六花詠う空に(前世編)

青桜さら

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3.雪が降る、神を迎える

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 雪乃は神域にある湖の畔にいた。
 ここは里神の加護のおかげで、枯れることはない。
 凪いだ水面に太陽の光が、眩しいほどに煌めいている。
 今日は龍神がこの地に来る日。
 この湖が良いだろうと里神が、龍神の来訪を許した。
 本来、ひとつ地に神が二人いることはない。
 里神を送り出して、龍神を新たな里神として迎え入れる。里神は本来そう考えていた。
(どうしてこんなことに……)
 里神は、龍神と雪乃の婚姻を認めてない。
 形ばかりの婚姻に過ぎないのにと、雪乃は頭を悩ませている。
 
『雪乃は神子(みこ)の後任を育てなさい。いずれ神子を辞めるときに必要だから。それと普通の人として幸せになれないのなら、龍神との婚姻は認めないよ』

 里神の存在が消えてしまうそのときまで、雪乃を見届けると。
 確かに龍神と婚姻を成せば、神子として退位したとき雪乃は他の人と婚姻が出来ない。
 人並みの生活や営みとは、違う老後になるかもしれない。
(わたくしの全てを掛けてでも、龍神様を迎え入れる必要があったのだから)
 だから覚悟はしていた。
 ただ里神が反対するとは予想していなかった。
 

 寒く雲の低い空から、白い花が降ってくる。
 里にも雪の季節がやってきた。
 目を閉じ雪の結晶を思い浮かべる。六花と呼ばれる雪の結晶は、とても美しく儚い。
 雪乃はこの喜びを詠う。今年もまた美しき景色を見られる喜びを込めて。
 静けさの中に響く雪乃の声は、女性にしては低めだとよく言われてきた。
 それも仕方のないこと。

(そろそろかしら)
 用意していた敷物を畔に敷いて、履物を脱ぐ。そして敷物の上に正座し、ひれ伏す。
(龍神様がいらっしゃる)
 里神から龍神がこの日に来ると聞いていたけれど、時間は読めなかった。
 すこし気まぐれなところがあると、聞いている。気が向いたときにあちらの湖から飛び立つのだろうと、雪乃はそう考え朝からここで待っていた。
 そうして、雪が舞い始める頃に龍神の気配を感じ、雪乃はこうして敷物の上で頭を地につけ待つ。

「久しいな、雪乃。六花を詠うとは風流だ」
「お待ち申し上げておりました。龍神様」
「里神から事情は聞いた。面白いことになっているな」
 笑うだけで許してもらえたことに、雪乃は安堵する。
「……申し訳ございません、全てわたくしの責任でございます。神域のことなのですが……」
「良い良い、気に病むな。この湖に棲むから、心配はいらない」
 本来ならありえないことに、怒ってもおかしくない。それでも、龍神は不問にするという。
「婚姻は遠くなりそうだな、雪乃」
「約束は違えません。申し訳ございませんが、しばらくお待ちくださいませ」
 龍神は雪乃のそばに来て、雪乃の頭を撫でる。
「最初は面倒な人間が来たと思っていたが……雪乃は使命に忠実な神子だったのだな」
 ただ不器用な人間だと、龍神は言う。
「雪乃、顔を上げて」
 言われるままに、ゆっくりと頭を起こす。
 直接見てしまわないように、目は伏し目がちに湖の水面を見つめた。
 水面に吸い込まれる雪が、見える。
「雪乃のために振らせた雪だ。六花と共に詠う雪乃は美しい。婚姻を前提にここに来たのだから、あのときのように胸を張って目を合わせて話をしようか」
「はい」
 初めて龍神の穏やかな表情を見る。
 包み込むような暖かな気配。
 雪乃に心を砕く龍神。
(本当は人が嫌いなわけではないのでしょう)
 雪乃はそう感じた。

***

 里神と龍神は二人だけで話をしたらしい。
 神同士のことに、神子といえども同席はできない。
(わたくしの仕事は、里神様の声を里の人々へ伝えること。里長として、皆が安心出来る環境を維持していくこと)
 とはいえなにを話していたのか、雪乃は気になっていた。もし何かがあれば里神が伝えてくる。そうしてこないなら、その必要がないということだろう。

 雪乃は務めの合間に、雪道を踏みしめて湖に通っていた。
 義務とかではなく、なんとなくそうしたかった。その理由は雪乃もわからない。
「雪乃、寒くはないか?」
 そう出迎えてくれる龍神に、雪乃の心は絆されていく。
 短い逢瀬に、寄り添うだけの時もあったり、以前いた湖のことを雪乃に話をしたり、この里のことを雪乃から聞いたり。
 なんてことない毎日が雪乃の楽しみだ。

 ある日務めの後、雪乃は里神に呼び止められる。
「楽しそうだね」
「そうですか?」
 確かに楽しいかもしれない。
 里神から見て「楽しそう」と見えるなら、それは正しいことだろう。
「悔しいけれど、龍神のせいかな」
 そうぼやく里神は、少し悔しそうな顔をしていた。
 雪乃が楽しそうに過ごしている姿は、龍神がこの地に来てからだと里神は言う。
「この里を龍神に任せるのは、全く問題ない。けれど雪乃がな……婚姻なんて神とするもんじゃないよ。幸せになれないだろう?神という存在は、立派な神ばかりじゃない。そんな世界に関わるなんて、雪乃は本当に愚かだよ」
 まるで父親の小言だと雪乃は感じる。
 幼少の頃から雪乃は、里神の神子としてずっとこの地にいた。
 里神にしてみれば、娘のような存在の雪乃を嫁に出す気持ちだろう。
「里神様、全て承知しております。覚悟も」
 雪乃がそう答えると、里神は深く深くため息を吐き出す。
「いつの日か神子をやめて、普通の人として人生を歩んで欲しかったな。幸いにもこの時代は能力ある者に恵まれた。神子の後任教育もしっかり頼む」
「はい」
 里神はなにかを諦めたように、脱力して本殿から消える。神域へ帰っていったのだろう。
 弱くなっていく里神は、こちらにいるだけで力を消耗してしまう。
 話を聞く回数も時間も、日々短くなっていくことに雪乃は気付く。
(どうしたら里神様の心を、穏やかにできるのでしょう……)
 龍神と良好な関係なら、大丈夫と思っていた。けれど、それはそれで里神を悩ませてしまう。
 仲違いしても婚姻は決定事項。
 どちらにしても、雪乃の決めたことは里神を悩ませることになってしまった。

 里長として皆を見守るとともに、雪乃は能力がある者たちを選別していく。神子後任のために。
 基本的に男女は関係ない。ないけれど、女性の方が良いとされてきた慣習を思えば、女性であるほうが気持ちは楽だろう。
(わたくしのような苦しみは、もう終わりにしてあげたい)
 今はともかく雪乃が去った後、生まれてきた者たちが男児だけの可能性もある。   
 雪乃のときと同じように。
 性別をひた隠しにし、女性として生きていくことはつらい。
 里神は神子の性別も姿も気にならない。神だからこその感覚かもしれないと雪乃は考えている。
(そういえば……龍神様は気付いているのかしら?)
 欺く意図は全くなかったし、神ならすぐに気づくと思っていた。けれども、仮に気づいていなかったら……。
 雪乃は急に背が冷たくなる。

「雪乃様、ご気分が悪いのですか?」
 幼い子が雪乃の顔を覗き込んでいた。
 小さな可愛らしい女児。神子候補の一人の子。
「大丈夫ですよ。さて今日は何のお勉強をしましょうか」
「はい」
 少し気分の落ちた声が、少女の口から落ちる。
「お勉強は嫌いですか?」
「い、いえ、そんなことは」
 嘘のつけない素直な彼女は、慌てたように否定する。
 愛らしいその姿に、雪乃はかわいそうに思う。
 望んで神子候補になったわけではない。実力があったからこそ、雪乃は彼女を選んだ。
 他にも候補はいるけど、その中で能力が秀でているのが今目の前にいる少女だった。
「神子になるのは怖いですか?」
「わからないです」
「では今日はお勉強ではなく、神子について知らないことや不安なことを聞いてあげましょう」
「いいのですか?」
「ここだけの話ですが、わたくしも勉強は嫌ですよ」
 雪乃がそう言うと少女が笑う。それにつられて雪乃も一緒に小さく笑う。
 年相応の幼い心。
 雪乃とは何もかもが違う存在を、大切にしてあげたい。

(できれば、里長の職も分けてあげたい。神子の仕事が多すぎて、人によって合わないこともあるでしょう)
 里のすべてを神子一人で、背負うのはとても大変なこと。
(わたくしのときは、それが当たり前でそう教えられてきた。でも時代の流れに合わせていくのも必要)

 少女の不安や好奇心からの質問に、雪乃はわかりやすく笑顔で答えていく。
「雪乃さまの背は、とても大きいですね」
「もう少し、小さくなりたかったですよ。理想があっても思うようにいかないものですね」
 女性にしては高い身長。長い髪で雰囲気を隠しているけれど、雪乃は男性。
 男性にしてみれば低めの身長。声だって声変わりしてから、常に高めの声を出そうと心がけている。
 神子の適性に男女は関係ないと言っても、やはり見た目は女性であるように……また、近しい者のほかには性別を隠すことを教え込まれた。

『里神様を欺く必要はありません。ですが、里の人々を不安にしないこと』
 男性の神子は過去にもいた。
 その時代に里人は神の怒りに触れ、里の天候は荒れに荒れた。
 元の原因は里人の乱れた行為にあった。
 女性を大切にしなかったり。盗む行為を多数の者がしていたり。神子に敬意を持っていなかったり。などなど。
 信仰心がなかったことも、原因のひとつだっただろう。

 男性の神子だから厄災が起きたわけではない。
(すべてが……男性の神子だったから神の怒りに触れたと。そんなわけがないのに)
 その神子は贄にされたと、記録に残っていた。
(神子に否はなかった)
 誰かに責任を押し付けたかった人々は、それで満足したのだろうか。
(わたくしが神子でいる間に、あの記述は消してしまいましょう)
 雪乃が神子の役目を終えたとしても、男性として生きていくのは無理だろうと考える。
 女性の神子として役割をこなし、また里長も兼任している。
 女性の神子だから皆は安心している。
 男性だったとわかったときに、人々はきっと平静でいられない。
 何か災いがあったときに、雪乃が贄にさせられる可能性は高かった。
 ならこのまま女性として生きた方が、自分自身も里の人々も平穏でいられるだろう。

(すでに人並みの生活はできないのなら、龍神様の花嫁になっていたほうが里は安泰でしょう)
 龍神に雪乃の性別を言うべきかどうか悩む。
 知っているなら問題ない。知らなくても契約はすでに成っているため、それも問題ない。
 龍神との関係が良好になったいま、自身の性別の話をするのが怖いと雪乃は思い始めていた。
(龍神様を欺いたわけではないのに、どうしてこんなに心が苦しいのでしょう)

 龍神がこの里に来て、ひと月が過ぎる。
 それでも里神は雪乃が心配で、穏やかにこの地を去ることができない。
 幸いにも龍神の気分は害していないのが救いだった。
 神子後任の教育は、皆それぞれ頑張っていて順調。
(できれば……神子は女性に、里長は男性に)
 神子と里長の関係が対等なら、より良いだろう。
 祭事も分けるほうが、神子の負担が減ると雪乃は考える。
(私が変えなければ、これからも同じことが続いていく)
 雪乃には、それだけの権力があった。
 龍神との婚姻は形だけでも、雪乃の言葉に重さが増す。
(生きている間に、いろんなことを変えていかなければ)

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