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アン・ジョーと呼ばれるこの世界にいるヒトは、皆一様にして頭頂部に獣のような毛皮に覆われた立ち耳が生えている。
色の濃さや模様、若干の形の違いなどはあるものの、一般的に色が濃く、立派な立ち耳ほど血統が良い。というのがこの世界の常識であった。まれに耳の形状が違うものや、色が珍しいものが生まれる。そういった存在がいるとは分かっていたが、そもそも耳がない存在がいるとは思っていなかった。
「おにいちゃん、おきた!?」
サラの声で目を開ける。頭巾をしたサラの銀色の髪を撫でて夢だったのかなとぼんやり思う。
「起きたか」
が、その後ろでマグカップを片手に声を掛けてくる白い耳無しの女を見た途端、現実なのだと突きつけられる。思わずまた意識を飛ばしそうになるが、サラに強引に揺すられて引き留められる。
ひと思いに意識を飛ばせたらいいのにと呟いていると、サラに手を引かれてベッドから引きずり落とされる。恩を仇で返されるとはこの事かとシーツに紛れて嘆いていると、シーツの草むらをかき分けてやってきた銀色のまん丸な目と視線が合う。
「ごはん、たべよう?」
ふにゃりと脱力するような笑みを浮かべる愛しい妹を見ていると、悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきた。思わず微笑み返すとサラはそれを了承の意と取ったのか、自分の手を取ってシーツから引きずり出した。
シーツから出ると、幸いなことに既に魔女はいなかった。
ほっと胸をなで下ろして室内を出る。正直に言うと不安だらけだが、握っているこの暖かな手が側にいれば、何だって乗り越えられるような気がした。
『お、やっと来たか少年!』
が、そのちっぽけな勇気は、額縁から陽気に手を振る男を見た途端急速に萎んでいき、また意識が飛びかける。
そこから先はあまりはっきり覚えていない。
気が付けば椅子に座っており、よく分からない箱から出された見たこともない料理を出された。箱から出された料理はどれもこれもほくほくと暖かい湯気を放っており、それが余計に胡散臭かった。だが、サラが食べようとした手前食べない訳にはいかないと、意を決して食べみた。
冷ましてから口に放り込まれた途端、味わったこともない味とコクが口内中に広がる。一瞬息が止まってから、今まで行ったことのない速さで、ひたすら口と料理の間をスプーンが往復することとなった。
そして満腹になったらサラと共に風呂場に放り込まれた。不思議なことに湯は最初からわいており、蛇のような長い綱の先端から細かい湯が手元のレバーを引かぬ限りざあざあと吹き出していた。
ーー魔女の魔法だ。
心の中で確信する。
一通り説明を終えた魔女もとい耳無しの女は、後は自分でと言い残して去っていった。幸い、この辺りになってくると通常の思考回路に戻っていたオーヘンは、持ち前の物覚えの良さを駆使して最低限の操作は覚えた。唯一の失敗は、桶に湯を張って顔を洗うつもりが、レバーを引き間違えて頭から湯を被ったこと位だろう。
湯も毒物が含まれているように見えず、妙に平べったい浴槽に手を入れて温度を確認した後に、サラに服を脱ぐよう声掛けをする。今まで水浴びばかりで風呂に入ったことのない為、少々の抵抗が見えた。
「サラ、大丈夫だよ。兄ちゃんも何ともないだろ?」
安全面を伝えると、すぐに顔に満面の笑みを浮かべて服を脱ぐ。
頭巾だけは浴室に入っても脱ごうとしなかったが、何度も大丈夫だと言い聞かせると渋々ではあるがちゃんと外す。久しぶりに光の元で露わになったサラの耳は感嘆のため息が出るほど美しい。もっとも、その美しさは他の者達には伝わらなかった訳だが。
「サラ、頭洗うから耳を押さえて」
「はーい」
おずおずと自分の耳を押さえたサラの髪に、蛇のような縄の先端から出る湯を掛けてやる。初めて浴びる暖かい水にサラはきゃっきゃと声をあげてはしゃいだ。
石鹸を泡立てて髪を洗ってやると良い匂いだと、耳から手を離してうっとりと微睡む。今まではほとんど脂に近い粗末な石鹸しか手に入らなかった為、香料が含まれている上質な石鹸があることには、サラだけでなくオーヘンも驚いた。
体も洗い、温かい湯がいっぱいに張られた湯に浸かり、生き返った心地で脱衣所に出る。出ると台のところにふかふかとしたタオルが並べられていた。
これも今までのごわごわとしたぼろ布とは全く違い、優しく体の水気をぬぐい取ってくれる。ここまで幸せだと、逆に裏があるのではないかと疑いたくなってきた。
「ああ、着替え中か。ちょうど良かった。寝間着を持ってきた」
泣きそうになるのを誤魔化しながらサラの頭を拭いてやっていると、おもむろに戸が開かれ、例の耳無しの女が入ってきた。
女の視線は即座にこちらに向けられ、特にサラを凝視している。
ここでサラの姿を見られてしまったと分かったオーヘンは自分の背にサラを隠し、自分のタオルをかけて姿を隠そうとする。もう遅いとは分かっている。きっと集落の者達のように呪われた子だと指さされ、ここからも追放されるのだろう。
「妹のその耳……」
案の定女はサラの耳について触れてきた。
『何あの変な耳』
『気味が悪い……』
『あの子とは遊んじゃ駄目。耳の病気が移っちゃうよ』
『化け物め』
『あんたなんて、生まれてこなければ……!』
途端、オーヘンの脳裏に今までサラが言われ続けてきた陰口が蘇る。
『サラのおみみは、どうしておにいちゃんやみんなとちがうの?』
「何だよ、耳が個性的なのがそんなに駄目なのか!? 別に耳が他と変わっていたってサラはサラだ! 僕の大事な妹だ!! 誰よりも優しくて気を遣う性根のまっすぐな子だ! なんでサラばかり非難されなきゃならないんだ!」
今まで言えば風当たりがきつくなると分かっているが故口に出すことが出来なかった、周囲の煩いくちばしに対する自分の気持ち。
限界までため込まれていた鬱憤は一度漏れたら止まらない。
一方的にまくし立てている中、女は口を挟まず無表情でじっとこちらを見ていた。そしてオーヘンの口が大人しくなり、やがて動きを止めると、女は興味深そうに口元に手を当てて、なるほどなと呟いた。
「頭巾を被っていたのと、この森に子どもだけで来たのはそういう経緯があったのか」
「は?」
「初めて見たが、雪のように白く美しい耳だな」
女から出てきたのは予想に反した言葉であった。
オーヘンの耳は栗色だ。白となれば、後ろにいるサラしかいない。生まれて初めてオーヘン以外の者に耳を誉められ、サラはとても嬉しそうにありがとうと礼を言う。
「着替えはここに置いておく。それと兄。妹を思う気持ちは実に健気だが、それにかまけて自分が無防備になるのはあまり誉められたものではない」
そこで自分が丸裸でサラの前に立っていることに気付いたオーヘンは声にならぬ叫びを上げた。
それは妹のサラですら聞いたことのない絶叫だった。あまりの失態に傷心したオーヘンはしばらく浴室にこもって出てこなかった。
・
翌朝、目が覚めて昨日にご飯を食べた部屋に行くと、耳無しの女は食卓の側の机で黙々と作業を行っていた。
『やあ、おはよう。君たち、朝ご飯はパンがいい? それともライ麦パン?』
部屋に入るなり、例の額縁に男の姿が現れ、実質一択の質問をぶつけてきた。お勧めでお願いしますと言うと、男は嬉しそうに微笑み、じゃあクロワッサンにしようと第三の選択肢で決定する。
聞き覚えのない食べ物もそうだが、そもそも額縁から出ることの出来ないこの男がどうやって食事の準備をするのだろうか? 耳無しの女が準備をするのが一番早いだろうが、先ほどから作業に没頭しているのか何の反応もない。
『ああ、少年。お前がどうやって準備するんだって言いたげだな。面白いものを見せてやるから、椅子に座って待ってな。ああ、妹ちゃんも座っておきな。あれ、随分可愛い耳しているんだね。隠さなくて良いよ、すっごく素敵だ』
さらりとサラの耳を誉めてみせ、男は額縁から姿を消す。
サラはと言うと、人生二度目の他人からの優しい言葉に満面の笑みを浮かべて照れている。会って二日で心からの純粋な笑みを獲得した得体の知れない二人に、嫉妬しないと言えば嘘になる。サラを拒絶しない仲間は増えたが、同時にサラを取られたような気がして、オーヘンは素直に喜ぶことが出来なかった。
悶々としていると、額縁に戻ってきた男は皿の上に乗った三日月型のパンのようなものを見せてくる。
『これがクロワッサンね。食べたことある?』
首を横に振っていると、男はそれは良いと喜び、鋼鉄で出来ているであろう奇妙な物体を額縁の端から押して運んできた。
『あー……あいつは無理か。少年、悪いけど隣の部屋に似たような物があるだろうから、それをこっちに持ってきてくれないか? ぶつけないように気を付けてな』
何で自分がこんなことをしなければならないのだろう。少し不満に思ったが、自分達は住まわせてもらっている立場であることを思い出し、そそくさと隣の部屋に行く。
男が言っていた物は直ぐに見つかった。が、それが置かれていた部屋が問題であった。
この家は生活感が少ない。その中でもこの部屋は特に際立っている。家具は疎か、照明も設置されていないこの部屋は妙にがらんどうとしており、部屋の中央に枯れた花束が置かれている。余りに異質なその雰囲気に気圧され、オーヘンは台車に乗った奇妙な物体をそそくさと居間へと運ぶ。
『ありがとう! じゃあ、今からクロワッサンを送ります! よーく見とけよ?』
言うや否や、男はクロワッサンというパンを奇妙な物体の前に置いて操作をする。直後、物体は鳥の鳴き声のような奇妙な音を立てて点灯すると、針のようなものの先端から緑がかった光を放つ。
これだけでも腰を抜かしそうになっていたが、次の瞬間、光を受けたクロワッサンが毛糸玉をほぐすように糸状になり、針の先へと吸い込まれてゆく。昨日に引き続き理解の許容範囲を超えたその光景に、意識が遠退きそうになる。
やがて光の照射が終わり、クロワッサンが綺麗さっぱり消え去る。続いて綺麗さっぱり消えそうになるオーヘンの意識だったが、机に向けて置いた奇妙な物体がゴゥンと大げさな音を立てたため、意識を失うより早く体が飛び上がってしまう。
泣きそうになる自分とは反対に、好奇心に満ちあふれた表情のサラの前で、その奇妙な物体は額縁の中のそれと同じように緑の光を放つ。先ほどと違うのは、針に糸状になったクロワッサンが吸い込まれたのに対し、針から糸状になったクロワッサンが出てきたことだ。
言い方は悪いが、肛門から出る寄生虫のようにするすると出てき、何事もなかったかのようにクロワッサンの形を成す天外魔境なこの現象に、オーヘンの意識はいつ飛んでもおかしくない状況であった。
『さあ、召し上がれ』
「わあ! おいしそう。おにいちゃん、たべていい?」
「待って、兄ちゃんが先に食べる」
そのような原理でこのような現象が起こるのか。それを解き明かさねば触れるのは疎か、触ることにも抵抗があるが、サラがいる手前逃げることは出来ない。
寄生虫を想定した手前食べるのには非常に勇気が必要となった。が、もしこれをサラが食べて苦しんだら死んでも死にきれない。耳無しの女と額縁の男が信頼できるまで、サラの先頭に立つのは当然の義務である。
勇気を出して指先でクロワッサンに触れる。
意外にも触れたそれは焼きたてのように温かく、堅い感触だった。
意を決してむんずと掴む。表面は堅かったが、下の方は柔らかい。毒がありませんようにと祈りつつ素早く口に運ぶ。ゆっくり運ぶと踏ん切りが付かないように思えたからだ。
カリ、と今まで感じたことのない香ばしい歯ごたえが前歯に伝わる。
前歯で千切られ、口腔内にゆっくりと運ばれた途端、香ばしい表面に隠れていた何層にも重ねられた生地がほろほろと崩れ、濃厚なバターの味わいが口いっぱいに広がる。この味をなんと表現したらいいのだろう。そんなものは一つしかなかった。
「美味しすぎる……!」
衝撃的な味を賛美すると同時に、オーヘンの意識は遠退いた。
・
目を覚ますと、オーヘンは寝室でベッドに横になっていた。
ーーああ、夢だったのか。
ほっとため息を吐くも、扉の向こうから聞こえてくるサラの楽しそうな笑い声で現実に引き戻される。サラは集落であのように笑うことはあまりなかった。笑うと必ず誰かが「呪われた子が笑うなんて気味が悪い」と文句を言ってきたからだ。
ベッドから降りて扉に向かう。笑い声は更に大きくなっていた。
涙していることが多かったサラがこんなにも気を遣わずに笑える日が来るなんて思いもよらなかった。兄としては非常に嬉しく思う。
「おにいちゃん、おはよう!」
『おう少年! よっぽどクロワッサン美味かったんだな!』
ただ、こんな得体も知れない奇々怪々な奴が相手じゃなかったら手放しに喜べたのだけど。
相変わらず機械とにらめっこをしている耳無し女を確認しつつ、当たり障りのない返答をして椅子に座る。あれから何時間経ったか分からないが、女は意識を失う前と寸部変わらぬ体勢でいた。
よくやるよと呆れていると、サラが一口かじったきり手が付けられなかったクロワッサンを出してきた。
改めて口に含まれたそれは相変わらずこの世の物とは思えないほどの味をしていた。が、二度目と言うこともあってオーヘンが意識を手放すことはなかった。
「あの」
ミルクを飲み干しておずおずと声を掛けると、額縁の男はどうした? と屈託のない笑みで尋ねてくる。ここで額縁の男にも耳がないことが発覚し、危うくオーヘンは意識を手放しそうになった。
「僕の名前はオーヘンです。こっちは妹のサラ」
『ああ、そう言えば自己紹介まだだっけ? サラちゃんは君が寝ている間にしてたけど、そっか、少年はまだだったね。オーヘンか、良い名前だ。俺はオラン。んで、そっちのは……おーい。ちょっと研究の手を止めてくんないかな?』
いきなり大声を出したオランに肝を冷やしていると、ああごめんと謝られる。耳は無いが、随分素直に謝る人なのだなと思った。
何度も何度も使い魔でも額縁の男でもない「オラン」が呼ぶと、面倒くさそうに耳無し女が振り返る。
女は昨日と同じ前開きの裾の長い白い服を身にまとい、同じく白い髪を乱雑に後ろで一纏めにしていた。明るい場所でまじまじと見てみると、耳無し女の目は淡い栗色の目をしていた。自分が栗色の髪と目なだけに何となく、親近感がわいた。
「何だ?」
『何だじゃない。自己紹介。お前名乗ってないだろ?』
「そんなもの、お前が代わりに言ってくれれば良いだけだろう。研究の手を止めるほどのものではない」
『ばっか、分かってねーな。こう言うのはちゃんと自分の口から言わなきゃ駄目なんだって』
こうして見ると、二人は親子のように見えた。
「カナン」
ぶっきらぼうに呟いた言葉は、どうやら耳無し女の名前らしい。
オランと同じく耳慣れない名に戸惑いつつも、オーヘンは二人の性格がどのようなものなのか分かってきた。
オランは明るく、世話を焼くのが好きな頼れる男。本人は自覚していないだろうが、ふざけた発言をするのが多い。
対してカナンはぶっきらぼうで、自分の興味のある物しか関心を示さない。カナンにいたっては接する機会が少ないので、取っつきにくい人だという印象しかない。
だが、不思議なのはカナンが森で倒れた自分達を救ったということだ。記憶は曖昧だが、オーヘンは気を失う寸前にカナンと思しき人影を見ている。目を覚ました場所がカナンの住処なのだから、連れてきたのは十中八九彼女だ。だが、今彼女は自分達にあまり関心がないように思える。何故、彼女は自分達を助けたのだろうか?
『おいカナン、戻るな。まだこの子達の名前知らないだろ』
元の席に戻ろうとしていたカナンはくるりと向き直ると、オーヘンとサラを指す。
「兄がオーヘン、妹がサラ。この頭を見くびってもらっては困る」
そうとだけ言うと、カナンはさっさと戻り、再び作業に没頭する。
サラは名前を呼んでもらえたと無邪気に喜んでいたが、カナンが怒っているように思えたオーヘンは緊張しながら彼女の背中を眺める。この家の主導権はカナンが握っているだろうから、彼女が機嫌を損ねるのはあまり得策ではないと考えているからだ。
が、カナンやオランの情報が少ない状態で下手に機嫌を取りに行っても上手くいくはずが無い。当面は情報収集に念を置いた方が良策と言えよう。
「その、オランさんとカナンさんは一体?」
『あー、呼び捨てで良いよ。多分、君らもすぐに追い越しちゃうだろうし』
「はあ、気を付けます」
『俺とカナンはこの星、アン・ジョーとはまた別の人間なんだ。異星人、って言ったら分かるかな?』
急展開に思考が止まる。
こう言うとき、理屈で考えてしまう自分は融通が利かないなと思ってしまう。サラの方がずっと順応性が高い。現に、今もサラはまたオランに出してもらったであろう初めて目にする食べ物を頬張りながら、すごーいと本当に理解しているか分からない感想を述べている。
『だから君たちのような耳は無いし、言葉だって違う。使っている道具も見たこと無い物ばかり見ているだろ? でも俺たちの星だと一部を除いて全部ありきたりな物なんだよ』
「くろわっさんも?」
『おう、そんなのだったら店に溢れかえってるぞ』
「すごーい!」
あんな美味しい物が溢れかえる世界。
想像するだけで涎が出てきた。
「そんな豊かな星に住んでいる人がどうしてアン・ジョーへ? この星はそちらに比べてお世辞にも魅力的とは言えませんけど」
『おう……随分すれてんな。理由は、人類の欲望の成れの果て……って所かね。ああ、それと俺が思うにこの星はとても魅力的だ。俺たちの星が失ってしまった素敵なものが沢山ある』
「そういうものですか? 僕にはオランの世界の方が良いと思うけど」
『隣の芝生は青いって言うからな。ま、追々分かるだろ。それより、サラちゃん眠そうだから、風呂入って寝たら? もう風呂は湧かしてあるし。疑問に思っていることは明日また話するから』
視線を隣に移すと、サラはフォークを片手にうつらうつらと船を漕いでいた。それほど時間が経っているようには思えなかったが、気絶していたため時間の感覚がずれているのだろう。外を見れば分かるだろうが、あいにくこの部屋は分厚いカーテンで窓を覆っているため外の明るさが伝わってこない。
ぐずるサラを背負い、風呂場に運ぶ。
運んでしまえば入浴と言うものに魅了されているサラは瞬時に覚醒しててきぱきと身支度を整えてくれた。
洗髪、洗身を終えて湯船に浸かる。いつの間にか洗い場の鏡の所に黄色い鳥の人形が置かれており、サラが求めるままに浴槽に浸けてみた。すると柔らかい感触の鳥はぷかぷかと浮き、サラは手放しに喜んだ。
後に服を運んできてくれたカナンによると、黄色い鳥はあひると言い、カナンの住んでいた国では風呂で遊ぶ玩具の定番で、あれば楽しいだろうとオランが送ってきたらしい。
居間に戻り、オランと談笑を楽しんだ後、再度船を漕ぎだしたサラを背負い、オーヘンは寝室へと戻る。
「おやすみなさい」
『はい、おやすみ!』
「……おやすみ」
寝る前の挨拶をされる喜びを噛みしめながらサラをベッドに寝かす。
昨日から頭巾で覆われていないサラの耳は、解放されているからかいつもよりずっと美しく見えた。
偏見の目で見られず、温かい食卓と寝床がある暮らし。二日前の自分ならば、こんな生活が送れるなんて思いもしなかっただろう。
ーーあの人たちは何か隠している。
だが、あまりに出来すぎた環境に、オーヘンの心に僅かな不安があるのもまた事実である。更に言えば、彼らの発言の節々にひっかかる物があるのも原因となっているのだろう。
その夜、オーヘンは夢を見た。
夢の中のオーヘンとサラはこの家に住んでおり、大人になっていた。家の様子は何も変わらない。少しも痛んでいないし、生活感の無い部屋もそのまま。そしてオランとカナンも少しも変わっていなかった。
色の濃さや模様、若干の形の違いなどはあるものの、一般的に色が濃く、立派な立ち耳ほど血統が良い。というのがこの世界の常識であった。まれに耳の形状が違うものや、色が珍しいものが生まれる。そういった存在がいるとは分かっていたが、そもそも耳がない存在がいるとは思っていなかった。
「おにいちゃん、おきた!?」
サラの声で目を開ける。頭巾をしたサラの銀色の髪を撫でて夢だったのかなとぼんやり思う。
「起きたか」
が、その後ろでマグカップを片手に声を掛けてくる白い耳無しの女を見た途端、現実なのだと突きつけられる。思わずまた意識を飛ばしそうになるが、サラに強引に揺すられて引き留められる。
ひと思いに意識を飛ばせたらいいのにと呟いていると、サラに手を引かれてベッドから引きずり落とされる。恩を仇で返されるとはこの事かとシーツに紛れて嘆いていると、シーツの草むらをかき分けてやってきた銀色のまん丸な目と視線が合う。
「ごはん、たべよう?」
ふにゃりと脱力するような笑みを浮かべる愛しい妹を見ていると、悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきた。思わず微笑み返すとサラはそれを了承の意と取ったのか、自分の手を取ってシーツから引きずり出した。
シーツから出ると、幸いなことに既に魔女はいなかった。
ほっと胸をなで下ろして室内を出る。正直に言うと不安だらけだが、握っているこの暖かな手が側にいれば、何だって乗り越えられるような気がした。
『お、やっと来たか少年!』
が、そのちっぽけな勇気は、額縁から陽気に手を振る男を見た途端急速に萎んでいき、また意識が飛びかける。
そこから先はあまりはっきり覚えていない。
気が付けば椅子に座っており、よく分からない箱から出された見たこともない料理を出された。箱から出された料理はどれもこれもほくほくと暖かい湯気を放っており、それが余計に胡散臭かった。だが、サラが食べようとした手前食べない訳にはいかないと、意を決して食べみた。
冷ましてから口に放り込まれた途端、味わったこともない味とコクが口内中に広がる。一瞬息が止まってから、今まで行ったことのない速さで、ひたすら口と料理の間をスプーンが往復することとなった。
そして満腹になったらサラと共に風呂場に放り込まれた。不思議なことに湯は最初からわいており、蛇のような長い綱の先端から細かい湯が手元のレバーを引かぬ限りざあざあと吹き出していた。
ーー魔女の魔法だ。
心の中で確信する。
一通り説明を終えた魔女もとい耳無しの女は、後は自分でと言い残して去っていった。幸い、この辺りになってくると通常の思考回路に戻っていたオーヘンは、持ち前の物覚えの良さを駆使して最低限の操作は覚えた。唯一の失敗は、桶に湯を張って顔を洗うつもりが、レバーを引き間違えて頭から湯を被ったこと位だろう。
湯も毒物が含まれているように見えず、妙に平べったい浴槽に手を入れて温度を確認した後に、サラに服を脱ぐよう声掛けをする。今まで水浴びばかりで風呂に入ったことのない為、少々の抵抗が見えた。
「サラ、大丈夫だよ。兄ちゃんも何ともないだろ?」
安全面を伝えると、すぐに顔に満面の笑みを浮かべて服を脱ぐ。
頭巾だけは浴室に入っても脱ごうとしなかったが、何度も大丈夫だと言い聞かせると渋々ではあるがちゃんと外す。久しぶりに光の元で露わになったサラの耳は感嘆のため息が出るほど美しい。もっとも、その美しさは他の者達には伝わらなかった訳だが。
「サラ、頭洗うから耳を押さえて」
「はーい」
おずおずと自分の耳を押さえたサラの髪に、蛇のような縄の先端から出る湯を掛けてやる。初めて浴びる暖かい水にサラはきゃっきゃと声をあげてはしゃいだ。
石鹸を泡立てて髪を洗ってやると良い匂いだと、耳から手を離してうっとりと微睡む。今まではほとんど脂に近い粗末な石鹸しか手に入らなかった為、香料が含まれている上質な石鹸があることには、サラだけでなくオーヘンも驚いた。
体も洗い、温かい湯がいっぱいに張られた湯に浸かり、生き返った心地で脱衣所に出る。出ると台のところにふかふかとしたタオルが並べられていた。
これも今までのごわごわとしたぼろ布とは全く違い、優しく体の水気をぬぐい取ってくれる。ここまで幸せだと、逆に裏があるのではないかと疑いたくなってきた。
「ああ、着替え中か。ちょうど良かった。寝間着を持ってきた」
泣きそうになるのを誤魔化しながらサラの頭を拭いてやっていると、おもむろに戸が開かれ、例の耳無しの女が入ってきた。
女の視線は即座にこちらに向けられ、特にサラを凝視している。
ここでサラの姿を見られてしまったと分かったオーヘンは自分の背にサラを隠し、自分のタオルをかけて姿を隠そうとする。もう遅いとは分かっている。きっと集落の者達のように呪われた子だと指さされ、ここからも追放されるのだろう。
「妹のその耳……」
案の定女はサラの耳について触れてきた。
『何あの変な耳』
『気味が悪い……』
『あの子とは遊んじゃ駄目。耳の病気が移っちゃうよ』
『化け物め』
『あんたなんて、生まれてこなければ……!』
途端、オーヘンの脳裏に今までサラが言われ続けてきた陰口が蘇る。
『サラのおみみは、どうしておにいちゃんやみんなとちがうの?』
「何だよ、耳が個性的なのがそんなに駄目なのか!? 別に耳が他と変わっていたってサラはサラだ! 僕の大事な妹だ!! 誰よりも優しくて気を遣う性根のまっすぐな子だ! なんでサラばかり非難されなきゃならないんだ!」
今まで言えば風当たりがきつくなると分かっているが故口に出すことが出来なかった、周囲の煩いくちばしに対する自分の気持ち。
限界までため込まれていた鬱憤は一度漏れたら止まらない。
一方的にまくし立てている中、女は口を挟まず無表情でじっとこちらを見ていた。そしてオーヘンの口が大人しくなり、やがて動きを止めると、女は興味深そうに口元に手を当てて、なるほどなと呟いた。
「頭巾を被っていたのと、この森に子どもだけで来たのはそういう経緯があったのか」
「は?」
「初めて見たが、雪のように白く美しい耳だな」
女から出てきたのは予想に反した言葉であった。
オーヘンの耳は栗色だ。白となれば、後ろにいるサラしかいない。生まれて初めてオーヘン以外の者に耳を誉められ、サラはとても嬉しそうにありがとうと礼を言う。
「着替えはここに置いておく。それと兄。妹を思う気持ちは実に健気だが、それにかまけて自分が無防備になるのはあまり誉められたものではない」
そこで自分が丸裸でサラの前に立っていることに気付いたオーヘンは声にならぬ叫びを上げた。
それは妹のサラですら聞いたことのない絶叫だった。あまりの失態に傷心したオーヘンはしばらく浴室にこもって出てこなかった。
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翌朝、目が覚めて昨日にご飯を食べた部屋に行くと、耳無しの女は食卓の側の机で黙々と作業を行っていた。
『やあ、おはよう。君たち、朝ご飯はパンがいい? それともライ麦パン?』
部屋に入るなり、例の額縁に男の姿が現れ、実質一択の質問をぶつけてきた。お勧めでお願いしますと言うと、男は嬉しそうに微笑み、じゃあクロワッサンにしようと第三の選択肢で決定する。
聞き覚えのない食べ物もそうだが、そもそも額縁から出ることの出来ないこの男がどうやって食事の準備をするのだろうか? 耳無しの女が準備をするのが一番早いだろうが、先ほどから作業に没頭しているのか何の反応もない。
『ああ、少年。お前がどうやって準備するんだって言いたげだな。面白いものを見せてやるから、椅子に座って待ってな。ああ、妹ちゃんも座っておきな。あれ、随分可愛い耳しているんだね。隠さなくて良いよ、すっごく素敵だ』
さらりとサラの耳を誉めてみせ、男は額縁から姿を消す。
サラはと言うと、人生二度目の他人からの優しい言葉に満面の笑みを浮かべて照れている。会って二日で心からの純粋な笑みを獲得した得体の知れない二人に、嫉妬しないと言えば嘘になる。サラを拒絶しない仲間は増えたが、同時にサラを取られたような気がして、オーヘンは素直に喜ぶことが出来なかった。
悶々としていると、額縁に戻ってきた男は皿の上に乗った三日月型のパンのようなものを見せてくる。
『これがクロワッサンね。食べたことある?』
首を横に振っていると、男はそれは良いと喜び、鋼鉄で出来ているであろう奇妙な物体を額縁の端から押して運んできた。
『あー……あいつは無理か。少年、悪いけど隣の部屋に似たような物があるだろうから、それをこっちに持ってきてくれないか? ぶつけないように気を付けてな』
何で自分がこんなことをしなければならないのだろう。少し不満に思ったが、自分達は住まわせてもらっている立場であることを思い出し、そそくさと隣の部屋に行く。
男が言っていた物は直ぐに見つかった。が、それが置かれていた部屋が問題であった。
この家は生活感が少ない。その中でもこの部屋は特に際立っている。家具は疎か、照明も設置されていないこの部屋は妙にがらんどうとしており、部屋の中央に枯れた花束が置かれている。余りに異質なその雰囲気に気圧され、オーヘンは台車に乗った奇妙な物体をそそくさと居間へと運ぶ。
『ありがとう! じゃあ、今からクロワッサンを送ります! よーく見とけよ?』
言うや否や、男はクロワッサンというパンを奇妙な物体の前に置いて操作をする。直後、物体は鳥の鳴き声のような奇妙な音を立てて点灯すると、針のようなものの先端から緑がかった光を放つ。
これだけでも腰を抜かしそうになっていたが、次の瞬間、光を受けたクロワッサンが毛糸玉をほぐすように糸状になり、針の先へと吸い込まれてゆく。昨日に引き続き理解の許容範囲を超えたその光景に、意識が遠退きそうになる。
やがて光の照射が終わり、クロワッサンが綺麗さっぱり消え去る。続いて綺麗さっぱり消えそうになるオーヘンの意識だったが、机に向けて置いた奇妙な物体がゴゥンと大げさな音を立てたため、意識を失うより早く体が飛び上がってしまう。
泣きそうになる自分とは反対に、好奇心に満ちあふれた表情のサラの前で、その奇妙な物体は額縁の中のそれと同じように緑の光を放つ。先ほどと違うのは、針に糸状になったクロワッサンが吸い込まれたのに対し、針から糸状になったクロワッサンが出てきたことだ。
言い方は悪いが、肛門から出る寄生虫のようにするすると出てき、何事もなかったかのようにクロワッサンの形を成す天外魔境なこの現象に、オーヘンの意識はいつ飛んでもおかしくない状況であった。
『さあ、召し上がれ』
「わあ! おいしそう。おにいちゃん、たべていい?」
「待って、兄ちゃんが先に食べる」
そのような原理でこのような現象が起こるのか。それを解き明かさねば触れるのは疎か、触ることにも抵抗があるが、サラがいる手前逃げることは出来ない。
寄生虫を想定した手前食べるのには非常に勇気が必要となった。が、もしこれをサラが食べて苦しんだら死んでも死にきれない。耳無しの女と額縁の男が信頼できるまで、サラの先頭に立つのは当然の義務である。
勇気を出して指先でクロワッサンに触れる。
意外にも触れたそれは焼きたてのように温かく、堅い感触だった。
意を決してむんずと掴む。表面は堅かったが、下の方は柔らかい。毒がありませんようにと祈りつつ素早く口に運ぶ。ゆっくり運ぶと踏ん切りが付かないように思えたからだ。
カリ、と今まで感じたことのない香ばしい歯ごたえが前歯に伝わる。
前歯で千切られ、口腔内にゆっくりと運ばれた途端、香ばしい表面に隠れていた何層にも重ねられた生地がほろほろと崩れ、濃厚なバターの味わいが口いっぱいに広がる。この味をなんと表現したらいいのだろう。そんなものは一つしかなかった。
「美味しすぎる……!」
衝撃的な味を賛美すると同時に、オーヘンの意識は遠退いた。
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目を覚ますと、オーヘンは寝室でベッドに横になっていた。
ーーああ、夢だったのか。
ほっとため息を吐くも、扉の向こうから聞こえてくるサラの楽しそうな笑い声で現実に引き戻される。サラは集落であのように笑うことはあまりなかった。笑うと必ず誰かが「呪われた子が笑うなんて気味が悪い」と文句を言ってきたからだ。
ベッドから降りて扉に向かう。笑い声は更に大きくなっていた。
涙していることが多かったサラがこんなにも気を遣わずに笑える日が来るなんて思いもよらなかった。兄としては非常に嬉しく思う。
「おにいちゃん、おはよう!」
『おう少年! よっぽどクロワッサン美味かったんだな!』
ただ、こんな得体も知れない奇々怪々な奴が相手じゃなかったら手放しに喜べたのだけど。
相変わらず機械とにらめっこをしている耳無し女を確認しつつ、当たり障りのない返答をして椅子に座る。あれから何時間経ったか分からないが、女は意識を失う前と寸部変わらぬ体勢でいた。
よくやるよと呆れていると、サラが一口かじったきり手が付けられなかったクロワッサンを出してきた。
改めて口に含まれたそれは相変わらずこの世の物とは思えないほどの味をしていた。が、二度目と言うこともあってオーヘンが意識を手放すことはなかった。
「あの」
ミルクを飲み干しておずおずと声を掛けると、額縁の男はどうした? と屈託のない笑みで尋ねてくる。ここで額縁の男にも耳がないことが発覚し、危うくオーヘンは意識を手放しそうになった。
「僕の名前はオーヘンです。こっちは妹のサラ」
『ああ、そう言えば自己紹介まだだっけ? サラちゃんは君が寝ている間にしてたけど、そっか、少年はまだだったね。オーヘンか、良い名前だ。俺はオラン。んで、そっちのは……おーい。ちょっと研究の手を止めてくんないかな?』
いきなり大声を出したオランに肝を冷やしていると、ああごめんと謝られる。耳は無いが、随分素直に謝る人なのだなと思った。
何度も何度も使い魔でも額縁の男でもない「オラン」が呼ぶと、面倒くさそうに耳無し女が振り返る。
女は昨日と同じ前開きの裾の長い白い服を身にまとい、同じく白い髪を乱雑に後ろで一纏めにしていた。明るい場所でまじまじと見てみると、耳無し女の目は淡い栗色の目をしていた。自分が栗色の髪と目なだけに何となく、親近感がわいた。
「何だ?」
『何だじゃない。自己紹介。お前名乗ってないだろ?』
「そんなもの、お前が代わりに言ってくれれば良いだけだろう。研究の手を止めるほどのものではない」
『ばっか、分かってねーな。こう言うのはちゃんと自分の口から言わなきゃ駄目なんだって』
こうして見ると、二人は親子のように見えた。
「カナン」
ぶっきらぼうに呟いた言葉は、どうやら耳無し女の名前らしい。
オランと同じく耳慣れない名に戸惑いつつも、オーヘンは二人の性格がどのようなものなのか分かってきた。
オランは明るく、世話を焼くのが好きな頼れる男。本人は自覚していないだろうが、ふざけた発言をするのが多い。
対してカナンはぶっきらぼうで、自分の興味のある物しか関心を示さない。カナンにいたっては接する機会が少ないので、取っつきにくい人だという印象しかない。
だが、不思議なのはカナンが森で倒れた自分達を救ったということだ。記憶は曖昧だが、オーヘンは気を失う寸前にカナンと思しき人影を見ている。目を覚ました場所がカナンの住処なのだから、連れてきたのは十中八九彼女だ。だが、今彼女は自分達にあまり関心がないように思える。何故、彼女は自分達を助けたのだろうか?
『おいカナン、戻るな。まだこの子達の名前知らないだろ』
元の席に戻ろうとしていたカナンはくるりと向き直ると、オーヘンとサラを指す。
「兄がオーヘン、妹がサラ。この頭を見くびってもらっては困る」
そうとだけ言うと、カナンはさっさと戻り、再び作業に没頭する。
サラは名前を呼んでもらえたと無邪気に喜んでいたが、カナンが怒っているように思えたオーヘンは緊張しながら彼女の背中を眺める。この家の主導権はカナンが握っているだろうから、彼女が機嫌を損ねるのはあまり得策ではないと考えているからだ。
が、カナンやオランの情報が少ない状態で下手に機嫌を取りに行っても上手くいくはずが無い。当面は情報収集に念を置いた方が良策と言えよう。
「その、オランさんとカナンさんは一体?」
『あー、呼び捨てで良いよ。多分、君らもすぐに追い越しちゃうだろうし』
「はあ、気を付けます」
『俺とカナンはこの星、アン・ジョーとはまた別の人間なんだ。異星人、って言ったら分かるかな?』
急展開に思考が止まる。
こう言うとき、理屈で考えてしまう自分は融通が利かないなと思ってしまう。サラの方がずっと順応性が高い。現に、今もサラはまたオランに出してもらったであろう初めて目にする食べ物を頬張りながら、すごーいと本当に理解しているか分からない感想を述べている。
『だから君たちのような耳は無いし、言葉だって違う。使っている道具も見たこと無い物ばかり見ているだろ? でも俺たちの星だと一部を除いて全部ありきたりな物なんだよ』
「くろわっさんも?」
『おう、そんなのだったら店に溢れかえってるぞ』
「すごーい!」
あんな美味しい物が溢れかえる世界。
想像するだけで涎が出てきた。
「そんな豊かな星に住んでいる人がどうしてアン・ジョーへ? この星はそちらに比べてお世辞にも魅力的とは言えませんけど」
『おう……随分すれてんな。理由は、人類の欲望の成れの果て……って所かね。ああ、それと俺が思うにこの星はとても魅力的だ。俺たちの星が失ってしまった素敵なものが沢山ある』
「そういうものですか? 僕にはオランの世界の方が良いと思うけど」
『隣の芝生は青いって言うからな。ま、追々分かるだろ。それより、サラちゃん眠そうだから、風呂入って寝たら? もう風呂は湧かしてあるし。疑問に思っていることは明日また話するから』
視線を隣に移すと、サラはフォークを片手にうつらうつらと船を漕いでいた。それほど時間が経っているようには思えなかったが、気絶していたため時間の感覚がずれているのだろう。外を見れば分かるだろうが、あいにくこの部屋は分厚いカーテンで窓を覆っているため外の明るさが伝わってこない。
ぐずるサラを背負い、風呂場に運ぶ。
運んでしまえば入浴と言うものに魅了されているサラは瞬時に覚醒しててきぱきと身支度を整えてくれた。
洗髪、洗身を終えて湯船に浸かる。いつの間にか洗い場の鏡の所に黄色い鳥の人形が置かれており、サラが求めるままに浴槽に浸けてみた。すると柔らかい感触の鳥はぷかぷかと浮き、サラは手放しに喜んだ。
後に服を運んできてくれたカナンによると、黄色い鳥はあひると言い、カナンの住んでいた国では風呂で遊ぶ玩具の定番で、あれば楽しいだろうとオランが送ってきたらしい。
居間に戻り、オランと談笑を楽しんだ後、再度船を漕ぎだしたサラを背負い、オーヘンは寝室へと戻る。
「おやすみなさい」
『はい、おやすみ!』
「……おやすみ」
寝る前の挨拶をされる喜びを噛みしめながらサラをベッドに寝かす。
昨日から頭巾で覆われていないサラの耳は、解放されているからかいつもよりずっと美しく見えた。
偏見の目で見られず、温かい食卓と寝床がある暮らし。二日前の自分ならば、こんな生活が送れるなんて思いもしなかっただろう。
ーーあの人たちは何か隠している。
だが、あまりに出来すぎた環境に、オーヘンの心に僅かな不安があるのもまた事実である。更に言えば、彼らの発言の節々にひっかかる物があるのも原因となっているのだろう。
その夜、オーヘンは夢を見た。
夢の中のオーヘンとサラはこの家に住んでおり、大人になっていた。家の様子は何も変わらない。少しも痛んでいないし、生活感の無い部屋もそのまま。そしてオランとカナンも少しも変わっていなかった。
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