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第二話 フィカス森で
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どこをどう歩いたものか、あるいは誰に案内を請うたものか、気付けばオリンドはグラプトベリアの冒険者ギルド前に立っていた。呆けた頭を抱えてしばし看板を眺め、ここがギルドだとようやく認識すると、手首に巻きつけてあった冒険者タグを確認して扉を潜る。
さすがダンジョン街のギルドは大した混雑ぶりだった。誰も彼もが二時間ほど前に終わった勇者パレードの話を口にしている。
漠然と、膿んだ頭でふらふら歩いては誰ぞにぶつかるかもしれないとも思ったが、危ないと思う前に向こうから避けてくれた。
助かるなあ。こんな不審なのに声を掛けられないのも。
ほっとしながら受付の列に並んだ。
「はい。次の方……あら、初めて見る顔ですね。タグを確認します。……はい。確かに」
きびきびとした受付の女性に冒険者タグを見せると、手早く確認して返却された。カウンターの向こうで何か書きつけているのは、手の平の半分ほどのタグに記載されているオリンドの名と刻印で記されたランクだろう。
「それで、本日のご用件は?」
すぐに記入し終わった彼女は、もごもごとしているオリンドに水を向ける。
「あの……俺、字が読めないもんで……その……」
「ああ。はい。口頭による依頼の紹介ですね。少々お待ちください」
片手を『待て』の形に挙げた受付の女性はカウンターの後ろに声を掛けて席を立ち、後輩らしき男性が受付に座るのと入れ替わりに、分厚く綴じられた紙束を持ってカウンターを出た。
「こちらのテーブルへどうぞ」
指し示されたのは椅子が無く背の高いテーブルだった。どうやらこういった時の待機場所兼、相談席であるらしい。丸い天板に紙束を乗せた彼女は「どのような案件を希望されますか?」何枚かめくりつつ問いかけてきた。
「ええと……できたら、一番難しいものを……」
「いち、……失礼ですが、お一人ですよね?」
確認したタグは確かにパーティ名が削り取られていた。これは所属していたパーティを抜けてソロで活動していることを意味している。
もとから一人だったならまだしも、こんなに痩せこけて今にも倒れそうな、どうやら訳ありらしき、しかもこの歳で下から数えて二番目のランクの冒険者が高難度の依頼を望むとはどういうことだろう。彼女は訝しむ目を向けてきた。
「あ、あ、その、だ、だい、大丈夫、……その、パーティを抜けたのは、じゅ、十何年も前で……それから、ずっと一人でやってきたんで……ええと……」
パーティを抜けたのが十数年……正確には十六年前で、以来ソロ活動を続けてきたことは嘘では無い。無かったが、もとより人見知りで吃音症のオリンドは顔を真っ赤にしてしどろもどろといった、怪しさしかない態度で弁解した。
「……そう、ですか。わかりました」
それでも彼女は職務として飲み込んでくれたようだ。紙束から何枚か選び取ると、挿絵を見せて依頼内容を説明してくれた。その事務的な目はこちらの真意を見透かしているような心地がしたが、とにかく依頼は受けられた。足早にギルドを立ち去ったオリンドは、依頼書の写しに書かれた地図を再度確認し、聞いた内容を反芻する。
請け負った依頼は、街を囲む防壁を出て北北東の方角に歩いて半日ほどの場所にある森、フィカスの名の付いた、通称『魔の森』の奥に出没する大角熊を退治してほしいというものだ。
フィカス森には比較的安全な場所に通された隣町までの道があるのだが、最近になって大角熊と呼ばれる、その名の通り角の生えた巨大な熊が出没するようになったようで、護衛を雇ったり隊を組んだりする余裕の無い行商人が困り果てているという。
その行商人には悪いが、俺の死亡が受理されてしばらくまで、待ってほしい。オリンドは森への道を歩きながら呆然と謝罪した。
彼は死を選んだ。
あの勇者帰還のパレードで、賢者エウフェリオをひと目見た瞬間に、色彩と温度と音楽とを得たような、脳の蕩けるような心地がした。胸が張り裂けんばかりの幸福が押し寄せて涙が溢れ、同時に生きる世界が違うのだと悟り絶望した。胸の奥のほんのことりとした感触とともに全てを絶たれた思いだった。そうしてから、憧れだの手の届かない存在だの思っていながら、賢者と自分とを同列の世界で扱っていたのだと気付き、猛烈に自省して、恥ずかしさに泣いた。泣いて、泣き倦んで顔を上げた時に、消えたいと感じた気持ちそのままに行動している。
疲れていた。故郷で疎まれ蔑まれて追い出され、食うや食わずのその日暮らしを細々と十六年も続けて、挙句この街へ来る少し前、騙されて何もかも奪われた。命からがら逃げ出して、最後に残った親の形見も旅費に換えてグラプトベリアに辿り着いた時、自分には何も、本当に何も無いことに、気付いたばかりだった。焦がれに焦がれた賢者の姿をこの目で見ることも叶ったのだ、もう未練も無い。
「……三日、か」
死亡による依頼失敗と見做されるまでの日数を口にしたのは、重ねての行商人への謝罪ではなく、自分という存在が消えたことを、ほんの僅かな人が事務処理として知ってくれるまでの期間を確認しただけのこと。
細く弱々しいため息がこぼれた。足が棒のようになっている。心も体も疲弊しきっていて、フィカスの森に着く頃には歩けそうになくなっていた。
仕方なく近くの茂みを漁ってオリオー草を探した。地表に含まれる滋養の魔素をたっぷりと吸い上げて育つ薬草で、特に根は効果が高い。強烈な香りと少々舌の痺れる辛味があるが、短時間で疲労を回復してくれる。五本ほど収穫したオリンドは、とりあえず一本かじると再び歩き出した。
「……う……喉、痛いな……」
しかし、ただでさえ歩き詰めで乾いていた喉にオリオー草の辛味はてきめんだった。それに疲労は軽減されつつあるが、足の痛みは相変わらずで歩みは遅々として進まず、集中して大角熊を探せそうにないし、見つけたとて動けないのでは仕様がない。
「ん……と。……こっちか」
おもむろに方角を見定めたオリンドは真っ直ぐ茂みに分け入った。五分ほど進むと目当ての場所が見えてくる。いくばくか開けた場所にこんこんと湧き出る泉があった。冒険者たちの間で『回復の妙水』と呼ばれる水だ。こちらも地中深くを流れる間に癒しの魔素をたっぷりと含んでいる。飲めばたちまち傷を癒してくれる。
胸に手を当て、巡り会えたことに感謝してから手に受け、一杯だけ飲み干す。体中の痛みが心地よく解けていって、ほう、と息を吐いた。
そのままきょろきょろと辺りを見回し、大角熊の気配を探った。
「……あ……あれっ……」
これは、まずいな。誰か、他に人が居る。……魔力が低い。この感じだと冒険者じゃないな。…ああ、でも、ずいぶん離れているし、大丈夫か。
後方、オリンドが進んできた方角に人の気配を感じ取って一瞬焦る。しかしこの距離であればたとえ一般人でなく冒険者が走ったとしても間に合わないだろう。そう結論付けて更に気配を探ると、左手の前方、ここから十五分ほどの距離に魔物の気配を感じた。強靭な魔力を感じる。あれを相手にすれば自分などひとたまりもあるまい。
ひとたまりも、あるまい。
逸る気持ちのまま小走りに駆け出した。
はやく消えてしまいたい。もう、楽になりたい。
願いながら樹木の間を抜けると、唐突に切り立つ岸壁の前に出た。急ぎ首を巡らせれば、今しがた、鹿だろうか、獲物を仕留めたばかりの大角熊と目が合った。人の二倍はありそうな巨躯から放たれた、魔力混じりの猛烈な威嚇の声に足がすくんだ。
──こんな、ときでも、すくんでしまうものなのか……。
自嘲して目を閉じた。重たい足音が突進してくる音が聞こえる。冷える指先をギュッと合わせ、来たる衝撃に全身を固めて、これで終わる、と、考えた時だった。
閉じた瞼の前を真横に掠めて、ズドンと岩でも落ちたような轟音が響き渡る。
「っ!? ……え……!?」
驚いて瞼を跳ね上げると、視界のどこにも大角熊の姿が無くて二度驚いた。勢いのまま視線を右に左に走らせる。すると、あろうことか岸壁に半分ほど埋まった毛皮付きの肉塊が見えた。あの分では即死に違いない。……いや、そうじゃない。と、オリンドは逆側を凝視した。
いったい誰がこんな桁違いの魔法を?
その正体はすぐに知れた。間も無く茂みを舞う木の葉すら蹴り破る速度で、まさに飛ぶように駆けてくる人物がいる。
「っ……あ……? あ!? ……えっ……!?」
ありえない。ありえない、だって。
だってあの人は、俺とは違う世界に生きてる、はず。なのに。
どうして出会ってしまうのか。それも、こんな場面で。訳がわからず、オリンドは崩れるようにその場へ座り込んだ。膝が笑い腰が抜けて動くこともできずにいると、その人物、賢者エウフェリオは駆け寄ってきて絵に描いたように柔らかな仕草で手を差し出した。屈まれこぼれ落ちてくる氷銀色が夢かと錯覚するほど美しい。
「大丈夫ですか!? お怪我は!? ……無い、ようですね。良かった」
思ったより力強い指に手を取られたが、立ち上がることもできない。なにより頭が真っ白で行動を取れずにいた。
「しかし、全く、なんという無茶をするんですか! 防具も武器も無しに。……見たところ、失礼ですが攻撃魔法なども習得していない様子、それで大角熊の前に飛び出すなんて……!」
言っている間に興奮したのか、片膝をついた彼に頭を軽く叩かれた。
うわあ。あの賢者様に心配されて叱られた。と、喜びと驚きに埋め尽くされたオリンドの胸中が瓦解する。一粒滲んだらあとはもう止めども無かった。
突然ぼろぼろと涙をこぼされてエウフェリオはギョッとした。
まさか見えない傷でもあるだろうか、それともさきほど叩いてしまったせい? いやそんな大の大人が多少の怪我や軽く叩かれたせいで大泣きなど……待て。もしや叱られたせい?
ならば余程の事情があってあのようなことをしたのだろう。居住まいを正したエウフェリオは、改めてオリンドの危険な行為に至った事情を問いただした。
しばらく嗚咽でまともに言葉も出せなかった彼が、ぽつりぽつりと話した内容はおよそ次の通りだった。
故郷で幼馴染たちに頼み込み冒険者を生業にしていたが、役に立てずにパーティを追い出された。身寄りもなく、早くに両親を亡くしてからは生まれ育った村でも孤立していたため、それを機に故郷を後にした。それから十六年の間、誰にもなににも頼れず様々な街を流れて細々と食い繋いでいたのだが、先日行き着いた隣町で声をかけてきた二人組の冒険者に騙されて装備も金も奪われ、命からがら逃げ出してきたのだという。その折に、これだけは首にかけていて無事だった両親の形見である指輪を旅費に換えてしまったために、グラプトベリアに辿り着いてから本当になにもかも無くしたことに思い至り、絶望してしまった。そんな折、憧れの人がこの街に居ると聞いてひと目だけでも見たいと探し当てたところ、あまりにも住む世界が違い過ぎて……。
その憧れの人は貴方ですなどとはまさか言えるはずもなく、最後だけは誤魔化したオリンドは、両の指を絡めた手を口元に押し当て、しゃくり上げながら続けた。
「そ、それで、それでもう……し、死にたくて……」
「なんと……」
エウフェリオは唸った。危険行為ではなく自殺行為だったとは。
ますます止めて正解だった。と、静かに拳を握りしめてから、彼はきつとオリンドに向き直る。
「心中お察ししますとは、とてもではありませんが言えません。ですが、死なれては困ります」
「困……え、……どうして?」
なぜに俺などが死んで賢者様が困るというのだろう。目の前で死なれては寝覚めが悪いということだろうか。腕で目元を擦りつつ首を傾げると、がつりと肩を掴まれた。
「私たちのパーティに入ってもらいたいからです」
射抜きそうなほど真剣な眼差しで告げられたエウフェリオの言葉が脳に届いて処理された時、オリンドは今度こそ完全にパンクしてその場に倒れ伏した。
さすがダンジョン街のギルドは大した混雑ぶりだった。誰も彼もが二時間ほど前に終わった勇者パレードの話を口にしている。
漠然と、膿んだ頭でふらふら歩いては誰ぞにぶつかるかもしれないとも思ったが、危ないと思う前に向こうから避けてくれた。
助かるなあ。こんな不審なのに声を掛けられないのも。
ほっとしながら受付の列に並んだ。
「はい。次の方……あら、初めて見る顔ですね。タグを確認します。……はい。確かに」
きびきびとした受付の女性に冒険者タグを見せると、手早く確認して返却された。カウンターの向こうで何か書きつけているのは、手の平の半分ほどのタグに記載されているオリンドの名と刻印で記されたランクだろう。
「それで、本日のご用件は?」
すぐに記入し終わった彼女は、もごもごとしているオリンドに水を向ける。
「あの……俺、字が読めないもんで……その……」
「ああ。はい。口頭による依頼の紹介ですね。少々お待ちください」
片手を『待て』の形に挙げた受付の女性はカウンターの後ろに声を掛けて席を立ち、後輩らしき男性が受付に座るのと入れ替わりに、分厚く綴じられた紙束を持ってカウンターを出た。
「こちらのテーブルへどうぞ」
指し示されたのは椅子が無く背の高いテーブルだった。どうやらこういった時の待機場所兼、相談席であるらしい。丸い天板に紙束を乗せた彼女は「どのような案件を希望されますか?」何枚かめくりつつ問いかけてきた。
「ええと……できたら、一番難しいものを……」
「いち、……失礼ですが、お一人ですよね?」
確認したタグは確かにパーティ名が削り取られていた。これは所属していたパーティを抜けてソロで活動していることを意味している。
もとから一人だったならまだしも、こんなに痩せこけて今にも倒れそうな、どうやら訳ありらしき、しかもこの歳で下から数えて二番目のランクの冒険者が高難度の依頼を望むとはどういうことだろう。彼女は訝しむ目を向けてきた。
「あ、あ、その、だ、だい、大丈夫、……その、パーティを抜けたのは、じゅ、十何年も前で……それから、ずっと一人でやってきたんで……ええと……」
パーティを抜けたのが十数年……正確には十六年前で、以来ソロ活動を続けてきたことは嘘では無い。無かったが、もとより人見知りで吃音症のオリンドは顔を真っ赤にしてしどろもどろといった、怪しさしかない態度で弁解した。
「……そう、ですか。わかりました」
それでも彼女は職務として飲み込んでくれたようだ。紙束から何枚か選び取ると、挿絵を見せて依頼内容を説明してくれた。その事務的な目はこちらの真意を見透かしているような心地がしたが、とにかく依頼は受けられた。足早にギルドを立ち去ったオリンドは、依頼書の写しに書かれた地図を再度確認し、聞いた内容を反芻する。
請け負った依頼は、街を囲む防壁を出て北北東の方角に歩いて半日ほどの場所にある森、フィカスの名の付いた、通称『魔の森』の奥に出没する大角熊を退治してほしいというものだ。
フィカス森には比較的安全な場所に通された隣町までの道があるのだが、最近になって大角熊と呼ばれる、その名の通り角の生えた巨大な熊が出没するようになったようで、護衛を雇ったり隊を組んだりする余裕の無い行商人が困り果てているという。
その行商人には悪いが、俺の死亡が受理されてしばらくまで、待ってほしい。オリンドは森への道を歩きながら呆然と謝罪した。
彼は死を選んだ。
あの勇者帰還のパレードで、賢者エウフェリオをひと目見た瞬間に、色彩と温度と音楽とを得たような、脳の蕩けるような心地がした。胸が張り裂けんばかりの幸福が押し寄せて涙が溢れ、同時に生きる世界が違うのだと悟り絶望した。胸の奥のほんのことりとした感触とともに全てを絶たれた思いだった。そうしてから、憧れだの手の届かない存在だの思っていながら、賢者と自分とを同列の世界で扱っていたのだと気付き、猛烈に自省して、恥ずかしさに泣いた。泣いて、泣き倦んで顔を上げた時に、消えたいと感じた気持ちそのままに行動している。
疲れていた。故郷で疎まれ蔑まれて追い出され、食うや食わずのその日暮らしを細々と十六年も続けて、挙句この街へ来る少し前、騙されて何もかも奪われた。命からがら逃げ出して、最後に残った親の形見も旅費に換えてグラプトベリアに辿り着いた時、自分には何も、本当に何も無いことに、気付いたばかりだった。焦がれに焦がれた賢者の姿をこの目で見ることも叶ったのだ、もう未練も無い。
「……三日、か」
死亡による依頼失敗と見做されるまでの日数を口にしたのは、重ねての行商人への謝罪ではなく、自分という存在が消えたことを、ほんの僅かな人が事務処理として知ってくれるまでの期間を確認しただけのこと。
細く弱々しいため息がこぼれた。足が棒のようになっている。心も体も疲弊しきっていて、フィカスの森に着く頃には歩けそうになくなっていた。
仕方なく近くの茂みを漁ってオリオー草を探した。地表に含まれる滋養の魔素をたっぷりと吸い上げて育つ薬草で、特に根は効果が高い。強烈な香りと少々舌の痺れる辛味があるが、短時間で疲労を回復してくれる。五本ほど収穫したオリンドは、とりあえず一本かじると再び歩き出した。
「……う……喉、痛いな……」
しかし、ただでさえ歩き詰めで乾いていた喉にオリオー草の辛味はてきめんだった。それに疲労は軽減されつつあるが、足の痛みは相変わらずで歩みは遅々として進まず、集中して大角熊を探せそうにないし、見つけたとて動けないのでは仕様がない。
「ん……と。……こっちか」
おもむろに方角を見定めたオリンドは真っ直ぐ茂みに分け入った。五分ほど進むと目当ての場所が見えてくる。いくばくか開けた場所にこんこんと湧き出る泉があった。冒険者たちの間で『回復の妙水』と呼ばれる水だ。こちらも地中深くを流れる間に癒しの魔素をたっぷりと含んでいる。飲めばたちまち傷を癒してくれる。
胸に手を当て、巡り会えたことに感謝してから手に受け、一杯だけ飲み干す。体中の痛みが心地よく解けていって、ほう、と息を吐いた。
そのままきょろきょろと辺りを見回し、大角熊の気配を探った。
「……あ……あれっ……」
これは、まずいな。誰か、他に人が居る。……魔力が低い。この感じだと冒険者じゃないな。…ああ、でも、ずいぶん離れているし、大丈夫か。
後方、オリンドが進んできた方角に人の気配を感じ取って一瞬焦る。しかしこの距離であればたとえ一般人でなく冒険者が走ったとしても間に合わないだろう。そう結論付けて更に気配を探ると、左手の前方、ここから十五分ほどの距離に魔物の気配を感じた。強靭な魔力を感じる。あれを相手にすれば自分などひとたまりもあるまい。
ひとたまりも、あるまい。
逸る気持ちのまま小走りに駆け出した。
はやく消えてしまいたい。もう、楽になりたい。
願いながら樹木の間を抜けると、唐突に切り立つ岸壁の前に出た。急ぎ首を巡らせれば、今しがた、鹿だろうか、獲物を仕留めたばかりの大角熊と目が合った。人の二倍はありそうな巨躯から放たれた、魔力混じりの猛烈な威嚇の声に足がすくんだ。
──こんな、ときでも、すくんでしまうものなのか……。
自嘲して目を閉じた。重たい足音が突進してくる音が聞こえる。冷える指先をギュッと合わせ、来たる衝撃に全身を固めて、これで終わる、と、考えた時だった。
閉じた瞼の前を真横に掠めて、ズドンと岩でも落ちたような轟音が響き渡る。
「っ!? ……え……!?」
驚いて瞼を跳ね上げると、視界のどこにも大角熊の姿が無くて二度驚いた。勢いのまま視線を右に左に走らせる。すると、あろうことか岸壁に半分ほど埋まった毛皮付きの肉塊が見えた。あの分では即死に違いない。……いや、そうじゃない。と、オリンドは逆側を凝視した。
いったい誰がこんな桁違いの魔法を?
その正体はすぐに知れた。間も無く茂みを舞う木の葉すら蹴り破る速度で、まさに飛ぶように駆けてくる人物がいる。
「っ……あ……? あ!? ……えっ……!?」
ありえない。ありえない、だって。
だってあの人は、俺とは違う世界に生きてる、はず。なのに。
どうして出会ってしまうのか。それも、こんな場面で。訳がわからず、オリンドは崩れるようにその場へ座り込んだ。膝が笑い腰が抜けて動くこともできずにいると、その人物、賢者エウフェリオは駆け寄ってきて絵に描いたように柔らかな仕草で手を差し出した。屈まれこぼれ落ちてくる氷銀色が夢かと錯覚するほど美しい。
「大丈夫ですか!? お怪我は!? ……無い、ようですね。良かった」
思ったより力強い指に手を取られたが、立ち上がることもできない。なにより頭が真っ白で行動を取れずにいた。
「しかし、全く、なんという無茶をするんですか! 防具も武器も無しに。……見たところ、失礼ですが攻撃魔法なども習得していない様子、それで大角熊の前に飛び出すなんて……!」
言っている間に興奮したのか、片膝をついた彼に頭を軽く叩かれた。
うわあ。あの賢者様に心配されて叱られた。と、喜びと驚きに埋め尽くされたオリンドの胸中が瓦解する。一粒滲んだらあとはもう止めども無かった。
突然ぼろぼろと涙をこぼされてエウフェリオはギョッとした。
まさか見えない傷でもあるだろうか、それともさきほど叩いてしまったせい? いやそんな大の大人が多少の怪我や軽く叩かれたせいで大泣きなど……待て。もしや叱られたせい?
ならば余程の事情があってあのようなことをしたのだろう。居住まいを正したエウフェリオは、改めてオリンドの危険な行為に至った事情を問いただした。
しばらく嗚咽でまともに言葉も出せなかった彼が、ぽつりぽつりと話した内容はおよそ次の通りだった。
故郷で幼馴染たちに頼み込み冒険者を生業にしていたが、役に立てずにパーティを追い出された。身寄りもなく、早くに両親を亡くしてからは生まれ育った村でも孤立していたため、それを機に故郷を後にした。それから十六年の間、誰にもなににも頼れず様々な街を流れて細々と食い繋いでいたのだが、先日行き着いた隣町で声をかけてきた二人組の冒険者に騙されて装備も金も奪われ、命からがら逃げ出してきたのだという。その折に、これだけは首にかけていて無事だった両親の形見である指輪を旅費に換えてしまったために、グラプトベリアに辿り着いてから本当になにもかも無くしたことに思い至り、絶望してしまった。そんな折、憧れの人がこの街に居ると聞いてひと目だけでも見たいと探し当てたところ、あまりにも住む世界が違い過ぎて……。
その憧れの人は貴方ですなどとはまさか言えるはずもなく、最後だけは誤魔化したオリンドは、両の指を絡めた手を口元に押し当て、しゃくり上げながら続けた。
「そ、それで、それでもう……し、死にたくて……」
「なんと……」
エウフェリオは唸った。危険行為ではなく自殺行為だったとは。
ますます止めて正解だった。と、静かに拳を握りしめてから、彼はきつとオリンドに向き直る。
「心中お察ししますとは、とてもではありませんが言えません。ですが、死なれては困ります」
「困……え、……どうして?」
なぜに俺などが死んで賢者様が困るというのだろう。目の前で死なれては寝覚めが悪いということだろうか。腕で目元を擦りつつ首を傾げると、がつりと肩を掴まれた。
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