汀(みぎわ)

大秦頼太

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汀32

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汀32



「どうもこんにちは」
 そう言いながら突然新谷幸太が東東大大島研究室を訪ねてきた。彼の祖母新谷満子の訃報を聞いてから半年も後の事だった。本日の来客の予定はなかったし、新谷幸太にも特に用事がないので呼びつけることもしない。彼はとてもいい加減で調子がいい人間なので大方女子大生か大山さん辺りにちょっかいを出しに来たのだろう。
 大島はちらっと見ただけで自分の机の前で資料に視線を戻した。そんな大島の態度を気にすることもなく新谷幸太が話し出す。
「いやあ、家族に会いに行って逮捕ですよ。俺、逮捕って生まれて初めてだったんでびっくりしましたよ。あれ? 事情聴取だったかな。まぁ、とにかく結構大変だったんですよ。まだ体が慣れてないのにさぁ。もうビックリですよ。そしたら殺人容疑ですもんねぇ。二度ビックリですよ。俺、約束通り警察に千円借りて返しに行ったのに問答無用で逮捕ですよ? 信じられます?」
「そう。それで、なにしに来たんですか?」
 止めない限りずっと喋り続けそうだったので大島は新谷幸太の話を遮った。すると、彼は本題に入りだした。
「あ、そうそう。あの香炉、祖父母の家にありました。香炉はあったんですけど、粉々で修復不可能って感じでしたね」
「そうですか。黒い塊みたいなお香はありましたか?」
 資料を見たまま応対する大島。
「そっちはもうありませんでした」
「そうですか。わざわざありがとうございました」
 大島は用が済んだらもう帰れというような空気を出す。新谷幸太はめげない。
「で、今日は大山さんはいないんですか?」
「残念ですが、あちらの件はもう終わったので、もうここへは来ないですよ」
「残念だなぁ。でもまぁ、大学生も楽しいでしょうね」
 新谷幸太は部屋の中をぐるりと見回す。
「なぁ、先生。あんた気がついたか?」
 新谷幸太の問いに大島は顔を上げて彼を見る。その姿をよく見ようと目を細める風だった。
「何ですか?」
 新谷幸太が右手を上げると研究室のカーテンが一斉に閉まる。部屋の中は薄暗くなり、新谷幸太は影法師になる。それだけではない。複数の人の影が研究室の中にゆらゆら揺らめきながら立っていた。
「人間は自分だけは特別な人間なんだと思いたがる。私もそうだが、あなたもそうだろう? 我々は特別な人間だって思いたいのだ」
 さっきまでの新谷幸太の口調とは明らかに違った。声は同じなのに別人がそこに立っているような気がした。
 新谷幸太の影法師が右手の指を鳴らした。何処か別の部屋からガラスが割れる音が聞こえて女の悲鳴が聞こえた。悲鳴は二人分だった。しばらくして鈍い激突音がして続けて多くの叫びが聞こえてくる。
「でも、本当に特別な人間は数えるほどしかいない」
「警備をっ!」
 大島は席から立ち上がろうとしたが、身体は椅子の上で上下に揺れるだけだった。ガス状の黒い人影が大島を押さえつけていた。
「さっき誰かが飛び降りた。下はそれで大騒ぎだ。呼んでも誰も来ない」
「こ、これはなんだ? 何が起こっている? あの女か? みぎわこか?」
「コイツの家系は代々医者をやってきたのに今はもう全然ダメだ」
「コイツ?」
「少々騒がしくなりすぎた」
 新谷幸太だった者が大島に近づいて行く。
「お前は誰だ? これは一体何なんだ?」
「なんだなんだなんだって、先生。少しは自分で考えてみたらどうですか?」
「ありえない。こんな事ができるはずがない」
「ありえない。こんな事ができるはずがない」
 大島の言葉を新谷幸太の影法師が復唱する。
「世の中、ありえないことも起こることがあるんですよ。先生。長く生きていればいろんな不思議なことに出会うことになる」
「そうか。これは催眠術か! いや幻覚か?」
「さすが先生。こんなことはなかなか認められませんよね」
「お前、一体何が目的だ」
「私の目的はずっと生きていること」
「何をバカなことを」
「魂を理解すれば可能なんだ」
「魂?」
「そう魂。魂が分けて保管できるとしたら先生は信じますか?」
「そんなこと無理に決まっている」
「普通はそう思うだろう。そう、はじめは偶然が重なっただけだった」
「黒い塊か? それが魂だとでも言うのか?」
「焦らなくても後でわかるよ」
「そうか、田沼汀子はお前が動かしていたんだな!」
「私じゃない。あれは律子という女だ。コイツの祖父が相当律子に入れ込んでいてね。死んだ律子を生き返そうとした。そのせいでノイズが発生した」
「ノイズ?」
「そのノイズのお陰で最近まで分割した魂を上手く統制できなかったわけだ」
「野際律子が成仏したからノイズが消えたとでもいうのか?」
「ありえないなんて言いながら、あなたは成仏は信じている? では、これは?」
 新谷幸太の影法師が再び手を上げると、後ろから人影がするりと進み出て影の中から顔を覗かせる。それは女だった。濡れた新聞紙のような灰色の肌はボロボロで長い髪の毛はぱさついて虚ろに開いた目が大島を見ている。
 大島は実際に田沼汀子を見たことはなかったが、彼にもこの女が田沼汀子だと直感的に理解できた。理解できたからこそ大島の頭の中は混乱する。
 英二くんは「田沼汀子はもういなくなった」と言っていたはずだ。いや、そうじゃない。なんと言っていたか思い出すんだ。英二くんは早坂千景が亡くなったと。田沼源次郎は野際律子と早坂千景と三人で幸せに暮らしているだろうと。その前の話だ。そうだ。あの女を思い出さないことが退治につながると。三度唱えれば消えるはずだ。大島は必死になって言葉を吐き出す。
「た、田沼汀子なんていない。田沼汀子なんていない。田沼汀子なんていない」
 田沼汀子は顔を背ける。が、押し返すだけの力が足りなかったのか消えなかった。
 新谷幸太の影法師が手を下ろす。田沼汀子の体が影の中から這い出て来て床に手を付き足を付き、ゆっくりと机を乗り越えて大島に向かってくる。大島は何度も「田沼汀子はいない」と唱え続ける。田沼汀子はその言葉をひるみながらも全身を震わせたまま大島の目の前に立つ。どれだけ否定しても田沼汀子は消えない。大島は絶望的な表情を浮かべた。唱える声はかすれ裏返った。
 新谷幸太の影法師が言った。
「さて先生。お友達との感動の再会は私と一緒になってからだ。怖くはないさ、すぐに終わる。そして、先生の地位も知識も私に共有される。安心しなさい」
「田沼汀子なんていない。田沼汀子なんていない。田沼汀子なんていない」
 田沼汀子の灰色の手が、その指先の濁った黄色い爪がゆっくりだが確実にどんどん近づいてくる。このままでは助からないだろう。もう終わりだ。大島は自嘲気味に嗤って呟いた。
「田沼源次郎と再会した野際律子は、二人の間に生まれた娘と三人で幸せに暮らしているはずだ。野際律子は幸せを掴んだんだ。お前の負けだ」
 大島の口から苦し紛れに出た言葉は田沼汀子の手を大島の頭の前で止まらせた。
「……りつこ」
 田沼汀子は全身を震わせる。灰色の体のヒビが大きくなっていく。背中側から大きな力が田沼汀子を押し続けるが、田沼汀子はそれに逆らって新谷幸太の影法師に向かってゆっくりと振り返る。向かい風のような押してくる強い力の中で田沼汀子の灰色の肌がぼろぼろと落ちていき、その灰色の肌の下から青白い肌をした汀子が現れる。見た物を切り裂くようなその挑戦的で鋭い目を新谷幸太の影法師に向けた。
「……新さん、またあたしを騙そうとしたんだね。本当に憎らしい男だよ。あんたはまた律子をかばってあたしを操ろうとしているんだ。冗談じゃない。もうその手には乗らないよ」
 汀子の両手が新谷幸太の影法師の中に突き刺さり、その中から誰かもわからない老人を掴み出す。汀子はそのまま老人を床の上に引き倒すとその上に馬乗りになって老人のシワだらけの細い首を力いっぱいに絞めた。老人は足をバタバタさせてもがきながら叫び声を上げる。
「止めろ! この女を止めろ! 早くしろ!」
 老人の言葉を合図にして部屋の中にいた人影が一斉に老人に向かって飛びかかった。その瞬間、研究室はすべての明かりが消失して真っ暗闇になった。

 再び明かりがつくと、田沼汀子の姿もなければ新谷幸太の姿もなく、押さえつけていた人影も立っていた人影も消えてしまっていた。
 大島はさっきまで座っていた椅子の前に、中腰の格好で呆然と立ち尽くしていた。しばらくして大島は我に返り、机の上の受話器を取って電話をかけようとするが、その手が止まる。
「夢でも見ていたんだろう。こんなことで電話をしたらまた大山くんに先生寂しいんですか? なんて言われてしまいかねない」
 目の前に広がる資料の山を見て軽く笑うと、一度受話器をおいてから内線をかける。
「下の騒ぎが終わったらダンボールを何箱か持ってきてくれないか? ついでに台車も」
 事務員に頼み事をすると受話器の向こうから「下の騒ぎってなんです?」と声がした。
 大島は慌ててカーテンを開いて窓を開ける。構内はいつもの穏やかな様子だった。
「ははは。なんだ。そうか。居眠りでもしてたか。……それにしても、追い詰められると人間は本性が出るもんだな。あんなに生きていたいなんて思うなんてね」
 再び受話器を取って事務員に話しかける。
「資料を全部片付けることにしたんだ。もう全部終わってたんだ。じゃあ、ダンボールと台車をよろしく」
 受話器を置いて椅子に腰掛ける。
 見知らぬ古い新聞の切れ端が数枚、床の上に落ちているのに大島は気が付かなかった。
「昭和二十三年四月十八日、田沼源次郎博士無理心中か」
「田沼博士の内縁の妻汀子が全身の血を抜かれもだえ苦しんでいるとの報告を受け」
「駐在所の警察官が博士宅を訪れると、汀子すでに絶命し、博士の姿なく殺人事件と断定」「博士の消息を求めるが、三日後、F崎の断崖より飛び降りて海中に没す」
「漁船にて引き上げられたが絶命との報告あり」


                                                 了
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