蛮神

今野 真芽

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有楽

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大樹の拘束から解かれた藤村は、有楽と呼ばれた女の足元に這い寄る。
「ああ、有楽様! 助けに来てくださったのですね!」
 恍惚としたその顔を、しかし有楽は、ハイヒールのつま先で蹴り上げた。仰向けに倒れた藤村の顔を、今度は踵で容赦なく踏みつける。
「馬鹿言わないで。この私が、おまえごとき下賤のもののために動くものですか。私は『神』の気配を感じて来ただけよ」
 そうして有楽は、雫を見て、分厚くぬめった舌で赤い唇を舐め取る。
「そして、ビンゴ。お久しぶりねぇ、お嬢ちゃん。何千年ぶりだったかしら?」
「……そんなに前じゃない。おまえが私から宝珠を奪ったのは、ほんの十年前だった」
 会話の意味が分からず、耀と静彦を見る。だが静彦もまた、意味が分かっていないようだった。
 有楽の唇が愉しそうに歪んだ。
「あら。奪ったとは人聞きの悪い。あれは先代の『水神』の器が私に預けたものよ。あのくそったれな村から逃げるためにね」
 雫はカッと目を見開き、烈しい口調で叫ぶ。
「嘘よ! 『兄様』が、私のことを置いていくはずがない!!」
 あはは、と有楽が高らかに笑う。
「あんたにだって、本当は分かっているんでしょうにね──まぁいい」
 有楽が、一歩ずつ雫に近づいてくる。まだ距離は遠いのに、それだけで圧迫感を感じ、耀の額に冷たい汗が流れた。有楽の力は未知数だ。だが、これまで会った誰よりも強いことだけは間違いないと、本能が言っている。耀は──身体の内から沸々と、まるでマグマが湧くように、滾る己を感じていた。ドクンドクンと、全身で歓びに血が脈打つのが分かる。耀が何よりも求めていた、それは死闘の気配だ。手の中の剣が脈動している気がする。剣と耀の脈動が合わさり、同調する。耀のものとも『蛮神』のものとも分からない声が頭の中に谺する。
 ──戦いたい。戦いたい、戦いたい、戦いたい。この身が塵と滅ぶまで──!
 そんな耀の肩を引っ張る手があった。静彦だ。
「耀。逃げるぞ、今の疲弊した俺たちで勝てる相手じゃない」
 逃げる。それは、耀の中に滾る熱情には、あまりにそぐわない言葉だった。胸の闘志は、すでに心の臓を焦がし、もはやいてもたってもいられない。耀は抱いていた雫を地面におろした。
「おまえが雫を連れて逃げろ、シズ。──俺は、戦う!」
「耀!? 馬鹿、敵う相手じゃない……っ!」
 静彦の声を背後に聞きながら、耀はすでに駆け出していた。弾丸が放たれるような速度、目の横で景色が凄まじい速度で流れていく。とうてい普段の耀に出せる速度ではない。剣を握った手が熱い。かつてないほど、『蛮神』と同調している己に自覚はある。
 耀の目に映るのは、ただ有楽のみ。嫣然と微笑うその紅い唇に惑わされることはない。それは耀にとって、ただ『敵将の首』、狩るべき獲物にすぎなかった。
 一瞬にして距離を詰め、その白い首に剣を振り下ろす──はずだった。否、実際に振り下ろした。だが、まるで鋼鉄を斬ろうとしたかのように、剣ごと弾き飛ばされ、背から地面に落ちた。
 本能で立ち上がり、飛び退れば、先程まで耀が倒れていた地面が抉れる。見れば、有楽が人差し指をブラブラと振っていた。その遊びのような指の一振りで、耀に攻撃をしたらしい。
 有楽は綺麗に紅く塗られた爪を、唇に当て、うっとりと微笑う。
「ああ、思い出した、その剣。遠い、遠い昔に会った、外つ国から来た神。なかなかの良い男だった。一夜くらいお相手願いたかったけど、そこのお嬢ちゃんと『水神』に入れ込んでたのよねぇ。まぁ、戦うのは戦うで、刺激的で良かったけど」
 そして、耀の姿を矯めつ眇めつする。
「ふぅん。今回の器はまだお子ちゃまだけど、面差しは似てるじゃない。育てば、いい具合に『彼』に『成れる』でしょうね。見る目あるじゃない、お嬢ちゃん。──生贄を見る目が、ね」
 雫が目をそらす。生贄、という言葉の意味は分からなかった。
 だが、耀の脳裏に浮かぶ光景がある。それは『蛮神』の記憶だ。
 それは、深い森の中だった。澄んだ小川の水面を日差しが照らして輝き、その畔には背の高い青年と、まだ幼い少女が手を繋いで立っていた。二人は兄妹なのだと知っている。二人を、その繋いだ手に宿る絆を、何より尊いものだとそう思った。
 『蛮神』の記憶の中の兄妹が、耀の脳内で、背後の静彦と雫に重なる。
 ──戦いたい。守らなければ。戦いたい。守りたい。戦って、守る。
 全身の血が沸騰するように熱くなる。剣もまた燃えるように熱く、剣と身体は、同じ脈動を打つようだった。
 耀は地面を蹴り、再び剣を振る。今度の一閃は、有楽の頬に、ほんの一筋傷をつけた。ひと雫の血が有楽の頬を流れ、有楽はそれを愉しそうに舌で舐め取った。
「──へぇ?」
「有楽様!」
 有楽に蹴り飛ばされたまま起き上がれもせずにいた藤村が、悲鳴を上げる。
 有楽が指を鳴らす。それだけで、藤村の身体が一気に膨れ上がった。それはまるで、筋肉でできた球体のような奇怪な姿だった。
「藤村。私はこっちの坊やと遊ぶから、お嬢ちゃん達を逃さないように」
「──はっ」
 藤村がその巨体からは考えられない疾さで雫に飛びかかるのを、静彦の刀が止めた。獣のごとく伸びた藤村の爪と、静彦の刀が鍔迫りあいになる。だが、静彦は力で押し負けていた。だが、そんな劣勢の中でも、静彦は耀に向けて声を上げる。
「耀! 『蛮神』と同化しすぎるな! 危険だ! 今は逃げることを優先しろ!」
 逃げる? 冗談じゃない。『前回』は仕留めそこねた。それでこんなことになっているのだ。『今回』こそ、仕留める。
 思考を『蛮神』のそれに上書きされていく。かつて、古い古い時代、『蛮神』は有楽と対峙した。その時の記憶が蘇る。有楽の姿は変わらない。纏っている衣こそ当時は粗末な麻の襤褸だったが、その豊満な身体も、妖艶な唇もそのままだ。
 そんなはるか昔の再演のように、耀は剣を構えた。
「耀!」
 静彦の声が、どこか遠い。周囲の動きが、やけにゆっくりと感じられた。耀は──あるいは耀ではない誰かは、剣を振り上げる。目の前の美しい女の脳天目がけ、それを振り下ろそうとした瞬間。女が悪戯な笑みとともに頭上に掲げた、その透き通った水色の珠の輝きが目に入る。同時に、何かが身体に絡みつき、地面に引き倒された。有楽ではない。耀は有楽の気配の一挙一動を見据えていた。針の先程の動きであろうと見逃さなかっただろう。
 耀の身体を拘束しているのは、植物の蔓だった。振り返れば、雫が青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「耀……その宝珠を壊さないで。それは、それは私の大切な……」
「『お兄様』の核、ですものねぇ」
 有楽がコロコロと笑い声を上げる。そして、眼光を鋭くした。
「私とともに来なさい。そうしたら、この宝珠はあなたに返すと、この有楽の名にかけて約束しよう」
「……っ」
「迷うことなんかないでしょう? 兄神と『蛮神《その友》』を取り戻すために、何人もの生贄を犠牲にしてきた無慈悲な姫神よ」
 話の意味は分からなかった。だが、雫が動揺している気配がして、耀は拘束を振りほどこうともがき、全身を巡る力をさらに高めようとした。
 が、その時だった。凄まじい激痛が耀を襲った。
「がぁ……っ!! ああ、あ、ああああっ!!」
 まるで、全身を粘土のように捏ねられ、無理やり作り変えられているような痛み。全身が焼け付くようだ。
「耀っ!」
 いまだ藤村と鍔迫り合いを続けていた静彦は、覚悟を決めた瞳で唇を引き結んだ。一瞬の後、静彦の刀が青く輝く。同時に、静彦の腕が青く変色していき、その肌に鱗のような紋様が浮かんだ。その瞳もまた、水の青に染まっていく。
「──どけ」
 静彦の声で、『誰か』が静かにそう言う。
 先程までの苦戦が嘘のように、藤村はあっさりと弾き飛ばされた。静彦の身体がふわりと浮くように跳び、耀の傍に降り立った。耀の額に、掌が当てられる。それはまるで死人のように冷たい感触だった。
「友よ。再びの眠りにつけ。君はその少年を壊すべきではない」
 耀の身体に流れ込んできたのは、凪いだ湖が僅かに風にさざめくような、優しく澄んだ力の流れだった。痛みが引いていく。身体が、意識が、耀自身の輪郭を取り戻していく。
 まだ荒い息をつきながら耀がなんとか顔を上げると、静彦の頬の半ばまでが青い鱗の紋様に覆われていた。静彦はまっすぐに雫を見ていた。雫は泣きそうな顔で、静彦に駆け寄ろうとする。
「──『お兄様』」
「愛しき我が妹よ。もうやめろ。もう、過去への妄執にとらわれるな。おまえは前に進め」
 そう言った後、静彦の肌を覆っていた青い鱗は消え失せ、静彦は地面に膝をついた。
「……なんで、そんなことを言うの……」
 雫は泣きじゃくる。
 耀はわけも分からず、苛立ちから舌打ちをした。
「なんなんだ。なんなんだよ、一体これは。俺の身体は何がどうなった。シズ、おい、おまえ大丈夫なのかよ」
 静彦が、苦しげな息の中から、僅かに目を見開いて耀を見る。その表情からは、すでに先程の超然とした雰囲気は失われていた。
「耀……おまえ、聞いていなかったのか」
「だから、なにがだっつーの!」
 カツン、とヒールを鳴らしたのは有楽だった。紅い唇を愉しげにひん曲げて目を細め、彼女はにんまりと笑う。
「説明してあ・げ・る。古き神の魂魄はそりゃあ強大でね。一旦同調してしまえば、人の魂など耐えられるものではないわ。力を使い続ければ、どんどん人格が飲み込まれていく──乗っ取られていく。そして、そこのお嬢ちゃんの目的は、あなたを生贄に『蛮神』の人格をこの世に取り戻すことなの。そして、そこの可愛い顔した坊やを生贄に『水神』を取り戻す。そのためには、この『水神』の宝珠が必要ってわけ」
 嫋やかな手の中で、宝珠が弄ばれる。それを雫は唇を噛み締めて見つめていた。
「『水神』の器の坊やは承知の上のようだけど、『蛮神』のキミは、どうやら知らずに利用されたみたいね? 悪辣だこと、どっちが鬼なんだか」
「──『兄様』を! そして『蛮神』の身体を、砕いて失わせたのは貴様だろう!」
 雫の激昂に、有楽はびくともしない。
「何千年前の話よ? 時効でしょ、じ・こ・う」
 周囲の木々がざわめき出す。雫の怒りに、憎しみに反応しているのだ。
「『蛮神』の生贄の坊や。もう一つ、このお嬢ちゃんの嘘を教えてあげる。このお嬢ちゃんはね。姫神の器なんかじゃないの。姫神そのものなのよ。この幼い身体で、何千年も生きてきた、正真正銘の古き神」
「え……」
 耀は呆然と雫を見る。雫は泣きそうな顔で、下を向いていた。
『──光吉村にも私の遊び相手がいたの。そう、何人も、何人も──。でも、みんな、私を置いて行ってしまう』
 かつての晩聞いた、雫のそんな言葉を思い出す。
 それが、何千年もに渡る彼女の生において、沢山の人の命を見送ってきたと、そういう意味だったとしたら。
 それはとても、孤独なことに思えた。
「あら? それは、『水神』の坊やも知らなかったみたいね」
 振り向けば、静彦も呆然とした顔をしていた。有楽はため息をつく。
「このお嬢ちゃんの悪辣さに比べたら、私なんて可愛いもの。今や、宮仕えの身だもの。──森は開発し尽くされ、街灯が夜闇を照らす時代。もはや鬼とて人と関わらずには生きられぬ。まつろわぬが鬼なれど、時代の趨勢とはかくも残酷なものよ──って、色々交換条件つけて、なんだかんだ好きなようにやってるけど?」
「宮仕え──だと?」
 思わず聞き返した静彦に、有楽は頷いた。
「そうよ。その時々で政府に協力しているの。藤村に力を与えてやったのは、文部科学省の依頼ね。校内暴力といじめ問題の沈静化のために、この学園を実験台にしたわけよ。──まぁ、もう十分データが取れたのと、藤村が勝手な行動を取り始めたことから、この実験はさっき中止が決まったわ」
 そんな、と藤村が悲痛な声を上げようとした時、有楽は指を鳴らした。膨れ上がった藤村の身体が、そのまま破裂した。血と肉が飛び散る。
 耀の一部は、血の匂いと、そのあまりに簡単な死を慣れ親しんだものと認識し、別の一部は激しく嫌悪した。
「で、別口の依頼も来てるの。それは、古き神の大いなる力を政府に集めること。それは未だ姿を変えて夜の世界に跋扈する妖《あやかし》達に政府の権威を示すためだけど──植物を操るお嬢ちゃんの力なら、緑化に薬学研究、色々応用が効く。政府も欲しがってるの。光吉村の連中、年々、姫神の力の報酬を吊り上げていくもんだから、政府にも強硬派がいてね。こうして獲物が口の中に飛び込んできてくれたのも、何かの縁。一緒に来てもらいましょうか」
「──行くわけがないでしょう!」
 雫は自分の身を庇うようにして叫ぶが、有楽は肩をすくめる。
「来てもらうのよ。無理矢理にでもね。なんで私が、こうも長々とおしゃべりをしていたと思うの」
 有楽がそう言った途端、黒塗りの車が何台もその場に集まり、全方向を塞ぐ。車からはわらわらとスーツ姿の男たちが下りてきて、雫を取り囲んだ。
「……しず、く……っ」
 耀は力の入らない手で剣を握り、なんとか起き上がろうとする。
 それを有楽は蔑んだ目で見下した。
「呆れた。騙されてたんだって教えてやったのに、まだこの娘を庇う気? ──ああ、まだ『蛮神』が残ってるのかしら」
 次の瞬間、ハイヒールの踵に踏みつけられ、耀の右手に強い衝撃と痛みが走る。
「ぐあ……っ」
 思わず剣を取り落した。その剣を有楽が拾う。必死に睨みつけるが、待て、やめろ、という声さえ痛みで言葉にならない。
 次いで、有楽は静彦に歩み寄り、やはり力の入らない様子の静彦から刀を奪った。雫を振り向いて微笑う。
「さ、生贄くんたちにさよならを言ったら? 新しい適合者は政府が探してくれるわよ、あんたがいい子にしてたらだけど」
 そんな言葉を合図にしたように、黒服の男の一人が雫の肩に手をかける。うつむいていた雫が顔を上げ、耀を見る。その瞳に涙が光っていた。
「耀ぅ……っ」
 雫は男に引きずられるまま、黒塗りの車に押し込まれていく。
「し、ず……」
 エンジン音が遠ざかり、後には沈黙とともに、耀と静彦のみが残された。
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