六花詠う空に(前世編)

青桜さら

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2.里に帰り着くも

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 徒歩で里に帰り着いた雪乃は、まっすぐ里神の元へ向かう。
 龍神をこの里へ迎えることを、報告するつもりだった。
 里神が直接交渉しても、龍神は次の里神になることを了承しなかったと聞いていたからこそ、雪乃はある程度の覚悟は必要だと思っていた。
 けれど実際に見た龍神は、独りを好むだけで荒神ではないと感じた。
 そのことに安堵しつつ、この里へ迎えるには里神をどう説得するべきだろうか。

(それにしても、冗談が通じる龍神様で本当に良かった……)
 覚悟をしていたとはいえ、実際に命を引き替えにと言われると厳しい。
「雪乃です、ただいま帰りました」
 本殿へ入り扉を閉める。それから正座して静かに深く頭を下げた。
 いつもここに里神がいるわけではない。ここでこちらから呼びかけて、里神は神域より降りてくる。
 祭壇に里神の気配がやってきた。
 静謐に静寂、そして温かい里神。いまはもう弱い気配になってしまった。
 雪乃が神子になってから、急激に里神の力は衰えてきた。 
(わが里神様……)
 雪乃は、なんとも言えない気持ちに苛まれる。
 後任の心配はなくなったというのに、雪乃の心は晴れない。

「雪乃お帰り。龍神はどうだった?」
 里神から声をかけられ、雪乃は頭を上げる。
 優しい声が本殿に響くその声に、少し心配そうな声音が混じっていた。
「お話を聞いていた通りの龍神様でした」
「そう、それは良かった」
 里神は龍神のことを、面倒事を嫌うけれど悪い神ではない、と雪乃は聞いていた。
「龍神様は快く、この地に来てくれるそうです」
 本当は快くではなかったけれど、心配させたくなくて細かいことを省き報告する。
「…………そうか。本当に良かった」
「はい」
 今まで断り続けられてきた里神は、喜びを噛みしめる。
「ただ……こちらに来て頂く際に条件がありました」
 雪乃自身でも無謀だと思ったし、それを龍神が受け入れることさえ想定していなかった。
 とにかく龍神に里へ来て欲しい。あの時はその思いだけで、龍神と交渉していた。
(無謀なことだとわかっていました。気に入らなければ、わたくしなど相手にせずどうにでもできたでしょう)
 けれど雪乃のなにかが龍神の心を動かしたようで、何事もなく雪乃は里へ帰ってこられた。
 雪乃は必死だった。龍神は結果的に里へ来ると約束をしてくれた。
(何をどう思われても、この地に新たな里神が来るというのなら……それでいい)
 神との口約束は、正式な契約になってしまう。
(わたくしは約束を守らなければなりません)
 龍神はこの地の里神となり、雪乃は神子(みこ)と里長と、龍神の花嫁として兼任していく。
「雪乃」
 少し困った顔をして里神は雪乃を見る。
「本当は無茶なことをしてきたんだろう。雪乃が無事に帰ってきてくれて、本当に良かった」
「…………」
 里神は穏やかな声で雪乃に語る。ただそれだけで雪乃は胸が熱くなった。
 これは恋でも愛でもない、そんなものでは言い表せないほどの感情。
 本音を言えば、ここでの雪乃の役目が終わったとしても、里神にはずっとこの里にいて欲しいと思う。
(しかしそれは叶わないこと。せめて里神様が望むことを少しでも――出来ることなら、この里の平穏な日々を約束したい)
 心の奥底に密かに……でも強く思う。
 少しでも里神の憂いが晴れるなら、どんなことでもしたかった。

「ところで雪乃。龍神の条件ってなんだったの」
「龍神様がわたくしと婚姻をすることです。間もなく龍神様は、この里へいらっしゃることでしょう」
(わたくしが取り付けた条件だけども)
 ふいに本殿の空気が冷えた。
「雪乃ちょっと待て。そんなことは頼んでいない。婚姻だと?」
「いえ、願うなら代償をと言われまして……血肉も命もいらないと言われました。ですので婚姻することで了承して頂きました」

 正確には、長々と話をしている間に龍神が話を聞いていなかったから、そのときに雪乃の都合の良い条件を出し了承させた。
 婚姻さえ必要ないなら、龍神はその場で断っただろう。
 けれど龍神は呆れた様子を見せたものの、断ることなく了承した。
 龍神の力は強い。おそらく生きていく時間も果てしなく長いと雪乃は考える。
(なら、ひとときの暇つぶしくらいにはと、考えてくれたのだと思う)

「雪乃、きちんと話をしなさい。婚姻というのはそんなことで簡単にするものではない。もっと自分自身を大切にして欲しい」
「……預かりました手紙を読んでもらいましたが、断られてしまいました」
(次は会ってくれないかもしれない)

 この里は雨が降りにくい。だからこそ里神の加護が必要だ。
 山の実り、川の恵み、作物の豊作。これらは人の力だけではどうにもならない。
 龍神は水や天候を操ると聞く。
 ならば、この土地の加護に最適だろうと雪乃も考えた。
「なかなか了承していただけなくて、提案の一つにわたくしとの婚姻を提案させていただきました」
「それで?」
「はい。すぐに断ろうとしなかったので、多生強引に話の取り決めを」
「龍神と雪乃の婚姻は決定か。けれど雪乃、私は反対だ」
 雪乃は目を見開く。里神はその雪乃の目をじっと見てくる。
「雪乃には幸せになって欲しいと常々思っていた。でもそれが龍神との婚姻とは……。確かにこの地に後任の神は必要だよ。それでも雪乃自身が犠牲になる必要はないだろう」
 里神の言葉は静かに、そして怒りに満ちていた。
 雪乃はここまで里神が怒るとは想定していいなかった。
「里神様どうか静まってくださいませ。どうあっても後任の神様は必要でした。ですから私も里長として、最善を尽くしたのです」
「そうじゃなくて雪乃は龍神に好意を持っているならともかく、そうではなくてただ里に来てもらうための条件として婚姻をしようとしていることに、私は怒っているんだ」
「――それでも後任の神様は、必要だと思います」
「確かにそれは必要。私が消えてしまえば、この里の者たちは別なところへ移住しなければ生きていけないだろう」
「わたくし一人でどうにかできるなら、本望です」
 里神は頭を抱える。
「雪乃には好きになった人と、一緒になって欲しかった。それは確かに私の勝手な考えだよ。それでも幸せになって欲しい」
「――わたくしの幸せは、この里の発展と安定。そして里神様の心が休まることです。それ以外はなにもいりません」
 恋を知らない雪乃は、好きな人と結婚する良さが全く理解できない。
 それでも里神は雪乃の婚姻に、何かしらの思い入れがあるように見える。
「雪乃よ、お前が神子(みこ)だったとしても、一人の人として幸せを手に入れて欲しい。お前がとても心配だよ。なにも雪乃が一人で抱える必要なんてない」
「この里の人々が幸せに暮らせるとしても……でしょうか?」
「だとしても、婚姻は好きな人として欲しかったんだ」
「ですが、龍神様との契約は成りました」
 里神は深く深くため息を吐き出す。
 神との契約は絶対、それを里神は知っているから悩ましいのだろう。
「里神様、大丈夫です」
「雪乃?」
「お会いした龍神様は、悪い方ではありません。でしたら、わたくしが慕うこともあるでしょう。想いは後からでも良いかと思います」
 そうなるかなんて保証はどこにもない。
 それでも今の里神を鎮めるには、この言葉が必要だった。

 先のことは不確かだけど、龍神と恋仲になる可能性はゼロではない。
 不可能を証明するのはとても難しい。だからこそゼロではない可能性に里神が納得してほしいと願う。
「……雪乃がそこまで言うのなら、婚姻のことはもう言わない」
 やっと折れてくれた里神に、雪乃は深く頭を下げて感謝を表す。
「けれど、龍神がここに来てもすぐに婚姻はさせない。私が力尽きる瞬間まで、雪乃の気持ちが龍神へ傾くのを見届ける。私の命が先に消えるか……雪乃が恋に落ちるのが先か……」
 断言の後に里神はそう呟いた。ただ単に反対しているわけじゃない。雪乃のことを心配してるからこその里神の苦悩だろう。
 いまは何を言っても里神の心は安心できない。雪乃はそう思った。
(龍神様と恋仲……)
 それは雪乃にも未知なことで、良い考えが見つけられない。
(可能性はゼロではないけれど……あり得ることなのでしょうか)
 心の中に不安が、波紋のように広がっていく。
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