彼女の優しい理由

諏訪錦

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閑話休題

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 生徒たちが下校する喧騒に紛れて、夕日の照らす道を進んだ。
 今日は寒さもそれほど厳しくないので、本来なら気分良く歩けたはずのその道が、いまは憂鬱でならなかった。
 新任教師である自分は、先刻、教頭先生に呼び出しを受けた。放課後の楽しみである部活動の指導をしている最中ということもあり、苛立ちに拍車をかけた。新任だからといって、顎で使うような真似は止めて欲しいと内心で文句を垂れる。
 用件はこうだった。
 三日前から無断欠勤している社会科教師、江藤先生の様子を自宅まで行って見てきて欲しいというのだ。
 そもそも江藤先生にはあまり良い印象を持っていなかった。常に不機嫌そうな態度と、まるでヤクザを想起させる風体の悪さから、小心者の自分は初対面から苦手意識を持っていた。
 新任ということもあって、担任ではなく補佐的な役回りが多く、雑用に近い仕事をやらされるのはこの際仕方ないと思っている。
「しかし教頭先生。自分にはバスケ部の練習を見るという役目が」
 顧問という役目を盾に、なんとか面倒事から逃れようと試みる。
「部活動なら、バレー部の山瀬先生に一緒に監督をお願いしておきますので、気にしないで下さい。お願いしますよ、内田(うちだ)先生」
 教頭先生に押し切られる形で、江藤先生の自宅アパートまでやってきていた。押しに弱いお前は教師に向かない、と両親に反対された言葉が身に沁みる。
 溜息を吐きアパートを見上げると、思わず顔をしかめてしまう。
 自立したばかりで安アパートに住んでいる俺ですら、足を踏み入れるのを躊躇ってしまう小汚い佇まいの建物。二階へと続く階段は、端の方が錆付いていて一段上る毎にギシギシと悲鳴を上げる。怖々と階段を昇り終え、教頭先生から手渡された紙で部屋番号を確認する。
「えっと、二階の………三号室か」
 左側から三つ目の扉まで歩を進め、その前で立ち止まる。呼び鈴が反応しなかったので、木戸を叩いて数瞬待ち、返事がないことを確認すると、もう一度扉を叩く。
 中からはなんの反応も返ってこない。もしかしたら留守なのかもしれない。そう思い、諦めようとしたが、学校に戻ってから教頭先生に説明することを考えると、このまま帰るわけにはいかないと思い直した。子供の使いではないのだ。深く眠っているだけかもしれないし、あるいは具合が悪くて倒れているという可能性もある。
 そういえば、江藤先生は持病を持っていると聞いたことがあった。それを理由に急な欠勤をすることも間々ある。
 俺は背筋に冷たいものを感じた。
 すぐさま踵を返し、三号室の扉に手を掛ける。ノブを捻る前に、念のためもう一度扉を叩いたが、やはり反応はなかった。
 鍵が閉まっていることを祈りつつ、握り締めたドアノブを回した。すると、木戸はなんの躊躇いもなく開いて俺を迎え入れた。
 開いてしまったからにはしょうがない。外から声をかけても返事がないので、決心を固め、靴を脱いだ。そのまま廊下を進むと、隅々に積まれたいかがわしい雑誌類が目に留まる。江藤先生が四〇を越えても独身だという話は聞いていたが、それにしても聖職者としていかがなものだろう。雑誌の表紙を飾る若い女性は、ヘソとショーツが顕わになった大胆なセーラー服を身に纏っている。人の趣味にとやかく口を出すつもりはないが、高校教師としてはあるまじき趣味に思えた。
 廊下を進むと、突き当たりに唯一の部屋へと繋がる扉があった。あとはユニットバスや収納棚のようだ。
 俺はもう一度息を吸い込み、「江藤先生、失礼します。学校の内田です。外から何度も呼びかけたのですが返事がないようなので勝手に上がらせてもらいました」と告げる。
 返事がないということは半ばわかっていた。あれだけ扉を叩いても気付かないのだから当然だろう。
「入りますよ」
 最後にそう確認し、プライベートな空間に入り込んだ。
 瞬間、鼻を突くような強烈な異臭が襲ってくる。汚物を放置したような臭いに、思わず顔を背け、鼻と口を手で覆い隠す。あまりの臭いに涙が溢れ、ムカムカとした気持ち悪さが胸を占めた。
 嫌な予感は的中していた。いや、それ以上に飛躍した惨状がその部屋には広がっていたのだ。
 確かに予想したとおり、江藤先生は床に倒れていた。けれど、それがもう手遅れであることは一目でわかる。変色した顔色と、首に巻き付けられた電気コードがありありと現状を物語っていた。
俺はその惨状を目の当たりにし、足ががくがくと震えた。
 学校に連絡、いや、警察に通報を………頭ではそうわかっているのだが、上手く手が動かない。ポケットから携帯電話を取り出そうとして、服に引っかけて床に落としてしまった。焦りばかりがつのる。携帯電話を拾おうと屈んだとき、視界に江藤先生の亡骸が飛び込んできた。前傾姿勢になった所為もあって先ほどのムカムカした気持ち悪さが、明確な嘔吐感として顕在する。手で口元を押さえようとしたが、数秒遅かった。
 昼食が吐き気と一緒に、そのまま逆流した。
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