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039『琥珀浄瓶・6』
しおりを挟む漆黒のブリュンヒルデ
039『琥珀浄瓶・6』
いつもなら、ぶちのめして名前を付けてやればお終いだ。
しかし、今度の相手は西遊記の牛魔王が持っていたと言われる琥珀浄瓶。それも数千年の時を経て無限に人の名前を呑み込んでいくと言う化け物だ。
スクネ老人と共に立ち向かったが、かすり傷一つ負わすこともできず、世田谷八幡の祭神であるオキナガ姫(神功皇后)が琥珀浄瓶の中に飛び込んで支えている。が、それも三日が限度。
いつもヒルデにまとわりついているねね子が豪徳寺のネコたちを総動員して、ネコたちが百万回生きてきた名前を食らわせて一時は琥珀浄瓶の動きを止めることに成功した。しかし、効果は三十分しかなかった。
旺盛な琥珀浄瓶の食欲を凌いで、撃滅するには並みの作戦では勝ち目がない……。
その間にも、ヒルデは二人の妖に出会って名前を付けてやった。二人とも東京大空襲の犠牲者で名前まで焼かれてしまった犠牲者だ。
こんな時なので、できたら相手にしたくなかったが、これが、この異世界の東京に飛ばされてきた使命であろうと怠ることのないヒルデであった。
「しかし……少しだけ休ませてもらおう」
疲れた顔で八幡の前を通ることも憚られ、宮ノ坂駅のデハのシートに横になる。
初めてここに来て以来か……狭いデハのシートに鉛筆のように真っ直ぐ仰向けに寝て、右腕を閂を掛けるように顔の上に載せて、しばしの微睡みが来るのを待った。
……おや?
デハの周りを何かが巡る気配がする。
妖か……五分でいいから寝かせてくれ。
そう思うと、気配はぴたりと止んだ。
もし……もし…………五分経ちました。
そいつは律儀に五分経つのを待って、遠慮気味に足許に立った。
薄目を開けると、ゲートルを巻いた学生風が立っている。
ひょろりとしていて、首と襟カラーの間が指二本入りそうなくらいに空いていて、くたびれた学帽の下に丸縁の眼鏡が光っている。
視線を落とすと、胸には名札が縫い付けてあるが……やっぱりな、ひどくボヤケて名前は読み取れない。
ヨイショ。
不用心に片膝を立てて上半身を起こしたので、スカートの中が見えてしまったか?
まあいい、大人しい妖のようだ、さっさと名前を付けて退散してもらおう。
しかし、そいつは動揺することもなく、こう続けた。
「いえ、付けていただく名前は決めているのです」
「決めている……ということは、自分の名前を憶えているんだな」
「いえ、付けて欲しい名前があるんです。ヒルデさんに付けていただかなければ名前になりません」
妙な奴だ。手向かいしないだけでも珍しいのに、自分で名前を用意しているという。
「君は、旧制中学の生徒か?」
「はい、数学を安井算結先生に習っています」
奇妙な奴だ、自分の名前も憶えていないのに数学の先生を憶えているとはな。
「この名前にしてほしいのです」
手帳を出して名前を示した。
円 周率
「声には出さないでください」
苗字は『まどか』と読むのだろう。名前の方はわたしの漢字の知識では読めない。
「よし、分かった。君にこの名前を付けてやろう」
「あ、ありがとうございます!」
円君は、丁寧にお辞儀すると、回れ右をしてデハから下りて行って、踏切の前に出たかと思うと、上空の琥珀浄瓶を見上げた。
「そいつを見るな! 取り込まれてしまうぞ!」
遅かった、一条の光が差したかと思うと、円君は、あっという間に琥珀浄瓶に吸い上げられた。
嗚呼!
思わず古典的な叫び声をあげてしまった。
せめて見届けてやろう……。
すると、ビクっとしたかと思うと、琥珀浄瓶は窒息したように木刻みに収縮し、次に瞬間……。
ズボボボーーーーーーーーーーーン!!
無数の名前を吐き散らしながら消滅していった。
そ、そうか。あいつは『円周率』だ!
円周 ÷ 直径=3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 342117067……
ねね子の百万回どころではない、完全な無限数だ。
いくら琥珀浄瓶でも呑み込めまい。
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