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トイの青空
192.
シスターがトイから手を離し、きゅっと手のひらを握って見せた。
よく見ると、彼女の手の甲、特に拳の骨ばった部分が赤らんでいた。まるで何かにぶつけてしまったような痣にも見えた。いや十中八九、そうだろう。
「シスター、その手の、傷……」
「ああ、男の人の肌って硬いのよね」
さっと青ざめる。きっと今のトイは、ハイデンと同じ表情をしているに違いない。
「丁度出ていくところを見かけちゃったから、つい」
「つい?」
「……拳で」
「こ、拳で殴っちゃったのか?」
恐る恐る問えば、シスターは困ったように眦を下げた。
「ちょっとだけなのよ? せいぜい鼻を折るくらいで……」
「は、はなをおるくらい」
茫然と呟く。
「本当に、それだけ?」
「ええと……」
シスターは固まったトイからちらり視線を外し、言いにくそうに答えた。恥じらうような可憐な仕草と、シスターの言動が一致していない。
「……ごめんなさい、実は前歯も」
「折っちゃったのか!?」
「あのでも、ソンリェンさんのお名前をお借りしたから大丈夫よ」
トイに心配をかけぬようにか、ぱちりと片目を瞑ったシスターに力が抜ける。
何が大丈夫なのかわからないが、シスターがトイに嘘を言うはずがないので彼女は本当にエミーたちを叩きのめしてしまったらしい。
トイが危惧していた通りになってしまった。
「──オイ、どういうことだ」
それまで沈黙を貫いていたソンリェンが、流石に会話に混じって来た。
トイは振り向き、若干引き攣った顔をしているソンリェンに口をまごつかせた。
「あの、その」
「ソンリェンさん申し訳ございません、あのエミーという方と残りの使用人の方の鼻と前歯と……たぶん奥歯も折ってしまいました。貴方に指示されたという名目で」
「……あ?」
「苦情が来たらよろしくお願いします」
本当に申し訳ないと思っているのか甚だ怪しい声色で、シスターが丁寧にソンリェンに頭を下げた。
腕組みをしながら壁に寄りかかっていたソンリェンの眉間の皺が増える。
トイは慌てて弁明をした。
「ご、ごめんソンリェン! あのな、シスターってすっげえ強いんだ。前に育児院に忍び込んだ泥棒を素手で叩きのめしたこともあって」
「……泥棒?」
「そう、男の泥棒4人」
「よ……にん」
「だから、あの、その、でも」
あまりの早業にトイならず他の子どもたちも呆気にとられたものだ。男たちは全員屈強で、しかもナイフを持っていたのだが、シスターは流れるような手刀と足技を繰り出し4人の男たちを一瞬で地面に転がし縄で縛って突き出してしまった。
この華奢な身体のどこにそんな力があるのかと目を疑うくらいだった。シスターには他にも沢山の武勇伝がある。
「……ハイデン」
低い声で唸ったソンリェンは、部下に説明を求めた。
「事実ですソンリェン様。先ほど確認致しましたが……どうやら鼻と前歯と奥歯だけではなかったようです」
「あら」
シスターは鈴のような声で口を抑え驚いたが、これは絶対に確信犯だ。シスターがあと彼らのどこを攻撃したのかについては、あまり考えたくはなかった。
女手一つで育児院を切り盛りしている彼女は、とても強い。
シスターは普段はとても優しく、滅多ことでは怒らない女性だが、育児院の子どもたちに危害が及ぶと判断すれば誰が相手であっても容赦をしない。
もちろん、今回はソンリェンがバックに付いていると判断したからこそ、確認を取らずにエミーたちをボコボコにしたのだろうが。
「シスター」
「なあに?」
「あの、なんで? ソンリェンのことは、殴んなかったって……」
そうだ。シスターはソンリェンのことは殴らなかった。ソンリェンがそう言っていた。だからシスターがエミーに手を出すこともないと思っていたのだけれど。
「あのエミーって人は、殴られたほうが痛そうだったの」
「……どういうこと?」
「大丈夫よ、トイ。あの人たち最後にソンリェンさんの名前を出したら結局やり返してこなかったから心配しないで。それにふらふらの状態だったけどきちんと車で帰っていったわ」
「えーと」
先ほどから微動だにしないソンリェンに、トイも不安になってくる。
「ソンリェン、あの……大丈夫、かな」
「大丈夫ですよね、ソンリェンさん。問題は、一つも、ありませんよね? 大丈夫ですよね?」
笑顔を湛えたまま畳みかけてきたシスターに、ソンリェンはゆっくりと頷いた。
その動きは硬いままだが。
「……ああ」
トイは、今ソンリェンがシスターと対峙した際、彼女の鋭い視線に何度か気圧されていたことを思い出していることなど露も知らない。
「よかった。ハイデンさん、体術ならシスターに習えばいいよ」
「……そのようですね」
深く頷いたハイデンも、ソンリェンと同じくらい硬い。
「では、私は帰りますね。くれぐれもトイのことをよろしくお願い致します。ソンリェンさん」
口元は笑っているが、もしもトイになにかあれば前歯の数本は覚悟しておいてください、という目だった。
トイは、ソンリェンが真顔のまま唾を飲み込んだことに気が付いた。やっぱりシスターは凄い。
「あ、トイ。でもね、来週の頭までには、一度育児院に来てほしいの」
「え……なんかあんの?」
シスターが困ったような笑みを浮かべた。
「……あの子が自分から話すって言って聞かなかったから、黙ってたんだけど」
トイはこの時ようやく、もう一つどうにかしなければいけなかった問題を思い出した。
よく見ると、彼女の手の甲、特に拳の骨ばった部分が赤らんでいた。まるで何かにぶつけてしまったような痣にも見えた。いや十中八九、そうだろう。
「シスター、その手の、傷……」
「ああ、男の人の肌って硬いのよね」
さっと青ざめる。きっと今のトイは、ハイデンと同じ表情をしているに違いない。
「丁度出ていくところを見かけちゃったから、つい」
「つい?」
「……拳で」
「こ、拳で殴っちゃったのか?」
恐る恐る問えば、シスターは困ったように眦を下げた。
「ちょっとだけなのよ? せいぜい鼻を折るくらいで……」
「は、はなをおるくらい」
茫然と呟く。
「本当に、それだけ?」
「ええと……」
シスターは固まったトイからちらり視線を外し、言いにくそうに答えた。恥じらうような可憐な仕草と、シスターの言動が一致していない。
「……ごめんなさい、実は前歯も」
「折っちゃったのか!?」
「あのでも、ソンリェンさんのお名前をお借りしたから大丈夫よ」
トイに心配をかけぬようにか、ぱちりと片目を瞑ったシスターに力が抜ける。
何が大丈夫なのかわからないが、シスターがトイに嘘を言うはずがないので彼女は本当にエミーたちを叩きのめしてしまったらしい。
トイが危惧していた通りになってしまった。
「──オイ、どういうことだ」
それまで沈黙を貫いていたソンリェンが、流石に会話に混じって来た。
トイは振り向き、若干引き攣った顔をしているソンリェンに口をまごつかせた。
「あの、その」
「ソンリェンさん申し訳ございません、あのエミーという方と残りの使用人の方の鼻と前歯と……たぶん奥歯も折ってしまいました。貴方に指示されたという名目で」
「……あ?」
「苦情が来たらよろしくお願いします」
本当に申し訳ないと思っているのか甚だ怪しい声色で、シスターが丁寧にソンリェンに頭を下げた。
腕組みをしながら壁に寄りかかっていたソンリェンの眉間の皺が増える。
トイは慌てて弁明をした。
「ご、ごめんソンリェン! あのな、シスターってすっげえ強いんだ。前に育児院に忍び込んだ泥棒を素手で叩きのめしたこともあって」
「……泥棒?」
「そう、男の泥棒4人」
「よ……にん」
「だから、あの、その、でも」
あまりの早業にトイならず他の子どもたちも呆気にとられたものだ。男たちは全員屈強で、しかもナイフを持っていたのだが、シスターは流れるような手刀と足技を繰り出し4人の男たちを一瞬で地面に転がし縄で縛って突き出してしまった。
この華奢な身体のどこにそんな力があるのかと目を疑うくらいだった。シスターには他にも沢山の武勇伝がある。
「……ハイデン」
低い声で唸ったソンリェンは、部下に説明を求めた。
「事実ですソンリェン様。先ほど確認致しましたが……どうやら鼻と前歯と奥歯だけではなかったようです」
「あら」
シスターは鈴のような声で口を抑え驚いたが、これは絶対に確信犯だ。シスターがあと彼らのどこを攻撃したのかについては、あまり考えたくはなかった。
女手一つで育児院を切り盛りしている彼女は、とても強い。
シスターは普段はとても優しく、滅多ことでは怒らない女性だが、育児院の子どもたちに危害が及ぶと判断すれば誰が相手であっても容赦をしない。
もちろん、今回はソンリェンがバックに付いていると判断したからこそ、確認を取らずにエミーたちをボコボコにしたのだろうが。
「シスター」
「なあに?」
「あの、なんで? ソンリェンのことは、殴んなかったって……」
そうだ。シスターはソンリェンのことは殴らなかった。ソンリェンがそう言っていた。だからシスターがエミーに手を出すこともないと思っていたのだけれど。
「あのエミーって人は、殴られたほうが痛そうだったの」
「……どういうこと?」
「大丈夫よ、トイ。あの人たち最後にソンリェンさんの名前を出したら結局やり返してこなかったから心配しないで。それにふらふらの状態だったけどきちんと車で帰っていったわ」
「えーと」
先ほどから微動だにしないソンリェンに、トイも不安になってくる。
「ソンリェン、あの……大丈夫、かな」
「大丈夫ですよね、ソンリェンさん。問題は、一つも、ありませんよね? 大丈夫ですよね?」
笑顔を湛えたまま畳みかけてきたシスターに、ソンリェンはゆっくりと頷いた。
その動きは硬いままだが。
「……ああ」
トイは、今ソンリェンがシスターと対峙した際、彼女の鋭い視線に何度か気圧されていたことを思い出していることなど露も知らない。
「よかった。ハイデンさん、体術ならシスターに習えばいいよ」
「……そのようですね」
深く頷いたハイデンも、ソンリェンと同じくらい硬い。
「では、私は帰りますね。くれぐれもトイのことをよろしくお願い致します。ソンリェンさん」
口元は笑っているが、もしもトイになにかあれば前歯の数本は覚悟しておいてください、という目だった。
トイは、ソンリェンが真顔のまま唾を飲み込んだことに気が付いた。やっぱりシスターは凄い。
「あ、トイ。でもね、来週の頭までには、一度育児院に来てほしいの」
「え……なんかあんの?」
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トイはこの時ようやく、もう一つどうにかしなければいけなかった問題を思い出した。
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