六花詠う空に(前世編)

青桜さら

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4.悩ましい心、つながる心

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「最近の雪乃は、少しばかり元気がないように見える」
「そんなことはないですよ」
 龍神が心配した顔で、雪乃を覗き込んでいた。
 はじめて龍神を見たとき、正直なところ……心優しき龍神とは思っていなかった。
 人と関わりたくない。そんな雰囲気があった。
 過去に何があったのか、何もなくても人が嫌いなのか、それはわからない。   
 龍神の言っていた通り、人の心は移ろいやすい。
 それは仕方がないことだろう。
 雪乃自身も人々の勝手によって、女性の格好をさせられ……また男性であることをひた隠しにしなければならない。
 恨んではいない。それでも理不尽だと雪乃は思う。
 過去に亡くなった神子もまた、里の人々の理不尽で命を奪われた。
 もう繰り返してはならない。
「雪乃は難しく考えすぎだ。立場があるのはわかる。けれど、もう少し自分自身を大切にして欲しい」
「龍神様、わたくしは神子です。この里のすべてを守らなければ、いけないのです」
「雪乃を大切にしてくれない里なのに」
「……里神様が大切にしてくださいます」
 龍神はひとつ息を吐く。寒い空気の中、それは白く雪の景色に美しく見えた。
「雪乃、寒くないか?」
「はい」
 今更ながら、龍神が棲む湖の周りは雪化粧で……白く煌めき何もかも浄化してしまいそうなほど美しい。
 雪は積もっていても空は青く、陽の光が降り注ぐ。
(そういえば、本当に寒くない)
 寒さに慣れている雪乃の指先は、冷たくなっていないことに気づく。
 両手を広げ指先を見つめている雪乃に、龍神はほほ笑んだ。
「やっと気づいたか。雪乃がここに来るときは、寒くないようにしていた」
 人は脆いからな、と龍神は言う。
 雪乃は温かい指先から、龍神へ視線を滑らせる。
「申し訳ございません。ありがとうございます」
「毎日会っているのに、雪乃は考え事ばかり。体を大切にしてくれ」
「はい。――あの、この雪ももしかして……」
 龍神は湖を見た。
「この湖は美しいな。こうして雪乃と一緒にいられるのだから、俺から雪の贈りものだ。雪が好きだろう?」
 朝には晴天だった。
 なら、この雪は深夜に降ったことになる。
 里にも雪が積もっていたけれど、人々の困るほどではなかった。
 ここの雪景色だけが、何もかもが真っ白。
(皆が寝静まる夜に……)
 湖を見つめる龍神を、雪乃は見つめる。
 思えば、人と関わりたくないと言っても、基本的に龍神は思いやりに溢れていた。
 すべてを抱え込む雪乃に、寄り添ってくれていた。
「……もしかして龍神様は、わたくしを好ましいと思ってくださっていますか?」
「やっと気づいたか」
 水面の揺らめきを見ていた龍神は、再び雪乃に向き合う。
 優しいような、呆れたような、嬉しいような。そんな表情が混ざっている。
「雪乃が寒くないように温かい空気に包んでいても、それに気が付かないほど里を思う雪乃が好ましい。意外と素直なところもまた好ましい。きっと俺は雪乃を愛おしいと思う」
「愛おしい?」
「そうだ。暇つぶしのつもりでこの里に来た。でも今は雪乃が愛おしい。雪乃、どうか俺の伴侶になってほしい」
 伴侶。神様の伴侶。それは雪乃が人でなくなること。
 龍神から正式に求婚されているということ。
(嬉しい)
 嬉しい、けれど雪乃は龍神に男性だと言っていない。
 里のこともやり残している。
(言わなければ)        
 女性ではない雪乃を、龍神は同じように想ってくれるだろかと怖くなる。
 そこまで考えて雪乃自身もまた、龍神を愛おしいと感じていたことに気付く。
 口を開き伝えようとするけど、言葉が出てこない。
「雪乃。返事は急がない、いま答えなくても良い」
「そうではないのです、わたくしは龍神様に伝えなければいけないことが」
 伝えなくてはいけない。
 まっすぐな想いを欺いてはいけない。
 雪乃は一度強く目を瞑り、そうして再び龍神としっかり目を合わせた。
「聞かれなかったので、言いませんでしたが……わたくしは女性ではありません。ですから本当は婚姻や伴侶は――。龍神様、わたくしが嫌になりましたか?」
 最初から婚姻の話で、この地へ龍神を招いた。
 形ばかりの婚姻。それは龍神も雪乃も承知していた。
(本当の想いになるなら、わたくしも本当のことを)
 たとえそれが龍神に受け入れられないとしても、雪乃は全てをさらけ出し龍神の望むままに償おうと決意する。
 胸が苦しい。痛い。
 雪乃もまた、龍神を愛おしく思いはじめていた。
「龍神様、わたくしは女性ではありません。騙す意図はありませんでしたが……結果的に欺くような行為になってしまいました。もし……お許しいただけないのなら、龍神様の望むままに、わたくしは償います。ただ、わたくし一人だけを罰してくださいませ。どうか――」
 雪乃は血を吐くように、己の真実を龍神に告げる。 
「都合の良い話だと、理解しております。ですが、どうか……」
「雪乃」
 必死に言葉を綴る雪乃に、龍神は止めた。
 発言を許されないなら、雪乃は黙るしかない。
 あとは龍神の心ひとつで、この里の未来は決まってしまう。
(本当に思い合っていなければ、形だけの婚姻だったならば、こんなことにならなかっただろう。わたくしが恋さえしなければよかったのに、なんて罪深いことでしょう)
 誰かを好きになることが、大きな過ちになるなんて雪乃は思っていなかった。
 そもそも誰かを愛おしいと思うことは、雪乃の人生でありえないと考えていた。
(女性として生まれていれば、なにも問題はなかったのでしょう)
 今更そんなことを考えても、どうしようもないことだと知っている。
(この命を失うとしても、守らなければいけないものがわたくしにある)
 咎は雪乃だけにある。
「雪乃」
 再び龍神に声をかけられて、雪乃は見つめ返す。
 何を言われるのだろうか、恐れながら雪乃は龍神の言葉の続きを待つ。
「雪乃はそんなことを気にしていたのか? それとも他に隠していることがあるのか?」
 思わぬ言葉に雪乃は言葉を失った。
 そんなことでは済まないはずだと思う。そう思っていた。
「いいえ、他に隠していることはありません」
「なら、なにも問題はない。性別なんて些細なもの。子を作るわけじゃないし、作れるわけでもない。そうだろう雪乃?」
 人と違うからこその、龍神の感じ方に雪乃は驚きを隠せない。
「わたくしが男性であっても、龍神様の想いは変わらないということでしょうか…………」
「何も変わらない。雪乃が雪乃であれば、俺はそれでいい。雪乃はどうだ」
 絡み合う視線は月明かりに照らされて、龍神の言葉が真実だとわかる。
「わたくし、ですか?」
「俺は伴侶になる申し込みを、雪乃にしたつもりだ。伴侶とは形だけの婚姻ではなく、俺の眷属となり人の営みを外れることになる」
 そのほかに寿命が延びること、見た目は若いままだということ、いずれ龍神の神域で暮らすことになることなどを雪乃に細かく説明していく。
 その申し出はとても雪乃の心を揺さぶった。
(愛おしい龍神様と長いときを、一緒に暮らしていく)   
 それはなんて素敵なことだろうか。
 里神でもしたことがなかったことを、龍神は雪乃に求めてくる。
 それほどまでに好まれていると思えば、嬉しさで涙が出てきた。
(でも、わたくしは生きているうちにやらなければいけないことがある)
 嬉しいと同時に、それを断らなくてはいけない胸の苦しみがつらい。

「雪乃、泣くほど嫌だったか?」
「いいえ、とても嬉しいです。けれど、わたくしは人であるうちに、やらなければいけないことがあるのです。この里の未来にわたくしのように悲しむ者、苦しむ者を救わなくてはいけないと考えています。私は神子です。この里の長であり、里神様の言葉を人々に伝える使命があります」
 龍神は雪乃の言葉を静かに聞いた。
 雪乃も神子としての自分が、しなくてはいけないことがあると必死に伝える。
「わたくしが人でなくなったら、ここの神子でいるのは無理でしょう。加護してくださるのは里神様ですが、あくまでこの里は人の住まうところ」
「そうか。なら雪乃のやるべきことが終わるまで、俺は待っていよう」
 どこまでも深く広い心で、雪乃のことを大切にしようとしてくれている。
「龍神様、ありがとうございます。ですが、里内部の改革は簡単にできることではありません。全てが終わるころにわたくしは、年老いた者になっている可能性もあります。そこまでお待たせするのは、心苦しいく思います」
 人の命は短く儚い。
 里の慣習を変えることは、想像つかない苦労があると雪乃は考えている。
 時間もかかる。そこまでして龍神を待たせることは、雪乃にはできない。
「姿が変わっても、雪乃には変わりないだろう。無理にとは言わない。けれどもし雪乃にその気があるなら、前向きに考えて欲しい」
 雪乃の白い左手を龍神は取り、薬指の付け根に柔らかい口付けをした。
 今まで感じたことがない、胸の高鳴りが雪乃の中から溢れる。
(これが本当の恋というものでしょうか……)   
 ただ呆然とそんなことを頭の片隅で思う。
 月明かりと水面に反射する光が、雪乃の見えている世界全てを煌めかせている。
 甘く切なく、そして愛おしい。
「雪乃、これから先もよろしく」
「はい」
 ふわりと笑う龍神は、手のひらを空にかざし白銀のひらひらと六花が落ちてくる。
「また詠ってくれ」
「――はい」
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