彼女の優しい理由

諏訪錦

文字の大きさ
52 / 57

彼女の優しい嘘の理由 33

しおりを挟む
「しかし、災難な事故だったね」
 新聞に目を落としながら、呟くように彼は言った。紺色のセーターが細身な体をよりいっそう引き立たたせている。そのセーターのネック部分からは、浅黒い顔をひょっこりと覗かせている。
 私の亭主は革張りのソファーに深くもたれ掛かり、息を吐くついでといった感じで言葉を添える。
「寝たばこが、火災の原因らしいね」
 キッチンで立ち仕事をしていた私は、振り返って言葉を返す。
「ええ。気を付けて下さいって、昔から何度も言っていたんですけど」
 すると、彼は気遣わしげに言った。
「飲酒していた形跡があったようだよ。それに、脱ぎ掛けのズボンが足に引っ掛かって身動きが取れなかったのだろうと書かれてるね」
 新聞をひらひらと翳してから、それを折り畳んだ。
「泥酔状態で足の自由が利かなかったとなれば、逃げ遅れた理由はそれだろうな」
 神妙な顔つきになった私に気付いたのか、亭主は言った。
「もしかして、旦那さんのことを考えているのかい?」
「〝元〟旦那でしょ。死んだ人を悪戯に使うなんて、やめて」
 私の諌めるような言葉に、彼は肩を竦める仕草を返してくる。
「しかし、あの人が亡くなるなんて驚きだな。職場に乗り込んできた日のことは、いまでもはっきり覚えているよ。こういう言い方は確かに不謹慎かもしれないけど、殺しても死なないような人だと思っていたからね。あの藪坂鉄郎・・・・という男は」
 私は、その言葉に返答しなかった。火事のことを聞かされてからというもの、考え込むことが多くなったように自分でも思う。それを気にかけてか、彼はあれこれと言葉を掛けてくれる。不謹慎に思えた台詞も、励ますためのものだと思えば納得できた。
 いまも重い空気を察したのか、彼は端的に言った。
「せめてもの救いは、息子の七季君が無事だったことだね」
 新聞を机上に置くと、立ち上がって対面テーブルに近付いてきた。
「間一髪だったらしいじゃないか。怖かっただろうな」
 私はなにも言えなかった。彼の言葉は聞こえていたが、耳から抜け落ちてしまう。
「文子(あやこ)?」
 堪り兼ねたのか、彼は私の名前を呼んだ。
「なにか考えごとかい?」
「別に、そういうわけじゃ……」
 ない、と言い切れず、私は言葉を濁した。言葉とは裏腹に、ずっと悩んでいることがあった。だが、それを伝えていいものなのか判断に困る。
 相変わらず浮かない表情の私に、亭主は快活に言葉を並べる。
「ずっと気に掛けていた息子が無事だったんだから、もっと喜びなよ」
「ええ、そうよね」
 私は首肯した。一週間前の火災事故。七季の無事が知れたのは、ニュース速報で火災の映像が流れた数時間後だった。台所に立って洗い物をしながら、番組が切り替わる際のニュースをなんとなしに眺めていた。テレビ画面に映ったその景色に見覚えがあり、目をこらしてみると、野次馬で溢れ返った一方通行の道路は、かつて歩き慣れた道だった。そして再び、画面は燃え上がる家屋を映し出した。見覚えがあるのは当然だった。そこはまぎれもなく、私が以前暮らしていた家なのだから。元亭主と、息子が現在も住んでいるはずの家屋。それが炎に包まれていたのだ。私は、手に持っていた皿を落としていたことにも気付かなかった。
 息子が、七季が死んでしまったかもしれない。そう思うと頭が混乱して、私は泣き崩れていた。家に帰ってきた亭主が迅速に対応をしてくれたお陰で、七季の無事がすぐにはっきりした。だから彼には感謝している。その旨を伝えると、照れ臭そうに笑って、それを誤魔化そうとする。
「でも良かったよね。一階にいたから七季君は助かったんだろう?あれだけの燃え方じゃ、煙は全部、二階に上がってしまうだろうからね。もし二階にいたらひとたまりもなかったんじゃないかな」
 彼は嬉しそうに、奇跡でも目の当たりにしたような口調で言った。
 だが、私がずっと悩んでいるのは、つまりそのことなのである。家が全焼してしまうほどの火災にも関わらず七季は無事生還した。息子が無事だったことは素直に嬉しいけれど、私にとって、息子の行動がそれ以上に不可解でならなかった。
 あの子は、一階でなにをしていたのだろう。
 私が鉄郎と離婚する以前から、七季の部屋は二階にあった。離婚前のいざこざを目の当たりにしていた七季が、基本的に自室から出ないことも知っている。だけど今回、偶然にも一階にいたから、七季は逃げのびることができた。それが、どうにも引っ掛かっているのだ。
 台所も洗面所も一階にある。そう考えれば、息子が下の階にいたことなど気にするに値しないのかもしれない。ただ、漠然と不安が胸を過ぎる。
 あの日、火事が起きたのは本当に偶然なのだろうか。そのとき、七季が一階にいたこともまた、偶然なのだろうか。夕飯にしては遅い時間で、風呂上がりというわけでもなかった七季が、どうして一階にいたのだろう。あれだけ嫌っていた父親の生活圏で、いったいなにをしていたのか。
 考え始めると、疑問は際限なく浮かびあがってくる。同時に、仄暗い思いが私の脳裏に浮かんだ。
 突然の火災。出火原因は、消し忘れた煙草の火だという。冬場の乾燥からあっという間に家中に燃え移り、リビングから家屋全体を包み込んだ。警察の調べで、死亡する直前まで、鉄郎が飲酒していたことがわかっている。燃え跡に酒瓶が残っていたことと、息子の証言でそう判断された。しかし、泥酔状態とはいえ、それだけなら火の手から逃れることも可能だったかもしれないとの見方がされた。
 鉄郎が逃げ遅れたもう一つの理由。泥酔状態の鉄郎は、リビングが燃えていることに気付いて大慌てで逃げ出そうとした。しかし、膝までずり下がったズボンが邪魔をして、動けなかったのだろうと判断されている。泥酔状態に加え、火事場のパニックで冷静な判断ができなかったのだろうと判断された。遺体の状態は悪かったが、爛れた皮膚に、辛うじて貼り付いた衣服の繊維が確認できたそうだ。上体はランニングシャツのような出で立ちに、下半身はブリーフパンツ。それに脱ぎかけのズボン。冬場だというのに無謀な恰好だ。
 しかしそれを聞かされたとき、変わっていないなと私は思った。別れる以前から、鉄郎は一年中、家の中ではそのだらしない恰好で生活を送っていた。だからこそ、私にとってはそれが不思議でならない。
 あの鉄郎が、自発的にズボンを穿いたのだろうか。離婚する前はどんなに寒くても彼がズボンを穿くようなことは一度もなかった。単に年を取っただけと言われればそれまでなのだが、長年連れ添った私にだからこそわかる違和感が、そこにはあった。
 これはあくまでも仮定の話だが、もし鉄郎が自分の意思でズボンを穿いたのではなかったらどうだろう。
 酒を呑み、泥酔した鉄郎の膝元で、足を縛るようにズボンを穿かせた〝誰か〟がいた。その誰かは、寝たばこが原因で火災が起きたように見せかけ、リビングに火を付けた。そうして、自分はタイミングを見計らって家から逃げ出す。当然、鉄郎は泥酔状態ながら火事に気付き、慌てて立ち上がろうとしただろう。しかし、酒で足元が覚束ない上に、穿いた覚えのないズボンが膝に絡まって足の自由が利かない。冷静な判断ができなくなっていた鉄郎は、そのまま火の海に取り残されてしまった。
 それこそが、私の考えた可能性だった。あの家で生活し、あの家族を誰より知り尽くしている自分だからこそ浮かんでくる疑問。
 どうして、七季は一階にいたのだろう?
 だけど、その答えを出すことに自分自身が拒否を示している。
 考え込んでいた私を心配したのか、亭主はキッチンの方に回り込んで、私の肩にそっと手を回した。
「大丈夫。僕は、自分の娘と同じように七季君も愛してみせるよ」
 とても青臭い台詞だが、私は素直に嬉しく思った。産まれたばかりの私たちの娘を愛するのは当然としても、前夫との子である七季を愛する義務は、そもそも彼にはない。それでも受け入れてくれると言うのだから、文句なんて言える立場にはない。これこそが、ずっと前から私が待ち望んでいた生活なのだ。
 七季が「新堂」の家に引き取られて、もう二週間が経った。藪坂家が燃えて消失し、七季は行く当てをなくした。息子を心配するのは当然で、慌てふためく私を見兼ねたのか、彼が引き取ることに積極的になってくれたのだ。
「だけど、あなた無理してない? 本当は七季を引き取ることに賛成じゃなかったんでしょう」
 火事が起こる前にも七季を引き取りたいと話したことがあるのだが、そのときはあまり良い顔をしなかったのを覚えている。それでもようやく許可を取り付け、あとは本人に話すのみの段階になって今度は七季の方から拒否されてしまったのだ。あのときは本当にショックだった。
「でも、あなたのおかげで、いまは七季と一緒に暮らせてる。本当に感謝しているのよ」
「そんな。僕はただ、当たり前のことをしただけだよ」
 彼は苦笑いを浮かべる。だが、すぐに表情を強張らせ、自らの過ちを苦いるように言った。
「初めは確かに賛成できなかった。でも七季君は良い子じゃないか。いまだって娘の面倒を見てくれているしね」
 軽く上を見上げてから、また直ぐに私の方に視線を戻す。
「それに、君の子供であることに変わりはない。文子と籍を入れるときに、君のすべてを愛すると誓ったんだ。だから、君が大切に想う者を一緒に愛するのは当然なんだよ。そんな当たり前なことにいまさらながら気付いたというだけの話さ」
 私は、その言葉に顔を綻ばせて頷いた。彼の言葉が心の底から嬉しかった。だからこそ、罪悪感に囚われる。なんてことだろう。自分の息子に猜疑心を抱くなんて、母親として最低だ。
 これから私たち家族は始まる。いままで停滞していた七季との時間も、少しずつ動き出そうとしている。そう思うと、私の胸は遊園地に遊びにきた少女の時分のように年がいもなく弾んだ。
 鉄郎の死は不幸な事故に過ぎず、それを引きずっていてもしょうがない。まして、七季がそれに関与しているなどと考えるべきではなかった。母親である私が信じてやらないでどうするのだ。私は、そう考えを改めた。藪坂の家では築けなかった幸せな家庭を、新堂の家では築いてみせる。それこそが、亡くなってしまった鉄郎への弔いにもなるのではないだろうかと、そう考えた。
 それから、視線を天井に向けた。リビングの真上に位置するその場所は、七季と娘がいる子供部屋だ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ママはヤンママ女子高生! ラン&ジュリー!!

オズ研究所《横須賀ストーリー紅白へ》
キャラ文芸
神崎ランの父親の再婚相手は幼馴染みで女子高生の高原ジュリーだった。 ジュリーは金髪美少女だが、地元では『ワイルドビーナス』の異名を取る有名なヤンキーだった。 学校ではジュリーは、ランを使いっ走りにしていた。 当然のようにアゴで使われたが、ジュリーは十八歳になったら結婚する事を告白した。 同級生のジュリーが結婚するなんて信じられない。 ランは密かにジュリーの事を憧れていたので、失恋した気分だ。 そう言えば、昨夜、ランの父親も再婚すると言っていた。 まさかとは思ったが、ランはジュリーに結婚相手を聞くと、ランの父親だと判明した。  その夜、改めて父親とジュリーのふたりは結婚すると報告された。 こうしてジュリーとの同居が決まった。

処理中です...