龍の軛

今野 真芽

文字の大きさ
上 下
3 / 11

客人へのもてなし

しおりを挟む
 この城に火を入れたのは、城を砂漠に移してから初めてだ。
 白月自身は龍の力を取り戻してから、寒さも暑さも平気になったし、身体を清めるのは、池で水浴びをすれば済んだ。だが、この少年達には明らかに火と湯浴みが必要だった。
 火に当たり、湯浴みを済ませた少年は、白月が箪笥から引っ張り出した清潔な服を着て、こざっぱりした格好になった。そうしてみると、白皙の顔に長いまつげを持つ、随分な美少年だった。
 妹の方は具合が悪そうだったので、少年が湯浴みをしている間、白月が湯に浸した布で身体を拭い、着替えさせてやった。こちらも、少年によく似た美しい容姿をしていたが──その顔の半ばを覆う灰色の鱗がそれを台無しにしていた。また、白月は少女を着替えさせた時、その背に生えかけた羽根を目にしていた。
 少年は、寝台に横たわる妹を、目に涙を浮かべて見つめた。
「妹は今年で四つですが、一ヶ月ほど前、突然こうなったんです。龍になりかけているのだと、村の長老が言いました。うちの村には、何十年かに一度、そうした者が現れるのだそうです。でも、妹は苦しむばかりで。龍に成り損なった者は災いを呼ぶと、村を追い出されて、それであなたの噂を思い出して」
「本物の龍である私に、助けを求めに来た、というわけか」
 事情は分かった。が、突然やって来た面倒事に、白月はため息をつくしかなかった。少年は、ぐっと息を飲み込む。
「俺にできることなら、なんでもします。──どうぞ、俺の魂を奪ってください。それで妹が助かるなら──」
 それは壮絶な覚悟を感じさせる声音だったが、白月は首を横に振る。
「いや、君の魂とか、別にいらないし」
 少年が愕然とした表情になる。
「『砂漠の魔龍』は、旅人の魂を奪っては魔術に使うのだと聞きました。俺の魂では、魔術に使う価値がないのでしょうか!?」
 白月は頭を抱えた。なぜそんな噂が広まっている。きっと、虹蛇王国の奴らが白月の悪評を広めたのだろう。あいつら、今度来たらもっと甚振ってやる。
「そもそも、その噂が間違っている。私は人の魂など取ったことは無いし、必要としていない」
 少年の目に絶望が浮かんだ。
「そんな……俺、代わりに差し出せるものなんて……」
 白月はため息を吐いた。今度のため息は、諦めのため息だった。
 虹蛇王国の王家との契約により、龍宮一族が龍の姿を取らなくなって、数百年。人間との混血も進み、白月のような血の濃い例外を除き、そもそも龍の血も薄くなり始めた。他の龍の一族たちとの交流もとうに絶えていた。
 が、それでも、龍としての矜持と心得は、一族に連々と引き継がれていったのである。
 曰く、龍は、ひとたび契約を交わしたならば、命をかけてそれを守らなければならない。
 曰く、龍は、同族から助けを求められた時は、それに応じなければならない。
 ──そして今、同じく龍の血を引く少女が、間違いなく白月の助けを必要としているのだ。
 白月は立ち上がる。少年は白月が立ち去るものと思ったのか、その寝間着の裾を掴む。
「お願いです──!」
「今日はもう遅い。休みなさい」
 白月はぴしゃんと告げた。
「君の妹を助ける方法は、明日から調べるとしよう──君と妹の名前は?」
 紫蛇しだ虹音にじね、と少年は応えた。

 ちょうどその頃。紫蛇と虹音が『砂漠の魔龍』を目指して旅立った村には、一人の来訪者があった。来訪者は重々しい鎧兜を身に纏い、老村長の首に短剣を突きつけていた。
「紫の瞳をした少年と、その妹だ。どこにいる」
「成り損ないは災いを呼ぶ、その二人は数日前に追い出して──どこへ行ったかも分からない」
 老村長は、皺だらけの顔を恐怖に歪ませながら答えた。
 来訪者は、チッと舌打ちをして、外の嵐を見た。来訪者自身も、ここに来るまでにずぶ濡れになっていた。この上、この嵐の夜に砂漠を越えるなど、正気の沙汰ではない。子ども達は、すでに死んでいるのだろうか──?
 男が子ども達の立場ならどうする? 助けを求めて、『砂漠の魔龍』のもとを訪ねるか? いや、人の魂を喰らうという恐ろしい魔龍だ。よもや近づきはしまいし、近づいたとしたらすでに殺されているだろう。
 もし生き延びているとしたら、妹が龍に『成った』時だ。その場合、彼らの行くであろう場所は分かっている。
 一ヶ月後の『龍の宴』。男もまた、そこへ向かうしかないようだった。


 翌日は、カラリとした快晴だった。普段なら、喜び勇んで空を飛び回り、砂漠に一時だけ張った水鏡に、自身を映して遊ぶところだが、白月は図書室に籠もって、龍になりかけの子どもを世話する方法を探した。
 幸いにも、すぐに該当する記載が見つかった。
「分かったよ」
 そう言えば、脚立の下から不安げに白月を見上げていた少年は、パッと顔を輝かせた。
「本当ですか!?」
「ああ」
 白月は脚立から飛び降りると、紫蛇とともに、虹音を寝かせている部屋に向かった。廊下を歩きながら説明する。
「つまり、すでに龍に成った大人の龍が、子どもに魔力を注ぎ込めばいいんだ。やったことはないけど、私で間に合うだろう」
 虹音の部屋の扉を開けば、虹音は寝台に横たわり、苦しげな息をついていた。白月は寝台の端に腰掛けると、虹音の小さな軽い身体を抱き上げ、膝に載せた。虹音の小さな手を取る。
 己の身体の中の魔力を高めていき、それが繋いだ手から、虹音の身体に流れ込んでいく様子を想像する。しだいに、ひんやりと冷たかった虹音の手が、ぽかぽかと暖かくなった。
 虹音が目を見開く。白月はその瞳を見て驚いた。それは、『虹音』というその名の通りの虹色をしていたのだった。顔を覆う灰色の鱗はそのままだったが、頬の血色はよかった。
「虹音!」
 紫蛇が妹に飛びついて、その身体を抱きしめた。
「……おにいちゃん……ここ、どこ……?」
 ようやく明瞭な意識を取り戻したらしい虹音は、きょろきょろと辺りを見回した。そして、きゃっきゃと愉しげな声を上げた。
「おにいちゃん、おっきい蜘蛛がいるよ」
 この城には白月だけだ。掃除婦などいない。当然、掃除は行き届いておらず、天井には蜘蛛の巣が張って、そこから垂れた糸に、大きな蜘蛛がぶら下がっていた。
 白月は少しうろたえて頭を掻く。招かれざる客とは言え、客人に対して、このような部屋では龍宮家の格式が問われよう。
「あー……すまない。今日のうちに蜘蛛は追い払って、掃除はするから」
「あ、僕がやります!」
 紫蛇が勢いよく言う。
「いや、しかし仮にも客人に、そんなことをさせるわけには」
「いいえ、居候の身です。どうか客人などと考えないでください!」
 そう言い募られたら、白月としても無碍には断れない。掃除が面倒くさいという気持ちも、もちろん否定できないが。
 紫蛇は心配そうに、いまだ妹の顔に浮かぶ鱗を撫でている。
「虹音が龍に成るには、まだ時間がかかる。一月くらいかな。その間、私が毎日虹音に魔力を注ぐよ。まぁ、君たちはゆっくりすればいい。今、食事を用意するから──」
 そう言いかけて、白月は思い出した。
 そういえば、食材もない。

 その日、砂漠を旅していた隊商の一行は、突然足元に落ちた影に驚いて空を見上げ、そして仰天した。巨大な真珠色の龍が、翠色の目をぎょろりと蠢かせて、一行を見据えていたのである。噂に聞く『砂漠の魔龍』に間違いなかった。
「ぎゃああああああっ!!」
 一行は悲鳴を上げ、馬を走らせ、脱兎のごとく逃げようとした。だが龍はそれを追ってくる。
「待て待て待て、待ってくれ。危害を加えるつもりはない。ただ、貴殿らから買い物をしたいだけなのだ!!」
 それを聞いて、馬を止めたのは、若いわりに胆力があると評判の隊商の頭領、一葉楠いちよう くすのきだった。
 隊商の一行には、楠が怜悧な表情の裏側で算盤を弾き始めたのが分かり、皆、不安げな顔で楠を見守った。皆、頭領には全幅の信頼をおいていたが、こんな巨大な生き物と商売をしようなどと、あまりにも恐ろしく、無謀に思えた。
 楠はすでに龍への恐れを捨て去り──あるいは押し込め、冷静な商人の顔になっていた。
「それで、『砂漠の魔龍』どのは何をお求めか。そして、対価として何をくださるのか」
「『砂漠の魔龍』はよせ。私には龍宮白月という名がある。現在我が家には人間の客人がおり、その食料を買いたい。二人分を、一ヶ月分ほどだ。私だけなら月光や大地から湧き出る自然の魔力だけで生きていけるのだが、人間は喰わねば死ぬからな。──対価はこれでどうだ」
 楠の前に、どすんと大きな塊が落ちた。金塊だった。隊商の一行はわあ、とか、おお、とか声を上げたが、楠はわずかに眉を上げただけだった。
「足りませんね」
「そうか……城に戻ればまだあるけど」
 取ってこようか、と言おうとした白月に、楠は頭を振った。
「一ヶ月分の食料では、とうていこの金塊の価値に足りません。失礼ながら、料金分だけ、砕かせていただいてよろしいか」
 白月は驚いて、ぎょろりとした目をさらに見開いたので、楠以外の隊商の一行は思わず身を引いた。
 元はお嬢様育ちで、空見家に引き取られてからは、ろくに外にも出ずにこき使われていた白月は、金銭の価値というものをあまり理解していなかった。
 だが、空見家の使用人の間での噂話から、なんとなく、商人というものに、隙あらば金をぼったくろうとする輩、との印象を抱いていた。が、この男は正直に、料金が足りすぎていると言った。偶然目についた隊商に声をかけただけだが、これはいい商人に巡り合ったのかもしれない。
 白月は頷く。
「分かった。必要な分だけ砕け。それから、これをお前に」
 白月は自分の鱗を一枚剥ぐと──少し痛かった──金塊と同じ場所に落とした。楠はそれを拾い上げ、平たく潰れた真珠のようなそれを、しげしげと見つめた。
「おまえが気に入ったから、やる。私の鱗だ。売ってもいい。──が、もしお前の気が向くなら、私の城に入る通行証にもなる。私もこれから、何かと必要なものができるかもしれん。出入りの商人がいたら、なにかと便利だからな」
 そう、たとえば砂糖菓子。月光の魔力も十分に甘いが、人の作る菓子の甘味も少し、いやかなり恋しかった。
 楠は受諾も拒否もせず、ただ深々と頭を下げた。
 とにかくこれで、白月は客人達に振る舞う食材を手に入れたのである。

「おいしいねぇ!」
「美味しいです」
 食材を手に入れて城に戻った白月は、全く使っていなかった厨房に火を入れ、料理をした。空見家では厨房でもこき使われていたので、料理はそれなりにできる。
 肉と豆の煮込みに、新鮮な野菜、小麦粉を溶いて焼いた生地に甘辛いタレをかけたもの。
 兄妹は喜んでよく食べた。その健啖ぶりに、食材を多めに買っておいてよかったと思った。
 白月も、兄妹につられて少し口をつける。まだ人間として生きていた頃──それも、空見家に行く前の、まだ家族がおり、幸せだった頃のことを思い出した。
 自然、家族が幼い白月に語りかけてくれた声を思い出し、兄妹に語りかける声は優しくなった。
「これから一ヶ月、毎朝虹音に私の魔力を注ぐけれど、その他は好きに過ごしてくれていいからね」
 この城は広い。子どもが二人増える程度、一ヶ月くらいなら問題ないだろう。
 ──そう思ったのだが、その考えはどこまでも甘かった。
しおりを挟む

処理中です...