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第十二話
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1
現在の人にも分かりやすいように出来るだけ今の言葉とか役割になおして解説をしていくことになります。細かいところが気になったら、専門家の先生を捕まえて確認しておいてください。
それでは、始めます。
田沼源次郎は日中戦争時にも軍医見習いとして大陸に渡っていたそうです。そこで経験したことを生かして、血液の代用物を作る研究をする事を軍に申請したそうです。戦場では輸血用血液が特に不足がちで、失血死による兵士の消耗が戦線に大きく影響すると田沼は考えていました。
血液の代用物が出来れば兵士の消耗率も軽減されるだろうことから軍はそれを許可しました。この研究成果は田沼博士が東南アジアの戦線で軍医として従軍した際に海水のようなものを血液の代わりに使っているのが日記に書かれていましたのを見るとわかるように、ほぼ上手く言っていたようですね。ただ、終戦時に他の資料とともに研究資料はすべて破棄されてしまったためにどんなものだったのかはわかりません。
神川の医者の家に生まれた源次郎には一回りほど年の違う許嫁がいました。それが野際律子です。源次郎の父と律子の父は親友でこの話は親同士が若い時に決めた話ではありましたが、源次郎の父は律子の父が早世すると身寄りの無くなった彼女を引き取りました。律子は田沼の家で奉公という形で暮らしました。
アメリカとの戦争が始まる頃、律子は源次郎の研究室で女中として働いていました。
この律子という女性は、真面目だけれど少し抜けたところがあって、実験で行き詰まっていた時にはいい息抜きになって良いと、源次郎はことあるごとに書いています。
二人の関係は良好で、戦争がもう少し早く終わるか、なければ幸せな家庭を築いていたと思います。
源次郎の出征前に律子は自分が身篭ったことを源次郎に伝えていますが、この二人の仲を妬んでいた者が一人います。そうです。それが汀子です。汀子は、官憲に二人のことを密告します。このことがきっかけで研究所は閉鎖。源次郎が出征となるわけです。
本来であれば源次郎と律子は許嫁ですから、別に問題ないはずでした。ですが、戦時下においては「破廉恥」「他の者が命がけでお国のために尽くしているのに恥ずかしくないのか」などとなじられるわけです。
結果的に研究室は閉鎖。源次郎は東南アジアの激戦地に送られることになりました。
田沼源次郎と野際律子の悲劇は、律子が少ししか文字を読めなかったことと汀子が密告者だと言うことを知らなかったことです。源次郎が手紙を書き、その手紙を汀子が律子に読んで聞かせるという三角関係が生まれてしまったのです。普通であれば、親切で終わる話ですがそうはなりませんでした。
南方に向かう源次郎は日記に移動のこともつづっています。夜間の船による移動は神経をすり減らしたそうですが、制空権を失っていた日本にとっては、昼間の移動より安全だったようです。
彼は激戦の地で医療を武器に自分の身を守りきりました。兵士や現地の人間の命を助けることで生き残ったのです。
しかし、辛苦の末に帰りついてみると、律子はもういませんでした。律子は源次郎が出征してから一月もせずに亡くなっていたそうです。お腹の子どもも一緒だったと。密告後から始まった周囲のいじめが酷かったのを苦にした自殺だったと書かれていました。
田沼源次郎は、もはや生きる力を失っていました。故郷の神川に引きこもり診療所も閉鎖したまま、ただ死ぬ日を待っていました。そこへ汀子が押し掛けてきて、身の回りの世話をして、なんとか田沼博士を立ち直らせようとします。
ですが、博士は気がついたんです。汀子の言葉の中にある嘘に。
親切だが、どこか計算高く、明るいがどこか演技に見える。疑えば疑うほどに怪しく見えてくる。
そんなある日、研究員の一人が訪ねて来ました。そして、恐ろしい真実を告げたのです。
律子は自殺したのではない。毒殺されたのだ。
一体、誰に? 源次郎は訪ねました。
2
畳に座して向かい合う田沼と元部下の中山。田沼が詰め寄り中山の肩を力一杯につかむ。
「誰が、誰が律子と俺の子を殺したんだ? 言え、言ってくれ。中山! 知っているんだろう?」
中山は周囲を見回した。そして、小声で言った。
「汀子です」
田沼は言葉を失った。言葉が理解できなかったかのようにもう一度聞き返す。
「なに?」
「汀子です。研究室にあった殺鼠剤を隠し持っていたんです。田沼さんはなぜ、あの女を家に置いているんですか」
田沼ははたと気がつく。中山はここに来てから、茶一つ手に取っていない。そういえば、ここに来たときの中村は旧友を懐かしむかのような笑顔があったのに、汀子の姿を見てからは、中山の態度は明らかに硬直していた。
「どうしてそう思う?」
田沼はそこまで言って首を振った。
「いや、俺もおかしさは感じていた。律子は田沼の家に帰れば、いじめなど気にすることもないし、安心して子どもだって産めたはずだと思っていた。自殺する理由がないんだ」
田沼は尻餅をつくように座り込んだ。中山が頭を下げる。
「もっと早くに訪ねてくるべきでした。申し訳ありません」
「いや、頭を上げてくれ」
中山の頭を無理矢理上げさせると田沼は言った。
「俺は自分の妻や子を殺した人間を哀れと思って家に上げていたのか。ふふふ、とんだ大馬鹿者だな。いや、あの女を置いておけば律子のことを思い出せると思っていたのだ。情けない。なんと情けない」
田沼は中山の手を取る。
「私に力を貸してくれ。証拠を見つけよう。それで、あの女を問い詰めよう」
中山はゆっくりとうなずいた。
3
土間で野菜を切っている汀子に語りかける。
「中山と積もる話があるから、今日はもう上りでいい。たまには汀子も他のお手伝いさんと一緒に映画でも見てくると良いさ。ハナエさんとミツさんには話をしておいたから」
「中山さんがお泊まりになるって本当ですか?」
汀子はあからさまに迷惑そうな顔をした。
「遠くから来ているからな」
「お食事はどうします?」
「角のキネさんに頼んだから大丈夫だ」
「どうせ私は料理ができませんもんねぇ」
時々すねてみせるこう言った汀子の言動が無性に気持ち悪いと思っていたが、あの話を聞いた直後となると、もはや耐えられなかった。目が潤むのを必死でこらえる。
「泣いてるんですか?」
「あぁ、久しぶりに律子のことを思い出してね」
そう言うと汀子は不機嫌になった。
「そうですか。じゃあ、行ってきます」
家の中に中山と二人だけになると、まずは汀子の荷物をあらためた。行李の中を調べたとき、背筋がぞっとした。ひときわ厳重にくるんだ包の中に手紙があった。それは自分が律子に宛てた手紙だった。
律子に宛てた手紙を汀子が持っている。
「中山、もういい。十分だ。私にはわかった」
研究室にあった頃から、汀子にはおかしなところが多々あった。妙に律子と私の仲にやきもちを焼いたりするようなことがあったり、律子に対して姉のような態度を取ったりしていたのだ。おそらく手紙を読んでいるうちに私の気持ちが自分に向けられていると錯覚をしたのだ。
そして、嫉妬の感情で私の妻子を毒殺し、手紙を奪い去り自分の物にしたのだ。
何というおぞましさだろうか。
私たちは汀子の荷物をきれいに元通りに戻すと、これからのことについて語り合った。
「中村はすぐにここを離れるんだ。汀子も何か気が付いているだろうから、君を殺すかもしれない。いや、冗談ではなくて、二人も殺している凶悪な人間だ。やりかねない」
「田沼さんはどうするんですか?」
「私は悪魔に罰を与えるさ。それ相応のね」
「罰ですか」
「知っているかい? 人間の血液は鉄分を含んでいるから赤いんだ。カニやエビは銅を含んでいるから青い。東南アジアの村で聞いたんだが、悪魔の血は黒いそうだ。一体何を含んでいるんだろうかね」
「田沼さんはこれからの時代に必要な人です。田沼さんが手を下しちゃいけないですよ。私が、私にやらせてください」
「ダメだ。……死なせない。そうさ、死なせるものか。殺してしまったら、律子と同じところに行くことになる。それじゃあダメだ。未来永劫この世の中に閉じこめて永久に死ねないようにしてやる」
田沼の目に憎しみの光を見たのだろう。中山はそれ以上何も言わなくなった。
4
薄暗い土間に中山が腹部から血を流し倒れていた。血の付いた包丁が側に転がっていた。
小さな電灯に照らされた居間に二人の男女がいた。男は廊下に置かれた革のバッグから、手ぬぐい。管の付いた注射針。縄。そして、黒い液体の入ったガラス瓶と注射器を取り出した。
「この黒い血液は悪魔の中に流れるのが一番ふさわしい。私はそう思う」
手足を縛られたままの汀子を見下ろしながら田沼が言った。右の頬には一筋の切り傷。着ているシャツにも切られた後と血が染みていた。
「中山君がいてくれて助かった」
「あなた! 何でこんなことをするの! あたしが何をしたって言うのよぉ」
芋虫のようにはいずり回りながら田沼の足下にやってくる汀子。田沼はそれを蹴飛ばした。
「どうして律子を殺したんだ? 妹みたいに可愛がってたじゃないか」
壁際まで転がりながら、汀子はうめく。
「あんな女、死んで当然なんだよ! 何もできないくせに、あたしたちは三人で一緒だったのに自分勝手に一人増やしやがって、あたしを追い出そうとしたんだ!」
「自分勝手なのはお前だ」
「なにさ! 手紙であたしのことを好きだと書いてたくせに!」
「あの手紙は、律子に宛てた手紙だ!」
「信じない! 信じないよぉ! そうだよ! 律子を殺したのは中山なんだよ! あいつは律子と不貞を働いてたんだよ!」
「この悪魔!」
田沼は下唇をかんで、拳を振りあげて二度三度汀子を殴りつける。
「あたしじゃない! あたしが悪いんじゃない! あたしは一生懸命やったじゃないの!」
なおもわめき続ける汀子に耐えられなくなった田沼は、そばにあった手ぬぐいで汀子に猿ぐつわをする。うーうーとうなる汀子を無視して縄で柱に縛り付ける。
「術式を説明する。まずお前の右腕に針と管を刺し、血を抜く。一定量抜いたら止血をする。その後、この黒い血を左腕から輸血する。この輸血した血が全身に回ると、肉体と精神が分離される。肉体は死ぬが、精神はこの世に残り続ける。精神は肉体に引かれるが、お前は戻ることは出来ない。永遠に。以上だ」
汀子の右腕に管付きの注射針を刺す。汀子が痛がっても無視して作業を続けた。畳に赤い血が流れていく。
ガラス瓶から注射器で黒い液体を吸い上げる。
「永遠に生きると言うことは、永遠に一人きりだと言うことだと私は思う。仮にお前が罪に問われ、死刑を受けたとしても、その死が償いになるとは私には思えない。お前は反省などしないからだ。きっとこう思う。私が悪いんじゃない。世の中が悪いせいだ。だから、私はお前にふさわしい罰を用意したんだ。お前は永久に誰からも許されることなく生きながら死に続ける。きっとこんな残酷なことをして、私は地獄に落ちるだろう。だが、私も弱い人間なんだ。この憎しみを一人で飲み込むことはどうしても出来なかった。これでようやくお前の来れないところで律子と子どもと幸せに暮らせる」
田沼は汀子の左腕に注射器を刺し、黒い血液を注入した。
汀子の左腕の血管が黒く染まり、体を上っていく。小刻みに細かくふるえ出す汀子の肌が徐々に灰色に変わっていく。
田沼は管付きの注射針を抜いて止血する。汀子の体の震えが大きくなり、家さえも揺らし始める。それもしばらくすると収まっていく。
汀子は柱にもたれ掛かったまま動かなくなった。田沼は汀子の首筋に手を当てると小さく何度もうなずいた。
「まだ夜汽車はあるか」
田沼は革のバッグを持って家を出ていった。
5
昭和二十三年四月二十一日早朝、F崎の崖上から一人の男性が身を投げた。
現在の人にも分かりやすいように出来るだけ今の言葉とか役割になおして解説をしていくことになります。細かいところが気になったら、専門家の先生を捕まえて確認しておいてください。
それでは、始めます。
田沼源次郎は日中戦争時にも軍医見習いとして大陸に渡っていたそうです。そこで経験したことを生かして、血液の代用物を作る研究をする事を軍に申請したそうです。戦場では輸血用血液が特に不足がちで、失血死による兵士の消耗が戦線に大きく影響すると田沼は考えていました。
血液の代用物が出来れば兵士の消耗率も軽減されるだろうことから軍はそれを許可しました。この研究成果は田沼博士が東南アジアの戦線で軍医として従軍した際に海水のようなものを血液の代わりに使っているのが日記に書かれていましたのを見るとわかるように、ほぼ上手く言っていたようですね。ただ、終戦時に他の資料とともに研究資料はすべて破棄されてしまったためにどんなものだったのかはわかりません。
神川の医者の家に生まれた源次郎には一回りほど年の違う許嫁がいました。それが野際律子です。源次郎の父と律子の父は親友でこの話は親同士が若い時に決めた話ではありましたが、源次郎の父は律子の父が早世すると身寄りの無くなった彼女を引き取りました。律子は田沼の家で奉公という形で暮らしました。
アメリカとの戦争が始まる頃、律子は源次郎の研究室で女中として働いていました。
この律子という女性は、真面目だけれど少し抜けたところがあって、実験で行き詰まっていた時にはいい息抜きになって良いと、源次郎はことあるごとに書いています。
二人の関係は良好で、戦争がもう少し早く終わるか、なければ幸せな家庭を築いていたと思います。
源次郎の出征前に律子は自分が身篭ったことを源次郎に伝えていますが、この二人の仲を妬んでいた者が一人います。そうです。それが汀子です。汀子は、官憲に二人のことを密告します。このことがきっかけで研究所は閉鎖。源次郎が出征となるわけです。
本来であれば源次郎と律子は許嫁ですから、別に問題ないはずでした。ですが、戦時下においては「破廉恥」「他の者が命がけでお国のために尽くしているのに恥ずかしくないのか」などとなじられるわけです。
結果的に研究室は閉鎖。源次郎は東南アジアの激戦地に送られることになりました。
田沼源次郎と野際律子の悲劇は、律子が少ししか文字を読めなかったことと汀子が密告者だと言うことを知らなかったことです。源次郎が手紙を書き、その手紙を汀子が律子に読んで聞かせるという三角関係が生まれてしまったのです。普通であれば、親切で終わる話ですがそうはなりませんでした。
南方に向かう源次郎は日記に移動のこともつづっています。夜間の船による移動は神経をすり減らしたそうですが、制空権を失っていた日本にとっては、昼間の移動より安全だったようです。
彼は激戦の地で医療を武器に自分の身を守りきりました。兵士や現地の人間の命を助けることで生き残ったのです。
しかし、辛苦の末に帰りついてみると、律子はもういませんでした。律子は源次郎が出征してから一月もせずに亡くなっていたそうです。お腹の子どもも一緒だったと。密告後から始まった周囲のいじめが酷かったのを苦にした自殺だったと書かれていました。
田沼源次郎は、もはや生きる力を失っていました。故郷の神川に引きこもり診療所も閉鎖したまま、ただ死ぬ日を待っていました。そこへ汀子が押し掛けてきて、身の回りの世話をして、なんとか田沼博士を立ち直らせようとします。
ですが、博士は気がついたんです。汀子の言葉の中にある嘘に。
親切だが、どこか計算高く、明るいがどこか演技に見える。疑えば疑うほどに怪しく見えてくる。
そんなある日、研究員の一人が訪ねて来ました。そして、恐ろしい真実を告げたのです。
律子は自殺したのではない。毒殺されたのだ。
一体、誰に? 源次郎は訪ねました。
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畳に座して向かい合う田沼と元部下の中山。田沼が詰め寄り中山の肩を力一杯につかむ。
「誰が、誰が律子と俺の子を殺したんだ? 言え、言ってくれ。中山! 知っているんだろう?」
中山は周囲を見回した。そして、小声で言った。
「汀子です」
田沼は言葉を失った。言葉が理解できなかったかのようにもう一度聞き返す。
「なに?」
「汀子です。研究室にあった殺鼠剤を隠し持っていたんです。田沼さんはなぜ、あの女を家に置いているんですか」
田沼ははたと気がつく。中山はここに来てから、茶一つ手に取っていない。そういえば、ここに来たときの中村は旧友を懐かしむかのような笑顔があったのに、汀子の姿を見てからは、中山の態度は明らかに硬直していた。
「どうしてそう思う?」
田沼はそこまで言って首を振った。
「いや、俺もおかしさは感じていた。律子は田沼の家に帰れば、いじめなど気にすることもないし、安心して子どもだって産めたはずだと思っていた。自殺する理由がないんだ」
田沼は尻餅をつくように座り込んだ。中山が頭を下げる。
「もっと早くに訪ねてくるべきでした。申し訳ありません」
「いや、頭を上げてくれ」
中山の頭を無理矢理上げさせると田沼は言った。
「俺は自分の妻や子を殺した人間を哀れと思って家に上げていたのか。ふふふ、とんだ大馬鹿者だな。いや、あの女を置いておけば律子のことを思い出せると思っていたのだ。情けない。なんと情けない」
田沼は中山の手を取る。
「私に力を貸してくれ。証拠を見つけよう。それで、あの女を問い詰めよう」
中山はゆっくりとうなずいた。
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土間で野菜を切っている汀子に語りかける。
「中山と積もる話があるから、今日はもう上りでいい。たまには汀子も他のお手伝いさんと一緒に映画でも見てくると良いさ。ハナエさんとミツさんには話をしておいたから」
「中山さんがお泊まりになるって本当ですか?」
汀子はあからさまに迷惑そうな顔をした。
「遠くから来ているからな」
「お食事はどうします?」
「角のキネさんに頼んだから大丈夫だ」
「どうせ私は料理ができませんもんねぇ」
時々すねてみせるこう言った汀子の言動が無性に気持ち悪いと思っていたが、あの話を聞いた直後となると、もはや耐えられなかった。目が潤むのを必死でこらえる。
「泣いてるんですか?」
「あぁ、久しぶりに律子のことを思い出してね」
そう言うと汀子は不機嫌になった。
「そうですか。じゃあ、行ってきます」
家の中に中山と二人だけになると、まずは汀子の荷物をあらためた。行李の中を調べたとき、背筋がぞっとした。ひときわ厳重にくるんだ包の中に手紙があった。それは自分が律子に宛てた手紙だった。
律子に宛てた手紙を汀子が持っている。
「中山、もういい。十分だ。私にはわかった」
研究室にあった頃から、汀子にはおかしなところが多々あった。妙に律子と私の仲にやきもちを焼いたりするようなことがあったり、律子に対して姉のような態度を取ったりしていたのだ。おそらく手紙を読んでいるうちに私の気持ちが自分に向けられていると錯覚をしたのだ。
そして、嫉妬の感情で私の妻子を毒殺し、手紙を奪い去り自分の物にしたのだ。
何というおぞましさだろうか。
私たちは汀子の荷物をきれいに元通りに戻すと、これからのことについて語り合った。
「中村はすぐにここを離れるんだ。汀子も何か気が付いているだろうから、君を殺すかもしれない。いや、冗談ではなくて、二人も殺している凶悪な人間だ。やりかねない」
「田沼さんはどうするんですか?」
「私は悪魔に罰を与えるさ。それ相応のね」
「罰ですか」
「知っているかい? 人間の血液は鉄分を含んでいるから赤いんだ。カニやエビは銅を含んでいるから青い。東南アジアの村で聞いたんだが、悪魔の血は黒いそうだ。一体何を含んでいるんだろうかね」
「田沼さんはこれからの時代に必要な人です。田沼さんが手を下しちゃいけないですよ。私が、私にやらせてください」
「ダメだ。……死なせない。そうさ、死なせるものか。殺してしまったら、律子と同じところに行くことになる。それじゃあダメだ。未来永劫この世の中に閉じこめて永久に死ねないようにしてやる」
田沼の目に憎しみの光を見たのだろう。中山はそれ以上何も言わなくなった。
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薄暗い土間に中山が腹部から血を流し倒れていた。血の付いた包丁が側に転がっていた。
小さな電灯に照らされた居間に二人の男女がいた。男は廊下に置かれた革のバッグから、手ぬぐい。管の付いた注射針。縄。そして、黒い液体の入ったガラス瓶と注射器を取り出した。
「この黒い血液は悪魔の中に流れるのが一番ふさわしい。私はそう思う」
手足を縛られたままの汀子を見下ろしながら田沼が言った。右の頬には一筋の切り傷。着ているシャツにも切られた後と血が染みていた。
「中山君がいてくれて助かった」
「あなた! 何でこんなことをするの! あたしが何をしたって言うのよぉ」
芋虫のようにはいずり回りながら田沼の足下にやってくる汀子。田沼はそれを蹴飛ばした。
「どうして律子を殺したんだ? 妹みたいに可愛がってたじゃないか」
壁際まで転がりながら、汀子はうめく。
「あんな女、死んで当然なんだよ! 何もできないくせに、あたしたちは三人で一緒だったのに自分勝手に一人増やしやがって、あたしを追い出そうとしたんだ!」
「自分勝手なのはお前だ」
「なにさ! 手紙であたしのことを好きだと書いてたくせに!」
「あの手紙は、律子に宛てた手紙だ!」
「信じない! 信じないよぉ! そうだよ! 律子を殺したのは中山なんだよ! あいつは律子と不貞を働いてたんだよ!」
「この悪魔!」
田沼は下唇をかんで、拳を振りあげて二度三度汀子を殴りつける。
「あたしじゃない! あたしが悪いんじゃない! あたしは一生懸命やったじゃないの!」
なおもわめき続ける汀子に耐えられなくなった田沼は、そばにあった手ぬぐいで汀子に猿ぐつわをする。うーうーとうなる汀子を無視して縄で柱に縛り付ける。
「術式を説明する。まずお前の右腕に針と管を刺し、血を抜く。一定量抜いたら止血をする。その後、この黒い血を左腕から輸血する。この輸血した血が全身に回ると、肉体と精神が分離される。肉体は死ぬが、精神はこの世に残り続ける。精神は肉体に引かれるが、お前は戻ることは出来ない。永遠に。以上だ」
汀子の右腕に管付きの注射針を刺す。汀子が痛がっても無視して作業を続けた。畳に赤い血が流れていく。
ガラス瓶から注射器で黒い液体を吸い上げる。
「永遠に生きると言うことは、永遠に一人きりだと言うことだと私は思う。仮にお前が罪に問われ、死刑を受けたとしても、その死が償いになるとは私には思えない。お前は反省などしないからだ。きっとこう思う。私が悪いんじゃない。世の中が悪いせいだ。だから、私はお前にふさわしい罰を用意したんだ。お前は永久に誰からも許されることなく生きながら死に続ける。きっとこんな残酷なことをして、私は地獄に落ちるだろう。だが、私も弱い人間なんだ。この憎しみを一人で飲み込むことはどうしても出来なかった。これでようやくお前の来れないところで律子と子どもと幸せに暮らせる」
田沼は汀子の左腕に注射器を刺し、黒い血液を注入した。
汀子の左腕の血管が黒く染まり、体を上っていく。小刻みに細かくふるえ出す汀子の肌が徐々に灰色に変わっていく。
田沼は管付きの注射針を抜いて止血する。汀子の体の震えが大きくなり、家さえも揺らし始める。それもしばらくすると収まっていく。
汀子は柱にもたれ掛かったまま動かなくなった。田沼は汀子の首筋に手を当てると小さく何度もうなずいた。
「まだ夜汽車はあるか」
田沼は革のバッグを持って家を出ていった。
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昭和二十三年四月二十一日早朝、F崎の崖上から一人の男性が身を投げた。
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