マリカとリカの夏休み

今野 真芽

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まだつぼみのバラよ

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 その晩、ご飯を一膳しか食べなかったマリカのひたいに、田中さんが手を当てて言った。
「熱があります」
 すぐ、自室に寝かされた。田中さんが氷枕を用意してくれ、フトンに加えて毛布もかぶせてくれた。里香もようすを見にきて、心配した顔でマリカを見つめていたが、けっきょく何も言わずに帰った。おじいちゃんも来たが、マリカはおじいちゃんと目を合わせることができなかった。
 頭の中では、今日おじいちゃんの書斎で聞いてしまった会話が何回もくり返し再生される。
 おじいちゃんが、盗作をしようとしている。里香のおじいちゃんが書いた小説を、自分の名義で発表しようとしているのだ。
 『藤の花』のことを思い出す。あんなにすてきな小説を書けるおじいちゃんが、なんでそんなことをするの? あれは、おばあちゃんとの思い出を書いた小説だって言っていた。もしかしたらそれもウソで、あれも誰かの作品の盗作だったの──?
 嫌な考えがぐるぐると頭をめぐる。
 そして、マリカは一つの問いにたどりついた。
 ──私は、どうすればいいんだろう。
 おじいちゃんが盗作をしてますって、警察に通報する? でも、誰が信じてくれるだろう。証拠があるなら、里香の両親がとっくに通報しているはずだ。
 でも、このまま放っておくわけにはいかない。それは絶対だ。だって──里香は傷ついている。マリカだって、傷ついている。これが明るみになれば、おじいちゃんのファンの人だって、死洞霊夜のファンの人だって、きっとたくさんの人が傷つく。
『マリカ、こまったときにはね、勇気を持って、自分が正しいと思うことをするんだよ』
 死んだパパの言葉が思い出される。
 だったら、私は止めなきゃいけない。ここで正しいことをしなければ、この先ずっと、その重みを背負って生きていくことになる──。
 たとえ、それでこの家にいられなくなっても。行く場所が、どこにもなくなっても。
 そう思ったとき、マリカは、自分がどれだけ、彰明館での生活を楽しんでいたのかに気が付かされて、涙が一粒こぼれた。
 ママがマリカを置いてあちこち出かけるのは、マリカを一人前の大人として信用してくれてるんだって分かってる。マリカを愛してくれてるのは間違いないってことも。おばあちゃんが、マリカをいつまでも赤ちゃん扱いするのだって、きっと愛情の裏返し。
 でも、彰明館では、マリカは背伸びした大人でもなく、赤ちゃんでもなく、等身大のマリカとして、おじいちゃんや田中さんに受け入れてもらえているような気がしていた。そして、いつしか思っていたのだ。──里香みたいな姉妹がいたら楽しかっただろうな、って。
 カタン、と音がする。猫ドアが開いて、ミケが部屋の中に入ってきた。そのまま、マリカのフトンにもぐりこみ、なぐさめるように、ほほをペロリとなめてくれた。
 マリカはボロボロ涙を流しながら、ミケの温かな体を抱きしめた。

 翌朝目を覚ましたマリカは、すっかり熱が引いていた。パジャマ姿のまま、その足で里香の部屋に向かう。
 ノックをして、返事を待たずにドアを開ける。フリルのついたネグリジェすがたの里香は、びっくりした顔でベッドの上にすわっていた。
「里香。おじいちゃんたちを止めよう。里香のおじいちゃんの遺稿を、取り戻そう」
 マリカは里香に自分の決意を告げ、その目をまっすぐに見た。里香は、マリカの目を見返し、真剣な声でたずねる。
「いいんですの? あなたのおじいさまを、犯罪者として告発するんですのよ」
「でも、それが正しいことだよ」
 しばしの沈黙があった。そして、マリカと里香は、二人同時にうなずいた。おたがいに、おたがいの決意が本物だと分かっていた。

 翌週。編集者の佐藤さんが来る日、二人は再びおじいちゃんの書斎に忍び込み、机の下に隠れた。
「悪いね、何度も来てもらって」
「いいえ。印税も含め、手続きはすべてうまくいっています。いいご報告ができて、僕も嬉しいです。──あ、これ、いただいた原稿をパソコンで打ち直して、プリントアウトしたものです。いやぁ、今どき手書きなんて、死洞先生も本当にアナログな方でしたねぇ」
「ああ。だが、傑作を書く男だった。この作品もきっと、大ヒットになるだろう」
 その時、二人は机の下から飛び出した。
「おじいちゃん、もうやめて!」
「おじいさまの原稿を、返して!」
 マリカはおじいちゃんにすがりつき、里香は佐藤さんの手から、原稿の束を奪い取る。
「マリ⁉ リカ⁉ 一体、どうしたというんだ!」
 おじいちゃんは目を丸くするが、マリカはしっかりとおじいちゃんの腰に腕をまわして離れない。
「どうしたもこうしたも、悪いことはやめてよ、おじいちゃん!」
「そうですわ! 私のおじいさまの原稿を、自分の名義で発表しようなん……て……?」
 里香の語尾が小さくなっていく。その目は、原稿に──その一番上の、タイトルと著者名に注がれている。
「『まだつぼみのバラよ』、紫藤《しとう》……玲哉《れいや》……? おじいさまの、本名……?」
 おじいちゃんが、やれやれ、と頭を掻いた。
「おまえたちが、どんな誤解をしていたか、なんとなく分かったぞ。説明するから、着いてきなさい」

 応接室に移って、おじいちゃんはマリカと里香に、全部話してくれた。
 死洞霊夜、本名紫藤玲哉は人気のホラー小説家で、たくさんのお金も持っていた。だが、自分のお金を当てにして、ぜいたくざんまいをする息子夫婦のことがいつも心痛の種だった。何よりも、孫娘が心配だった。息子夫婦は、ぜいたくをすることに気をとられて、孫娘の里香のことは放っておきがちだったのだ。紫藤は、自分の死期を悟り、遺言状を書いた。最後の作品、『まだつぼみのバラよ』の出版についてはすべて親友の黒澤彰一郎に一任すること、印税はすべて孫娘の里香のものとし、里香の成人までは彰一郎に管理を任せること、ペンネームは今までの死洞霊夜でなく、本名の紫藤玲哉にすることなどが、そこには書かれていた。
 祖父の遺作の印税を大いに期待していた里香の両親は、ひどく怒ったが、遺言は正式なもので、おじいちゃんもまた、親友の最後の望みを叶えるべく、弁護士や出版社と相談しながら、出版の手続きを勧めてきたのだ。
「そんな……おじいさま、私にはそんなこと、一言も……」
 里香が涙を一粒こぼす。おじいちゃんは、そんな里香に笑いかけた。
「きっと、照れくさかったんだ。もしくは、びっくりさせたかったのかもしれない。この『まだつぼみのバラよ』はね、ホラー小説じゃないんだ。愛する孫娘を見守る祖父の心情を描いた、とても優しい物語なんだよ。──この作品だけペンネームを本名にしたのも、そういう理由なんだ」
 とうとう里香は、ワッと泣き出した。おじいちゃんがその頭を優しくなで、マリカがその手をにぎった。
 そしておじいちゃんは、マリカに苦笑を向けた。
「きみは、アキナには似ていないと思っていたが、その思いこむと一直線なところは、本当に似ているなぁ」
 その言葉に、マリカはたしかに、おじいちゃんのママへの愛を感じたのだった。

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