だったのかな?」

キリエが言う。

「独り暮らしとか、訳があったのかもしれないよ」

「答えは、秘密にしときますね」

彼女は、ぱちんとウインクした。

「ただ、プレゼントというものは『喜んでくれたらいいな』という気持ちを願いながら贈るものです。だからこそ、それが届いたっていうのは素晴らしいですよね」

結果が当たり前ではないからこそ、通じる喜びがある。状況や価値というは人それぞれにあるものだ。
人々というのは細かい背景を知らないままに一概にタイプとしてまとめしまいたがる。
そうして批判する人がいるなら、恵まれている証拠なのかもしれない。

 ただ、背景を細かく紐解くのが僕の仕事なので、そういった『こういう人』だの『何県』だのと言いたがる批評家は、実に苦手だ。
ネタとしてや、冗談の大きな枠組みとしての楽しみには結構だし、僕も占いは見たりするのだが。
しかし探偵役はそういった主観にとらわれすぎて感情的になるのでは務まらないと、有名な探偵も言っていた。
事件には不必要なもの。
特に、相手を傷つける刃にするようであるなら、もはやそれは侮蔑さえ感じるだろう。


彼女からも、それじみた気概は感じなかった。
 そしてまた少し苦しそうにする。たびたび、ストレスになるらしい。

「例の人は、私のことに関わるのが好きなんです」

ふと、目に入った何かを見たのか瞳を曇らせた。この部屋は、そういえば彼女以外の他人の気配も少しある。食器も、色違いでいくつかあったし、カトラリーも4、5個。たまに来客のあるためだろう。

「調子がいい人だから、きっと、形勢が変わった方につくでしょう。そしたら次は俺は恩人なんだと言われて、威張るための出汁にするのかもしれない……もう、嫌だ」

解決したとしても、永遠に『その呪縛』は消えなさそうだ。
一度知られた時点で、いくらでもネットを介してアクセスされるだろう。彼女のプライドなど、既に崩壊していた。

「嫌な人というのではないんですが、だからこそ、当時に向き合えない。なのに永遠に続くんです。
その人自体が機械を見なくても、やろうと思えば友人からうまいこと聞き出して、見せてもらえる」
 私には楽園というものは無いのだとそう思う度に苦しいと言った。
周りはいい加減に向き合えなどと強制をするようだし、それが出来れば苦労などしないということが理解出来ないのが他人というものだ。

「チョコレートなんか、いりません。応援も要らない」

わざわざ傷に塩を塗り込みながら関わらせ、それを感謝せねばならないとはなんて残酷だろう。

「触ら、ないで、って言葉も言えないの。私をうつ病にしたがる人がいるから」

更には、見下した気持ちを持って言われるという。そういった差別はよく耳にする。
「病、家、環境、血液型、そういうもので他人を決めつけたがる人というのは、どこにも居るものだよ」

そして、それに優越を求めたい人というものも。 彼女は意思がはっきりしているし、周りのことも見ていた。なによりも悲惨な状態でもなお、強く自覚的に自身を保とうと努めているので、これと言った異変は僕には思えない。

「貴方たちが知りたいことは、知れましたか?」

「うん。大方はね」

僕が頷くと彼女もよかったと、薄くわらう。

「たまたま、記憶として脳裏に焼き付いてしまった映像を他人に話したら、幻覚だと勘違いされて医者に見せられたことが僕にもあった。だが、医者だって他人なんだ。神とは違うものだし、僕ともきみとも違うのだから。それは忘れてはならないよ」

「ええ、肝に命じます」

ふと彼女の靴箱の上に、サイコロの形のオブジェがあるのを見つけた。
芳香剤のようだ。

「サイコロというのは、不思議だね」

「え?」

「psychologyや他のものとかけて呼んでいると、よくあいつが言っていた。サイコロはあらゆる伏線のことだと。だから好きだとさ」

「はぁ」

手のひらにそっと、上着からお菓子を置く。

「昔、キャラメルをサイコロだと言って渡したら、『キャラメルでは無くて欲しいのはサイコロなんだ、一緒にまとめるな!』と、そう言ってるやつが居たよ。キャラメルはキャラメルで食べるけれど、サイコロとは分けて欲しかったみたいでな」

彼女がふふふ、と笑ったので僕は満足した。

 その日の夜は、なんだかひどく魘されていた。恐らくはストレスだろうと思うのだが、帰宅する頃にはかなり真夏のような気持ちになっていた。気分がやけに良く、逆に言うなら最悪だ。
 あれから、帰るなりばたんと倒れた僕を、キリエがかなり目を丸くして見ていて、近くのソファーに寝かせた。
「大丈夫ですか」

「身体が重たい、久々に遠出したから」

「ここから歩いて50分程の住宅街ですよ?」

「無理」

笑うと、笑わないでおとなしくしてくださいと言われる。頭がずきずきと痛んでいた。

「で、夕飯はどうしますか」
「食えるもの」

「大雑把だ」

当然のように世話を焼くキリエに僕はなんだか懐かしくなった。亡き面影でも見たのだろうか。
彼は、まっすぐに僕を映す。ああ僕は他人の目に映ることの出来る生き物だろうか。

「僕はね、人を恨んでいる」

ぽつりと、そんなことをこぼす。理由はない。
あったかもしれないが、こんな自分の様に戸惑ってほしかったのだろう。
「きみに僕がどう見えてるかは知らない。
だけどね。僕が笑うのは、あらゆる苦しみを苦しいと思うことから身体が逃げ出せないまま心だけが死んでしまったからだ」

彼はただ、じっとうかがうように僕を見ていた。そして、どうにか紡いだのはどうしてというたったそれだけだった。

「覚えてないが些細なことかもしれない」

彼は、少し、顔を歪める。思っていたより気丈だし、泣かないようだったので、また関心した。

「なにも感じないことこそが、本当の死なんだ。肉体なんかじゃない、だって死んでしまったら痛んだり苦しまない」

裏を返せば、肉体に縛られるまま生きることや体感するあらゆるものを受け入れられず苦しみ続けることではないか。

「ラルは」

 彼はやはり、じっと僕を見ていた。
ソファに横たわる僕はだいぶん発熱しているようで、なんだか意識がもうろうとしている。

「人自体が、憎いんですね」
僕は、答えない。
思ったより穏やかな答えだったので驚く。

「心なんか早く殺してしまえ。周りがなにも感じなくなればいい。殺人鬼なんかいらない、僕は苦しみながらも生きる他人を見ていたい。特に傲慢な偏見に生きるやつが転落する様を。殺したりしたら楽しめない」

「おれはなぜだか、貴方の復讐を、嫌いになれない」
彼は、ただそう言った。そして、距離を取ることもなくじっと寄り添う。
「話を聞いた理由だとしたって。おれや彼女は、それに救われたから」

僕は、なにも答えない。眠くなった。

いままでなかった経験だと、もやもやした温かい何かが身体に染みた気がした。けれどそれが何かは知らない。
不思議なままにぼんやり彼を見ていた。








 それからなかなかことが運ばないまま数日が過ぎた頃。
事態はさらに不思議な流れを見せていた。

「大変です!」

早朝、電話を片手に持ったキリエが部屋を訪ねてきたときにはそれは驚いた。
「さっき、電話があったのですが……これ」

今度発売されるという新刊の予告を見せられた。なんなんだ、僕は大体そこまで読書したいわけじゃない。

わざわざ、他人をむやみにおっかけねばならないとは。
少し、自己嫌悪しつつ、ベッドの中で、ある出版社のサイトとやらにあるあらすじを読む。

「詐欺に会った少女が、探偵と出会い……」

ほう、と僕はただそれだけの相づちしか打てなかった。
「おれたちのことまで、知られているようですね」

キリエが、ははっと笑う。
「まさしくホラーだな……体感型の」

 日付は常に記録しているからバレバレだし、さすがにこの事件のファイルにまで手を出されていたら病気だ。
嗅ぎ付ける早さが半端ではない。

少女の家に行く際、道を聞く過程であちこちを歩いていたから証人ならいるのだが……かなり度胸があるに違いなかった。
僕は数人に仕方なく連絡を取り、もし公表されたものが明らかな確信のある内容や雰囲気なら一斉に注意を促すようにと頼んだ。

 朝から気温は低く、窓からの空は灰色で、強く雨が窓を打ち付けている。今朝からなんだかぐったりしてしまいそうになるなと僕は思う。

「なぜだか、動向が知られている。本にしてしまえばこっちのものというわけか……あきれる手の早さだ」

顎に手を当てて、うつむく仕草をすると彼はタイトルを読み上げる。
「塩水のある惑星」だ。

「図太いのは結構だけど、たぶん内容の説明はろくに出来ないみたいですね……」

未だ返事はないだろうメールを見ながら、キリエが言う。そんなもの、答えるわけがないじゃないか。
 人は苦手だが、証人だけはしっかりと集めねばならないなんて、少女からしたら、なんとも嘆かわしい事態だと思う。

「そういえばこの前お会いした彼女ですが、今は見分けのために、友達に向けたブログをしてるみたいです」

「それで」

「彼女が少し、休むと、急にSNSが元気になるみたいで、気を張っているのがうかがえます。問い合わせがありそうなタイミングでは急に静かになるので、見ててください」

例えば今、このときみたいにだろうか。
などとジョークを飛ばせば、すぐさま出てきて元気になってもらえそうなのだが。

「しかし暇なのか、キリエ」
軽口を飛ばすと、彼がじとっと睨み、少し頬を赤くした。

「有志がみんなで、見守ってるんですよ! 明らかに不利なのに、彼女は耐えてたんですから」

僕は、ふわぁとあくびを堪えてキリエを見つめる。可哀想に、目立たず話題になりたくないのに、余計な騒ぎで引っ張り出されているのだ。

 少女を訪ねようということになり、朝10時にも関わらず連絡を入れる。彼女は休日の土曜日だったが、快く許可してくれた。

二人してドアの前で待っていると苦しそうな声がし始める。やがて、チャイムを押すと、彼女はやけに疲れた顔で出てきた。
「ああ、いらっしゃい」

「調子は、大丈夫か」

「いえ、心配させて、ごめんなさい。人には会いたい。けれどあまり外に出たくはなくて、来てくれて助かりました」

彼女は以前来たときよりも痩せていた。だが必死に笑おうとしている。

「どうして出たくない?」
「目につく広告も、目につくあらゆる本も、目につくテレビ番組も、目につく他人も……恐ろしいものに変容してしまったみたいで」

特に、駅とか、大きいお店には勇気が要るようになったと彼女は言った。キャラクターやら観光など、アピールする広告や、関連したものが沢山売られる場所だ。

町には宣伝と呼称して大量の彼女の「欠片」があった。商業と会社組織的なものが強く結びつくのを感じさせる。

「外を歩くだけで、息が、しづらくなったりもして。本屋の前で何度か吐きそうになったこともある。部屋にはそんなものが無いですけれど」

どこにもいけなくなっちゃうのかな、と彼女は呟いた。
それは僕には判断出来ない。台所で、二人して椅子に座らせてもらった。 彼女は、今これしかないですがと、あたたかいお茶を僕らに勧める。

お茶請けになるようなお菓子も、元気なときしか買いに行けないらしく、案外かなり強がっていたのだと知った。

「ご飯とか、なるべく今は自炊してるので、節約かもしれませんね」
 感情に入り込む視覚的暴力に常に晒されながら、町を歩くとはどういう気分になるのだろう。
見なければいいのではないかと思った。
彼女は言う。

「たまにね、『知られたくない人』が逐一、私にビデオを送って来たり、テレビの特定のチャンネルに合わせて私のそばで観始めるんです」

「それは、なにか知っているのではと、常に疑心暗鬼になるな」

 お茶には誰もほとんど手をつけていなかった。聞いているだけでも、心が痛く、それどころではないような気がしたのだ。
 しかも、よりにもよって、知られたくなかった当人の手からそれを見せられる苦痛というのは、チョコレートを一箱まるまま僕につき渡したことからも、相当だとわかる。
「私はこんなに、何もかも、嫌な方にめぐまれていいのでしょうか」

キリエが顔を歪めた。
そんなにまで、と言うようだ。彼の予想より傷が根深かったのだろう。

「家で、ときどき強制的に嫌な映像を見せられている私は、
外でも広告を目にすることや陰口に怯えながら出掛けて気が休まらず、家でも原稿が盗まれ、どこに居ても怯えるだけです」
さらに作中に出てくるお菓子を複雑な気分の当人から寄越され、応援のふりでもされるとなれば、かなりのコンボだった。ああ、周りの友人たちは、その苦痛を理解するよりかは許してやれと責めるのだか。


外で、カワイソー、と、ばか騒ぎが聞こえた。この家は盗聴でもされているのだろうか……
高級住宅でもなく壁が薄そうでもあるので、なんとも言えない。
「まだあるんですが今はやめておきます。だって、いつも強くありたいから」
 彼女は、そう言って立ち上がるとにこりと笑っていた。

「あ、そういえば『塩水』見ましたか?」

「ああ。あれは、明らかに意識しているな」

僕が言うとキリエが、悔しそうに顔を歪めて言った。
 しかも、販売も公にもしていないものから拾う作風はさすがに卑怯という気がした。
マナー違反である『晒し』と、横領に近いものを同時に平然とやってのけたようなものだ。
おおまかな主人公に、手を加えるだけで自分の作品にするのだからお手軽で、残酷だ。

「まだ最初の方はそうでもなさそうな気がするのに、突然変わった謎が、まず解けませんよね」

キリエが言う。
しかも参考にした程度というよりかは、大きく逸脱して攻撃的なのだ。
被せるようにして罵倒するかのような内容ならむしろ品性が幼くなってはいないだろうか。

「やはり、作者を自分だと言い張っているんでしょうか」

彼女は自分の本を握りしめて、寂しげに笑った。
「あの人、だから、気にしたのね」

「気にしたって何を?」と聞いているキリエに、彼女は内緒と言う。

「そうは思いませんか?」
そして僕に振った。
たぶんアレのことだろうと僕も頷く。

「そうでなければ、焦って取り繕うようにはしまい」
 少なくとも、作品内容ではなく、
『作者』のプロフィールや性格といったものについてばかり固執していような辺りからしても。
大事だったのは何か、よくわかる。

そして、非難や罵倒で時間を稼ぐ以外、濃度のある事実説明というものが出て来ないのではないか。
「貴方的には、少しずつ状況に変化を感じたのは。何をしていた頃からだ?」
僕が聞くと、少女は少し考えてから口を開く。

「たぶんですが、図書館でアリス展が企画されたときからです。ちょうど、開館した節目の記念日も兼ねてたみたいで、ちょっとした催しになっていました。そこに来られていたのかも……」

「それまでは?」

と、キリエが聞く。
彼は、持参したお菓子類を部屋のテーブルに並べていた。

「思えば、『あの催しがあるまで』は、静かなものだった」


成る程ねと言ってから、考える。
もしも『自分のものだと思っているもの』が目につくよう展示されている場所に、人が集まっていたら?
しかも、普段はあまり多くには目につかない、一部の地で、『自分ではない人のもの』として注目されているのを、見ていたら。

どうせ見つからないと、『そこ』に油断していたとしたら。

「それに安堵していたのなら、尚更、いままで築いてきたものが、崩れてしまうね」

「秘密だ」と本文で書いていた作者。だが秘密にしている場合で無くなるという矛盾した状況。

二つを一人として考えると違和感がある。
だが背反した事情が絡むなら別だ。
「私その方のも、いくらかは読んでいたんです」
彼女がふいにこぼす。

「瀬部くんとか……いくらかの子は、今もあの本を愛してくれていた。
あれを読んでいた後に、大人になって作家になった人も居たらしいの。
伝わるものは温かかった。だから嬉しくて、ただ見守っている気持ちでしたよ。なんだか、私の本を思わせるなと思ったときも、きっとそういう人かもしれないって、どこかで思っていたんですね。
まるで遠い親戚が増えたみたいな、そんな風に」

「焦って晒しを始めてまで自分の名に組み込む人だとは思わなかった?」

僕が言うと、彼女はどう答えるか迷うように眉を寄せた。
キリエが先に、二箱買ってきた苺入りのシュークリームを3つの皿に乗せた。大きめで、食べごたえがある。

「ただ盗むとか盗まないとか物みたいに扱われることがなんだか他人事みたいでした。なんの話だろうって実感なくて」

心であり、憩いであり、思い出だったのだろう。物のような形は無いけれどあたたかい記憶。

「汚さないでって、だけです」

彼女は、目を閉じる。僕が訪ねたこともキリエの心配にも彼女は感謝などしていない。
汚れたものを見せようとするだけ汚い事実を持ち寄るだけの、まるで清らかな世界への破壊者代役なのだから。
だから僕と似ている。知りさえしなければ、どう言われようが、知らないふりができたのに。
口にするすべてを彼女自身も、信じたくないだろうに。
事実を思い知らせ結びつける役というのは、本当に、その度に限りなく痛みを知る。

「僕やこの彼が知りたいからと。こんなに、つらいことを言わせてしまってすまないね」
彼女はただ、誰に聞かれてももはや同じですよと言い、ポットからお茶を注いだ。
「それに私たぶん、もう友達居ないので」
 きっとそれは何か、根回しがあったのだろう。
「今更戻って来ても、願い下げですよ」

 勘違いだとか騙されていたなどが慰めるのは、ただ単に当人の自尊心だけなのだからそれは当然のことだった。
裏切りや失望は、与えられた方にはなにひとつ変わりはしないものだし、単にそちらの状況を聞かされたに過ぎないではないかと笑ってしまう。
余計に傷ついた人々を苛立たせるだけなのだ。

「バカは何をしてもいい、というのがまかり通るのは僕もごめんだね」
つきりと頭が痛んだがすぐに止む。
「それは薄情では」
キリエがお人好しなことを言ったが、僕や彼女にはそれは真に受けがたい話だった。
「わかりませんでしたで済むなら、警察は必要ないよ」
僕があきれた目で言うと彼女もうなずく。
「知り合いさえ『騙されるのが悪い』って言うんですよ。だったら同じことを私も言います。騙されるのが悪いのに今更友達になれって、ふざけるなって」

場がなんだか、奇妙な空気に鳴る。

「だから気が楽になったんです」
彼女は、唇についたクリームをぺろりと舐めてから儚く笑っていた。
最も彼女を支えるのはこの孤独だったのだということに僕にも思い至る。
「誰のことも嫌いだったわけじゃないですよ、でも。仕方ないとか騙されているとか聞かされることになる友情ってなんです? いつでも調子のいいときに存在するに過ぎないとは思いませんか」

裏切られたのではなく、こちらからも願い下げたと把握することで、切り替わったのだ。
傷つくためのものなど、もう周りにひとつも残らない、と。
 返す言葉を考えたまま茶を一口飲む。
淡い緑の色の中に、僕の怠そうな瞳が映っていた。
「出会いも別れもある。だが幸い、失ったとしてもそれは関係だけだ」

僕も知り合いという知り合いや親戚という親戚が好きになれないので、せめてもの気休めだった。距離とは難しい。

「また、違う関係を築けるさ」
彼女は何を思ったのか、ちらりと僕やキリエを見て、それからぼんやりと窓の外を見つめた。

 黒くて尾の白い鳥が一羽、どこかに飛んでいき、チチチチと高い声がしていたのを見届けて小さく息を吐く。
それはどこか苦しげにも寂しげにも見えている。 今は辛いだろうと思うのだが、それは大多数が単に関わりもないただの他人以下の存在となり変わったに過ぎない。

ひとなど沢山いる。

 強さを探した決意を鈍らせるわけにもいかないのだから、僕も黙ってシュークリームの一口を唇の奥へと運んだ。
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