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4章『過去に従う喪愛者』
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4章『過去に従う喪愛者』
13『天才ギャンブラー』
相次ぐ看守への反撃や脱獄未遂によって、東京都部セタガヤ支部の監獄は、シブヤにある本部から戒厳令を敷かれていた。
「好きにさせておいていいのですか、アスター看守長」
堅物のバトロ主任看守は、一刻も早く叛逆者を捕まえたいそうだ。
「本部からの勅命が来るとはな……システム成立以来、異例の出来事だそうだ」
「だったら、余計に放置するわけには行かないでしょう」
「うむ。それもそうだな」
その発言から、アスター看守長には自分なりの考えがあるということをバトロは悟った。それ以上は何も、言えなかった。
そしてその頃、ヒサメと篝の二人は教室で目を覚ました。
「お兄ちゃん! 大丈夫!?」
「ああ、ヒサメこそ平気か?」
「うん、私は大丈夫」
そういうとヒサメはまさにゴミを見るかのような目で周りを見渡した。
「悪いんだけど、あんたら兄妹、もうすこしそのままで」
玲奈が冷静な口ぶりでそう言った。
「なら、1つ聞かせてもらえるかな」
篝も舐められないようにと睨み付けた。
「構わない」
星が口を挟む。自分が一番、零の作戦を理解しているという自負故の発言だった。
「なんで僕達は拘束されていないんだ?」
誰かを守ろうとする、力強い声色だった。
「うちらのリーダーの計らいなの」
凪紗が自信ありげに語った。
「そうか……灯火零、か」
”計らい”という言葉に引っかかりつつも、篝は己の状況を飲み込むしかなかった。
「じゃあ、今から僕の言うことに従ってくれ」
急に虚空から声が聞こえ、兄妹は驚いた。
「ここだよ」
「お前は!? 空野透司……たしかカースは透明化だったな」
「ご名答。僕が今から透明化してあなたを監視します。そうしたら、零のいる独房へ向かってください。そうしたら、看守長に出会うはずです」
「看守長に?」
「はい。あとは看守長に任せろ、と零の作戦ノートに記されていました」
「……わかった」
「お兄ちゃん!? あんなゴミの言うことなんて聞かなくていいから」
「ヒサメ」
とても、優しい声だった。
「大丈夫だよ」
「うん……じゃあ」
「待って。さよならのセリフは言わないでくれ」
二度と会えなくなってしまうような気がしたから。
「それでは」
そういうと透司は虚空へと吸い込まれていった。
廊下を歩いて少しのところに、アスター看守長がいた。
「お疲れ様です」
篝は深々と頭を下げた。それをアスター看守長は鋭い眼光で睨み付けた。
「篝看守、すまないが……」
***
「そろそろ、かな」
独房にいる零は余裕そうに腕をまくり、存在しない腕時計に目を向ける。
バトロ看守に連れられ、篝が零の正面の独房に入っていった。思わず零は笑みを溢した。
バトロ看守が去った途端、篝は零を睨み付けた。当然、零はその視線に気がついていた。
「何か言いたげですね。篝看守さん」
「お前……」
「単刀直入に申し上げます」
「なんだ」
「自分たちに協力しなければ妹を殺す」
零と篝の視線が熱くぶつかり合った。
「それじゃあまず、僕の推理を聞いてもらいませんか」
「推理?」
「どうせこんなとこにいても退屈ですし、ずっと考えてたんです」
篝は無言で零の様子を窺っている。
「この監獄の抱えるシステムの欠陥について、考えたことはありますか?」
「システムの欠陥?」
「まずは自分の頭で、考えてみるべきです」
零はそう言って目を瞑ってしまった。篝は考えを巡らせ始めた。
「ヒントは、俺たちが卒業後どこに行くかだ」
「君たちは卒業できない。ずっとここに閉じ込められるんだ」
「それは噓だ!」
零の思わぬ剣幕に、篝は若干怯んだ。
「じゃあなんで、この監獄には三クラスしかないんだ?」
「……別の監獄に行ってるんだ」
「お前はさっき、”ずっとここに閉じ込められる”と断言した」
篝は黙り込んでしまった。
「看守、向いていないな」
「なんだと」
「妹を甘やかしすぎるからだよ。噓が分かりやすすぎる」
「こいつ……覚えてろよ」
「忘れないさ。君とはどうせ一緒に行動することになるからな」
「どういう意味だ」
「君は妹に甘すぎる。だから自分の立場すら守れない」
篝は再び黙り込んでしまった。この先の未来を大方察したのだろう。
「1つ、約束してくれ」
弱々しい声になってきた。零は黙って篝を見つめている。
「ヒサメに危ないことはさせないでくれ」
「それは君次第だよ、篝看守」
「僕次第、か」
篝はその言葉を、じっくりと嚙み締めた。
二人の間に静寂が訪れると、近づいてくる足音に気が付いた。
「やっほー! 君が噂の天才くんかぁ」
――聞き覚えのある声だ。
「っ!?君は確か、シド看守……」
「あら?私のこと知ってるのかしら? 篝看守」
トリネコ主任看守のように、語尾にハートマークがついてるみたいだ。
「バトロ主任看守に聞いたんだ」
顔を見て数秒後、零はハッとした。
「ああ、思い出した。あの時のガキか」
この監獄では、一年に数回ほどゲーム大会と称して看守と囚人生徒が交流を深める習慣がある。零はその大会でポーカーや将棋、チェス、神経衰弱やババ抜きなど、全てのゲームで”天才ギャンブラー”と自称したシドに全勝。”劣弱の天才”という二つ名に拍車をかけた出来事だった。
「ガキじゃねーし! 囚人のくせに生意気な」
「なるほど、俺の挑発に言い返せないってことは、少なくとも俺より年下ってことだな」
「クソ……この」
相変わらずだな、と篝は呆れていた。
「いやーそれにしてもあの時のトランプやボドゲ中々に楽しかった。そうでしょう、”天才ギャンブラー”」
「……私がゲームで負けるはずないもん。絶対イカサマした」
「良ければ、またポーカーします?」
「望むところよ!」
「どうせ僕の圧勝ですけどね」
「次のゲーム大会では負けないもん」
「ちなみに、次なんてないですよ」
「……え?」
シドは悲しそうな顔を浮かべた。
「お詫びと言ってはなんですが、シド看守。僕とギャンブルしませんか?」
すると、シドの目つきが鋭くなった。
「そんな檻の中から何を?」
「僕はこの機関から脱獄します」
シドは虚を衝かれたみたいに目を丸くした。
「そのかわり、この檻を開けてください。勿論、篝看守の檻も」
「な!?」
シドより先に篝が驚いた。
「へぇー……面白いじゃない。乗った。でもその賭けに私が勝っても得がないわ」
予想通りと言わんばかりに零は微笑んだ。
「俺が行ったイカサマについて教えてやる」
シドの目が子供みたいに明るくなった。
「最高ねあんた」
「俺の読み筋が正しいのなら、この檻の鍵は篝看守が持っている。違うか?」
「……ああ、そうだ。鍵を持っても外からしか開けられないから、下手なとこに置いて盗まれるより捕まっている僕が一番安全だと考えたんだろう」
「それは恐らく違うな」
独り言のように呟く。
「これは勘なのだが、鍵はすべて看守長が管理している。今回も、絶対に安全な隠し場所に置いておけばよかったはずだ」
「確かにそれはそうだが、そんな場所いったいどこに……」
「それはまだわからないが、きっと看守長の魔法が判明するころにはわかるさ。問題は、何故わざわざ篝に鍵を預けたか、だ」
待って、とシドが制す。
「天才君は最初から脱獄する算段があって檻に入ったわけでしょ?なら、篝がここに収容されると知らなきゃそもそも出れないはずよね」
「ああ、そんなことか。シド看守が来たのは偶然だが、そもそも俺は別のやつに檻からでる補助を頼んだ」
「そいつが篝看守の場所知ってるとは限らないと思うけど」
「ああ、まあそうか。結論から言うと、篝がこの独房に収容されるよう仕向けたのは俺だ」
零に引いているのか理解が追いつかないのか、看守二人は呆然としている。
「まあ、流石天才と言ったところね。出してあげるから篝看守、鍵ちょうだい」
篝は半分ヤケで鍵を格子の隙間から投げた。
「それじゃあシドと篝、ついてきてくれ」
「呼び捨てなのね」
「もう君たちは仲間だからな」
シドも篝も、聞き慣れないその言葉がうまく頭に入ってこなかった。
14『集いし叛逆生』
星は、教室の扉の向こう側にいる人影を見逃さなかった。案の定、その人物はすぐに捕らえられた。
「あの、すいません私零さんの指示で……えっとその……」
「あ!瑠璃ちゃん!!」
――C組の生徒か。
「零ちゃんの指示ってどういうこと?」
未来が膝を折り、優しく尋ねる。
「騒ぎが起きた教室に叛逆生がいるって聞いて、私も入れてくれないかなって」
「フルネームは?」
「小鳥遊瑠璃です」
「君は零とどのような経緯で接触したんだ?」
星は一層強い疑いの目で睨んだ。
「ちょっと前に、作戦要項みたいなのが端末に送られてきたの」
――端末?
ふと星の頭に、零のセリフがフラッシュバックした。
『C組にもそういうやつがいる。小鳥遊とか言ったか……』
「お前、スパイか!?」
「そうなんだけど違うんです! 零君に聞けばわかると思います……スパイのスパイ、みたいな……」
その場の全員が固まった。つまりそれは、二重スパイということだ。
「見かけによらず豪胆なのね」
背丈は小柄な玲奈と同じくらいだが、瑠璃のほうが華奢で幼くみえる。
「なるほど、君が零と接触したんじゃなく、零から先に接触したわけだな」
「はい、そうです」
「なんで看守を裏切る真似なんか」
軽率に言うと、瑠璃は俯いて話しだした。
「スパイって思ってるより辛いんです。一緒に過ごした仲間を裏切ることを強要されて、本当はやりたくないのに」
未来が途端に閃いた。
「もしかして瑠璃ちゃんのカースって、盗聴とか?」
「はい、カースは【諜報】です」
「やっぱり! スパイは全員、情報を流したりできるカースってことだ。そういう生徒には裏切りを強要させてるのかも」
「そういえばうちのクラスのスパイ、叢雲魁斗も【伝播】だったか」
「みんな!気を付けて!」
廊下から近づく気配を察知すると、凪咲が警告した。
「うまくやったようだな。叛逆生の諸君」
「零ちゃん!」
未来が駆け寄ったと同時に篝が駆けだした。
「ヒサメ!」
「未来、凍結を解除してくれ。言ったとおりに、氷の内部は暖かい状態なんだよな」
「簡単に言ってるけど、めちゃくちゃ魔法の調整難しいんだよ?」
「わかっている。お疲れ様」
――零ちゃんったらまた他の女の子連れてきちゃって……。
未来は顔を背けながらヒサメを覆う氷を溶かしていった。氷は、物理現象では説明できない溶け方をした。それはもはや溶けたというよりも消失したという感じだった。
「お兄ちゃん……と、ゴミ共?」
「ヒサメ、落ち着いて聞いてくれ」
篝はなだめるような顔と声でそういう。
「ああ、なるほど。あのギャンカスゴミ看守と一緒に監獄を裏切るのね了解。それじゃあここからはゴミに従えばいいわけね把握」
「うん、理解力高すぎだねヒサメ」
「役者はこれでほぼ揃ったな」
「ほぼ?」
「ああ、まだ3人ほど欲しい”駒”がいてな」
「人のこと駒って呼ぶな」
「悪い。あと、シドに関しては当初の予定になかったからな、裏切られたら詰みだな」
「おい、噓だろ」
「当初の予定になかったってことは、そんな使える魔法じゃないってことだ」
「随分と言ってくれるわね……」
チャームポイントであるボブ髪を撫でながら呟く。
「じゃあ折角だし、みんなのカースとか魔法を確認しておこうよ」
「俺は全員知っているが、構わない」
零は興味なさげに欠伸をした。
「じゃあ俺から」
星は立ち上がって見回した。
「僕は黒宮 星。カースは【幻影】と【感情】で、看守は知ってると思うけど2個持ちです。多分零から奪いました」
「そんな欠陥品いらないわ」
「こいつ……【感情】の方には弱点があってね、喜怒哀楽を1週間以内に全部発散しないといけないんだよね。僕はもともとあんまり怒らないタイプだけど、怒りの感情も当然放出しなきゃだから、零によくぶちまけてる」
「零ちゃん不憫ー」
――未来、棒読みにもほどがあるだろ。
じっと零は未来を見つめた。しかし未来はぷいっと顔を逸らした。
「まぁ零は僕なんかよりもよっぽど感情の制御が効くしな。大したものだよカースもなしに」
「ふん」
零の異名は、ここにいる誰もが知っている。
「さて、どうしようかな、これから」
「え? どうしよかなって、作戦あるんじゃ?」
「まぁそうなんだが、最大の問題があってな」
全員が零に注意を向けた。
「監獄のカギの在り処が、わからないんだ。元看守のあなた方の方が存じてるかと思うのだが」
「私たち、ここに寝泊まりしてるからわからないわよ」
「そうか、ここは風呂も食料も部屋もあるもんな」
零は目を閉じて、顎に手を当てて俯いた。
「目星はついているのか」
――篝のやつ、妙に乗り気なんだな。
「君たちが知らないとなると、看守長だろうな」
「まあ、そうでしょうね」
玲奈が当然だという顔で呟いた。零はしっかりとそれを捉えた。
「丁度いい、玲奈さんのカース、実際に見せてくれませんか?」
「あら、いいわよ。こんな感じ」
そういうと玲奈はその場からパッと消えてしまった。すると彼女の居た場所から火花が散った。青白い稲妻のようなものが走り、その先には玲奈が立っていた。
「私のカースは【電撃】よ。移動距離は最大十メートル。ただし、私の体が向いている方向にしか移動できないわ」
一同が感嘆の声を上げている。
「便利そうですね。色々応用が利きそうで」
異能を持たない零にとっては、知ろうにも知れない話だ。
「ところで、黒影凪紗さん、あなたのカースは?」
「やっと聞いてくれたわね。私のカースは【格納】よ」
そういうと凪紗の周囲の地面に黒い墨で描かれたような円ができた。そこから凪紗は、自身のカバンを取り出した。
「こんな感じで、墨の中が異世界みたいになって、いろいろ物を仕舞えるわ。私が触れないと取り出せないけどね。あと、墨の上に乗せたものは、私が触れるまで動かすことができない。正直役立ったことはないけど」
「そうか……。いいカースだと思うけどな。おっと、もうこんな時間か。残りのカースはあとで聞こうかな」
そういうと零は立ち上がった。
「叛逆生、聞いてくれ」
零はパンパンと2回手を叩く。
「これより、トリネコ看守捕獲計画の概要を説明する」
みんなが一斉に零の方を見る。
「肝心の計画なんだが、少し考えさせてくれ」
「珍しいね」
「恐らくだが、トリネコの魔法には弱点はある」
刹那の静寂の中、ゆっくりと目を開けた。
「連続使用ができないということだ」
「根拠は?」
「俺が星と未来を突き飛ばしてトリネコの魔法を受けたとき、なぜ彼女はもう一度接近して魔法を発動しなかったのか。しなかったんじゃない、できなかったんだよ」
「できなかった?」
「恐らく、魔法には階級のようなものがあるんだろう。そして、彼女の【服従】の魔法は強力な部類だ。ならば、それなりに制限があるのではないか」
「確かにその仮説が正しければ、連続使用できないってことになるか」
「だが問題は、それが分かったところで、対処が難しい。俺が魔法に掛かった際、不意打ちとはいえ星を気絶させるほどの身体能力を得たんだ。だから連続使用ができないとしても、誰かを身代わりにしたりするのは危険すぎる」
理由はどうあれ、零は仲間を傷付けたくないのだろうと未来は思った。むしろそっちが、本当の目的なのかもしれない。
「でも、じゃあどうするの?」
「実際に凪紗さんと透司くんのカースを見て、ある作戦を用意しようと考えていたところだ」
「……え?俺(私)?」
「さっきは言わなかったが、透司くんのカースは【透過】だったな」
「え、ああ」
「ならば、服も透明化できるか?」
「俺が身に纏っているものは、全部透明化できるぜ!」
「じゃあ仮に、君を拘束したとして、その拘束具も透明化できるんだな」
「……は?」
「いやしかし……これは作戦としてあまりにスマートじゃないな」
零が周りに聞こえるか聞こえないくらいの声量でボソッとボヤいた。
「もし俺が他の作戦を思いつかなかったら、すまないが空野透司。君を少し不憫な扱いをさせてほしい」
本人は困惑していたが、C組の女子二人がそれを了承した。
「それと篝看守、すまないが手錠をかそてくれないか?」
しばらくの沈黙の後、妹の顔を思い出しこう答える。
「……わかった」
***
――結局、トリネコの対策はそれ以外に思いつかなかったな。
生徒にとっての家とは、すなわち独房である。過去のカース人、いや、”日本人”であったころの歴史をよく知っている僕からすれば、非常に胸糞悪い話だ。
とはいえ実は、ここでは独房とは名ばかりの”普通”の寮だ。
ここは昔、東京都世田谷区などと呼ばれていた。よって僕たちの住むこの監獄は【監獄教育機関セタガヤ支部】と呼ばれているそうだ。つまり、外の世界では”普通の暮らし”が行われているということだ。でもなければそのように名前分けする必要はない。全て統一してもなんら不自由はない。僕たちが食べている食材やなにかを取り寄せる際に、区分けされていないと面倒だからというのもありそうだが。
あくまでここでは、”普通”の寮だ。しかも一人につき一部屋与えられる。他の監獄では恐らく、もっと非人道的な扱いを受けている場合もある。本来僕たちは、叛逆を企てないように、外の世界についての疑問すら持たれないような教育を施されるんだ。赤子のころから育てられるのだから、洗脳する機会など幾らでもあるからな。カルネ先生がいかに異端であったかが伺える。
零は湯船に浸かりながら漠然と、そんなことを考えていた。他の監獄では、こんな風に暖かい湯船に浸かれる機会なんて、ないのかもしれない。
――そろそろ出るか。
トリネコのことなどあれこれ考えていたら逆上せてしまった。
15『未来の心境』
私が彼に恋をしたのは必然だったのかもしれない。私たちはクラスメイト全員が物心ついた時から一緒にいる。幼少期は一緒にお風呂にも入っていた。今思うと恥ずかしすぎて死にたくなる。
最初、彼のことはアンドロイドみたいな人だと思っていた。寮にいるときも体育の時も勉強していたから。体育をサボってるという意味では不真面目なのかもしれない。担任のカルネ先生が適当すぎるのが悪いよね。にしても零ちゃんに甘すぎると思うけど。
みんなは彼を「天才」だなんてもてはやすけど、彼の裏にある努力を私はしっかり見てきたつもりだ。それでも、時々わからなくなることがある。彼が一体何を考えているのか。
元から感じていた違和感の正体。それは未来を読んでいるかのような超常性にあるのだと。
簡単に言えば人間業じゃない。いい意味で思考回路が読めない。もはやそういうカースなんじゃないかと疑うほどだ。でも看守の人達は【劣弱】とか言って馬鹿にしてる。本人ですら自虐する有り様だ。かわいそう。
この監獄を出る前に、この胸に秘めた想いを伝えたい。そのためには、私が彼の隣に立てるくらい、立派な女にならなくちゃ。
彼は、空が見たいと言っていた。透き通るような青空を。彼の隣に立てるのは、綺麗な青空を見せてあげられる人だと勝手に思っている。
そのために脱獄するんだ。とりあえず、明日はトリネコ看守の捕獲作成だ。私は非常事態の時に出るピンチヒッター的な役割らしい。不安だけど零ちゃんに従ってたら何とかなるはず。がんばろう!
16『突飛で不格好な作戦』
そんな作戦で大丈夫なのか。全員がそう思った。天才である彼の品格を著しく下げるような作戦だった。本人も自覚しているとのことであるが、これはトリネコの弱点を的確かつ最大限に活かした作戦だ。
叛逆生たちは、グラウンドにトリネコを呼び出した零の状況を、インカムでから聞いている。
現場に向かったのは 灯火零、黒宮星、空野透司、黒影凪紗だ。
トリネコは自身の射程圏内である五十メートルより外にいる。しかし少しでも下手な真似をしたら魔法を発動するつもりだ。
「看守長に聞いたわ。あなた、わざわざ脱獄するって宣言するなんてどういうつもり?」
「看守長と取引したのさ。あなたが知る必要はない」
「よく言うわね、犯罪者の分際で。あなたの行いはとっくに処罰の対象になっているわ」
「そんなことは承知の上だ。ただ、俺がお前の家族の真実を明るみに出したら、監獄内での孤立は避けられないんじゃないか。死別した子供と同じようにな」
「お前!!」
トリネコは零に向かって走り、魔法を発動したが、星がそれを庇うようにして前に出た。
「う゛」
星は魔法に充てられ、苦しそうに頭を抱えている。するとトリネコは勝ち誇ったように近づいてくる。
「さあ、この状況からどうするつもり?」
「話を聞け。もし監獄内で孤立したくないのならば、こちらの条件を呑んでもらおうか」
「ふん、誰が聞くのよ。さあ星くん、彼を捕らえて」
しかし、星は必死の抵抗を見せた。
「な、なんで、今までこんなこと……」
トリネコは星に触れることで魔法の効果を強めようと考えた。しかし、その隙が仇となった。
気が付けば、トリネコの体が宙に浮いていた。星による渾身の背負い投げが炸裂した。
「気絶してる……そろそろ魔法が解けたかな。凪紗さん、こいつをカースで覆ってくれ」
「わかったけど……なんかすごく嫌な気分」
「それはすまない。さて、透司くん、もう解除して大丈夫だぞ」
「はあ、助かった」
熱にうなされたかのように、汗をかいている。
「大活躍だったな」
そういって零は透司の肩を叩く。
「不服だ……」
「凪紗さんも、ありがとう」
「いえ、これが脱出に繋がるなら」
これで少しは、結束力も強まったんじゃないかと、零は内心ホっとしていた。
17『喪愛』
息子がいなくなってから一週間が経った。
その日は、茹だるような暑さだったことを覚えている。しかし、そんなことはどうでもいい。ダブルベットの片割れには、もう枕すら置いていなかったからだ。
空っぽになってしまった部屋は、思った以上に広く、そして冷たかった。シーツを替えようとして手を伸ばしたとき、指先がそこで止まった。彼が、彼らがそこにいないという事実が、布のシワよりもはっきりと、感触として残っていたからだ。
洗濯機の回る音が、やけに遠く感じられた。家の中のすべてが、失ったことを知っているようで、知らないふりをしているようでもあった。
夫は、あの日以来戻ってこなかった。玄関に残された靴跡も、洗面所に転がった歯ブラシも、秒針が刻一刻と、残酷に消していった。置き手紙ひとつなかったことが、彼らしいと思う一方で、その不在は息子の不在とは違う重さで胸にのしかかった。
怒りよりも先に、空白があった。それは理由を考える余地すら奪われるほどの、無音の逃避だった。
台所に立つと、三人分の味噌汁を作ろうとしてしまう。鍋に水を注いでから、慌てて蛇口を閉める。そのたびに、自分がまだ「前の時間」に生きていることを思い知らされる。秒針は刻一刻と進んでいるのに、心だけが取り残されていた。
夜になると、息子の声が聞こえた気がした。もちろん、幻だとわかっている。それでも、耳を澄ませずにはいられなかった。「ママ」と呼ばれることはなく、ただ、存在だけがそこに漂っているような感覚だった。
それからというもの、眠りは浅く、夢の中でも失った物を探し続けていた。何を、どこを、という輪郭はなく、ただ「失ってしまったもの」を。
母である私は、どこで間違えたのだろう。問いは答えを伴わず、同じ場所を円環上にぐるぐると回る。答えが出ないことを、もう知っているのに。
それでも、眩しい朝は来る。カーテン越しの光が、残酷なほど平等に部屋を照らす。たった一人の、広すぎる部屋を。
まだ、泣き方を思い出せずにいた。涙は枯れたわけではなく、出口を見失っているだけだった。
そしてただひとつ確かなのは、この家に残された静けさが、彼女自身の呼吸と同じ速さで、これからも続いていくということだった。
それから数か月が過ぎた。季節は移ろっていたが、私の中では、息子がいなくなった日から時計が少しだけ狂ったままだった。朝と夜の境界線が曖昧で、何をしても「ただ時間をやり過ごしている」感覚が消えなかった。
そろそろ、働かなければならなかった。理由は単純で、生活のためだったが、それだけではなかった。何もしない時間が、私にはあまりにも重すぎた。考え始めると、心はすぐに同じ場所へ戻ってしまう。だから、考える暇のない場所を探していた。
求人票の束の中で、視線は一枚の紙に留まった。
白地に黒い文字で、感情の入り込む余地のない言葉が並んでいた。
なぜそれに惹かれたのか、自分でもはっきりとはわからない。ただ、監獄という「閉ざされた場所」に、奇妙な安堵を覚えた。逃げ場のない空間。規則で区切られた時間。そこでは、感情よりも役割が優先される。母でも妻でもなく、ただの一人の職員として立てる場所。
夫が去って以来、彼女は「守る側」である自分を失ったままだった。守れなかったという思いが、胸の奥で固まっている。看守という仕事は、その失われた役割を、形だけでも取り戻せるように思えた。誰かを正しく導くわけでも、救うわけでもない。ただ、秩序を保ち、日常を維持する。その距離感が、彼女には必要だった。
研修の日々は、淡々としていた。法律、規則、対応手順。感情を持ち込まないことが、何度も強調された。その言葉は、彼女にとって戒めというより、「許容」のように響いた。感じなくていい。深入りしなくていい。それでいいのだと。
初めて制服に袖を通した日、鏡の中の自分は、少しだけ他人に見えた。黒い布に包まれた身体は、過去を隠してくれる鎧のようだった。名札に刻まれた名字を見て、彼女は一瞬、呼ばれることのない息子の名前を思い出し、すぐに視線を逸らした。
その日から私は、「シャンティ・コントルド」とう姓名を棄て、「トリネコ・キルハート」として生きるようになった。
施設の中は、いつも一定の温度と音に保たれている。鉄扉の開閉音、足音、号令。すべてが規則正しく、感情の入り込む隙間がない。彼女はその秩序の中で、ようやく呼吸ができるようになった。【服従】という魔法を武器にしてきた私は、猫に睨まれたネズミのように、上司に従うようになった。
看守になった理由を誰かに問われたことはない。問われたとしても、きっと答えられなかっただろう。
それは贖罪でも、使命でもない。ただ、崩れきった自分が、立っていられる場所がそこにあったという、それだけのことだった。
鉄格子の向こう側とこちら側。その境界線を毎日確かめるように歩きながら、私はまだ、自分が何を失い、何を抱え続けているのかを、言葉にできずにいた。それでも、眩しい朝は来る。ここは陽射しが微塵も通らない監獄教育機関。照明によって造られた陽射しは、実物のそれより眩しかった。
もうあの家に帰ることはないのだろう。
制服に腕を通し、名札をつけ、私は今日も扉を開ける。
呪い方を知らない幼子に、呪いを封じ込めるよう教育する。
誰かを呪わない様に。
私のように、誰かを呪わない様に。
それが、私の使命だ。
18『目覚め』
保健室の寝具は、少し低かった。
トリネコは椅子に腰を下ろす前に、名札を外して机に伏せた。裏返すでもなく、正面のまま。文字が読める位置に置いたまま、椅子に座る。
それが癖だと気づいたのは最近だ。
向かいに座る天才は、看守でも囚人でもない顔をしていた。ここにいる理由を、どこにも貼りつけていない顔。トリネコはそれを見て、呼吸を失った。私の胸の奥で、何かが燻ぶった。
「率直に聞きます。僕たち”叛逆生”の一員に加わってくれないですか」
声をかけられても、すぐには返事ができなかった。
代わりに、机の角を指でなぞる。欠けている部分。前からあったのか、自分が来る前にできたのかは分からない。
「話す必要はない」
零はそう言った。
「俺は聞きに来ただけだ」
聞く。
その言葉が、ひどく遠回りに感じられた。
トリネコは息を吸った。正義を守るための呼吸。規則を乱さないための間。そうやって何度も、何もできなかった呼吸。
「……私は」
言いかけて、止めた。
言葉が、いつもの順番で並ばなかった。
夫がいなくなったことも、子を失ったことも、最近では「出来事」として処理できた。泣くより先に、整理した。崩れるより先に、役割に戻った。
守っていたのは、他人じゃない。
自分が立っていられる場所だった。
「正しい行いをしてきた」
ようやく口に出すと、その言葉は思ったより軽かった。
零は否定しなかった。代わりに肯定もしなかった。
「正しい行いは、トリネコ先生を助けたのですか?」
その一言で、何かが終わった。
トリネコは笑おうとして、失敗した。
笑顔の形を、忘れていたことに気づいた。
「助けられると思ってた」
ぽつりと零す。
「正義にいれば、少なくとも……間違ってはいないって」
零は目を伏せた。
同情でも軽蔑でもない、ただの沈黙。
「依存ですね」
零は目を瞑り、静かに言った。
「それは俺を洗脳したとき、俺に抱いた感情と同じものですね」
トリネコの中で、反射的に何かが跳ねた。
怒り。否定。拒絶。
でもそれらは、すぐに形を失った。
依存。
その言葉は、彼女の過去にぴたりと嵌まった。愛する人を失ってから、誰かに縋ることを、ずっと恥だと思っていた。
だから私は、正義に縋った。役割に縋った。規則に縋った。
それなら、誰にも見えないから。
零に向けていた感情も、同じだった。
それはもはや救いではない。
「居場所」をくれる存在への、歪んだ愛情。
トリネコは、名札に視線を落とした。
自分の名前が、そこにあった。偽名だが、これが本名だと信じたくて仕方ない。私はトリネコ・キルハート。過去はもう捨てたはずだ……。そのはずだった。
「私は……何もできなかった」
初めて、順番を崩して言った。
理由も、背景も、言い訳も抜きにして。
零は、ようやく私を見た。
「できなかったことを、数えるのは簡単だ」
そう言ってから、少し間を置く。
「でも、今できることは?」
トリネコは顔を上げた。その問いは、救いではなかった。代わりに逃げ道もなかった。
それでも、不思議と口が動いた。
名札を手に取る。今度は裏返した。
「私は、正義を疑う」
それは誓いでも宣言でもない。ただの選択だった。
「守れなかったものを、理由にしない。役割に、逃げない。誰かのためじゃなく……人間として、自分のために動く」
「それでこそあなたです。トリネコ先生」
保健室を出るとき、トリネコは一度だけ立ち止まった。
背筋を伸ばし、深く息を吸う。
正義は、私を救わなかった。でも、人間であることは、まだ終わっていない。
その事実だけが、静かに、確かに、私を前へ押していた。
私は叛逆生。シャンティ・コントルドだ。
13『天才ギャンブラー』
相次ぐ看守への反撃や脱獄未遂によって、東京都部セタガヤ支部の監獄は、シブヤにある本部から戒厳令を敷かれていた。
「好きにさせておいていいのですか、アスター看守長」
堅物のバトロ主任看守は、一刻も早く叛逆者を捕まえたいそうだ。
「本部からの勅命が来るとはな……システム成立以来、異例の出来事だそうだ」
「だったら、余計に放置するわけには行かないでしょう」
「うむ。それもそうだな」
その発言から、アスター看守長には自分なりの考えがあるということをバトロは悟った。それ以上は何も、言えなかった。
そしてその頃、ヒサメと篝の二人は教室で目を覚ました。
「お兄ちゃん! 大丈夫!?」
「ああ、ヒサメこそ平気か?」
「うん、私は大丈夫」
そういうとヒサメはまさにゴミを見るかのような目で周りを見渡した。
「悪いんだけど、あんたら兄妹、もうすこしそのままで」
玲奈が冷静な口ぶりでそう言った。
「なら、1つ聞かせてもらえるかな」
篝も舐められないようにと睨み付けた。
「構わない」
星が口を挟む。自分が一番、零の作戦を理解しているという自負故の発言だった。
「なんで僕達は拘束されていないんだ?」
誰かを守ろうとする、力強い声色だった。
「うちらのリーダーの計らいなの」
凪紗が自信ありげに語った。
「そうか……灯火零、か」
”計らい”という言葉に引っかかりつつも、篝は己の状況を飲み込むしかなかった。
「じゃあ、今から僕の言うことに従ってくれ」
急に虚空から声が聞こえ、兄妹は驚いた。
「ここだよ」
「お前は!? 空野透司……たしかカースは透明化だったな」
「ご名答。僕が今から透明化してあなたを監視します。そうしたら、零のいる独房へ向かってください。そうしたら、看守長に出会うはずです」
「看守長に?」
「はい。あとは看守長に任せろ、と零の作戦ノートに記されていました」
「……わかった」
「お兄ちゃん!? あんなゴミの言うことなんて聞かなくていいから」
「ヒサメ」
とても、優しい声だった。
「大丈夫だよ」
「うん……じゃあ」
「待って。さよならのセリフは言わないでくれ」
二度と会えなくなってしまうような気がしたから。
「それでは」
そういうと透司は虚空へと吸い込まれていった。
廊下を歩いて少しのところに、アスター看守長がいた。
「お疲れ様です」
篝は深々と頭を下げた。それをアスター看守長は鋭い眼光で睨み付けた。
「篝看守、すまないが……」
***
「そろそろ、かな」
独房にいる零は余裕そうに腕をまくり、存在しない腕時計に目を向ける。
バトロ看守に連れられ、篝が零の正面の独房に入っていった。思わず零は笑みを溢した。
バトロ看守が去った途端、篝は零を睨み付けた。当然、零はその視線に気がついていた。
「何か言いたげですね。篝看守さん」
「お前……」
「単刀直入に申し上げます」
「なんだ」
「自分たちに協力しなければ妹を殺す」
零と篝の視線が熱くぶつかり合った。
「それじゃあまず、僕の推理を聞いてもらいませんか」
「推理?」
「どうせこんなとこにいても退屈ですし、ずっと考えてたんです」
篝は無言で零の様子を窺っている。
「この監獄の抱えるシステムの欠陥について、考えたことはありますか?」
「システムの欠陥?」
「まずは自分の頭で、考えてみるべきです」
零はそう言って目を瞑ってしまった。篝は考えを巡らせ始めた。
「ヒントは、俺たちが卒業後どこに行くかだ」
「君たちは卒業できない。ずっとここに閉じ込められるんだ」
「それは噓だ!」
零の思わぬ剣幕に、篝は若干怯んだ。
「じゃあなんで、この監獄には三クラスしかないんだ?」
「……別の監獄に行ってるんだ」
「お前はさっき、”ずっとここに閉じ込められる”と断言した」
篝は黙り込んでしまった。
「看守、向いていないな」
「なんだと」
「妹を甘やかしすぎるからだよ。噓が分かりやすすぎる」
「こいつ……覚えてろよ」
「忘れないさ。君とはどうせ一緒に行動することになるからな」
「どういう意味だ」
「君は妹に甘すぎる。だから自分の立場すら守れない」
篝は再び黙り込んでしまった。この先の未来を大方察したのだろう。
「1つ、約束してくれ」
弱々しい声になってきた。零は黙って篝を見つめている。
「ヒサメに危ないことはさせないでくれ」
「それは君次第だよ、篝看守」
「僕次第、か」
篝はその言葉を、じっくりと嚙み締めた。
二人の間に静寂が訪れると、近づいてくる足音に気が付いた。
「やっほー! 君が噂の天才くんかぁ」
――聞き覚えのある声だ。
「っ!?君は確か、シド看守……」
「あら?私のこと知ってるのかしら? 篝看守」
トリネコ主任看守のように、語尾にハートマークがついてるみたいだ。
「バトロ主任看守に聞いたんだ」
顔を見て数秒後、零はハッとした。
「ああ、思い出した。あの時のガキか」
この監獄では、一年に数回ほどゲーム大会と称して看守と囚人生徒が交流を深める習慣がある。零はその大会でポーカーや将棋、チェス、神経衰弱やババ抜きなど、全てのゲームで”天才ギャンブラー”と自称したシドに全勝。”劣弱の天才”という二つ名に拍車をかけた出来事だった。
「ガキじゃねーし! 囚人のくせに生意気な」
「なるほど、俺の挑発に言い返せないってことは、少なくとも俺より年下ってことだな」
「クソ……この」
相変わらずだな、と篝は呆れていた。
「いやーそれにしてもあの時のトランプやボドゲ中々に楽しかった。そうでしょう、”天才ギャンブラー”」
「……私がゲームで負けるはずないもん。絶対イカサマした」
「良ければ、またポーカーします?」
「望むところよ!」
「どうせ僕の圧勝ですけどね」
「次のゲーム大会では負けないもん」
「ちなみに、次なんてないですよ」
「……え?」
シドは悲しそうな顔を浮かべた。
「お詫びと言ってはなんですが、シド看守。僕とギャンブルしませんか?」
すると、シドの目つきが鋭くなった。
「そんな檻の中から何を?」
「僕はこの機関から脱獄します」
シドは虚を衝かれたみたいに目を丸くした。
「そのかわり、この檻を開けてください。勿論、篝看守の檻も」
「な!?」
シドより先に篝が驚いた。
「へぇー……面白いじゃない。乗った。でもその賭けに私が勝っても得がないわ」
予想通りと言わんばかりに零は微笑んだ。
「俺が行ったイカサマについて教えてやる」
シドの目が子供みたいに明るくなった。
「最高ねあんた」
「俺の読み筋が正しいのなら、この檻の鍵は篝看守が持っている。違うか?」
「……ああ、そうだ。鍵を持っても外からしか開けられないから、下手なとこに置いて盗まれるより捕まっている僕が一番安全だと考えたんだろう」
「それは恐らく違うな」
独り言のように呟く。
「これは勘なのだが、鍵はすべて看守長が管理している。今回も、絶対に安全な隠し場所に置いておけばよかったはずだ」
「確かにそれはそうだが、そんな場所いったいどこに……」
「それはまだわからないが、きっと看守長の魔法が判明するころにはわかるさ。問題は、何故わざわざ篝に鍵を預けたか、だ」
待って、とシドが制す。
「天才君は最初から脱獄する算段があって檻に入ったわけでしょ?なら、篝がここに収容されると知らなきゃそもそも出れないはずよね」
「ああ、そんなことか。シド看守が来たのは偶然だが、そもそも俺は別のやつに檻からでる補助を頼んだ」
「そいつが篝看守の場所知ってるとは限らないと思うけど」
「ああ、まあそうか。結論から言うと、篝がこの独房に収容されるよう仕向けたのは俺だ」
零に引いているのか理解が追いつかないのか、看守二人は呆然としている。
「まあ、流石天才と言ったところね。出してあげるから篝看守、鍵ちょうだい」
篝は半分ヤケで鍵を格子の隙間から投げた。
「それじゃあシドと篝、ついてきてくれ」
「呼び捨てなのね」
「もう君たちは仲間だからな」
シドも篝も、聞き慣れないその言葉がうまく頭に入ってこなかった。
14『集いし叛逆生』
星は、教室の扉の向こう側にいる人影を見逃さなかった。案の定、その人物はすぐに捕らえられた。
「あの、すいません私零さんの指示で……えっとその……」
「あ!瑠璃ちゃん!!」
――C組の生徒か。
「零ちゃんの指示ってどういうこと?」
未来が膝を折り、優しく尋ねる。
「騒ぎが起きた教室に叛逆生がいるって聞いて、私も入れてくれないかなって」
「フルネームは?」
「小鳥遊瑠璃です」
「君は零とどのような経緯で接触したんだ?」
星は一層強い疑いの目で睨んだ。
「ちょっと前に、作戦要項みたいなのが端末に送られてきたの」
――端末?
ふと星の頭に、零のセリフがフラッシュバックした。
『C組にもそういうやつがいる。小鳥遊とか言ったか……』
「お前、スパイか!?」
「そうなんだけど違うんです! 零君に聞けばわかると思います……スパイのスパイ、みたいな……」
その場の全員が固まった。つまりそれは、二重スパイということだ。
「見かけによらず豪胆なのね」
背丈は小柄な玲奈と同じくらいだが、瑠璃のほうが華奢で幼くみえる。
「なるほど、君が零と接触したんじゃなく、零から先に接触したわけだな」
「はい、そうです」
「なんで看守を裏切る真似なんか」
軽率に言うと、瑠璃は俯いて話しだした。
「スパイって思ってるより辛いんです。一緒に過ごした仲間を裏切ることを強要されて、本当はやりたくないのに」
未来が途端に閃いた。
「もしかして瑠璃ちゃんのカースって、盗聴とか?」
「はい、カースは【諜報】です」
「やっぱり! スパイは全員、情報を流したりできるカースってことだ。そういう生徒には裏切りを強要させてるのかも」
「そういえばうちのクラスのスパイ、叢雲魁斗も【伝播】だったか」
「みんな!気を付けて!」
廊下から近づく気配を察知すると、凪咲が警告した。
「うまくやったようだな。叛逆生の諸君」
「零ちゃん!」
未来が駆け寄ったと同時に篝が駆けだした。
「ヒサメ!」
「未来、凍結を解除してくれ。言ったとおりに、氷の内部は暖かい状態なんだよな」
「簡単に言ってるけど、めちゃくちゃ魔法の調整難しいんだよ?」
「わかっている。お疲れ様」
――零ちゃんったらまた他の女の子連れてきちゃって……。
未来は顔を背けながらヒサメを覆う氷を溶かしていった。氷は、物理現象では説明できない溶け方をした。それはもはや溶けたというよりも消失したという感じだった。
「お兄ちゃん……と、ゴミ共?」
「ヒサメ、落ち着いて聞いてくれ」
篝はなだめるような顔と声でそういう。
「ああ、なるほど。あのギャンカスゴミ看守と一緒に監獄を裏切るのね了解。それじゃあここからはゴミに従えばいいわけね把握」
「うん、理解力高すぎだねヒサメ」
「役者はこれでほぼ揃ったな」
「ほぼ?」
「ああ、まだ3人ほど欲しい”駒”がいてな」
「人のこと駒って呼ぶな」
「悪い。あと、シドに関しては当初の予定になかったからな、裏切られたら詰みだな」
「おい、噓だろ」
「当初の予定になかったってことは、そんな使える魔法じゃないってことだ」
「随分と言ってくれるわね……」
チャームポイントであるボブ髪を撫でながら呟く。
「じゃあ折角だし、みんなのカースとか魔法を確認しておこうよ」
「俺は全員知っているが、構わない」
零は興味なさげに欠伸をした。
「じゃあ俺から」
星は立ち上がって見回した。
「僕は黒宮 星。カースは【幻影】と【感情】で、看守は知ってると思うけど2個持ちです。多分零から奪いました」
「そんな欠陥品いらないわ」
「こいつ……【感情】の方には弱点があってね、喜怒哀楽を1週間以内に全部発散しないといけないんだよね。僕はもともとあんまり怒らないタイプだけど、怒りの感情も当然放出しなきゃだから、零によくぶちまけてる」
「零ちゃん不憫ー」
――未来、棒読みにもほどがあるだろ。
じっと零は未来を見つめた。しかし未来はぷいっと顔を逸らした。
「まぁ零は僕なんかよりもよっぽど感情の制御が効くしな。大したものだよカースもなしに」
「ふん」
零の異名は、ここにいる誰もが知っている。
「さて、どうしようかな、これから」
「え? どうしよかなって、作戦あるんじゃ?」
「まぁそうなんだが、最大の問題があってな」
全員が零に注意を向けた。
「監獄のカギの在り処が、わからないんだ。元看守のあなた方の方が存じてるかと思うのだが」
「私たち、ここに寝泊まりしてるからわからないわよ」
「そうか、ここは風呂も食料も部屋もあるもんな」
零は目を閉じて、顎に手を当てて俯いた。
「目星はついているのか」
――篝のやつ、妙に乗り気なんだな。
「君たちが知らないとなると、看守長だろうな」
「まあ、そうでしょうね」
玲奈が当然だという顔で呟いた。零はしっかりとそれを捉えた。
「丁度いい、玲奈さんのカース、実際に見せてくれませんか?」
「あら、いいわよ。こんな感じ」
そういうと玲奈はその場からパッと消えてしまった。すると彼女の居た場所から火花が散った。青白い稲妻のようなものが走り、その先には玲奈が立っていた。
「私のカースは【電撃】よ。移動距離は最大十メートル。ただし、私の体が向いている方向にしか移動できないわ」
一同が感嘆の声を上げている。
「便利そうですね。色々応用が利きそうで」
異能を持たない零にとっては、知ろうにも知れない話だ。
「ところで、黒影凪紗さん、あなたのカースは?」
「やっと聞いてくれたわね。私のカースは【格納】よ」
そういうと凪紗の周囲の地面に黒い墨で描かれたような円ができた。そこから凪紗は、自身のカバンを取り出した。
「こんな感じで、墨の中が異世界みたいになって、いろいろ物を仕舞えるわ。私が触れないと取り出せないけどね。あと、墨の上に乗せたものは、私が触れるまで動かすことができない。正直役立ったことはないけど」
「そうか……。いいカースだと思うけどな。おっと、もうこんな時間か。残りのカースはあとで聞こうかな」
そういうと零は立ち上がった。
「叛逆生、聞いてくれ」
零はパンパンと2回手を叩く。
「これより、トリネコ看守捕獲計画の概要を説明する」
みんなが一斉に零の方を見る。
「肝心の計画なんだが、少し考えさせてくれ」
「珍しいね」
「恐らくだが、トリネコの魔法には弱点はある」
刹那の静寂の中、ゆっくりと目を開けた。
「連続使用ができないということだ」
「根拠は?」
「俺が星と未来を突き飛ばしてトリネコの魔法を受けたとき、なぜ彼女はもう一度接近して魔法を発動しなかったのか。しなかったんじゃない、できなかったんだよ」
「できなかった?」
「恐らく、魔法には階級のようなものがあるんだろう。そして、彼女の【服従】の魔法は強力な部類だ。ならば、それなりに制限があるのではないか」
「確かにその仮説が正しければ、連続使用できないってことになるか」
「だが問題は、それが分かったところで、対処が難しい。俺が魔法に掛かった際、不意打ちとはいえ星を気絶させるほどの身体能力を得たんだ。だから連続使用ができないとしても、誰かを身代わりにしたりするのは危険すぎる」
理由はどうあれ、零は仲間を傷付けたくないのだろうと未来は思った。むしろそっちが、本当の目的なのかもしれない。
「でも、じゃあどうするの?」
「実際に凪紗さんと透司くんのカースを見て、ある作戦を用意しようと考えていたところだ」
「……え?俺(私)?」
「さっきは言わなかったが、透司くんのカースは【透過】だったな」
「え、ああ」
「ならば、服も透明化できるか?」
「俺が身に纏っているものは、全部透明化できるぜ!」
「じゃあ仮に、君を拘束したとして、その拘束具も透明化できるんだな」
「……は?」
「いやしかし……これは作戦としてあまりにスマートじゃないな」
零が周りに聞こえるか聞こえないくらいの声量でボソッとボヤいた。
「もし俺が他の作戦を思いつかなかったら、すまないが空野透司。君を少し不憫な扱いをさせてほしい」
本人は困惑していたが、C組の女子二人がそれを了承した。
「それと篝看守、すまないが手錠をかそてくれないか?」
しばらくの沈黙の後、妹の顔を思い出しこう答える。
「……わかった」
***
――結局、トリネコの対策はそれ以外に思いつかなかったな。
生徒にとっての家とは、すなわち独房である。過去のカース人、いや、”日本人”であったころの歴史をよく知っている僕からすれば、非常に胸糞悪い話だ。
とはいえ実は、ここでは独房とは名ばかりの”普通”の寮だ。
ここは昔、東京都世田谷区などと呼ばれていた。よって僕たちの住むこの監獄は【監獄教育機関セタガヤ支部】と呼ばれているそうだ。つまり、外の世界では”普通の暮らし”が行われているということだ。でもなければそのように名前分けする必要はない。全て統一してもなんら不自由はない。僕たちが食べている食材やなにかを取り寄せる際に、区分けされていないと面倒だからというのもありそうだが。
あくまでここでは、”普通”の寮だ。しかも一人につき一部屋与えられる。他の監獄では恐らく、もっと非人道的な扱いを受けている場合もある。本来僕たちは、叛逆を企てないように、外の世界についての疑問すら持たれないような教育を施されるんだ。赤子のころから育てられるのだから、洗脳する機会など幾らでもあるからな。カルネ先生がいかに異端であったかが伺える。
零は湯船に浸かりながら漠然と、そんなことを考えていた。他の監獄では、こんな風に暖かい湯船に浸かれる機会なんて、ないのかもしれない。
――そろそろ出るか。
トリネコのことなどあれこれ考えていたら逆上せてしまった。
15『未来の心境』
私が彼に恋をしたのは必然だったのかもしれない。私たちはクラスメイト全員が物心ついた時から一緒にいる。幼少期は一緒にお風呂にも入っていた。今思うと恥ずかしすぎて死にたくなる。
最初、彼のことはアンドロイドみたいな人だと思っていた。寮にいるときも体育の時も勉強していたから。体育をサボってるという意味では不真面目なのかもしれない。担任のカルネ先生が適当すぎるのが悪いよね。にしても零ちゃんに甘すぎると思うけど。
みんなは彼を「天才」だなんてもてはやすけど、彼の裏にある努力を私はしっかり見てきたつもりだ。それでも、時々わからなくなることがある。彼が一体何を考えているのか。
元から感じていた違和感の正体。それは未来を読んでいるかのような超常性にあるのだと。
簡単に言えば人間業じゃない。いい意味で思考回路が読めない。もはやそういうカースなんじゃないかと疑うほどだ。でも看守の人達は【劣弱】とか言って馬鹿にしてる。本人ですら自虐する有り様だ。かわいそう。
この監獄を出る前に、この胸に秘めた想いを伝えたい。そのためには、私が彼の隣に立てるくらい、立派な女にならなくちゃ。
彼は、空が見たいと言っていた。透き通るような青空を。彼の隣に立てるのは、綺麗な青空を見せてあげられる人だと勝手に思っている。
そのために脱獄するんだ。とりあえず、明日はトリネコ看守の捕獲作成だ。私は非常事態の時に出るピンチヒッター的な役割らしい。不安だけど零ちゃんに従ってたら何とかなるはず。がんばろう!
16『突飛で不格好な作戦』
そんな作戦で大丈夫なのか。全員がそう思った。天才である彼の品格を著しく下げるような作戦だった。本人も自覚しているとのことであるが、これはトリネコの弱点を的確かつ最大限に活かした作戦だ。
叛逆生たちは、グラウンドにトリネコを呼び出した零の状況を、インカムでから聞いている。
現場に向かったのは 灯火零、黒宮星、空野透司、黒影凪紗だ。
トリネコは自身の射程圏内である五十メートルより外にいる。しかし少しでも下手な真似をしたら魔法を発動するつもりだ。
「看守長に聞いたわ。あなた、わざわざ脱獄するって宣言するなんてどういうつもり?」
「看守長と取引したのさ。あなたが知る必要はない」
「よく言うわね、犯罪者の分際で。あなたの行いはとっくに処罰の対象になっているわ」
「そんなことは承知の上だ。ただ、俺がお前の家族の真実を明るみに出したら、監獄内での孤立は避けられないんじゃないか。死別した子供と同じようにな」
「お前!!」
トリネコは零に向かって走り、魔法を発動したが、星がそれを庇うようにして前に出た。
「う゛」
星は魔法に充てられ、苦しそうに頭を抱えている。するとトリネコは勝ち誇ったように近づいてくる。
「さあ、この状況からどうするつもり?」
「話を聞け。もし監獄内で孤立したくないのならば、こちらの条件を呑んでもらおうか」
「ふん、誰が聞くのよ。さあ星くん、彼を捕らえて」
しかし、星は必死の抵抗を見せた。
「な、なんで、今までこんなこと……」
トリネコは星に触れることで魔法の効果を強めようと考えた。しかし、その隙が仇となった。
気が付けば、トリネコの体が宙に浮いていた。星による渾身の背負い投げが炸裂した。
「気絶してる……そろそろ魔法が解けたかな。凪紗さん、こいつをカースで覆ってくれ」
「わかったけど……なんかすごく嫌な気分」
「それはすまない。さて、透司くん、もう解除して大丈夫だぞ」
「はあ、助かった」
熱にうなされたかのように、汗をかいている。
「大活躍だったな」
そういって零は透司の肩を叩く。
「不服だ……」
「凪紗さんも、ありがとう」
「いえ、これが脱出に繋がるなら」
これで少しは、結束力も強まったんじゃないかと、零は内心ホっとしていた。
17『喪愛』
息子がいなくなってから一週間が経った。
その日は、茹だるような暑さだったことを覚えている。しかし、そんなことはどうでもいい。ダブルベットの片割れには、もう枕すら置いていなかったからだ。
空っぽになってしまった部屋は、思った以上に広く、そして冷たかった。シーツを替えようとして手を伸ばしたとき、指先がそこで止まった。彼が、彼らがそこにいないという事実が、布のシワよりもはっきりと、感触として残っていたからだ。
洗濯機の回る音が、やけに遠く感じられた。家の中のすべてが、失ったことを知っているようで、知らないふりをしているようでもあった。
夫は、あの日以来戻ってこなかった。玄関に残された靴跡も、洗面所に転がった歯ブラシも、秒針が刻一刻と、残酷に消していった。置き手紙ひとつなかったことが、彼らしいと思う一方で、その不在は息子の不在とは違う重さで胸にのしかかった。
怒りよりも先に、空白があった。それは理由を考える余地すら奪われるほどの、無音の逃避だった。
台所に立つと、三人分の味噌汁を作ろうとしてしまう。鍋に水を注いでから、慌てて蛇口を閉める。そのたびに、自分がまだ「前の時間」に生きていることを思い知らされる。秒針は刻一刻と進んでいるのに、心だけが取り残されていた。
夜になると、息子の声が聞こえた気がした。もちろん、幻だとわかっている。それでも、耳を澄ませずにはいられなかった。「ママ」と呼ばれることはなく、ただ、存在だけがそこに漂っているような感覚だった。
それからというもの、眠りは浅く、夢の中でも失った物を探し続けていた。何を、どこを、という輪郭はなく、ただ「失ってしまったもの」を。
母である私は、どこで間違えたのだろう。問いは答えを伴わず、同じ場所を円環上にぐるぐると回る。答えが出ないことを、もう知っているのに。
それでも、眩しい朝は来る。カーテン越しの光が、残酷なほど平等に部屋を照らす。たった一人の、広すぎる部屋を。
まだ、泣き方を思い出せずにいた。涙は枯れたわけではなく、出口を見失っているだけだった。
そしてただひとつ確かなのは、この家に残された静けさが、彼女自身の呼吸と同じ速さで、これからも続いていくということだった。
それから数か月が過ぎた。季節は移ろっていたが、私の中では、息子がいなくなった日から時計が少しだけ狂ったままだった。朝と夜の境界線が曖昧で、何をしても「ただ時間をやり過ごしている」感覚が消えなかった。
そろそろ、働かなければならなかった。理由は単純で、生活のためだったが、それだけではなかった。何もしない時間が、私にはあまりにも重すぎた。考え始めると、心はすぐに同じ場所へ戻ってしまう。だから、考える暇のない場所を探していた。
求人票の束の中で、視線は一枚の紙に留まった。
白地に黒い文字で、感情の入り込む余地のない言葉が並んでいた。
なぜそれに惹かれたのか、自分でもはっきりとはわからない。ただ、監獄という「閉ざされた場所」に、奇妙な安堵を覚えた。逃げ場のない空間。規則で区切られた時間。そこでは、感情よりも役割が優先される。母でも妻でもなく、ただの一人の職員として立てる場所。
夫が去って以来、彼女は「守る側」である自分を失ったままだった。守れなかったという思いが、胸の奥で固まっている。看守という仕事は、その失われた役割を、形だけでも取り戻せるように思えた。誰かを正しく導くわけでも、救うわけでもない。ただ、秩序を保ち、日常を維持する。その距離感が、彼女には必要だった。
研修の日々は、淡々としていた。法律、規則、対応手順。感情を持ち込まないことが、何度も強調された。その言葉は、彼女にとって戒めというより、「許容」のように響いた。感じなくていい。深入りしなくていい。それでいいのだと。
初めて制服に袖を通した日、鏡の中の自分は、少しだけ他人に見えた。黒い布に包まれた身体は、過去を隠してくれる鎧のようだった。名札に刻まれた名字を見て、彼女は一瞬、呼ばれることのない息子の名前を思い出し、すぐに視線を逸らした。
その日から私は、「シャンティ・コントルド」とう姓名を棄て、「トリネコ・キルハート」として生きるようになった。
施設の中は、いつも一定の温度と音に保たれている。鉄扉の開閉音、足音、号令。すべてが規則正しく、感情の入り込む隙間がない。彼女はその秩序の中で、ようやく呼吸ができるようになった。【服従】という魔法を武器にしてきた私は、猫に睨まれたネズミのように、上司に従うようになった。
看守になった理由を誰かに問われたことはない。問われたとしても、きっと答えられなかっただろう。
それは贖罪でも、使命でもない。ただ、崩れきった自分が、立っていられる場所がそこにあったという、それだけのことだった。
鉄格子の向こう側とこちら側。その境界線を毎日確かめるように歩きながら、私はまだ、自分が何を失い、何を抱え続けているのかを、言葉にできずにいた。それでも、眩しい朝は来る。ここは陽射しが微塵も通らない監獄教育機関。照明によって造られた陽射しは、実物のそれより眩しかった。
もうあの家に帰ることはないのだろう。
制服に腕を通し、名札をつけ、私は今日も扉を開ける。
呪い方を知らない幼子に、呪いを封じ込めるよう教育する。
誰かを呪わない様に。
私のように、誰かを呪わない様に。
それが、私の使命だ。
18『目覚め』
保健室の寝具は、少し低かった。
トリネコは椅子に腰を下ろす前に、名札を外して机に伏せた。裏返すでもなく、正面のまま。文字が読める位置に置いたまま、椅子に座る。
それが癖だと気づいたのは最近だ。
向かいに座る天才は、看守でも囚人でもない顔をしていた。ここにいる理由を、どこにも貼りつけていない顔。トリネコはそれを見て、呼吸を失った。私の胸の奥で、何かが燻ぶった。
「率直に聞きます。僕たち”叛逆生”の一員に加わってくれないですか」
声をかけられても、すぐには返事ができなかった。
代わりに、机の角を指でなぞる。欠けている部分。前からあったのか、自分が来る前にできたのかは分からない。
「話す必要はない」
零はそう言った。
「俺は聞きに来ただけだ」
聞く。
その言葉が、ひどく遠回りに感じられた。
トリネコは息を吸った。正義を守るための呼吸。規則を乱さないための間。そうやって何度も、何もできなかった呼吸。
「……私は」
言いかけて、止めた。
言葉が、いつもの順番で並ばなかった。
夫がいなくなったことも、子を失ったことも、最近では「出来事」として処理できた。泣くより先に、整理した。崩れるより先に、役割に戻った。
守っていたのは、他人じゃない。
自分が立っていられる場所だった。
「正しい行いをしてきた」
ようやく口に出すと、その言葉は思ったより軽かった。
零は否定しなかった。代わりに肯定もしなかった。
「正しい行いは、トリネコ先生を助けたのですか?」
その一言で、何かが終わった。
トリネコは笑おうとして、失敗した。
笑顔の形を、忘れていたことに気づいた。
「助けられると思ってた」
ぽつりと零す。
「正義にいれば、少なくとも……間違ってはいないって」
零は目を伏せた。
同情でも軽蔑でもない、ただの沈黙。
「依存ですね」
零は目を瞑り、静かに言った。
「それは俺を洗脳したとき、俺に抱いた感情と同じものですね」
トリネコの中で、反射的に何かが跳ねた。
怒り。否定。拒絶。
でもそれらは、すぐに形を失った。
依存。
その言葉は、彼女の過去にぴたりと嵌まった。愛する人を失ってから、誰かに縋ることを、ずっと恥だと思っていた。
だから私は、正義に縋った。役割に縋った。規則に縋った。
それなら、誰にも見えないから。
零に向けていた感情も、同じだった。
それはもはや救いではない。
「居場所」をくれる存在への、歪んだ愛情。
トリネコは、名札に視線を落とした。
自分の名前が、そこにあった。偽名だが、これが本名だと信じたくて仕方ない。私はトリネコ・キルハート。過去はもう捨てたはずだ……。そのはずだった。
「私は……何もできなかった」
初めて、順番を崩して言った。
理由も、背景も、言い訳も抜きにして。
零は、ようやく私を見た。
「できなかったことを、数えるのは簡単だ」
そう言ってから、少し間を置く。
「でも、今できることは?」
トリネコは顔を上げた。その問いは、救いではなかった。代わりに逃げ道もなかった。
それでも、不思議と口が動いた。
名札を手に取る。今度は裏返した。
「私は、正義を疑う」
それは誓いでも宣言でもない。ただの選択だった。
「守れなかったものを、理由にしない。役割に、逃げない。誰かのためじゃなく……人間として、自分のために動く」
「それでこそあなたです。トリネコ先生」
保健室を出るとき、トリネコは一度だけ立ち止まった。
背筋を伸ばし、深く息を吸う。
正義は、私を救わなかった。でも、人間であることは、まだ終わっていない。
その事実だけが、静かに、確かに、私を前へ押していた。
私は叛逆生。シャンティ・コントルドだ。
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