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002『エルベの水』

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漆黒のブリュンヒルデ

002『エルベの水』 

 

 

 不覚でした……水に思念を写してしまいました。

 

 ニンフが暁にエルベの水を汲むのは禁忌とされています。

 現世(うつしよ)において、最も清浄とされるエルベは、その清浄さゆえ、魔力を持つ者の思念を写します。

 端女(はしため)とは申せ、わたくしはニンフであります。姫が魔王との戦いに臨まれぬのなら、このような無理はいたしません。しかし、かように満身創痍となられても戦いを挑まれる御決意、その御決意を知ってしまっては、手をこまねいているわけにはいかないのです。姫は、これまでの戦いで三十余個所の傷を負われているのです。

 
 心を写してしまわぬよう、目をつぶって水を汲みましたが、それでも、心の底にわだかまる星屑のような記憶が暁のエルベに感応したのかもしれません。

 おぼろな断片でしかなかった記憶が形を成してしまいました。

 万聖節の夜、此度の遠征が決まったとき、主神オーディンがトール元帥と語っておられたところが蘇ってしまったのです。

「此度の戦は、このトールこそが相応しい。このミョルニルのハンマーをもって魔王を原子の粒にまで潰してみせる」

「申し出は嬉しいが、元帥、もうブリュンヒルデに決めたのだ」

「姫は疲れておられる。親征すること七百数十度に及び、姫は常にヴァルキリアの先頭に立ってこられた。どの戦においても、親征の誠を尽くされた。しかし、あの漆黒の鎧の下には、すでに三十余の傷を負っておられる。あのまま、辺境とはいえ魔王との戦いをさせては、癒えきらぬ傷が口を開く。これ以上の傷を負わせれば、いくらヴァルキリアの主将にしてオーディンの姫とはいえ身が持たぬ。ここは、この老臣に任されよ。今から駆け付ければ、姫が名乗りを上げられる前に間に合おうぞ」

「卿の申し出はありがたい、子の親としては、卿が申されるまでもなく、この主神の身をもって親征に臨むところだ。生まれて今に至るまで戦ばかりさせてきた。願わくば、ブリュンヒルデにも嫋やかな花嫁修業などさせてみたいのが親心というものだ。しかし、この主神の娘であることが、それを許さぬのだ」

「戦死者を選ぶ力か……」

「そうだ……」

「わたしならば、その恐れておれる戦死者も出さずに勝利してみせる。犠牲の少ない戦をしてこその主神でござりましょうが!」

「それは……」

「それとも、このトールが手柄を立てれば、御身の主神の位を簒奪するとでも思し召しか!?」

「そのようなことはない!」

「ならば!」

「口が過ぎるぞ、トール!」

「ヴァルハラの将来を思えばこその諫言でござる!」

「姫が選ぶ戦死者は……のちに蘇ってラグナロク(最終戦争)の戦士になるのだ。あれの、本当の使命は戦に勝つことではない、ラグナロクの戦士を選ぶことだ、あれが選ばなければ、ラグナロクを戦う者が居なくなるのだ……」

「なんと仰せられる……いまの戦いがラグナロクでは無かったのか!?」

「他言無用だぞ、元帥……」

 
 ああ、全てこぼれてしまった……。

 
「レイア、エルベの水が語ったことは本当か……」

「姫……」

「わ、わたしが選んだ戦死者は彼岸に往生するのではなかったのか!? 死んでなおラグナロクだと? わたしは、いっそうの苦しみを与えるために戦死者を選んでいたということなのか……」

「…………」

「あ ああ あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

「姫! 姫さま! ブリュンヒルデさまああ!」

 
 端女(はしため)の身をも構わず、わたしは姫を抱きしめまいらせました。

 姫の震えを、姫の苦しみの万分の一でも受けとめようと、この胸に抱きしめまいらせました。

「レイア、レイア、このわたしは……ブリュンヒルデは、なんと罪深きことをしてしまったのだ! 取り返しがつかんことをしてしまったのだ! どこに? だれに許しを請えばよいのだ!? どのように償えばよいのだ!? お、教えて! 教えてくれ! レイア……」

 姫は、お仕えし始めたころの幼子のように泣きじゃくるばかりでありました……。

 
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