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汀28
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汀28
1
「どこにも行き場がないのなら田沼の家で面倒を見てやってもいい」
田沼源次郎が言った。
「いいの?」
汀子は笑顔になった。
「中山と夫婦になるなら畑と家を用意してやってもいいんだが」
「嫌ですよ。あんな四角い顔の人。それにもうあの人は向こうで誰か良い人を見つけてるはずさ」
汀子は科をつくる。
「わかってるだろ? あたしは源次郎さんが、いつまでも死んだ人間のことを考えていたって……」
そう言って傍に寄ろうとする汀子を田沼源次郎は押し退ける。
「私はもう誰とも一緒になる気はないんだ」
「そんなの呪いじゃないかい。律子もそんなこと望まないよ。あたしが律子の分まで……」
田沼源次郎は目をつむり頭を垂れた。
「その気はない。諦めてくれ」
それを見る汀子の目にはまだ余裕があった。
時間ならある。田沼の家で面倒を見てもいいと言った。時間をかければ律子のかけた呪いも解けるだろう。解けなくてもいい。一瞬でもこちらになびけばそれでいい。そうすればあたしは田沼の家に深く入り込むことが出来る。そうすればもう二度と惨めな思いをせずに生きていける。
「わかった。もう言わないわ。あたしが律子の分まで頑張るから、しっかりしておくれね」
「ありがとう」
田沼源次郎は深く頭を下げるのだった。
そうやって呼ばれた田沼の家であったが、屋敷と呼ぶには少し物足りなかった。源次郎の家は分家だったから仕方がないのかもしれない。町中にあった研究所は戦後のどさくさで人手に渡ってしまった。あの研究所のことは嫌いだったから何の感慨もなかった。それだのにここはあの研究所を思い出させてくるから嫌だった。
源次郎さんが戻ってこなかったならいっそのこと本家の方に取り入ってみる手もあったかもしれない。女中として潜り込んでいずれすべてを取り仕切るようになれれば気持ちが良いだろう。ただ、本家の方は少し世代がズレているので今の当主の隣を狙うには妾にでもならなければならないし、その子どもでは稚すぎて相手にならない。一度本家の本妻を見たことがあるが、妾が何人かいても動じそうにない亀みたいな女だった。このまま源次郎をものにしてその勢いのままに分家が本家を飲み込んだ方が心地がいいだろうし、何よりもあの世で律子が悔しがるのを想像するのが気分を盛り上げてくれてたまらなかった。
ところがだ。源次郎さんは他にも女中が何人か声をかけていてそれがひどく癪に障った。おまけに新谷吉十郎のやつも頻繁にやって来る。新谷や女中があたしの悪口をあの人に吹き込まないとも限らない。心休まる瞬間がない。せっかく邪魔者を始末したのに。あたしだけここに呼ばれていると思ったのに。まぁいいさ、源次郎さんがあたしをここに呼んでくれたのは本当はあたしを愛しているからなんだもの。みんなに律子の影が今もあるから遠慮があるんだ。あぁそうか、あの連中を呼んだのは律子よりもあたしの方が妻にふさわしいと知らしめるためなんだ。そんな回りくどいことをしなくてもいいのに。でも、律子の呪いを解くには必要な儀式なんだわね。科学者っていうのはそういう手間を加えたがる生き物なんだわ。
「本当に嫌になる」
意気地の無い男だ。いつまでも律子律子と。死んだ人間は返ってきやしないのに。まったく馬鹿にしてるよ。ことあるごとに律子と比べられる。憎らしい男だ。わかっている。そうやってあたしを試しているんだ。あたしは出ていかないよ。出ていけばあんたは泣いて止めようとするだろう。そんなみっともない姿は誰にも見せたくはないんだよ。あんたのことは何でもわかっているんだ。なんたってあたしはあんたのために律子を殺してやったんだからね。あんたとあたしは一心同体だ。
「憎らしいねぇ」
それだのに。あんたの思いを拾って事を成したあたしにどうしてこんなにも冷たいのだろうか。憎らしい。憎らしい。憎らしい。
「お満が下処理を間違えたせいで二人は死んだんだよ。それなのによくここに来られたもんだねぇ」
あたしがせっかく教えてやったのに源次郎さんはお満に暇をくれてやることもなかった。それどころか新谷吉十郎がお満のせいじゃないなどと嘘を言う。源次郎さんはどうしてかそれを信じているようだった。
律子が死んだ本当の原因は誰も知らない。そりゃあそうさ。証拠はすべて騒ぎの最中に処分が出来た。だから律子は中毒で死んだ事になっている。当時、食べられるものは何でも無駄にするまいと無駄を出さないようにしていた。でしゃばりのお満と律子が「これは食べられる」「これは食べられない」などとふざけあってやっていたからこんなことになったのだ。そういった反省もまるで感じられなかった。憎たらしい。
「あんたがやったヘマのせいで、もしかしたら味をみるあたしが死んでいたかもしれない。怖いねぇ」
散々責めてやったのにお満は図々しくもこっちについて来た。新谷が助平心を出してかばいやがったせいだ。あのヤブ医者は律子が何で死んだのかも結局わからずじまいだったくせに。
2
あの日、律子が死んだ日、みんながわっと律子のもとへ集まる中、私もそしらぬふりをして別の膳を持ったまま近づいていった。うろたえて右往左往するばかりの連中に私は指示を出してやった。
「どうしたんだい? 中毒かい? ボヤボヤしてるんじゃないよ! 医者を呼ぶんだよ! 男たちは律子さんを研究所へ運ぶんだ。何かあってからじゃ遅いんだから!」
男どもは律子を運ぶために戸を外しにかかり、女中たちは意識のない律子に声をかけて励ます。あたしは膳の上の汁物の椀を入れ替える。大体あたしが大きな声を出すときは誰もあたしの方を見ない。噛みつきやしないのにあたしのことを恐れている。あたしのほうが上だから当然のことさ。
「あんたたちが周りを囲んでちゃ邪魔だよ! 律子さんの膳以外は全部下げたほうがいいから食堂に戻ってまとめておきな」
そうやって入れ替えた椀を載せた膳を土間に運ぶ。さっと中身を捨てて水で流してしまうと椀を適当にほったらかす。側の調味料のある棚から瓶を取り出しそれを抱えて外に出る。誰かに出会って呼び止められてなにか言われたら少し離れた町医者を呼びに行ったと言えばいい。これを捨てるのが何よりも先なのだから。
かすかに見える夜の闇の中を出来る限り早足で進む。街灯なんて今は付きもしない。明かりなんかつけるとそこが爆弾を落とす目印になるからってみんなビクビクして暗闇の中でネズミのように暮らしている。
川はかすかな光を反射するし、流れる音で大体の場所はわかる。耳で場所を確かめて瓶を捨てる。川にゴミを捨てるやつは多い。死体を流すやつも最近はたくさんいる。誰も気にしない。毒の入った瓶を捨てても誰も困らない。
ただ、瓶を放り込んだ時に水音がしてしまった。ひょっとしたら誰かが見に来るかもしれない。少し隠れて様子を見ないといけない。そう思うとなにか人の気配がするような気がしてきた。暴漢かもしれない。そうだったら大声を出してやる。
しばらく待っているとやはり人の足音が聞こえた。先に声をかけて驚かせてやるんだ。
「誰だい? 変なことをするなら大きな声を出すよ」
人影は驚いたようだ。でもすぐに返事をしてきた。
「お汀さんですか? あなたもこっちの医者を呼びに?」
その震えた声の主を知っている。あたしにいつも言い寄ってくる男だ。
「あら、中山さんかい」
なんだい中山かい。びっくりさせるんじゃないよこの鈍亀。口の中でそうつぶやく。正直中山で良かった。本当に暴漢だったら、少し面倒だったからね。中山もあたしが日頃から新谷をヤブ医者と呼んでいるからこっちの町医者を呼びに来たのだ。
こんな男でもいないよりはマシだ。暴漢が出たらこいつを押し付けてあたしは先に逃げればいい。
「中山さんがいれば安心だねぇ」
あたしは笑った。中山の肩から胸のあたりを両の手でさすってやる。どうせ中山もデレデレとした顔をしているに違いなかった。
町医者を連れて戻ると律子はもうすでに死んでいて新谷が処置したあとだった。律子は助からなかった。助からなかった。助からなかったのだ。助かるわけがないよ。殺す気だったんだから。
律子の死体を見て大笑いしてやりたかったけど、子どもみたいな若い警官が何人か来て女中たちから話を聞いていた。あたしもそこに呼ばれていろんなことを聞かれた。
「すみませんねぇ。あたしは包丁も苦手だし、食材も覚えられないんですよ。だから配置とか彩りとか味の濃薄とかそういうのしか出来なくて。まさか食べられないようなものが入ってるなんてねぇ」
警察は死因を中毒と決めつけてすぐに帰っていった。後日、ヘマをしたお満が罰を受けるのだろう。お満をかばう新谷は律子の死体と共に田沼の家に行ってそっちで葬式だという。それにしても死んでも手間のかかる女だ。川にでも投げ込んじまえばよかったのに。
慌ただしく数日が過ぎた。そんな中、中山は律子が死んだあと実家のある九州に戻っていった。あんなにあたしに言い寄ってきたくせにあの四角い顔の男は最後になんの挨拶もせずにそそくさと帰っていった。律子の死に様に衝撃を受けたせいで心が病んだというその様子を見て恐らくはもうこちらには帰ってこないだろうとみんな思ったそうだ。あたしとしてもしつこく言い寄ってくる男がいなくなってくれて良かった。源次郎さんが戻ってきた時に変な誤解をされたら困るのだから。
3
あの日、律子さんが悲鳴を上げてお腹の中の子供と共に死んだ夜、私は汀子を見ていた。汀子をまだ慕っていたからだ。皆の目が律子さんに向かう中で汀子だけ動きが違った。御膳を運んでいた汀子は周囲を探るようにして律子さんの膳の前に座り人だかりの隙間から律子さんを見るように首を伸ばした。
「どうしたんだい? 中毒かい? ボヤボヤしてるんじゃないよ! 医者を呼ぶんだよ! 男たちは律子さんを研究所へ運ぶんだ。何かあってからじゃ遅いんだから!」
汀子が怒鳴ると皆顔を背ける。汀子は顔色を読むからだ。そこに不平や不満を見つけるとさらに詰ってくる。だから皆、汀子が怒鳴ると顔を背けるのだ。
皆が律子さんの運ばれていく先へついていくのに汀子はひとり座ったままだった。律子さんの膳になにかしているように見えたが背中側からではよくわからなかった。
「あんたたちが周りを囲んでちゃ邪魔だよ! 律子さんの膳以外は全部下げたほうがいいから食堂に戻ってまとめておきな」
汀子は女中たちに声をかけると一人背を向けて土間のほうに走っていった。律子さんのことより汀子が気になり後を追った。音もなく汀子が土間に入ったのを確認すると私は土間には入らずに隣り合う空間に体を滑り込ませる。そこは時々仕事中の汀子を覗き見ていた場所だった。そこから見えたのは、汀子が椀の中の物を捨てて洗い流している姿だった。その顔は笑っているように見えた。泣き顔と笑顔はよく似ている。そのせいで見間違えたのかもしれない。
汀子は椀を洗ってしまうとぱっと側に伏せ、今度は調味料が置いてある棚から瓶を取り出して、それを抱え暗い夜の外に出ていく。あの瓶は見覚えがあった。妙な胸騒ぎがしてその後ろを追いかける。闇は闇だが真っ暗ではなかった。うっすらと見える影を見失わないように追いかける。大分先のほうに新谷吉十郎とは別の町医者が住んでいる。近さで言えば新谷の診療所のほうが近い。だが、汀子は新谷をヤブ医者と決めつけている。それで町医者を呼びにいくのかもしれない。なんだかんだ言っても律子さんが心配なんだ。妹のように思っているのだ。ただ、あの瓶を抱えて出かける理由にはならないが。
しばらく進んだところで水音が聞こえた。誰かが川になにかを捨てたようだった。少し待っても汀子は引き返して来なかったところを見るとさらに先へ進んだようだった。川に瓶を捨てに行ったのではなくやはり町医者に行くつもりなのだ。あんなに律子さんのことを嫌っている風でも本当は優しい人なのだ。
不意に川を確かめようかとも思った。しかし、暗い中ではわからないだろう。川を見ている最中に汀子が戻ってきたら返事に困るだろう。もしかしたらあれは誰かに見られたらマズイもので後ろから私が付いて来たのがバレているのかもしれない。このまま道を進めば別の医者である。今はそれを呼びに来たことにすれば良い。明日、朝になったら川を見ればわかるはずだ。薄い暗闇を進んでいくと陰から声をかけられた。
「誰だい? 変なことをするなら大きな声を出すよ」
汀子の声だった。なるほど、足音に気が付いて誰かが来たと思って隠れていたのか。
「お汀さんですか? あなたもこっちの医者を呼びに?」
「あら、中山さんかい」
「新谷では荷が重いと思ってこっちに来たんですが、こう暗くちゃ歩きにくくてかないませんで」
「本当だねぇ」
「慌てて飛び出してきたんで明かりを持ってくるのを忘れちまいました」
「あたしもさ」
汀子は私が後をつけてきたことに気がついているのかもしれない。それでいて私をそう問い詰めないのは私が汀子が答えたそれ以上の事を人に言えないことを知っているからだろう。私の中にある疑念は私の中だけに置いておくしかない。
「中山さんがいれば安心だねぇ」
汀子が笑った気がした。両手でもって触れてくる汀子は抱えていたはずの瓶を持っていなかった。くすぐるような動きをしたその手は今までになかったような感触で、それはまるでイソギンチャクの触手のようで気味が悪く感じた。
町医者を呼んで戻ったときにはもう何もかもが終わっていた。律子さんの亡骸は死に装束までも着せられてきれいに整えられ研究室に横たわっていた。取り上げたお腹の中の子も助からなかったと聞いた。そのわりには律子さんの腹部は盛り上がっていた。
「子供は取り出したがダメだった。お腹に戻すのもためらいがあったが二人一緒の方がいいと思ってな」
新谷吉十郎は疲れきっていた。
「それだったら抱かせてやった方が良かったんじゃないか?」
そう言葉をかけると新谷は今さら気がついたように、そうかと言った。
「でも、今さらまた切るわけにもいかんな」
「そうだな」
「このあとどうなるんだ?」
「明日、田沼の家で葬式を上げるそうだ。俺は律子さんと一緒にいくよ。今、車を用意してもらってる」
「急すぎないか?」
「中山、ここにあった殺鼠剤がなくなってるんだ」
「え」
殺鼠剤の瓶はよく見て知っている。ネズミの駆除のために何度か中身を使ったこともある。川で聞こえた水音が頭の中で聞こえた気がした。
「じゃ、じゃあ、警察に言わないと」
「ダメだ」
「なんで?」
「管理を怠ったことで俺たちが捕まる。それに源次郎さんがいないのに研究所に警察が入ったら困るだろ。田沼の家だってそれを許さないだろうし」
「そんな……」
「中山、犯人は多分汀子さんだぞ。お前、突き出せるのか?」
「バカ言うな。汀子がそんな……」
汀子がそんなことをするわけがない。そうだろうか。どちらかと言えばやるかもしれない。それでも、否定したい自分がいる。好きになった女がそんなことをする化け物であっては欲しくないのだ。だが、色々思うほどに汀子が殺したようにも思えてくる。
新谷は念を押してくる。
「まだ言うなよ。はっきりとした証拠がわかるまでは。証拠を掴まないと逃げられる」
はっきりした証拠が見つかったとき、私は正気でいられるだろうか。
「この裁きは源次郎さんに任せるんだ。いいな」
翌朝、川を見て私の心は決まった。それからは人と上手く話すことができなくなり、早々に荷物をまとめて故郷に帰ることにした。
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「どこにも行き場がないのなら田沼の家で面倒を見てやってもいい」
田沼源次郎が言った。
「いいの?」
汀子は笑顔になった。
「中山と夫婦になるなら畑と家を用意してやってもいいんだが」
「嫌ですよ。あんな四角い顔の人。それにもうあの人は向こうで誰か良い人を見つけてるはずさ」
汀子は科をつくる。
「わかってるだろ? あたしは源次郎さんが、いつまでも死んだ人間のことを考えていたって……」
そう言って傍に寄ろうとする汀子を田沼源次郎は押し退ける。
「私はもう誰とも一緒になる気はないんだ」
「そんなの呪いじゃないかい。律子もそんなこと望まないよ。あたしが律子の分まで……」
田沼源次郎は目をつむり頭を垂れた。
「その気はない。諦めてくれ」
それを見る汀子の目にはまだ余裕があった。
時間ならある。田沼の家で面倒を見てもいいと言った。時間をかければ律子のかけた呪いも解けるだろう。解けなくてもいい。一瞬でもこちらになびけばそれでいい。そうすればあたしは田沼の家に深く入り込むことが出来る。そうすればもう二度と惨めな思いをせずに生きていける。
「わかった。もう言わないわ。あたしが律子の分まで頑張るから、しっかりしておくれね」
「ありがとう」
田沼源次郎は深く頭を下げるのだった。
そうやって呼ばれた田沼の家であったが、屋敷と呼ぶには少し物足りなかった。源次郎の家は分家だったから仕方がないのかもしれない。町中にあった研究所は戦後のどさくさで人手に渡ってしまった。あの研究所のことは嫌いだったから何の感慨もなかった。それだのにここはあの研究所を思い出させてくるから嫌だった。
源次郎さんが戻ってこなかったならいっそのこと本家の方に取り入ってみる手もあったかもしれない。女中として潜り込んでいずれすべてを取り仕切るようになれれば気持ちが良いだろう。ただ、本家の方は少し世代がズレているので今の当主の隣を狙うには妾にでもならなければならないし、その子どもでは稚すぎて相手にならない。一度本家の本妻を見たことがあるが、妾が何人かいても動じそうにない亀みたいな女だった。このまま源次郎をものにしてその勢いのままに分家が本家を飲み込んだ方が心地がいいだろうし、何よりもあの世で律子が悔しがるのを想像するのが気分を盛り上げてくれてたまらなかった。
ところがだ。源次郎さんは他にも女中が何人か声をかけていてそれがひどく癪に障った。おまけに新谷吉十郎のやつも頻繁にやって来る。新谷や女中があたしの悪口をあの人に吹き込まないとも限らない。心休まる瞬間がない。せっかく邪魔者を始末したのに。あたしだけここに呼ばれていると思ったのに。まぁいいさ、源次郎さんがあたしをここに呼んでくれたのは本当はあたしを愛しているからなんだもの。みんなに律子の影が今もあるから遠慮があるんだ。あぁそうか、あの連中を呼んだのは律子よりもあたしの方が妻にふさわしいと知らしめるためなんだ。そんな回りくどいことをしなくてもいいのに。でも、律子の呪いを解くには必要な儀式なんだわね。科学者っていうのはそういう手間を加えたがる生き物なんだわ。
「本当に嫌になる」
意気地の無い男だ。いつまでも律子律子と。死んだ人間は返ってきやしないのに。まったく馬鹿にしてるよ。ことあるごとに律子と比べられる。憎らしい男だ。わかっている。そうやってあたしを試しているんだ。あたしは出ていかないよ。出ていけばあんたは泣いて止めようとするだろう。そんなみっともない姿は誰にも見せたくはないんだよ。あんたのことは何でもわかっているんだ。なんたってあたしはあんたのために律子を殺してやったんだからね。あんたとあたしは一心同体だ。
「憎らしいねぇ」
それだのに。あんたの思いを拾って事を成したあたしにどうしてこんなにも冷たいのだろうか。憎らしい。憎らしい。憎らしい。
「お満が下処理を間違えたせいで二人は死んだんだよ。それなのによくここに来られたもんだねぇ」
あたしがせっかく教えてやったのに源次郎さんはお満に暇をくれてやることもなかった。それどころか新谷吉十郎がお満のせいじゃないなどと嘘を言う。源次郎さんはどうしてかそれを信じているようだった。
律子が死んだ本当の原因は誰も知らない。そりゃあそうさ。証拠はすべて騒ぎの最中に処分が出来た。だから律子は中毒で死んだ事になっている。当時、食べられるものは何でも無駄にするまいと無駄を出さないようにしていた。でしゃばりのお満と律子が「これは食べられる」「これは食べられない」などとふざけあってやっていたからこんなことになったのだ。そういった反省もまるで感じられなかった。憎たらしい。
「あんたがやったヘマのせいで、もしかしたら味をみるあたしが死んでいたかもしれない。怖いねぇ」
散々責めてやったのにお満は図々しくもこっちについて来た。新谷が助平心を出してかばいやがったせいだ。あのヤブ医者は律子が何で死んだのかも結局わからずじまいだったくせに。
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あの日、律子が死んだ日、みんながわっと律子のもとへ集まる中、私もそしらぬふりをして別の膳を持ったまま近づいていった。うろたえて右往左往するばかりの連中に私は指示を出してやった。
「どうしたんだい? 中毒かい? ボヤボヤしてるんじゃないよ! 医者を呼ぶんだよ! 男たちは律子さんを研究所へ運ぶんだ。何かあってからじゃ遅いんだから!」
男どもは律子を運ぶために戸を外しにかかり、女中たちは意識のない律子に声をかけて励ます。あたしは膳の上の汁物の椀を入れ替える。大体あたしが大きな声を出すときは誰もあたしの方を見ない。噛みつきやしないのにあたしのことを恐れている。あたしのほうが上だから当然のことさ。
「あんたたちが周りを囲んでちゃ邪魔だよ! 律子さんの膳以外は全部下げたほうがいいから食堂に戻ってまとめておきな」
そうやって入れ替えた椀を載せた膳を土間に運ぶ。さっと中身を捨てて水で流してしまうと椀を適当にほったらかす。側の調味料のある棚から瓶を取り出しそれを抱えて外に出る。誰かに出会って呼び止められてなにか言われたら少し離れた町医者を呼びに行ったと言えばいい。これを捨てるのが何よりも先なのだから。
かすかに見える夜の闇の中を出来る限り早足で進む。街灯なんて今は付きもしない。明かりなんかつけるとそこが爆弾を落とす目印になるからってみんなビクビクして暗闇の中でネズミのように暮らしている。
川はかすかな光を反射するし、流れる音で大体の場所はわかる。耳で場所を確かめて瓶を捨てる。川にゴミを捨てるやつは多い。死体を流すやつも最近はたくさんいる。誰も気にしない。毒の入った瓶を捨てても誰も困らない。
ただ、瓶を放り込んだ時に水音がしてしまった。ひょっとしたら誰かが見に来るかもしれない。少し隠れて様子を見ないといけない。そう思うとなにか人の気配がするような気がしてきた。暴漢かもしれない。そうだったら大声を出してやる。
しばらく待っているとやはり人の足音が聞こえた。先に声をかけて驚かせてやるんだ。
「誰だい? 変なことをするなら大きな声を出すよ」
人影は驚いたようだ。でもすぐに返事をしてきた。
「お汀さんですか? あなたもこっちの医者を呼びに?」
その震えた声の主を知っている。あたしにいつも言い寄ってくる男だ。
「あら、中山さんかい」
なんだい中山かい。びっくりさせるんじゃないよこの鈍亀。口の中でそうつぶやく。正直中山で良かった。本当に暴漢だったら、少し面倒だったからね。中山もあたしが日頃から新谷をヤブ医者と呼んでいるからこっちの町医者を呼びに来たのだ。
こんな男でもいないよりはマシだ。暴漢が出たらこいつを押し付けてあたしは先に逃げればいい。
「中山さんがいれば安心だねぇ」
あたしは笑った。中山の肩から胸のあたりを両の手でさすってやる。どうせ中山もデレデレとした顔をしているに違いなかった。
町医者を連れて戻ると律子はもうすでに死んでいて新谷が処置したあとだった。律子は助からなかった。助からなかった。助からなかったのだ。助かるわけがないよ。殺す気だったんだから。
律子の死体を見て大笑いしてやりたかったけど、子どもみたいな若い警官が何人か来て女中たちから話を聞いていた。あたしもそこに呼ばれていろんなことを聞かれた。
「すみませんねぇ。あたしは包丁も苦手だし、食材も覚えられないんですよ。だから配置とか彩りとか味の濃薄とかそういうのしか出来なくて。まさか食べられないようなものが入ってるなんてねぇ」
警察は死因を中毒と決めつけてすぐに帰っていった。後日、ヘマをしたお満が罰を受けるのだろう。お満をかばう新谷は律子の死体と共に田沼の家に行ってそっちで葬式だという。それにしても死んでも手間のかかる女だ。川にでも投げ込んじまえばよかったのに。
慌ただしく数日が過ぎた。そんな中、中山は律子が死んだあと実家のある九州に戻っていった。あんなにあたしに言い寄ってきたくせにあの四角い顔の男は最後になんの挨拶もせずにそそくさと帰っていった。律子の死に様に衝撃を受けたせいで心が病んだというその様子を見て恐らくはもうこちらには帰ってこないだろうとみんな思ったそうだ。あたしとしてもしつこく言い寄ってくる男がいなくなってくれて良かった。源次郎さんが戻ってきた時に変な誤解をされたら困るのだから。
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あの日、律子さんが悲鳴を上げてお腹の中の子供と共に死んだ夜、私は汀子を見ていた。汀子をまだ慕っていたからだ。皆の目が律子さんに向かう中で汀子だけ動きが違った。御膳を運んでいた汀子は周囲を探るようにして律子さんの膳の前に座り人だかりの隙間から律子さんを見るように首を伸ばした。
「どうしたんだい? 中毒かい? ボヤボヤしてるんじゃないよ! 医者を呼ぶんだよ! 男たちは律子さんを研究所へ運ぶんだ。何かあってからじゃ遅いんだから!」
汀子が怒鳴ると皆顔を背ける。汀子は顔色を読むからだ。そこに不平や不満を見つけるとさらに詰ってくる。だから皆、汀子が怒鳴ると顔を背けるのだ。
皆が律子さんの運ばれていく先へついていくのに汀子はひとり座ったままだった。律子さんの膳になにかしているように見えたが背中側からではよくわからなかった。
「あんたたちが周りを囲んでちゃ邪魔だよ! 律子さんの膳以外は全部下げたほうがいいから食堂に戻ってまとめておきな」
汀子は女中たちに声をかけると一人背を向けて土間のほうに走っていった。律子さんのことより汀子が気になり後を追った。音もなく汀子が土間に入ったのを確認すると私は土間には入らずに隣り合う空間に体を滑り込ませる。そこは時々仕事中の汀子を覗き見ていた場所だった。そこから見えたのは、汀子が椀の中の物を捨てて洗い流している姿だった。その顔は笑っているように見えた。泣き顔と笑顔はよく似ている。そのせいで見間違えたのかもしれない。
汀子は椀を洗ってしまうとぱっと側に伏せ、今度は調味料が置いてある棚から瓶を取り出して、それを抱え暗い夜の外に出ていく。あの瓶は見覚えがあった。妙な胸騒ぎがしてその後ろを追いかける。闇は闇だが真っ暗ではなかった。うっすらと見える影を見失わないように追いかける。大分先のほうに新谷吉十郎とは別の町医者が住んでいる。近さで言えば新谷の診療所のほうが近い。だが、汀子は新谷をヤブ医者と決めつけている。それで町医者を呼びにいくのかもしれない。なんだかんだ言っても律子さんが心配なんだ。妹のように思っているのだ。ただ、あの瓶を抱えて出かける理由にはならないが。
しばらく進んだところで水音が聞こえた。誰かが川になにかを捨てたようだった。少し待っても汀子は引き返して来なかったところを見るとさらに先へ進んだようだった。川に瓶を捨てに行ったのではなくやはり町医者に行くつもりなのだ。あんなに律子さんのことを嫌っている風でも本当は優しい人なのだ。
不意に川を確かめようかとも思った。しかし、暗い中ではわからないだろう。川を見ている最中に汀子が戻ってきたら返事に困るだろう。もしかしたらあれは誰かに見られたらマズイもので後ろから私が付いて来たのがバレているのかもしれない。このまま道を進めば別の医者である。今はそれを呼びに来たことにすれば良い。明日、朝になったら川を見ればわかるはずだ。薄い暗闇を進んでいくと陰から声をかけられた。
「誰だい? 変なことをするなら大きな声を出すよ」
汀子の声だった。なるほど、足音に気が付いて誰かが来たと思って隠れていたのか。
「お汀さんですか? あなたもこっちの医者を呼びに?」
「あら、中山さんかい」
「新谷では荷が重いと思ってこっちに来たんですが、こう暗くちゃ歩きにくくてかないませんで」
「本当だねぇ」
「慌てて飛び出してきたんで明かりを持ってくるのを忘れちまいました」
「あたしもさ」
汀子は私が後をつけてきたことに気がついているのかもしれない。それでいて私をそう問い詰めないのは私が汀子が答えたそれ以上の事を人に言えないことを知っているからだろう。私の中にある疑念は私の中だけに置いておくしかない。
「中山さんがいれば安心だねぇ」
汀子が笑った気がした。両手でもって触れてくる汀子は抱えていたはずの瓶を持っていなかった。くすぐるような動きをしたその手は今までになかったような感触で、それはまるでイソギンチャクの触手のようで気味が悪く感じた。
町医者を呼んで戻ったときにはもう何もかもが終わっていた。律子さんの亡骸は死に装束までも着せられてきれいに整えられ研究室に横たわっていた。取り上げたお腹の中の子も助からなかったと聞いた。そのわりには律子さんの腹部は盛り上がっていた。
「子供は取り出したがダメだった。お腹に戻すのもためらいがあったが二人一緒の方がいいと思ってな」
新谷吉十郎は疲れきっていた。
「それだったら抱かせてやった方が良かったんじゃないか?」
そう言葉をかけると新谷は今さら気がついたように、そうかと言った。
「でも、今さらまた切るわけにもいかんな」
「そうだな」
「このあとどうなるんだ?」
「明日、田沼の家で葬式を上げるそうだ。俺は律子さんと一緒にいくよ。今、車を用意してもらってる」
「急すぎないか?」
「中山、ここにあった殺鼠剤がなくなってるんだ」
「え」
殺鼠剤の瓶はよく見て知っている。ネズミの駆除のために何度か中身を使ったこともある。川で聞こえた水音が頭の中で聞こえた気がした。
「じゃ、じゃあ、警察に言わないと」
「ダメだ」
「なんで?」
「管理を怠ったことで俺たちが捕まる。それに源次郎さんがいないのに研究所に警察が入ったら困るだろ。田沼の家だってそれを許さないだろうし」
「そんな……」
「中山、犯人は多分汀子さんだぞ。お前、突き出せるのか?」
「バカ言うな。汀子がそんな……」
汀子がそんなことをするわけがない。そうだろうか。どちらかと言えばやるかもしれない。それでも、否定したい自分がいる。好きになった女がそんなことをする化け物であっては欲しくないのだ。だが、色々思うほどに汀子が殺したようにも思えてくる。
新谷は念を押してくる。
「まだ言うなよ。はっきりとした証拠がわかるまでは。証拠を掴まないと逃げられる」
はっきりした証拠が見つかったとき、私は正気でいられるだろうか。
「この裁きは源次郎さんに任せるんだ。いいな」
翌朝、川を見て私の心は決まった。それからは人と上手く話すことができなくなり、早々に荷物をまとめて故郷に帰ることにした。
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