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6『エスパー・ミナコ』

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みなこ転生・6
『エスパー・ミナコ』       


 昭和二十年四月、前月の大空襲で肺を痛めた湊子(みなこ)は、密かに心に想う山野中尉が、戦艦大和に乗って沖縄特攻に出撃して戦死するまでは生きていようと心に決めた。そして瀕死の枕許にやってきた死神をハメて、死と時間の論理をすり替えて、三時間後に迫った死を免れたのだ。しかし、そのために時空は乱れ時間軸は崩壊して、湊子は時のさまよい人。時かける少女になってしまった……。

 氷室一飛曹の背中で、ミヨちゃんのお人形が揺れていた。これから楽しい遊覧飛行にでもいくように。

「河東少尉以下二名、ただ今より出撃いたします」
 河東少尉が申告すると、飛行長は、けげんな目で氷室一飛曹を見た。
「氷室、貴様ほんとうに大丈夫か?」
「はい、大丈夫であります。出すものを出したら、体が軽くなりました。これで機速もあがります」
 飛行長は、もう一度氷室一飛曹の体を下から上まで目視点検した。
「大丈夫です。尋常小学校の運動会でも、下痢ピーで、出すもの出したら、徒競走一等賞になりました」
「河東、攻撃と徒競走は違うぞ」
「いざとなったら、風防を開けて尻を突き出して用を足します」
「貴様、その隙にP公に後ろを取られたんじゃないか」
「しかし、自分のクソがP公の風防に当たって目つぶしになりました。自分はすかさず捻り込みをかけて、仕留めました」
「この戦争も長いが、クソで敵機を撃墜したのは貴様ぐらいのもんだ!」
 河東少尉が言うと、出撃者も見送りの者も、みな大爆笑になった。
「しかし、あの時は、尻を拭くのを忘れてしまい、帰到するまで大変でした」
 
 まさか、特攻の見送りに来て、大笑いして涙を流すとは思わなかった。

「すまん、おれが作った刺身で……」
「言わんでください、烹炊長。少数精鋭。三機でも十分やれますよ。なあ、田中」
「はい、ウンも付いておりますから」
 また、みんなが笑った。
「では、行ってまいります」
 河東少尉が敬礼、列機の氷室一飛曹、西山一飛曹も倣って敬礼すると一瞬で空気が引き締まった。
「ご苦労!」
 飛行長が答礼して、特攻隊の三人は、各自の搭乗機に向けて走り出した。

 氷室一飛曹の背中では、あいかわらずミヨちゃんのお人形が揺れている。

 この出撃隊の中で、氷室一飛曹一人だけが妻帯者だった。

 多くの仲間が戦死していく中で、自分一人が指導教官として生き残ったことが心苦しかった。妻と娘のミヨちゃんには申し訳なかったが、先週百人目の教え子に及第点をやって、潮時だと思った。

 氷室さんは編隊行動が苦手で、空中戦は、いつも一対一だった。そのため、個人的な技量の割には、出世が遅い。
 氷室さんは、最後の面会に来た奥さんに連れられたミヨちゃんから、お人形をもらった。それを氷室さんは、おんぶするように背負っている。
「飛行服の中は汗くさいですから」
 真顔で言ったときは、今みたいに大笑いした。そのミヨちゃんのお人形が氷室さんといっしょに操縦席に収まった。チョーク(車輪止め)が外され、零戦が動き出す前、氷室さんは、お人形の手をとってバイバイした。一瞬で笑いが涙に変わった。人形が、なにか言ったような気がした。

 最後に戦果確認と護衛を兼ねて、木下中尉の零戦が飛び立った。
 やがて、爆音も聞こえなくなった滑走路が、言いようのない静けさになった。
「きみたち、見送りありがとう。何もないけど、海軍特製のラムネでも飲んでいってくれ」
 飛行長が酒保の建物を指差した。

「ほんとうは、九機の出撃のはずだったのよね……」
 カヨさんが、小さな声で言った。
「それは、言っちゃダメよ。河東少尉も、おっしゃってたじゃない、少数精鋭だって。あら、ミナコ、どうかした?」
「ちょっと静かにして……」

 わたしはラムネを飲むのがヘタクソで、いつもビー玉に邪魔される。そのビー玉に意識を集中していると、急に目の前に海が広がった。敵の艦隊が手に取るように見えた。北北西の方角、高度三十メートル以下なら敵の電波探知機にもかからない。

―― 三度西へ振って、敵の飛行機、ここだけ居ないから ――わたしはミヨちゃんのお人形に伝えた。

 帰りは、自転車で学校まで帰った。また落下傘のミシンがけかと思うと気が重い。そして、海の景色はあいかわらず断続的に見え続けていた。

「あ……!」

 声を上げたときは、もう田んぼの中だった。右足をぐねって、左手首を捻挫した。カヨさんが自転車を曳いてくれ、オケイが肩を貸してくれて学校に戻った。
「ミナコさん、なにをボーっとしていたんですか!」
 先生に叱られたが、足の痛みのため作業ができない。被服廠のような電動ミシンではなく、学校のそれは大正十年製の足踏みミシンだ。

 目障りだと帰宅を命ぜられた。

 右足を引きずりながらの帰宅はむつかしく、途中鎮守様の森で一休みした。

 その間も海は見えている。

 敵の大きな航空母艦が見えてきた。甲板には爆弾を抱いた敵の飛行機がいっぱい並んでいる。
「今よ、高度を500まで上げて……!」
 わたしは、ミヨちゃんのお人形と一体に、お人形は氷室さんと一体に、そして編隊は、氷室さんの零戦と一体になった。
「……そこで急降下、まっすぐフルスロットル!」

 そのころ、空母サセックスは大あわてだった。距離五マイルで敵機がレーダーに映った。と、思う間もなく500メートルに急上昇、上空の直援機は慌てて追いかけたが、フルスロットルで降下、それも八十度の角度で急降下する零戦には追いつけない。

 機体は限界速度を超えようとしていた。翼のジュラルミンがシワになり始めた。

 空中分解! 

 ドドドオオオオオオオオオオオオオオン!

 その寸前で、三機の零戦は250キロ爆弾を積んだまま、敵機が密集する空母の甲板に激突した。

「生きて!」

 激突の瞬間、わたしは叫んだ。

 ドサドサドサ

 目の前の薮に、氷室さんたち三人が落ちてきて気を失った。

 お人形が笑ったような気がした……。

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