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第五十三話 家族
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「っあ…、そ、…そんな…、そんな…っ」
拱門型の転送陣を前に、オリンドは血の気を引かせて崩れ落ちた。
「リンド…!」
あまりの落胆ぶりにかける言葉も見つからず、エウフェリオはオリンドの肩を抱きしめ背を摩ることしかできない。
「オーリン!大丈夫だってこんくらい!」
アレグは傍に屈み込んで気にするなと明るい調子で頭を撫でる。その声は少しだけ泣きそうに震えていた。
「そうよ、リンちゃん、気にしないで!」
オリンドの正面で膝を突き、その手を取ってウェンシェスランは励ました。
「…しかし、盲点だったな…」
なるほどなあ。と、イドリックは目の前の小さな拱門をしみじみと眺める。
人が二人ほど並んで通れそうな幅の、簡素ながら厳かな装飾が全体に施されたそれは半分ほど崩壊していた。
八十九階層の中程に位置するこの門を見たオリンドは、自分の描いた地図に載っていない転送陣だと気付くや、これまでの探査に一度もかかっておらず、往復路も読めないということにも気付き、愕然として崩れ落ちたのだ。
原因は不明だが門を守る結界が解除されており、そのために何かの衝撃を受けて破壊されたようだ。床に敷かれた陣にまで及んだ亀裂は中央を切り貫いていて、術式を失った魔法陣は今やただの文様と化していた。当然ながらそこに魔力は無く魔素も流れていない。これでは探査スキルで捉えられるはずも無かったのだが。
「ご…ごめ…なさ…、…ご、め…さい…」
転送陣の解明は助かると、言ってもらえたのに。あんなに喜んでもらえたのに。
涙こそ我慢すれど掠れた声を出すのがやっとのオリンドは、不甲斐なさと期待に応えれらなかった恐怖とで破裂しそうな頭を抱えて何度も謝罪の言葉を絞り出す。
アレグたちと過ごすうち、彼らは許すも何も無く受け入れてくれると頭では理解していたが、未だ感情は追いついていなかった。このように役に立てなかったと感じたとき、オリンドの心は簡単に悲鳴を上げ、思考は働かなくなってしまう。
「…大丈夫。…大丈夫ですよ…。貴方ほんとうに頑張っているじゃないですか」
腕の中の体を温めるように撫で摩り、エウフェリオは強く抱きしめ直した。
「…っ、ぅ…ん。うん…。あ、ありが、とう…っ」
詰まりかけた鼻を啜り上げたオリンドは次いで勢いよく視線を後方に投げかけた。
「っ、み、右後方…、す、ごい大きなオーク…?ぽいの、…二体、来るっ」
嘆いてる場合ではない。今は任務中なのだから。
「…!おう!任せとけ!」
このところ好調だっただけに、得意な分野で躓いたことは過去の傷も抉る相当な痛手だっただろう。それなのに、きちんと役割をこなそうとするオリンドにアレグこそ盛大に鼻を啜って立ち上がる。
「って、うおおわ!?マジかよ古代種の王級じゃん!」
確かに感傷に浸っている場合では無かった。匂いでも嗅ぎつけたのだろう、一見やや怠惰にも見える足取りながらその実かなりの速度で迫り来る、背後に群れを伴った魔物を見てアレグが沸き立つ。一瞬何故こんな階層にオークがと思ったが、なるほど地上では滅多にお目にかかれない上位種だ。
「あらあ、けっこうな数が居るわね。しばらく近隣の街にも食肉を卸せちゃうんじゃない?」
「でしたら、なるべく肉質を落とさないよう倒さねばですね」
「ならアルがやらかしちまう前に頼むぞ、フェリ」
「どういう意味だよーっ!?」
「…ふっ…、ふへ」
いつもより少し賑やかに戯けてくれる彼らの気遣いが嬉しくて、少しだけ笑うことができた。こうして失敗しても受け入れて守ってくれることがありがたい。それだけに唯一の取り柄が通用しなかった衝撃は当分の間消化できそうに無かった。
などと。
思っていた瞬間が自分にもありました。
調査を終えた八十九階層に建ち並ぶ貴族邸宅のうち、かなりまともに残っていた屋敷を借りて戻る前の一服と決め込んだ結界付き一室で、オリンドは顔を覆い蹲っていた。
「大丈夫ですかリンド?これは報告は明日にして、今日は真っ直ぐ拠点に戻って休みましょうか?」
なにを白々しい、こうさせた張本人が。
そっと伺ってくるエウフェリオの二の腕をオリンドは無言のままべちべちと叩いた。
談話室らしき部屋に入るやソファを失敬して隠遁魔法で二人だけの空間を作り上げたエウフェリオは、気落ちしたままのオリンドを抱き込み優に一時間ほど励ましと愛の言葉を囁き続けていた。口説いていると言ったほうが正しいだろうか。
もう頭の中は彼の甘やかな声と言葉と眼差しと温もりでいっぱいいっぱいというか、瓦解している。
おかげさまで転送陣が読めなかったことを気にする余裕は全くこれっぽっちも無くなった。
その上、音が聞こえずとも見ていればどのようなことを言われているのか想像に難く無いのだろう、同じくソファに座って休憩しテーブルに広げた軽食や菓子を食したり茶を飲んだりしている三人から時折り非常に温かく極限に優しい視線を向けられるのだ、顔面を覆う平手打ちを一発ずつ丁寧に返したい気分である。
隠し扉があったら逃げ込みたい。
いや、そこにあるが逃げ込めない。
さすが貴族屋敷といったところか、隠し部屋はいくつかあるし、この部屋にも目と鼻の先に壁の間を這う通路へ出る扉がある。が、優しいくせにしっかりと抱き込む腕は外れそうになく、逃げ込む隙はこれっぽっちも無かった。
「っも、もう、もう大丈夫だからっ!…平気になったからっ…!」
いくら大好きでもこれ以上はお腹いっぱいだ。早々に休憩も切り上げてギルドに向かって欲しい。エウフェリオの胸元を押し返して言うと彼は渋々といったふうで体を離し魔法を解いた。
「…あらっ?もう終わり?いいのよリンちゃん、もっとフェリちゃん堪能してて。今回も予定より早く終わったんだし」
右隣のソファに座るウェンシェスランが隠遁魔法が解除されたことに気付き、彼の向かいのソファに座るアレグの腹元をちらりと見て言う。
本日三度目の腹の虫はまだ鳴いておらず、つまり夕食の時間にもなっていないということだ。
「う…ん。…や、もう大丈夫…。破裂する…破裂してる」
「ははは。相当口説かれたみたいだな。トマトより真っ赤だぞ」
「ぅぐうーっ…」
身は離されたものの肩は抱き込まれていてソファから立ち上がれず、向かいのソファに座すイドリックには到底手も届かない。オリンドはとりあえず自分の腿を何度か叩いてわだかまりを顕にした。
「あっはっは!よっしよし、いつものオーリンだな!」
よかった、と笑うアレグにオリンドは気恥ずかしげな顔を向ける。
「う、…あ、ありがとう…。あ。あと、今日は、安全な場所でも無いのにぐずぐずして、ごめんなさい」
引き摺るわけでも混ぜ返すわけでもなく、未踏の地のいつ魔物が現れるとも知れない場所で感傷に浸るなど、本来なら命取りに他ならない行為だ。と、これも引っ掛かっていたオリンドは有耶無耶になる前にと謝罪した。
「おん?別に危ない場面は無かったろ?」
「…あー…、う…うん」
そうなんだけど。でもそれはアレグたちが規格外だからで。たぶんCとかDランクまでじゃ確実に危険…いやまあAランクでなきゃ来られない場所ではあるんだけども、…う、…あ、あれ?
おかしい、そういうことじゃない。いまいち頭の働きが回復していないオリンドは右に左に首を傾げる。
「だろ?そんなら、ありがとうだけで良いじゃん」
「うー…?…う、うん。…うん。…ありがとう…。…うん、ありがとう」
あれ?良いのか?と思いつつオリンドは頷いた。心なしエウフェリオとイドリックにウェンシェスランが笑いだすのを堪えているような気がしなくもないが。
「いやもう、何に対するありがとうかもわからんけど。…ふはは、オーリンのそういうとこ本当に好きだわ俺」
「あう、…あ、ありが…、へぁっ!?」
幾度か言われた好きという単語に、しかしこの時ばかりは過剰に反応した。どことなく、いつになく真剣な響きを伴っていたような気がしたからだ。
「いや、友達ってか家族みたいにって意味だって。だから落ち着けよフェリ。つうか何遍も言ってんだろー?とりあえずどこから出したか知らんけど、その短剣をしまえ。扱い慣れてなさすぎて逆におまえが怪我しそうで怖えーわ」
やめろやめろ。
オリンドを抱き込み険しい形相をして、しかし全く殺気を纏うことなく短剣をちらつかせるエウフェリオに、アレグは苦笑して両手を挙げた。
「ここはお約束かと思いまして…」
「お約束が過激すぎんのよ。ほらあ、リンちゃん固まってんじゃないのよ」
「おやっ。すみませんリンド。そんなに怖かったですか?」
「えあっ!?ち、ちが…ちがう。あの、…そうじゃなくて、えっと。お、俺、俺のこと…アレグが…」
「おう、俺か!…おう!家族くらいに思ってるぞ!いや、改めて言わせるなよ照れるなあ!」
家族というか弟みたいに思っている。とは流石に口にせず、照れ笑いを浮かべたアレグはしかしオリンドが更に硬直したことを見て取って後頭部を掻いた。
「…あり?もしかして、やだった?」
あちゃあ。図々しかったかな。と、思ったのも束の間。
「ふゃっ…!…やややや!」
違うと言いたげに真っ赤な顔と両手とを激しく振るオリンドに言葉も出ないほど照れたのかと思えば表情も崩れる。
「やーん!アルちゃんずるいわあ!ねえリンちゃん、あたしだって何度も言うけど、本気でリンちゃんのこと大好きよ!」
「え…!?」
冗談めかして、けれど決して冗談ではない雰囲気で言うウェンシェスランに、オリンドは再び自分の耳を疑った。すでに茹だった顔は更に熱くなり、歓喜を含んだ戸惑いが迫り上がってくる。
「おっ。そういうことには俺も混ぜろよ。俺もおまえさんのことは家族みたいに思ってるぞオーリン」
「…っふぐ…!」
イドリックからは茶化したような物言いとは裏腹に温かな笑みで見詰められて、もう照れるだとか嬉しいだとかいう領域を超え、ひと息に喉が詰まり顔が勝手に歪む。
エウフェリオが自分を愛してくれていることは、たくさんたっぷり教え込まれて自覚しているけれど、アレグたちから仲間になってほしいと求められているのは、探査スキルの故にだとばかり思い込んでいた。仲間に入れてもらえているだけで、置いてもらえているだけでもありがたいのに、その上で受け入れてくれることや気遣ってくれること、好きだと言ってくれることも、単に彼らが根本的に優しいからだと思っていた。
まさか、本当に友達だとか、家族だとか、そんなふうに思ってもらえていたからだなんて。
「っ、な、なんで、…っ、なんで、お……俺、なんか…っ」
はたり。と、拱門の前では我慢できた涙が容易く溢れる。
「なんでも何も。好ましいと思うことに理由なんてあるものですか」
もう一度抱き込んでくるエウフェリオの手が温かくて柔らかくて、知らずどこかで張り詰めていた糸が切れた。
「っぅえ、…ぅ、ふぅうぅ…!」
気付けばアレグもイドリックもウェンシェスランも目の前に屈み込んでいる。それぞれの想いを込めるように腕や膝を摩られて、ぼろぼろと溢れる大粒の涙は拭っても拭っても止まらない。
「ふ、ぅぐ…っ、ぁ、ありが…あり、がと…っぅ、…お、俺、…俺っ…、なのに…っ、俺まだ…っ、ぅ、ぅう~っ」
こんなに心を砕いてくれることがありがたく幸せで堪らない一方、それでもまだ過去の恐怖に囚われて甘えきれないことが申し訳なくて歯痒くて悔しい。
「良いんです。良いんですよリンド。まだ怖いのでしょう?少しずつ慣れていってください」
そんな踏み出す勇気を持てないことも心得ていると肯定してくれるエウフェリオの、胸の奥まで染み込む声と言葉に何度も頷く。
「っ、…うん…、うんっ…!」
「昨日さ、昨日さ、俺らに、お願いね、って、言ってくれたじゃん。あれ、すっげー嬉しかった!…あんな感じでさ…!オーリンの、ペースでいいから…っ!」
勇気を振り絞ったことを悟り褒めてくれるアレグの泣き濡れた言葉がありがたくて、救い上げられた胸がいっぱいになる。
「うんっ…!ぁ、あ…あり、がと…っ」
「そうよお。ゆっくりね。焦っちゃだめよ。リンちゃんがつけられた傷はね、長い年月をかけられた大きくて深あい傷なんだから。それ以上の年月をかけて、あたしたちとたっぷり癒していきましょうね」
期待に応えたいと焦る気持ちも思い遣るウェンシェスランの、未来を約束する言葉に感極まって胸が張り裂けそうだ。
「…うんっ、…ぅ、…ふっ、う…」
「はは。我慢しなくていい。泣くのはこれまでに散々堪えてきたんだろう?俺たちの前なんだ、全部出しちまえ」
徐々にとは言ってもこういうときこそ甘えるものだと頭を撫でてくるイドリックの、受け止める親のような姿に堰を留めていた緊張も解かれる。
「う、んぅっ…、ぅあっ、…ぅぁあああぁあああぁ~っ…!」
あられもなく声を上げてオリンドは泣いた。
言葉にはなりきらない感謝や好意の感情が体を埋め尽くして、何度も何度もありがとうと大好きを繰り返し口にした。呂律も回らずしゃくりあげられるその言葉に、アレグもイドリックもウェンシェスランもエウフェリオも何度も頷き返す。
言葉で返すには言い尽くせず、表現を持っていたとしても声に出すには咽びを堪え切れない。
ようやく自分たちの気持ちもオリンドに少し受け取ってもらえた。彼が他人に心を開くことの恐怖はどれほどなのかなど、計り知れようもない。それでも幾重にも固く閉じた殻を少しずつ外し、彼自身のことも含め信じるようになってくれていることが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
拱門型の転送陣を前に、オリンドは血の気を引かせて崩れ落ちた。
「リンド…!」
あまりの落胆ぶりにかける言葉も見つからず、エウフェリオはオリンドの肩を抱きしめ背を摩ることしかできない。
「オーリン!大丈夫だってこんくらい!」
アレグは傍に屈み込んで気にするなと明るい調子で頭を撫でる。その声は少しだけ泣きそうに震えていた。
「そうよ、リンちゃん、気にしないで!」
オリンドの正面で膝を突き、その手を取ってウェンシェスランは励ました。
「…しかし、盲点だったな…」
なるほどなあ。と、イドリックは目の前の小さな拱門をしみじみと眺める。
人が二人ほど並んで通れそうな幅の、簡素ながら厳かな装飾が全体に施されたそれは半分ほど崩壊していた。
八十九階層の中程に位置するこの門を見たオリンドは、自分の描いた地図に載っていない転送陣だと気付くや、これまでの探査に一度もかかっておらず、往復路も読めないということにも気付き、愕然として崩れ落ちたのだ。
原因は不明だが門を守る結界が解除されており、そのために何かの衝撃を受けて破壊されたようだ。床に敷かれた陣にまで及んだ亀裂は中央を切り貫いていて、術式を失った魔法陣は今やただの文様と化していた。当然ながらそこに魔力は無く魔素も流れていない。これでは探査スキルで捉えられるはずも無かったのだが。
「ご…ごめ…なさ…、…ご、め…さい…」
転送陣の解明は助かると、言ってもらえたのに。あんなに喜んでもらえたのに。
涙こそ我慢すれど掠れた声を出すのがやっとのオリンドは、不甲斐なさと期待に応えれらなかった恐怖とで破裂しそうな頭を抱えて何度も謝罪の言葉を絞り出す。
アレグたちと過ごすうち、彼らは許すも何も無く受け入れてくれると頭では理解していたが、未だ感情は追いついていなかった。このように役に立てなかったと感じたとき、オリンドの心は簡単に悲鳴を上げ、思考は働かなくなってしまう。
「…大丈夫。…大丈夫ですよ…。貴方ほんとうに頑張っているじゃないですか」
腕の中の体を温めるように撫で摩り、エウフェリオは強く抱きしめ直した。
「…っ、ぅ…ん。うん…。あ、ありが、とう…っ」
詰まりかけた鼻を啜り上げたオリンドは次いで勢いよく視線を後方に投げかけた。
「っ、み、右後方…、す、ごい大きなオーク…?ぽいの、…二体、来るっ」
嘆いてる場合ではない。今は任務中なのだから。
「…!おう!任せとけ!」
このところ好調だっただけに、得意な分野で躓いたことは過去の傷も抉る相当な痛手だっただろう。それなのに、きちんと役割をこなそうとするオリンドにアレグこそ盛大に鼻を啜って立ち上がる。
「って、うおおわ!?マジかよ古代種の王級じゃん!」
確かに感傷に浸っている場合では無かった。匂いでも嗅ぎつけたのだろう、一見やや怠惰にも見える足取りながらその実かなりの速度で迫り来る、背後に群れを伴った魔物を見てアレグが沸き立つ。一瞬何故こんな階層にオークがと思ったが、なるほど地上では滅多にお目にかかれない上位種だ。
「あらあ、けっこうな数が居るわね。しばらく近隣の街にも食肉を卸せちゃうんじゃない?」
「でしたら、なるべく肉質を落とさないよう倒さねばですね」
「ならアルがやらかしちまう前に頼むぞ、フェリ」
「どういう意味だよーっ!?」
「…ふっ…、ふへ」
いつもより少し賑やかに戯けてくれる彼らの気遣いが嬉しくて、少しだけ笑うことができた。こうして失敗しても受け入れて守ってくれることがありがたい。それだけに唯一の取り柄が通用しなかった衝撃は当分の間消化できそうに無かった。
などと。
思っていた瞬間が自分にもありました。
調査を終えた八十九階層に建ち並ぶ貴族邸宅のうち、かなりまともに残っていた屋敷を借りて戻る前の一服と決め込んだ結界付き一室で、オリンドは顔を覆い蹲っていた。
「大丈夫ですかリンド?これは報告は明日にして、今日は真っ直ぐ拠点に戻って休みましょうか?」
なにを白々しい、こうさせた張本人が。
そっと伺ってくるエウフェリオの二の腕をオリンドは無言のままべちべちと叩いた。
談話室らしき部屋に入るやソファを失敬して隠遁魔法で二人だけの空間を作り上げたエウフェリオは、気落ちしたままのオリンドを抱き込み優に一時間ほど励ましと愛の言葉を囁き続けていた。口説いていると言ったほうが正しいだろうか。
もう頭の中は彼の甘やかな声と言葉と眼差しと温もりでいっぱいいっぱいというか、瓦解している。
おかげさまで転送陣が読めなかったことを気にする余裕は全くこれっぽっちも無くなった。
その上、音が聞こえずとも見ていればどのようなことを言われているのか想像に難く無いのだろう、同じくソファに座って休憩しテーブルに広げた軽食や菓子を食したり茶を飲んだりしている三人から時折り非常に温かく極限に優しい視線を向けられるのだ、顔面を覆う平手打ちを一発ずつ丁寧に返したい気分である。
隠し扉があったら逃げ込みたい。
いや、そこにあるが逃げ込めない。
さすが貴族屋敷といったところか、隠し部屋はいくつかあるし、この部屋にも目と鼻の先に壁の間を這う通路へ出る扉がある。が、優しいくせにしっかりと抱き込む腕は外れそうになく、逃げ込む隙はこれっぽっちも無かった。
「っも、もう、もう大丈夫だからっ!…平気になったからっ…!」
いくら大好きでもこれ以上はお腹いっぱいだ。早々に休憩も切り上げてギルドに向かって欲しい。エウフェリオの胸元を押し返して言うと彼は渋々といったふうで体を離し魔法を解いた。
「…あらっ?もう終わり?いいのよリンちゃん、もっとフェリちゃん堪能してて。今回も予定より早く終わったんだし」
右隣のソファに座るウェンシェスランが隠遁魔法が解除されたことに気付き、彼の向かいのソファに座るアレグの腹元をちらりと見て言う。
本日三度目の腹の虫はまだ鳴いておらず、つまり夕食の時間にもなっていないということだ。
「う…ん。…や、もう大丈夫…。破裂する…破裂してる」
「ははは。相当口説かれたみたいだな。トマトより真っ赤だぞ」
「ぅぐうーっ…」
身は離されたものの肩は抱き込まれていてソファから立ち上がれず、向かいのソファに座すイドリックには到底手も届かない。オリンドはとりあえず自分の腿を何度か叩いてわだかまりを顕にした。
「あっはっは!よっしよし、いつものオーリンだな!」
よかった、と笑うアレグにオリンドは気恥ずかしげな顔を向ける。
「う、…あ、ありがとう…。あ。あと、今日は、安全な場所でも無いのにぐずぐずして、ごめんなさい」
引き摺るわけでも混ぜ返すわけでもなく、未踏の地のいつ魔物が現れるとも知れない場所で感傷に浸るなど、本来なら命取りに他ならない行為だ。と、これも引っ掛かっていたオリンドは有耶無耶になる前にと謝罪した。
「おん?別に危ない場面は無かったろ?」
「…あー…、う…うん」
そうなんだけど。でもそれはアレグたちが規格外だからで。たぶんCとかDランクまでじゃ確実に危険…いやまあAランクでなきゃ来られない場所ではあるんだけども、…う、…あ、あれ?
おかしい、そういうことじゃない。いまいち頭の働きが回復していないオリンドは右に左に首を傾げる。
「だろ?そんなら、ありがとうだけで良いじゃん」
「うー…?…う、うん。…うん。…ありがとう…。…うん、ありがとう」
あれ?良いのか?と思いつつオリンドは頷いた。心なしエウフェリオとイドリックにウェンシェスランが笑いだすのを堪えているような気がしなくもないが。
「いやもう、何に対するありがとうかもわからんけど。…ふはは、オーリンのそういうとこ本当に好きだわ俺」
「あう、…あ、ありが…、へぁっ!?」
幾度か言われた好きという単語に、しかしこの時ばかりは過剰に反応した。どことなく、いつになく真剣な響きを伴っていたような気がしたからだ。
「いや、友達ってか家族みたいにって意味だって。だから落ち着けよフェリ。つうか何遍も言ってんだろー?とりあえずどこから出したか知らんけど、その短剣をしまえ。扱い慣れてなさすぎて逆におまえが怪我しそうで怖えーわ」
やめろやめろ。
オリンドを抱き込み険しい形相をして、しかし全く殺気を纏うことなく短剣をちらつかせるエウフェリオに、アレグは苦笑して両手を挙げた。
「ここはお約束かと思いまして…」
「お約束が過激すぎんのよ。ほらあ、リンちゃん固まってんじゃないのよ」
「おやっ。すみませんリンド。そんなに怖かったですか?」
「えあっ!?ち、ちが…ちがう。あの、…そうじゃなくて、えっと。お、俺、俺のこと…アレグが…」
「おう、俺か!…おう!家族くらいに思ってるぞ!いや、改めて言わせるなよ照れるなあ!」
家族というか弟みたいに思っている。とは流石に口にせず、照れ笑いを浮かべたアレグはしかしオリンドが更に硬直したことを見て取って後頭部を掻いた。
「…あり?もしかして、やだった?」
あちゃあ。図々しかったかな。と、思ったのも束の間。
「ふゃっ…!…やややや!」
違うと言いたげに真っ赤な顔と両手とを激しく振るオリンドに言葉も出ないほど照れたのかと思えば表情も崩れる。
「やーん!アルちゃんずるいわあ!ねえリンちゃん、あたしだって何度も言うけど、本気でリンちゃんのこと大好きよ!」
「え…!?」
冗談めかして、けれど決して冗談ではない雰囲気で言うウェンシェスランに、オリンドは再び自分の耳を疑った。すでに茹だった顔は更に熱くなり、歓喜を含んだ戸惑いが迫り上がってくる。
「おっ。そういうことには俺も混ぜろよ。俺もおまえさんのことは家族みたいに思ってるぞオーリン」
「…っふぐ…!」
イドリックからは茶化したような物言いとは裏腹に温かな笑みで見詰められて、もう照れるだとか嬉しいだとかいう領域を超え、ひと息に喉が詰まり顔が勝手に歪む。
エウフェリオが自分を愛してくれていることは、たくさんたっぷり教え込まれて自覚しているけれど、アレグたちから仲間になってほしいと求められているのは、探査スキルの故にだとばかり思い込んでいた。仲間に入れてもらえているだけで、置いてもらえているだけでもありがたいのに、その上で受け入れてくれることや気遣ってくれること、好きだと言ってくれることも、単に彼らが根本的に優しいからだと思っていた。
まさか、本当に友達だとか、家族だとか、そんなふうに思ってもらえていたからだなんて。
「っ、な、なんで、…っ、なんで、お……俺、なんか…っ」
はたり。と、拱門の前では我慢できた涙が容易く溢れる。
「なんでも何も。好ましいと思うことに理由なんてあるものですか」
もう一度抱き込んでくるエウフェリオの手が温かくて柔らかくて、知らずどこかで張り詰めていた糸が切れた。
「っぅえ、…ぅ、ふぅうぅ…!」
気付けばアレグもイドリックもウェンシェスランも目の前に屈み込んでいる。それぞれの想いを込めるように腕や膝を摩られて、ぼろぼろと溢れる大粒の涙は拭っても拭っても止まらない。
「ふ、ぅぐ…っ、ぁ、ありが…あり、がと…っぅ、…お、俺、…俺っ…、なのに…っ、俺まだ…っ、ぅ、ぅう~っ」
こんなに心を砕いてくれることがありがたく幸せで堪らない一方、それでもまだ過去の恐怖に囚われて甘えきれないことが申し訳なくて歯痒くて悔しい。
「良いんです。良いんですよリンド。まだ怖いのでしょう?少しずつ慣れていってください」
そんな踏み出す勇気を持てないことも心得ていると肯定してくれるエウフェリオの、胸の奥まで染み込む声と言葉に何度も頷く。
「っ、…うん…、うんっ…!」
「昨日さ、昨日さ、俺らに、お願いね、って、言ってくれたじゃん。あれ、すっげー嬉しかった!…あんな感じでさ…!オーリンの、ペースでいいから…っ!」
勇気を振り絞ったことを悟り褒めてくれるアレグの泣き濡れた言葉がありがたくて、救い上げられた胸がいっぱいになる。
「うんっ…!ぁ、あ…あり、がと…っ」
「そうよお。ゆっくりね。焦っちゃだめよ。リンちゃんがつけられた傷はね、長い年月をかけられた大きくて深あい傷なんだから。それ以上の年月をかけて、あたしたちとたっぷり癒していきましょうね」
期待に応えたいと焦る気持ちも思い遣るウェンシェスランの、未来を約束する言葉に感極まって胸が張り裂けそうだ。
「…うんっ、…ぅ、…ふっ、う…」
「はは。我慢しなくていい。泣くのはこれまでに散々堪えてきたんだろう?俺たちの前なんだ、全部出しちまえ」
徐々にとは言ってもこういうときこそ甘えるものだと頭を撫でてくるイドリックの、受け止める親のような姿に堰を留めていた緊張も解かれる。
「う、んぅっ…、ぅあっ、…ぅぁあああぁあああぁ~っ…!」
あられもなく声を上げてオリンドは泣いた。
言葉にはなりきらない感謝や好意の感情が体を埋め尽くして、何度も何度もありがとうと大好きを繰り返し口にした。呂律も回らずしゃくりあげられるその言葉に、アレグもイドリックもウェンシェスランもエウフェリオも何度も頷き返す。
言葉で返すには言い尽くせず、表現を持っていたとしても声に出すには咽びを堪え切れない。
ようやく自分たちの気持ちもオリンドに少し受け取ってもらえた。彼が他人に心を開くことの恐怖はどれほどなのかなど、計り知れようもない。それでも幾重にも固く閉じた殻を少しずつ外し、彼自身のことも含め信じるようになってくれていることが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
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彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。
「旦那様は俺に無関心」
そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。
バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!?
「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」
怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。
えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの?
実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった!
「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」
「過保護すぎて冒険になりません!!」
Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。
すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
悪役令嬢と呼ばれた侯爵家三男は、隣国皇子に愛される
木月月
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貴族学園に通う主人公、シリル。ある日、ローズピンクな髪が特徴的な令嬢にいきなりぶつかられ「悪役令嬢」と指を指されたが、シリルはれっきとした男。令嬢ではないため無視していたら、学園のエントランスの踊り場の階段から突き落とされる。骨折や打撲を覚悟してたシリルを抱き抱え助けたのは、隣国からの留学生で同じクラスに居る第2皇子殿下、ルシアン。シリルの家の侯爵家にホームステイしている友人でもある。シリルを突き落とした令嬢は「その人、悪役令嬢です!離れて殿下!」と叫び、ルシアンはシリルを「護るべきものだから、守った」といい始めーー
※この話は小説家になろうにも掲載しています。
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
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王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ユィリと皆の動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵も皆の小話もあがります。
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。動画を作ったときに更新!
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
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