彼女の優しい理由

諏訪錦

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真っ赤な嘘 終

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 学習室から二人が出て行くのを見送った私は、室内を見渡した。
 部屋の中にはいくつかの長机が設置され、それが子供たちの勉強机として使われている。夕日の差し込む窓辺に立つと、外には誰もいない中庭が広がっている。
 少しすると、中庭をゆっくり外門の方に歩いて行く女性と、真っ赤な髪のあの子の姿が見える。ついこの間まで子供だったような気がしていたのに、いつの間にかあんなにも逞しく育っていたのね。
 喧嘩に明け暮れ、手に負えないほど荒れた時期もあったけれど、いまはとても落ち着いている。それがとても嬉しかった。
 あの子が人を傷つけるのではなく、人を守ろうと思うようになったきっかけ。それを作ったのは藪坂先輩だった。藪坂先輩が命をかけて、最後にあの子を正しい方向に導いてくれた。だから私は、そのことを伝えるために更級先輩のいる刑務所に手紙を出し、やり取りをしていたのだが、まさかその手紙を歩美に見られてしまうとは思ってもみなかった。関係のない歩美を傷つけてしまったことは申し訳ないと思っているし、後悔はどれだけしても足りない。だけど、更級先輩に手紙を出したことだけは間違いじゃない。どうしても伝えなくてはならない、そう思った。更級先輩が人生を壊してでも産みたいと思った子供を救ったのは、やっぱり藪坂先輩でしたよって。それだけは、伝えないわけにはいかなかった。
 夕日の中庭を眺めていると、あの子と最初に会った日のことを思い出してしまう。もう、十年以上前になるのか。

ーーー十五年前ーーー

 その日は今日と同じ、燃えるように真っ赤な夕日が照らす日で、スーツ姿の男に手を引かれた少年が施設の門をくぐったのが見えた。漆黒のスーツに身を包んだ男が、少年から手を離し、砂場で遊んでいるように言いつける。その子はなんの反応も示さず、ゆっくりと砂場の方に歩いて行った。
 私はその姿を見ると、軽く会釈をして歩み寄った。
 スーツ姿の男もそれを察知し、簡単に頭を下げる。
「施設の職員の中上奏子さんですか?」
「ええ、乳児院の方ですね」
 男性が頷くのを確認してから、
「ということは、あの子が?」
 視線の先には、砂場で山を作る、まだ幼い少年の姿があった。
「ええ、あの子がそうです。以前もお電話で話したかと思いますが、あの少年の母親は、お腹に子供がいるときに事件を起こしました。当時高校生だった犯人は、自分の通う高校の教師を弟に殺害させ、その弟を自分の手で殺めるという残忍な犯行に及んだのです。ニュースで少し騒がれた事件ですよ」
 不躾な男の言い方に、私は内心腹が立った。この男よりも、私の方がよほど事件のことを知っている。この男が犯人と一言で言い捨ててしまった女性がどれだけ優しく、他人想いだったかを私は知っている。
「驚きですよね。我々も警察から話を聞いたときは驚きました」
 気さくに話し掛けてくる男に、「それはそうでしょうね」と素っ気なく答える。
 私は、電話でやり取りをしたときからこの男性職員に好感を持っていなかった。その理由は簡単で、彼は言動に配慮が足りないのだ。仮にも子供の母親を犯人と形容し、そしてあろうことかその子供がすぐ近くにいる状況で、軽はずみな言葉を口にする。
 私は、不快な話から話題を逸らすように聞いた。
「あの子、年はいくつですか?」
「ええと、ついこの前、三歳になったばかりですね」
「そうですか。では、名前は?」
 質問責めにすることで、男との鬱陶しい会話から逃れようと試みる。だが、予想とは違った形で、相手は言い淀んだ。
「それがですね・・・母親が出産の際に、こういう名前にしてほしいと何度も頼んできたらしくて、一応はそれで決定したのですが、しかし、苗字は変えさせていただきました。犯人と同じですと、思いがけないところから親子関係が露呈してしまうこともありますから。いまは、その手続きの途中なんです」
「しかしあの子はもう三歳なのでしょう? いままでどうして手続きが進まなかったんですか」
 男は言い辛そうにしていたが、やがて口を開いた。
「裁判が行われていたんです。ああ、母親の刑事事件の裁判です。判決が下るまでは、子供の措置も決めかねますからね」
「つまり、あの子はいままで苗字もないままだったということですか?」
「厳密には出生届に書いたものがありましたが、まあそういう認識で間違ってはいません。ようやく判決が下りましたから、今度は親権放棄などの手続に進みます。なにぶん、刑事事件の裁判中の出産というのは異例ですから。それから苗字の変更ですね」
「ご家族はどうなっているんです?」
「犯人の家族ですか。バラバラですよ。息子は殺人を犯した後に姉に殺され、その姉も逮捕されました。引き取れるような状況ではないでしょう」
「そうですか」
 私は、渋々ながら頷く。自分がここで文句を言っても状況はまるで変わらないとわかっていたからだ。そして気を取り直して聞く。
「それで、あの子の名前はなんです?」
 少年の方に再び目を向ける。苗字はまだ決まったいないとして、いまはさし当たって名前を知らねばならない。子供と接する上で最も重要なのは、まず名前を呼んであげることだ。まだ施設職員として日が浅い自分が子供に見せられる数少ない誠意がそれだった。
 砂場で遊ぶ姿を見ているかぎり、他の子供となんら変わりのない平凡な少年に見える。いや、彼自身は他の子供となんら変わりのない普通の少年なのだろう。しかし、その生い立ちには暗い影が纏わりつく。少年はこれから、その影から逃げるようにして生きていかなければならないのだ。
「ニシキ」
 スーツ姿の男は、唐突にそう言った。
「漢字は決まっていませんが、それがあの子の名前です。裁判中の母親に漢字まで聞いている暇なんてありませんでしたからね」
 不躾な言葉にもなんとか心を落ち着かせながら、私はその名を口にする。
「ニシキ君、ですか」
 心の中で何度か反芻し、
「では、漢字は私たちで当ててしまってもよろしいのですか?」
「ええ。そうしてあげてください。こちらとしても助かります」
 男が仕事に戻るというので、それを見送ってから、私は警戒されないようにゆっくりとした歩みで砂場に近付く。
「ニシキ君」
 少年の小さな背中に向けて話しかける。
 名前を呼ばれた少年は、無垢な瞳でこちらを見上げた。
「今日から、君はここに住むのよ。よろしくね」
 同じ目線に屈んで言った。まずは相手と同じ目線に立つ。それは心に傷を負った子供と接する上での鉄則だ。
 少年の瞳は黒目に茶褐色が混じり、吸い込まれるような錯覚に襲われる。
 その瞳を見ていると、やはり似ているなと思った。
 私が愛した人。更科先輩の面影がそこにはあった。あの人の血を引いていることがよくわかる。
 私が兄を刺して大怪我を負わせ、中上の家から犯罪者を出すまいとして、大人たちにより事実を隠匿されるように軟禁されてから三年の歳月が経ち、ようやく私は自由の身となった。
 そしてすぐに、この少年のことを探し、乳児院に預けられていることを知った。最初はすぐにでも子供を引き取ろうとしたが、それは中上家が許さなかった。やがて乳児院から児童養護施設に移されることを知り、施設の職員として働くようになり、乳児院に少年を引き取る旨の連絡をしたのだ。
 かなり遠回りになってしまったが、それでも少年の側にいたかった。愛する更級先輩の子供をこの手で守り抜くことこそ、私の使命だと思ったから。そのためだったら、一生を賭しても構わないとさえ思えた。
 差し出された私の手を、少年は少し逡巡してから握り締めた。
 この小さな手が、せめて自分自身を守れるくらい大きくなるまでは、守ってあげたいと思う。
 私の掌を握り返した少年の手に触れると、ふと不思議に思うことがあった。
 その日は夏の暑い日だというのに、握り締めたその手は、なぜかとても冷たかった。
 
 

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