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5章『秩序を歪める裁定者』
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5章『秩序を歪める裁定者』
19『他人』
それはあまりに突然だった。時計の針が動かなくなるように、どこかへ消えていった。カルネ先生は私達に言伝もなく、遠くの監獄に転勤になった。零が言うには、左遷の可能性があるらしい。彼にしては珍しく動揺しているのがよくわかる。未来まで不安になってしまう。
担任がいなくなって秩序が崩壊した教室に、新しい風が舞い込んで来た。
その男は足音もなくやってきた。いや、正確には、クラスの喧騒にかき消されただけなのかもしれない。誰しもが教卓に目を向ける。穏やかな笑顔、縦に長い帽子、背が高く細身で整端な顔立ち。これは確実にモテる。未来はそう確信した。しかし、他の女子ほど心は動かなかった。なぜなら未来には、想い人がいるからだ。その存在を思うだけで、胸の奥が少しだけ熱を帯びた。
「突然ですが、今日からこのクラスの担任を受け持つことになりました。沙華 殊夜(しゃか ことや)と申します」
吸い込まれるような朱い瞳は、私達の気を引くのに十分だった。
「カルネ先生は非常に生徒達に好かれていたと聞いております。誠に残念です」
すると、私達の優等生が口を開いた。
「あなたがカルネ先生を左遷させたのでは? 沙華先生」
「それは心外ですね。天才君。あなたは特にカルネ先生仲が良かったと存じ上げております。さぞかし情も深かったことでしょう」
二人の間で、見えない火花が散っている。恐らく,零ちゃんは沙華先生の腹の内を探ろうとしているのだ。
しかし、想定以上に何事もなく、その日の授業は終了した。ぶっちゃけカルネ先生よりもわかりやすい授業だった。零ちゃんは全く聞いていなかったみたいだけど。
異変が起こったのは、沙華先生が担任になってから一週間後のことだった。
それは、失うというより、切り取られる感覚に近かった。
***
名前はすぐに出てきた。
彼の名前は、灯火零。多分、何度も呼んだはずの名前だもの。
なのに、どうしてだろうか。目の前に立つその人を見ても、胸が動かない。
安心も、緊張も、あの高鳴りすらもない。ただの他人として、彼がそこにいる。
おかしい。
そう思った瞬間に、私は自分を疑った。
――疲れているだけだ。連日の叛逆の件で、頭がどうにかしたのだろう。
そうやって理由を貼り付ける癖は、監獄で生きるうちに身についたものだ。
「未来……」
名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。その儚げな声も、珍しく心配するような表情も、全部知っている。
でも、何も感じない。
この声を聞いたとき、私は何を感じていた?
信頼? 安堵? それとも、もっと別の何か?
いくら考えても答えが出ない。頭の中を、問いだけがぐるぐると回り続けた。
彼の顔を見つめてみる。
やっぱり違和感なんて見つからない。目、鼻、口。全部合っている。シャンプーの匂いだって変わっていない。
記憶は鮮明に刻まれている。一緒にいた時間も、会話も、叛逆の計画も。
――それなのに。
「……前から、こんな距離感だったっけ」
自分の声が、やけに他人行儀に聞こえた。
零は何も言わない。
ただ、少しだけ眉を下げた。
その表情を見て、はっきりと理解した。私は今、この人を大切だと思えていない。
忘れたわけじゃない。
失ったわけでもない。
ただ、感情だけが、抜け落ちている。胸の奥に、空洞がある。
そこに何があったのかは分かる。
でも、手を伸ばしても、もう触れない。
この「他人」に対して、微塵の興味も湧かない。
「……ごめん」
何に対しての謝罪かも分からないまま、そう言った。
そのとき、背後で誰かが笑った。
「不思議でしょう」
振り返ると、珠沙先生が立っていた。灯火零のような、貼り付けた仮初の笑顔。
「記憶はあるのに、情が湧かない。人間は、案外そんなことで他人に成り下がってしまうのです」
私は反論しようとした。でも、言葉が出なかった。
否定するための“想い”がもうそこには感じられなかったからだ。
灯火零を見る。
彼は、まだこちらを見ている。
どうしてか分からない。
理由も思い出せない。
それでも彼だけは、目を逸らさなかった。
その視線が、ひどく異物に見えて。
同時に、説明のつかない違和感が、胸の奥で疼いた。
――おかしいのは、私のほうだ。
その確信だけが、なぜか消えずに残っていた。
今度は、私の方から彼を見つめてみた。
それだけなのに、息が止まった。
近い。
近すぎる。
――前から、こんな距離だったっけ。
考えるより先に、足が動いた。
一歩、下がる。反射的にしまった、と思ったが、何がまずいのか分からない。
灯火零の眉がピクリと動き、その目は、悲しそうに虚空を見つめていた。多分、私を見ているんだろう。
その変化を見ているのに、胸が静かだった。
あまりにも、静かすぎた。心臓を失ってしまったのかと思うほど、何も聞こえない。
「ほんとに、ごめん」
声が出た。
言葉足らずだったかな、と名前を呼ぼうとして、やめた。名前の呼び方がわからなかったからだ。
呼ぼうとしても、頭の奥が、じんと痺れ、舌がついてこない。
私は、灯火零を見ている。なのに、ちゃんと見ていない。灯火零も、恥ずかしくなるくらい私を見つめている。
そう思った途端、私の見間違いだと気がついた。彼は私じゃなくて、私を通して虚空を見ている。
そして、彼の瞳に映った私の目もまた、何処か虚空を見つめていたのだ。
20『境界線』
彼女は氷室未来。俺の大切な友人だ。忘れてしまわぬように、頭の中でずっと反芻した。それが功を奏したのか、俺はまだ彼女の存在を忘れていない。逆に言えば、いつ忘れてしまうかわからない恐怖がずっと胸を締め付けてくる。
この異変は十中八九、あの沙華 殊夜という看守のせいだろう。しかし、打開策がこれっぽっちも思い浮かばない。いつもはすぐにでも出てくる作戦の数々が、今日はみじんも湧いてこない。理由ははっきりとしていた。
今までずっと大切にしていた友人に、不意に忘れ去られてしまったからだ。この異変の正体が未だ掴めずにいた。”大切な人を忘れてしまう”という異変なら、未来が俺のことを大切に思っているということになるのであり得ない。俺も彼女のことを大切にしているのに、忘れていないのがその証拠だ。
むしろ俺も、彼女のことを他人として扱った方が、忘れずに済むのではないか。しかしそう判断するには早計のような気もして、俺は未来に話しかけてみた。
「おはよう、未来」
「おはよう、灯火くん」
その呼ばれ方に、冷たい汗が滲んだ。自然に振る舞いたかったのについ肩をこわばらせてしまう。
「その……大丈夫か?」
打算も計算もない、純粋な心配からの言葉だった。
「うん、大丈夫だよ」
ずっと一緒に過ごしてきたからか、それが虚勢であることがわかる。しかしそれを伝えたところで、「大丈夫だよ」と、文字通り心にもない言葉が繰り返されるだけだ。次に紡ぐべき最適な言葉が、見つからなかった。
”大切な人を忘れる異変”それは、俺が勝手に組み上げただけの理想だったのかもしれない。未来は俺を大切に思っていないから忘れたのではないか? だからこの胸の痛みは、ただの自意識過剰なのだろう。
でも同時に、俺たちが一緒に過ごしたあの時間はなんだったのだろうかと思えてくる。
「最初に影響があったのはあなたたちのようですね」
いつの間にか、沙華 殊夜は廊下の影に立っていた。足音はしなかった。気配だけが、遅れてこちらに届く。
「……どういう意味だ」
俺が問うと、彼は楽しそうに帽子のつばを指で押し上げた。
「言葉通りですよ。忘却は無差別じゃない。順序があるのです」
「順序?」
「ええ。“大切な想い”から、順番に」
胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。
「天才と称されるあなたならば、彼女があなたへの感情を忘れた理由を、既に理解していると思っていましたが」
――感情。
「未来は、俺を大切に思っていない。それだけの話だ」
即答だった。そうでなければ、辻褄が合わない。
沙華は一瞬だけ目を細め、それから穏やかに笑った。
「なるほど。だからあなたはまだ、忘れていないということですか」
「……何が言いたい」
「いいえ、何も言うことはありません。私はただ、緩やかなる秩序の崩壊を、この目で見てみたいだけですので」
そして沙華 殊夜はそれ以上何も言わず、影の向こうへと溶けていった。俺はその影の向こうを、暫く睨み続けていた。
沙華殊夜が消えたあとも、廊下の空気は妙に重かった。
未来は、何事もなかったかのように歩いていく。その背中を追いながら、俺は距離を測りかねていた。
近づけば、彼女は一歩引く。
離れれば、何も起こらない。
境界線だ。何かが動き出す、境界線。見えない線が、俺と未来の間に引かれている。それは物理的な距離ではなく、もっと曖昧で、もっと残酷なものだった。
「灯火くん、どうかした? 私、今からトイレ行きたいんだけど、一人になりたくて」
振り返った未来の声は、想像以上に柔らかい。だが、その柔らかさは、誰に向けられたものなのか、俺には分からない。
「いや……なんでもない」
問い詰めたい衝動を、理性で押し潰す。今の未来に、答えを求める資格が俺にあるのか、分からなかった。
教室に入ると、既に沙華殊夜はそこにいた。黒板に何かを書いているわけでもなく、ただ教卓に腰掛けて、こちらを見ている。朱い瞳が、俺を正確に捉えた。
「さて。今日は少し、授業の内容を変えましょう」
ざわつく教室を一瞥し、沙華は続ける。
「秩序とは何か。皆さんは、そう問われたらどう答えますか?」
誰も手を挙げない。
沙華は、それを予測していたかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「秩序とは“選別”です。守るものと、切り捨てるものを分けること」
その瞬間、嫌な予感が背骨を伝った。
「すべてを救おうとする行為は、秩序ではありません。それはただの混沌です」
朱い瞳が、再び俺を見る。
「そして、そこである裁定が必要になる」
頭の中で、何かが音を立てた。
「例えば、感情。人は感情によって判断を誤る。ならば、感情を切り離してしまえばいい」
この場に未来がいなくてよかった。この言葉を彼女が聞いたらどう思っていたのだろうか。
「失うのは、痛みでしょうか? それとも、幸福でしょうか?」
沙華は笑っていた。貼り付けたような笑顔だ。
だが、その笑みは問いではなく、既に答えを知っている者のものだった。
「灯火零」
名指しされた瞬間、教室の音が遠のいた。
「もしも、あなたが裁定者の立場に立ったなら。秩序を守るために、誰か一人の“想い”を切り捨てることができますか?」
視線が集まる。集まるようで、誰も俺を見ていなかった。
――答えられなかった。
できる、と言えば嘘になる。
できない、と言えば、この場で何かが確定してしまう気がした。
沈黙を肯定と受け取ったのか、沙華は満足げに頷く。
「素晴らしい。迷いは、優秀な裁定者の条件です」
胸の奥で、何かが燻ぶった。
俺は理解してしまった。この異変は、始まりに過ぎないと。関係が断たれ、希望が断たれ、それでも世界は廻り続けるのだろう。それを“秩序”と呼ぶのなら。俺は、その秩序を壊す側に立たなければならない。
たとえ、未来が完全に俺を「他人」として見る日が来たとしても。
だから、俺は……。
***
女子トイレに着いて私はようやく息を吐いた。
静かだ。廊下のざわめきも、教室の声も、全部ここには届かない。
鏡の前に立つ。そこに映っているのは、いつも通りの私だった。顔色も悪くないし、目の下に隈もない。泣いてもいない。取り乱してもいない。
「……私、変なの」
一人声に出してみても、実感が伴わなかった。自分が変だ、という感覚だけが、輪郭を持たずに浮かんでいる。
さっき、灯火くんが私を呼んだ。その瞬間のことを、頭の中でなぞる。
名前を呼ばれて、振り返った。声を聞いて、顔を見て、言葉を交わした。
全部、覚えている。
でも、胸の奥が動かなかった。
驚きも、安堵も、照れも。「近い」と感じるあの距離感すら、私にとっては恐怖でしかなかった。
彼は確かに、私にとって大切な人だったはずだ。一緒に笑って、ご飯を食べて、背中を預けてきた。その事実は、綺麗に並んでいる。記憶としては、完璧なくらいに。
なのに、それを思い出しても、心が追いついてこない。まるで写真を見ているみたいだ。そこに自分が写っているのに、どこか他人事で上の空。感情だけが切り取られた、他人の記録を見ているみたいだった。
「灯火くん……」
名前を口にすると、少しだけ舌が重くなった。
嫌悪でも拒絶でもない。ただ、馴染まない。呼び慣れたはずの名前なのに、今日初めて覚えたみたいな感覚。
――前から、こうだったっけ?
問いが浮かんだ瞬間、頭の奥がじん、と痺れた。考えようとすると、無意識にブレーキがかかる。深く掘り下げてはいけない。理由は分からないのに、そう感じる。
洗面台に手をつく。冷たい感触だけが、やけに現実的だった。
私は、灯火くんに「一人になりたい」と言った。その言葉を選んだ自分に、違和感はなかった。
でも、振り返らずに去っていく彼の背中を思い出すと、胸の奥の空洞が、少しだけ広がった気がした。
――今の気持ちは何と呼ぶのだろうか。
悲しい、とは違う。寂しい、とも違う。
ただ、何かが抜け落ちた音が、遅れて響いている。私は鏡の中の自分を見つめた。そこにいる私は、ちゃんと私なのに。
「……私、灯火くんのこと」
言いかけて、やめた。
続きを言葉にするには、材料が足りなかった。
好きだったのか。信頼していたのか。
それとも、もっと別の何かだったのか。
分からない。
分からないこと自体が、こんなにも怖いなんて知らなかった。
チャイムが鳴る。
時間だけが、容赦なく進んでいく。私はもう一度、鏡を見た。
そこに映る瞳は、確かに私のものだ。でも、その奥にあったはずの何かが、見当たらない。
理由も、原因も、分からないまま。ただ一つだけ、確かなことがあった。
――私は今、灯火零を「思い出せる」のに、彼を想うことがままならない。
冷酷な現実だけが、秩序みたいに、静かに私を縛っていた。悲しくないはずなのに、私の頬には冷たい何かが伝っていた。
その理由すらいつまでもわからないまま、私はトイレから出られなかった。
21『秩序の再定義』
その日から、クラスが壊れ始めた。未来の変化を皮切りに、クラスメイトの関係の大半が壊れていった。
友人同士だった者、恋仲にあった者。そういった親しい関係は特に早く壊れたようだ。俺も未来はおろか星にすら無視される始末だ。幸か不幸か、未来は俺を大切に思っていないから忘れてしまったという推理は瓦解したことになる。
俺は独りになった。同時に、独りでは何もできやしないと実感した。そりゃそうだ、俺は齢たったの十五。まだ成人すらしていないガキだ。いくら策を練れたって、星みたいに強靭な肉体やカースを持っていない。いくら他人を理解しても、未来のような愛嬌には勝らない。いやというほどそれが分かった。
「あの……灯火くん」
その言葉が耳を掠めた途端、心臓が大きく跳ねた。作戦を実行しているときですら、この胸は全く動かなかったというのに。
「どうした、未来」
「さっきは、ごめんなさい。私、なにがなんだか」
「あまり無理はするなよ」
いつもの調子で言ってみせる。他人であっても、俺は灯火零なのだから。
「よかったら……その、仲良くして欲しい」
我ながら頬が熱くなっているのを実感した。
「ぎこちない笑顔だな、お前が他人に接するときはもっと天然の笑顔だろうに」
「え? そうかな……」
「自然に笑った方が未来らしい」
「ありがとう、そうするよ」
今度はいつもの自然な笑顔だった。そう言って未来は隣の席に腰かけた。変わらない柔軟剤の匂いが鼻腔を通過していった。
「覚えるか? 一緒にご飯食べたり、勉強したときのこと」
「うん、覚えてるよ。でもなんでか、実感がわかないの」
実感がわかない、か。
「昔、作者の気持ちを答えなさいって国語の授業であったよな」
「たしか、『月が綺麗ですね』だったっけ」
「そうそう、俺は答え知ってたからあれだけど、未来の回答に感心したのを覚えている」
「なんて言ったっけ、私」
「”同じ景色を見ているね”って答えてたな。気持ち、視点の共有を一気に行えるいい解釈だ」
「……ありがとう」
そう言って俯いてしまった。どうしよう、気に障るようなことでもしたっぽいな。だが、少しづつではあるが、未来の心が開き始めているということが分かった。
「随分と穏やかに過ごしていますね」
背中に悪寒が走った。紛れもなく、それは首謀者の声だった。
「なにしにきたんですか? 殊夜先生」
「私は一応このクラスの担任になったわけですから、生徒同士の間柄を十分に理解しておこうと思いまして」
「生徒達の関係を滅茶苦茶にしたのはあなたでしょう」
「それはどうでしょうか……灯火零君、貴方は今、これまで見えていなかった自分の感情に気付き始めている」
胸がズキっと痛んだ。心当たりがあった。俺は友人に咲けられた程度でここまで落ち込まないと思っていた。未来のことを考えれば考えるほど、その現実が鉛のように重くのしかかってきて息苦しくなる。
「正確には、もう実は気が付いている。頭のいいあなたの子ですから、異変の発生条件にも気づきましたよね」
この異変は恋愛感情に近しいものに反応し、その関係を断絶してしまう。仲が良ければ良いほどダメージが大きい。だから俺は今まで通り、自分を騙してきた。この関係を壊したくなかったからだ。
だから、何も言い返せなかった。否定しようとした言葉は、喉の奥で形を失っていく。
「その沈黙が、答えですね」
殊夜先生は責めるでもなく、淡々と言った。
「あなたは、未来さんを“特別な人間”だと認識している。友人としてではない。もっと心の深いところでだ」
「……やめてください」
絞り出すような声だった。
「言葉にされなくとも、感情は存在します。むしろ、抑え込まれている分だけ、歪んで肥大化する。まるで呪みたいですね」
朱い瞳が、俺の瞳を通じて、胸の奥を覗き込む。
「彼女があなたを避けた瞬間、は何を感じましたか?」
問いは、自分でも驚くくらい効果的だった。
未来の足が、後ろに引かれた、あの刹那。
近すぎる、と告げられた距離。
――怖かった。
失うことが。取り返しがつかなくなることが。
「……不安、です」
気づけば、そう答えていた。
「ほう」
殊夜先生は、満足げに微笑んだ。
「それが感情というです。あなたがずっと否定してきたものだ」
胸の痛みが、はっきりと輪郭を持つ。逃げられないほど、明確に。
「あなたは優秀だ。だからこそ、自分の感情をノイズとして扱ってきた。それは、あなたなりの秩序の在り方だったのでしょう」
「違う……」
「いいえ、違いません。きっと、あなたは今まで、未来さんやクラスメイトを守るために、自分の気持ちに蓋をしてきた。壊したくなかったから」
核心を突かれ、言い返せない。
「ですが、その結果はどうですか?」
殊夜先生は、大袈裟に両手を広げてみせる。
「彼女はあなたを“他人”として認識し始めた。感情を抱いた者から順に切り捨てられる。これが、この場の秩序です」
秩序。その言葉が、耳障りに響く。
「……だったら、俺にどうしろって言うんですか」
誤魔化しようのないくらい、腹の奥底から飛び出た本音だった。
「簡単な話です」
殊夜先生は、一歩近づく。
「感情を手放せばいい。未来さんと同じようにね」
空気が、凍った。
「あなたが苦しんでいるのは、感情があるからです。未来さんを見て、胸が痛む。距離を測って、答えを探してしまう。それら全て、感情が原因です」
「それを……なくせと?」
「いいえ、“切り離す”のです」
とても穏やかな声だった。
「完全に消すわけではありません。ただ、排除する。感情を自覚した今のあなたなら、それが可能なはずです。あとは、あなたが受容するだけです。この秩序を」
俺は、息を呑んだ。感情がなければ、苦しくない。未来を見ても、胸は動かない。期待も、失望もしない。叛逆だってしなくていい。
――楽になれる。
その考えが浮かぶと同時に、強烈な嫌悪が込み上げた。
「それは……逃げだ」
「いいえ」
殊夜先生は、首を振る。
「これは裁定です」
朱い瞳が、静かに光る。
「秩序を守るために、何を残し、何を切り捨てるか。たったそれだけのお話です」
胸の奥が、軋む。
「感情を持ち続ければ、あなたは苦しみ続ける。いずれ、彼女を失うその瞬間まで。ですが、感情を切れば、あなたは冷静でいられる。未来さんと“新しい関係”を築くこともできるでしょう。他人としてですがね」
他人。その言葉が、致命傷だった。
「選択してください、灯火零君」
殊夜先生は、静かに告げる。
「感情に縛られた人間として壊れていくか。それとも、感情を切り捨て、秩序の中で生きるか」
逃げ場はなかった。
俺は今、動揺している。それが、何よりの証拠だった。そして同時に、理解した。
この選択肢そのものが、殊夜先生の思惑通りだということを。
それでも。
それでも、俺は……。
***
頬に伝う冷たい感触が、私は呼び覚ました。目の前には、冷たく当たってしまった好きな人がいた。私は全力で謝った。
「ごめん! あんなひどいこと言って、あの時は本当になにも感じなくって、それで」
「それがどうした」
「……え? 怒ってないの?」
「的外れなことを言うな。なぜ俺に話しかけているという意味だ。氷室未来、確かにお前とは他人より多くの時間を共にした。しかし、それがなんだというのだ。感情というのは合理的な判断をする上で邪魔でしかない。用件がないならもういいか?」
言葉が理解できなかった。頭の中を右から左へと流れた。でも、それが厳しい言葉だというのは理解できた。彼は終始、その場に立ち尽くしている私を、生ゴミでも見るかのような冷たい瞳で見つめていた。
背を向けた瞬間、足の力が抜けそうになった。
でも、倒れるわけにはいかなかった。
振り返らなかった。振り返ってしまったら、また何かを期待してしまいそうだったから。
感情というのは合理的な判断をする上で邪魔でしかない。そのセリフが頭の中を駆け巡る。
――合理的。
胸に突き刺さった鋭利なナイフ。
早歩きで廊下を歩く。
窓から差し込む光が、やけに眩しい。造られたの照明のくせに生意気だと思った。
私は、何を謝りに行ったんだろう。
ひどいことを言ったから? 傷つけたから? それとも、元に戻りたかったから?
いや、答えは、もう出ている。
零は、戻らなかった。
怒りもしなかった。
悲しみもしなかった。
ただ、意味がないと言った。
それは、拒絶よりもずっと冷たかった。
部屋に戻り、制服も着替えないままベットに倒れこむ。
――覚えている、と彼は言っていた。
一緒にご飯を食べたことも。
発熱するほど勉強したことも。
くだらない話で笑ったことも。
全部、事実としては存在している。
「それが、なんだというのだ」
その一言で、全部が終わった。
思い出は、武器にならなかった。
むしろ、私だけがそれを握りしめていて、重さに耐えられなくなっているみたいだった。
前は当たり前だった距離が、今はやけに広く感じた。
胸の奥が、じんわり痛む。
でも、それを「苦しい」と呼んでいいのかも、わからなかった。
怒られる方が、よかった。
嫌われる方が、まだ救いがあった。
少なくともそこには、感情があるから。
でも零の目には、私をどう思うかという選択肢すら、なかった。
他人。またはそれ以下。
部屋に置いてある、ツーショットを眺めた。少し滲んでいる。私は、瞬きをして、それを誤魔化した。
大丈夫。
期待しなければいい。
覚えているから苦しいのだから、これからは、思い出さなければいい。
零ちゃんが選んだ秩序の中に、私の居場所がないのなら。
気づけば、また零”ちゃん”と呼んでいた。
――もう、彼に期待しない。
それは、諦めじゃない。
傷つかないための、判断だ。
合理的でしょう?
彼を真似て、心の中で言ってみた。
そこに返事はなかったけれど。
22『秩序と選択』
気が付けば眠っていた。目を開けた瞬間、瞼の重さで、腫れていることを悟った。昨日から何も食べていない。というか、十三時間も眠っていた。朝七時の寒さを肌に感じながら、身支度を進める。
もう感情は胸に戻っているのに、胸が空っぽみたいだ。
朝食に向かう廊下で、彼の背中を見つけた。いつもなら走り寄る距離だったが、今日は違った。足取りが重く、その背中はやけに遠くに感じた。
「……零」
呼んでから、しまったと思った。
名前が、思ったよりも小さく響いたからだ。聞こえていないのか、彼は立ち止まらない。
一拍遅れて、ゆっくりと振り返った。
「どうした」
それだけだった。心配も、戸惑いも、探るような視線もない。ただ事実を確認するための声。
近づいた距離は、ほんの数歩。それなのに、壁があるみたいに感じた。
「一緒に、朝食……どうかな」
言いかけて言葉が途切れる。続きが見つからなかった。彼は私を見ている。目を逸らさず、瞬きもせず。
その視線に、責める色はなかった。だからこそ、余計に痛かった。
「必要なら、行けばいい」
「……え?」
「食事は生理的に必要だろう。それ以上の理由は要らない」
淡々とした口調。正論で、合理的で、間違っていない。でも、その言葉のどこにも、私がいなかった。
「零ちゃんは……」
言いかけて喉が詰まった。
「灯火くんは、行かないの?」
「俺は後でいい」
理由は言わなかった。
聞かれてもいないことを、説明する必要はない、という態度。私たちの間を沈黙が支配する。
廊下の向こうから、食堂のざわめきが聞こえてくる。誰かの笑い声。トレイのぶつかる音。世界は、何も変わっていないみたいだった。
「……そっか」
彼の表情は、変わらない。
通り過ぎる瞬間、袖がかすかに触れた。
変わらない柔軟剤の匂いが、遅れて鼻に届く。それが、懐かしいのか、嫌なのか。
判断する前に、私は前を向いた。
振り返らなかった。
振り返れば、また何かを期待してしまいそうだったから。
背中越しに、彼の視線を感じた気がした。
でも、それが本当に向けられていたのかどうか、確かめる勇気はなかった。
距離は、数歩。
けれど、その数歩が、今の私には越えられない境界線だった。
女の子達と朝食を摂ってから、空き教室の教卓の前に立たされていた。理由は分からない。ただ呼ばれたから、来ただけだ。
教室には誰もいない。
昼休みのはずなのに、妙に静かだった。造られた照明の光が、床に白く伸びている。
「落ち着いていますね、氷室未来さん」
殊夜先生は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
縦に長い帽子の影で、朱い瞳だけがやけに目立つ。
「最近の変化について、どう思いますか?」
質問の形をしているのに、答えを求めていない声音。
「……よく、分かりません」
正直な答えだった。
感情は戻ってきているはずなのに、どこか手応えがない。触れた瞬間に、すり抜けていく。
「思い出はありますか?」
「あります」
「想いは?」
そこで、言葉に詰まった。
想い。
その単語が、胸の奥で引っかかる。
「……分からないです」
殊夜先生は、満足そうに頷いた。
「素晴らしい。とても健全な状態です。記憶と感情を分けて認識できている」
健全。
その言葉が、なぜかひどく冷たく聞こえた。
「灯火零君のことは?」
その名前を聞いた瞬間だった。胸の奥で、何かが弾けた。
――零。
一緒に過ごした記憶
廊下で並んだ背中。
眠くて不機嫌な朝の顔。
映像が、洪水みたいに押し寄せる。
息が詰まる。視界が、わずかに歪んだ。
胸から溢れた思いを止められなかった。
しかし言葉が見つからなかった。
「……っ」
膝に力が入らず、机に手をつく。冷たい木の感触が、現実を引き戻す。
「おや」
殊夜先生の声が、楽しげに弾んだ。
「戻り始めましたか」
戻る。
その言い方が、癪に障った。
違う。
これは回帰なんかじゃない。
思い出した。
零ちゃんが、感情は合理的判断の邪魔だと言ったこと。
氷のように冷たい目。
他人を見るみたいな視線。
胸が、はっきりと痛んだ。
――嫌だ。
その感覚が、言葉になる前に、涙が落ちた。
頬を伝う冷たさ。でも、今度は理由が分かる。
「……思い出しました」
声が震える。それでも、目は逸らさなかった。
「零のこと、全部」
殊夜先生は、ゆっくりと瞬きをした。
「記憶が戻っただけですよ。感情とは別です」
「違います」
即答だった。
自分でも驚くほど、はっきりした声。
「これは、感情です」
胸の奥が、熱い。
空洞だったはずの場所が、痛みで満たされていく。
でも、不可抗力とはいえ、私もあんな態度をとっていたんだ。
怖い。
苦しい。
頼りたい。
大好きなあの人に。
それでも。
「私は、零ちゃんを大切だと思ってます」
言葉にした瞬間、頭の奥の痺れが、すっと引いた。
ブレーキが、外れた。
「忘れてたんじゃない。切り取られてただけです」
殊夜先生の笑みが、ほんの一瞬だけ、歪んだ。
「なるほど。自覚が、秩序を上書きした、と」
「秩序なんて知りません!」
涙を拭わずに、言い切る。
「でも、これだけは分かります。感情があるから、苦しい。でも」
息を吸う。
胸が上下するのが鮮明にわかる。
「苦しいと分かるのは、そこに大事なものがあるからです」
教室が、静まり返る。
殊夜先生は、しばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと拍手を一つ。
「実に人間らしい結論です」
その言葉を、私は受け取らなかった。もう、判断は済んでいるからだ。
零ちゃんの背中を思い出す。遠く感じたあの距離。
――今度は、離れない。
たとえ、また冷酷な判断を下されても。
たとえ、秩序に否定されようとも。
感情が戻った胸を押さえながら、私は確信していた。
これは感情の回帰じゃない。きっと、私が選んだ叛逆の意志だ。
「【絶対零度】」
19『他人』
それはあまりに突然だった。時計の針が動かなくなるように、どこかへ消えていった。カルネ先生は私達に言伝もなく、遠くの監獄に転勤になった。零が言うには、左遷の可能性があるらしい。彼にしては珍しく動揺しているのがよくわかる。未来まで不安になってしまう。
担任がいなくなって秩序が崩壊した教室に、新しい風が舞い込んで来た。
その男は足音もなくやってきた。いや、正確には、クラスの喧騒にかき消されただけなのかもしれない。誰しもが教卓に目を向ける。穏やかな笑顔、縦に長い帽子、背が高く細身で整端な顔立ち。これは確実にモテる。未来はそう確信した。しかし、他の女子ほど心は動かなかった。なぜなら未来には、想い人がいるからだ。その存在を思うだけで、胸の奥が少しだけ熱を帯びた。
「突然ですが、今日からこのクラスの担任を受け持つことになりました。沙華 殊夜(しゃか ことや)と申します」
吸い込まれるような朱い瞳は、私達の気を引くのに十分だった。
「カルネ先生は非常に生徒達に好かれていたと聞いております。誠に残念です」
すると、私達の優等生が口を開いた。
「あなたがカルネ先生を左遷させたのでは? 沙華先生」
「それは心外ですね。天才君。あなたは特にカルネ先生仲が良かったと存じ上げております。さぞかし情も深かったことでしょう」
二人の間で、見えない火花が散っている。恐らく,零ちゃんは沙華先生の腹の内を探ろうとしているのだ。
しかし、想定以上に何事もなく、その日の授業は終了した。ぶっちゃけカルネ先生よりもわかりやすい授業だった。零ちゃんは全く聞いていなかったみたいだけど。
異変が起こったのは、沙華先生が担任になってから一週間後のことだった。
それは、失うというより、切り取られる感覚に近かった。
***
名前はすぐに出てきた。
彼の名前は、灯火零。多分、何度も呼んだはずの名前だもの。
なのに、どうしてだろうか。目の前に立つその人を見ても、胸が動かない。
安心も、緊張も、あの高鳴りすらもない。ただの他人として、彼がそこにいる。
おかしい。
そう思った瞬間に、私は自分を疑った。
――疲れているだけだ。連日の叛逆の件で、頭がどうにかしたのだろう。
そうやって理由を貼り付ける癖は、監獄で生きるうちに身についたものだ。
「未来……」
名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。その儚げな声も、珍しく心配するような表情も、全部知っている。
でも、何も感じない。
この声を聞いたとき、私は何を感じていた?
信頼? 安堵? それとも、もっと別の何か?
いくら考えても答えが出ない。頭の中を、問いだけがぐるぐると回り続けた。
彼の顔を見つめてみる。
やっぱり違和感なんて見つからない。目、鼻、口。全部合っている。シャンプーの匂いだって変わっていない。
記憶は鮮明に刻まれている。一緒にいた時間も、会話も、叛逆の計画も。
――それなのに。
「……前から、こんな距離感だったっけ」
自分の声が、やけに他人行儀に聞こえた。
零は何も言わない。
ただ、少しだけ眉を下げた。
その表情を見て、はっきりと理解した。私は今、この人を大切だと思えていない。
忘れたわけじゃない。
失ったわけでもない。
ただ、感情だけが、抜け落ちている。胸の奥に、空洞がある。
そこに何があったのかは分かる。
でも、手を伸ばしても、もう触れない。
この「他人」に対して、微塵の興味も湧かない。
「……ごめん」
何に対しての謝罪かも分からないまま、そう言った。
そのとき、背後で誰かが笑った。
「不思議でしょう」
振り返ると、珠沙先生が立っていた。灯火零のような、貼り付けた仮初の笑顔。
「記憶はあるのに、情が湧かない。人間は、案外そんなことで他人に成り下がってしまうのです」
私は反論しようとした。でも、言葉が出なかった。
否定するための“想い”がもうそこには感じられなかったからだ。
灯火零を見る。
彼は、まだこちらを見ている。
どうしてか分からない。
理由も思い出せない。
それでも彼だけは、目を逸らさなかった。
その視線が、ひどく異物に見えて。
同時に、説明のつかない違和感が、胸の奥で疼いた。
――おかしいのは、私のほうだ。
その確信だけが、なぜか消えずに残っていた。
今度は、私の方から彼を見つめてみた。
それだけなのに、息が止まった。
近い。
近すぎる。
――前から、こんな距離だったっけ。
考えるより先に、足が動いた。
一歩、下がる。反射的にしまった、と思ったが、何がまずいのか分からない。
灯火零の眉がピクリと動き、その目は、悲しそうに虚空を見つめていた。多分、私を見ているんだろう。
その変化を見ているのに、胸が静かだった。
あまりにも、静かすぎた。心臓を失ってしまったのかと思うほど、何も聞こえない。
「ほんとに、ごめん」
声が出た。
言葉足らずだったかな、と名前を呼ぼうとして、やめた。名前の呼び方がわからなかったからだ。
呼ぼうとしても、頭の奥が、じんと痺れ、舌がついてこない。
私は、灯火零を見ている。なのに、ちゃんと見ていない。灯火零も、恥ずかしくなるくらい私を見つめている。
そう思った途端、私の見間違いだと気がついた。彼は私じゃなくて、私を通して虚空を見ている。
そして、彼の瞳に映った私の目もまた、何処か虚空を見つめていたのだ。
20『境界線』
彼女は氷室未来。俺の大切な友人だ。忘れてしまわぬように、頭の中でずっと反芻した。それが功を奏したのか、俺はまだ彼女の存在を忘れていない。逆に言えば、いつ忘れてしまうかわからない恐怖がずっと胸を締め付けてくる。
この異変は十中八九、あの沙華 殊夜という看守のせいだろう。しかし、打開策がこれっぽっちも思い浮かばない。いつもはすぐにでも出てくる作戦の数々が、今日はみじんも湧いてこない。理由ははっきりとしていた。
今までずっと大切にしていた友人に、不意に忘れ去られてしまったからだ。この異変の正体が未だ掴めずにいた。”大切な人を忘れてしまう”という異変なら、未来が俺のことを大切に思っているということになるのであり得ない。俺も彼女のことを大切にしているのに、忘れていないのがその証拠だ。
むしろ俺も、彼女のことを他人として扱った方が、忘れずに済むのではないか。しかしそう判断するには早計のような気もして、俺は未来に話しかけてみた。
「おはよう、未来」
「おはよう、灯火くん」
その呼ばれ方に、冷たい汗が滲んだ。自然に振る舞いたかったのについ肩をこわばらせてしまう。
「その……大丈夫か?」
打算も計算もない、純粋な心配からの言葉だった。
「うん、大丈夫だよ」
ずっと一緒に過ごしてきたからか、それが虚勢であることがわかる。しかしそれを伝えたところで、「大丈夫だよ」と、文字通り心にもない言葉が繰り返されるだけだ。次に紡ぐべき最適な言葉が、見つからなかった。
”大切な人を忘れる異変”それは、俺が勝手に組み上げただけの理想だったのかもしれない。未来は俺を大切に思っていないから忘れたのではないか? だからこの胸の痛みは、ただの自意識過剰なのだろう。
でも同時に、俺たちが一緒に過ごしたあの時間はなんだったのだろうかと思えてくる。
「最初に影響があったのはあなたたちのようですね」
いつの間にか、沙華 殊夜は廊下の影に立っていた。足音はしなかった。気配だけが、遅れてこちらに届く。
「……どういう意味だ」
俺が問うと、彼は楽しそうに帽子のつばを指で押し上げた。
「言葉通りですよ。忘却は無差別じゃない。順序があるのです」
「順序?」
「ええ。“大切な想い”から、順番に」
胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。
「天才と称されるあなたならば、彼女があなたへの感情を忘れた理由を、既に理解していると思っていましたが」
――感情。
「未来は、俺を大切に思っていない。それだけの話だ」
即答だった。そうでなければ、辻褄が合わない。
沙華は一瞬だけ目を細め、それから穏やかに笑った。
「なるほど。だからあなたはまだ、忘れていないということですか」
「……何が言いたい」
「いいえ、何も言うことはありません。私はただ、緩やかなる秩序の崩壊を、この目で見てみたいだけですので」
そして沙華 殊夜はそれ以上何も言わず、影の向こうへと溶けていった。俺はその影の向こうを、暫く睨み続けていた。
沙華殊夜が消えたあとも、廊下の空気は妙に重かった。
未来は、何事もなかったかのように歩いていく。その背中を追いながら、俺は距離を測りかねていた。
近づけば、彼女は一歩引く。
離れれば、何も起こらない。
境界線だ。何かが動き出す、境界線。見えない線が、俺と未来の間に引かれている。それは物理的な距離ではなく、もっと曖昧で、もっと残酷なものだった。
「灯火くん、どうかした? 私、今からトイレ行きたいんだけど、一人になりたくて」
振り返った未来の声は、想像以上に柔らかい。だが、その柔らかさは、誰に向けられたものなのか、俺には分からない。
「いや……なんでもない」
問い詰めたい衝動を、理性で押し潰す。今の未来に、答えを求める資格が俺にあるのか、分からなかった。
教室に入ると、既に沙華殊夜はそこにいた。黒板に何かを書いているわけでもなく、ただ教卓に腰掛けて、こちらを見ている。朱い瞳が、俺を正確に捉えた。
「さて。今日は少し、授業の内容を変えましょう」
ざわつく教室を一瞥し、沙華は続ける。
「秩序とは何か。皆さんは、そう問われたらどう答えますか?」
誰も手を挙げない。
沙華は、それを予測していたかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「秩序とは“選別”です。守るものと、切り捨てるものを分けること」
その瞬間、嫌な予感が背骨を伝った。
「すべてを救おうとする行為は、秩序ではありません。それはただの混沌です」
朱い瞳が、再び俺を見る。
「そして、そこである裁定が必要になる」
頭の中で、何かが音を立てた。
「例えば、感情。人は感情によって判断を誤る。ならば、感情を切り離してしまえばいい」
この場に未来がいなくてよかった。この言葉を彼女が聞いたらどう思っていたのだろうか。
「失うのは、痛みでしょうか? それとも、幸福でしょうか?」
沙華は笑っていた。貼り付けたような笑顔だ。
だが、その笑みは問いではなく、既に答えを知っている者のものだった。
「灯火零」
名指しされた瞬間、教室の音が遠のいた。
「もしも、あなたが裁定者の立場に立ったなら。秩序を守るために、誰か一人の“想い”を切り捨てることができますか?」
視線が集まる。集まるようで、誰も俺を見ていなかった。
――答えられなかった。
できる、と言えば嘘になる。
できない、と言えば、この場で何かが確定してしまう気がした。
沈黙を肯定と受け取ったのか、沙華は満足げに頷く。
「素晴らしい。迷いは、優秀な裁定者の条件です」
胸の奥で、何かが燻ぶった。
俺は理解してしまった。この異変は、始まりに過ぎないと。関係が断たれ、希望が断たれ、それでも世界は廻り続けるのだろう。それを“秩序”と呼ぶのなら。俺は、その秩序を壊す側に立たなければならない。
たとえ、未来が完全に俺を「他人」として見る日が来たとしても。
だから、俺は……。
***
女子トイレに着いて私はようやく息を吐いた。
静かだ。廊下のざわめきも、教室の声も、全部ここには届かない。
鏡の前に立つ。そこに映っているのは、いつも通りの私だった。顔色も悪くないし、目の下に隈もない。泣いてもいない。取り乱してもいない。
「……私、変なの」
一人声に出してみても、実感が伴わなかった。自分が変だ、という感覚だけが、輪郭を持たずに浮かんでいる。
さっき、灯火くんが私を呼んだ。その瞬間のことを、頭の中でなぞる。
名前を呼ばれて、振り返った。声を聞いて、顔を見て、言葉を交わした。
全部、覚えている。
でも、胸の奥が動かなかった。
驚きも、安堵も、照れも。「近い」と感じるあの距離感すら、私にとっては恐怖でしかなかった。
彼は確かに、私にとって大切な人だったはずだ。一緒に笑って、ご飯を食べて、背中を預けてきた。その事実は、綺麗に並んでいる。記憶としては、完璧なくらいに。
なのに、それを思い出しても、心が追いついてこない。まるで写真を見ているみたいだ。そこに自分が写っているのに、どこか他人事で上の空。感情だけが切り取られた、他人の記録を見ているみたいだった。
「灯火くん……」
名前を口にすると、少しだけ舌が重くなった。
嫌悪でも拒絶でもない。ただ、馴染まない。呼び慣れたはずの名前なのに、今日初めて覚えたみたいな感覚。
――前から、こうだったっけ?
問いが浮かんだ瞬間、頭の奥がじん、と痺れた。考えようとすると、無意識にブレーキがかかる。深く掘り下げてはいけない。理由は分からないのに、そう感じる。
洗面台に手をつく。冷たい感触だけが、やけに現実的だった。
私は、灯火くんに「一人になりたい」と言った。その言葉を選んだ自分に、違和感はなかった。
でも、振り返らずに去っていく彼の背中を思い出すと、胸の奥の空洞が、少しだけ広がった気がした。
――今の気持ちは何と呼ぶのだろうか。
悲しい、とは違う。寂しい、とも違う。
ただ、何かが抜け落ちた音が、遅れて響いている。私は鏡の中の自分を見つめた。そこにいる私は、ちゃんと私なのに。
「……私、灯火くんのこと」
言いかけて、やめた。
続きを言葉にするには、材料が足りなかった。
好きだったのか。信頼していたのか。
それとも、もっと別の何かだったのか。
分からない。
分からないこと自体が、こんなにも怖いなんて知らなかった。
チャイムが鳴る。
時間だけが、容赦なく進んでいく。私はもう一度、鏡を見た。
そこに映る瞳は、確かに私のものだ。でも、その奥にあったはずの何かが、見当たらない。
理由も、原因も、分からないまま。ただ一つだけ、確かなことがあった。
――私は今、灯火零を「思い出せる」のに、彼を想うことがままならない。
冷酷な現実だけが、秩序みたいに、静かに私を縛っていた。悲しくないはずなのに、私の頬には冷たい何かが伝っていた。
その理由すらいつまでもわからないまま、私はトイレから出られなかった。
21『秩序の再定義』
その日から、クラスが壊れ始めた。未来の変化を皮切りに、クラスメイトの関係の大半が壊れていった。
友人同士だった者、恋仲にあった者。そういった親しい関係は特に早く壊れたようだ。俺も未来はおろか星にすら無視される始末だ。幸か不幸か、未来は俺を大切に思っていないから忘れてしまったという推理は瓦解したことになる。
俺は独りになった。同時に、独りでは何もできやしないと実感した。そりゃそうだ、俺は齢たったの十五。まだ成人すらしていないガキだ。いくら策を練れたって、星みたいに強靭な肉体やカースを持っていない。いくら他人を理解しても、未来のような愛嬌には勝らない。いやというほどそれが分かった。
「あの……灯火くん」
その言葉が耳を掠めた途端、心臓が大きく跳ねた。作戦を実行しているときですら、この胸は全く動かなかったというのに。
「どうした、未来」
「さっきは、ごめんなさい。私、なにがなんだか」
「あまり無理はするなよ」
いつもの調子で言ってみせる。他人であっても、俺は灯火零なのだから。
「よかったら……その、仲良くして欲しい」
我ながら頬が熱くなっているのを実感した。
「ぎこちない笑顔だな、お前が他人に接するときはもっと天然の笑顔だろうに」
「え? そうかな……」
「自然に笑った方が未来らしい」
「ありがとう、そうするよ」
今度はいつもの自然な笑顔だった。そう言って未来は隣の席に腰かけた。変わらない柔軟剤の匂いが鼻腔を通過していった。
「覚えるか? 一緒にご飯食べたり、勉強したときのこと」
「うん、覚えてるよ。でもなんでか、実感がわかないの」
実感がわかない、か。
「昔、作者の気持ちを答えなさいって国語の授業であったよな」
「たしか、『月が綺麗ですね』だったっけ」
「そうそう、俺は答え知ってたからあれだけど、未来の回答に感心したのを覚えている」
「なんて言ったっけ、私」
「”同じ景色を見ているね”って答えてたな。気持ち、視点の共有を一気に行えるいい解釈だ」
「……ありがとう」
そう言って俯いてしまった。どうしよう、気に障るようなことでもしたっぽいな。だが、少しづつではあるが、未来の心が開き始めているということが分かった。
「随分と穏やかに過ごしていますね」
背中に悪寒が走った。紛れもなく、それは首謀者の声だった。
「なにしにきたんですか? 殊夜先生」
「私は一応このクラスの担任になったわけですから、生徒同士の間柄を十分に理解しておこうと思いまして」
「生徒達の関係を滅茶苦茶にしたのはあなたでしょう」
「それはどうでしょうか……灯火零君、貴方は今、これまで見えていなかった自分の感情に気付き始めている」
胸がズキっと痛んだ。心当たりがあった。俺は友人に咲けられた程度でここまで落ち込まないと思っていた。未来のことを考えれば考えるほど、その現実が鉛のように重くのしかかってきて息苦しくなる。
「正確には、もう実は気が付いている。頭のいいあなたの子ですから、異変の発生条件にも気づきましたよね」
この異変は恋愛感情に近しいものに反応し、その関係を断絶してしまう。仲が良ければ良いほどダメージが大きい。だから俺は今まで通り、自分を騙してきた。この関係を壊したくなかったからだ。
だから、何も言い返せなかった。否定しようとした言葉は、喉の奥で形を失っていく。
「その沈黙が、答えですね」
殊夜先生は責めるでもなく、淡々と言った。
「あなたは、未来さんを“特別な人間”だと認識している。友人としてではない。もっと心の深いところでだ」
「……やめてください」
絞り出すような声だった。
「言葉にされなくとも、感情は存在します。むしろ、抑え込まれている分だけ、歪んで肥大化する。まるで呪みたいですね」
朱い瞳が、俺の瞳を通じて、胸の奥を覗き込む。
「彼女があなたを避けた瞬間、は何を感じましたか?」
問いは、自分でも驚くくらい効果的だった。
未来の足が、後ろに引かれた、あの刹那。
近すぎる、と告げられた距離。
――怖かった。
失うことが。取り返しがつかなくなることが。
「……不安、です」
気づけば、そう答えていた。
「ほう」
殊夜先生は、満足げに微笑んだ。
「それが感情というです。あなたがずっと否定してきたものだ」
胸の痛みが、はっきりと輪郭を持つ。逃げられないほど、明確に。
「あなたは優秀だ。だからこそ、自分の感情をノイズとして扱ってきた。それは、あなたなりの秩序の在り方だったのでしょう」
「違う……」
「いいえ、違いません。きっと、あなたは今まで、未来さんやクラスメイトを守るために、自分の気持ちに蓋をしてきた。壊したくなかったから」
核心を突かれ、言い返せない。
「ですが、その結果はどうですか?」
殊夜先生は、大袈裟に両手を広げてみせる。
「彼女はあなたを“他人”として認識し始めた。感情を抱いた者から順に切り捨てられる。これが、この場の秩序です」
秩序。その言葉が、耳障りに響く。
「……だったら、俺にどうしろって言うんですか」
誤魔化しようのないくらい、腹の奥底から飛び出た本音だった。
「簡単な話です」
殊夜先生は、一歩近づく。
「感情を手放せばいい。未来さんと同じようにね」
空気が、凍った。
「あなたが苦しんでいるのは、感情があるからです。未来さんを見て、胸が痛む。距離を測って、答えを探してしまう。それら全て、感情が原因です」
「それを……なくせと?」
「いいえ、“切り離す”のです」
とても穏やかな声だった。
「完全に消すわけではありません。ただ、排除する。感情を自覚した今のあなたなら、それが可能なはずです。あとは、あなたが受容するだけです。この秩序を」
俺は、息を呑んだ。感情がなければ、苦しくない。未来を見ても、胸は動かない。期待も、失望もしない。叛逆だってしなくていい。
――楽になれる。
その考えが浮かぶと同時に、強烈な嫌悪が込み上げた。
「それは……逃げだ」
「いいえ」
殊夜先生は、首を振る。
「これは裁定です」
朱い瞳が、静かに光る。
「秩序を守るために、何を残し、何を切り捨てるか。たったそれだけのお話です」
胸の奥が、軋む。
「感情を持ち続ければ、あなたは苦しみ続ける。いずれ、彼女を失うその瞬間まで。ですが、感情を切れば、あなたは冷静でいられる。未来さんと“新しい関係”を築くこともできるでしょう。他人としてですがね」
他人。その言葉が、致命傷だった。
「選択してください、灯火零君」
殊夜先生は、静かに告げる。
「感情に縛られた人間として壊れていくか。それとも、感情を切り捨て、秩序の中で生きるか」
逃げ場はなかった。
俺は今、動揺している。それが、何よりの証拠だった。そして同時に、理解した。
この選択肢そのものが、殊夜先生の思惑通りだということを。
それでも。
それでも、俺は……。
***
頬に伝う冷たい感触が、私は呼び覚ました。目の前には、冷たく当たってしまった好きな人がいた。私は全力で謝った。
「ごめん! あんなひどいこと言って、あの時は本当になにも感じなくって、それで」
「それがどうした」
「……え? 怒ってないの?」
「的外れなことを言うな。なぜ俺に話しかけているという意味だ。氷室未来、確かにお前とは他人より多くの時間を共にした。しかし、それがなんだというのだ。感情というのは合理的な判断をする上で邪魔でしかない。用件がないならもういいか?」
言葉が理解できなかった。頭の中を右から左へと流れた。でも、それが厳しい言葉だというのは理解できた。彼は終始、その場に立ち尽くしている私を、生ゴミでも見るかのような冷たい瞳で見つめていた。
背を向けた瞬間、足の力が抜けそうになった。
でも、倒れるわけにはいかなかった。
振り返らなかった。振り返ってしまったら、また何かを期待してしまいそうだったから。
感情というのは合理的な判断をする上で邪魔でしかない。そのセリフが頭の中を駆け巡る。
――合理的。
胸に突き刺さった鋭利なナイフ。
早歩きで廊下を歩く。
窓から差し込む光が、やけに眩しい。造られたの照明のくせに生意気だと思った。
私は、何を謝りに行ったんだろう。
ひどいことを言ったから? 傷つけたから? それとも、元に戻りたかったから?
いや、答えは、もう出ている。
零は、戻らなかった。
怒りもしなかった。
悲しみもしなかった。
ただ、意味がないと言った。
それは、拒絶よりもずっと冷たかった。
部屋に戻り、制服も着替えないままベットに倒れこむ。
――覚えている、と彼は言っていた。
一緒にご飯を食べたことも。
発熱するほど勉強したことも。
くだらない話で笑ったことも。
全部、事実としては存在している。
「それが、なんだというのだ」
その一言で、全部が終わった。
思い出は、武器にならなかった。
むしろ、私だけがそれを握りしめていて、重さに耐えられなくなっているみたいだった。
前は当たり前だった距離が、今はやけに広く感じた。
胸の奥が、じんわり痛む。
でも、それを「苦しい」と呼んでいいのかも、わからなかった。
怒られる方が、よかった。
嫌われる方が、まだ救いがあった。
少なくともそこには、感情があるから。
でも零の目には、私をどう思うかという選択肢すら、なかった。
他人。またはそれ以下。
部屋に置いてある、ツーショットを眺めた。少し滲んでいる。私は、瞬きをして、それを誤魔化した。
大丈夫。
期待しなければいい。
覚えているから苦しいのだから、これからは、思い出さなければいい。
零ちゃんが選んだ秩序の中に、私の居場所がないのなら。
気づけば、また零”ちゃん”と呼んでいた。
――もう、彼に期待しない。
それは、諦めじゃない。
傷つかないための、判断だ。
合理的でしょう?
彼を真似て、心の中で言ってみた。
そこに返事はなかったけれど。
22『秩序と選択』
気が付けば眠っていた。目を開けた瞬間、瞼の重さで、腫れていることを悟った。昨日から何も食べていない。というか、十三時間も眠っていた。朝七時の寒さを肌に感じながら、身支度を進める。
もう感情は胸に戻っているのに、胸が空っぽみたいだ。
朝食に向かう廊下で、彼の背中を見つけた。いつもなら走り寄る距離だったが、今日は違った。足取りが重く、その背中はやけに遠くに感じた。
「……零」
呼んでから、しまったと思った。
名前が、思ったよりも小さく響いたからだ。聞こえていないのか、彼は立ち止まらない。
一拍遅れて、ゆっくりと振り返った。
「どうした」
それだけだった。心配も、戸惑いも、探るような視線もない。ただ事実を確認するための声。
近づいた距離は、ほんの数歩。それなのに、壁があるみたいに感じた。
「一緒に、朝食……どうかな」
言いかけて言葉が途切れる。続きが見つからなかった。彼は私を見ている。目を逸らさず、瞬きもせず。
その視線に、責める色はなかった。だからこそ、余計に痛かった。
「必要なら、行けばいい」
「……え?」
「食事は生理的に必要だろう。それ以上の理由は要らない」
淡々とした口調。正論で、合理的で、間違っていない。でも、その言葉のどこにも、私がいなかった。
「零ちゃんは……」
言いかけて喉が詰まった。
「灯火くんは、行かないの?」
「俺は後でいい」
理由は言わなかった。
聞かれてもいないことを、説明する必要はない、という態度。私たちの間を沈黙が支配する。
廊下の向こうから、食堂のざわめきが聞こえてくる。誰かの笑い声。トレイのぶつかる音。世界は、何も変わっていないみたいだった。
「……そっか」
彼の表情は、変わらない。
通り過ぎる瞬間、袖がかすかに触れた。
変わらない柔軟剤の匂いが、遅れて鼻に届く。それが、懐かしいのか、嫌なのか。
判断する前に、私は前を向いた。
振り返らなかった。
振り返れば、また何かを期待してしまいそうだったから。
背中越しに、彼の視線を感じた気がした。
でも、それが本当に向けられていたのかどうか、確かめる勇気はなかった。
距離は、数歩。
けれど、その数歩が、今の私には越えられない境界線だった。
女の子達と朝食を摂ってから、空き教室の教卓の前に立たされていた。理由は分からない。ただ呼ばれたから、来ただけだ。
教室には誰もいない。
昼休みのはずなのに、妙に静かだった。造られた照明の光が、床に白く伸びている。
「落ち着いていますね、氷室未来さん」
殊夜先生は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
縦に長い帽子の影で、朱い瞳だけがやけに目立つ。
「最近の変化について、どう思いますか?」
質問の形をしているのに、答えを求めていない声音。
「……よく、分かりません」
正直な答えだった。
感情は戻ってきているはずなのに、どこか手応えがない。触れた瞬間に、すり抜けていく。
「思い出はありますか?」
「あります」
「想いは?」
そこで、言葉に詰まった。
想い。
その単語が、胸の奥で引っかかる。
「……分からないです」
殊夜先生は、満足そうに頷いた。
「素晴らしい。とても健全な状態です。記憶と感情を分けて認識できている」
健全。
その言葉が、なぜかひどく冷たく聞こえた。
「灯火零君のことは?」
その名前を聞いた瞬間だった。胸の奥で、何かが弾けた。
――零。
一緒に過ごした記憶
廊下で並んだ背中。
眠くて不機嫌な朝の顔。
映像が、洪水みたいに押し寄せる。
息が詰まる。視界が、わずかに歪んだ。
胸から溢れた思いを止められなかった。
しかし言葉が見つからなかった。
「……っ」
膝に力が入らず、机に手をつく。冷たい木の感触が、現実を引き戻す。
「おや」
殊夜先生の声が、楽しげに弾んだ。
「戻り始めましたか」
戻る。
その言い方が、癪に障った。
違う。
これは回帰なんかじゃない。
思い出した。
零ちゃんが、感情は合理的判断の邪魔だと言ったこと。
氷のように冷たい目。
他人を見るみたいな視線。
胸が、はっきりと痛んだ。
――嫌だ。
その感覚が、言葉になる前に、涙が落ちた。
頬を伝う冷たさ。でも、今度は理由が分かる。
「……思い出しました」
声が震える。それでも、目は逸らさなかった。
「零のこと、全部」
殊夜先生は、ゆっくりと瞬きをした。
「記憶が戻っただけですよ。感情とは別です」
「違います」
即答だった。
自分でも驚くほど、はっきりした声。
「これは、感情です」
胸の奥が、熱い。
空洞だったはずの場所が、痛みで満たされていく。
でも、不可抗力とはいえ、私もあんな態度をとっていたんだ。
怖い。
苦しい。
頼りたい。
大好きなあの人に。
それでも。
「私は、零ちゃんを大切だと思ってます」
言葉にした瞬間、頭の奥の痺れが、すっと引いた。
ブレーキが、外れた。
「忘れてたんじゃない。切り取られてただけです」
殊夜先生の笑みが、ほんの一瞬だけ、歪んだ。
「なるほど。自覚が、秩序を上書きした、と」
「秩序なんて知りません!」
涙を拭わずに、言い切る。
「でも、これだけは分かります。感情があるから、苦しい。でも」
息を吸う。
胸が上下するのが鮮明にわかる。
「苦しいと分かるのは、そこに大事なものがあるからです」
教室が、静まり返る。
殊夜先生は、しばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと拍手を一つ。
「実に人間らしい結論です」
その言葉を、私は受け取らなかった。もう、判断は済んでいるからだ。
零ちゃんの背中を思い出す。遠く感じたあの距離。
――今度は、離れない。
たとえ、また冷酷な判断を下されても。
たとえ、秩序に否定されようとも。
感情が戻った胸を押さえながら、私は確信していた。
これは感情の回帰じゃない。きっと、私が選んだ叛逆の意志だ。
「【絶対零度】」
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
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