幼馴染は吸血鬼

ユーリ

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前編

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鋭い犬歯が皮膚を貫く。
言うならば採血と同じかもしれないけれど、あの瞬間はやはり少しばかりの痛みを伴う。
首元を噛む男の喉がごくごくと動いた。
ああ、僕の血を飲んでるんだなと、今までの人生のどんな行動よりもどんな言葉よりも恍惚としてしまう。
この男は僕の血がないと生きていけない。
そっと手を伸ばして、大きな体を抱きしめた。
今、この瞬間、僕だけのもの。





「おい莉央。まだ準備は終わらねえのか。学校遅刻するぞ」
ベッドの上で呆れたように声をかけられ、塩原莉央(しおばら・りお)は「ごめんっ」と叫んだ。
「もうちょっと待って! シャーペンが! シャーペンがどっか行った!」
「どうせお前のことだから制服のジャケットのポケットにでも入ってんだろ」
「入ってたー! なんでわかるの!?」
「何年幼馴染やってると思ってやがる。お前の行動は全部把握済みなんだよ。ついでにパンツ裏返しだけどいいのか?」
「へ?」
ズボンを履こうとして下半身を見る。…ホントに裏返しだ!
「ったくお前は世話が焼ける」
そう言って大男が…桜場旺志郎(さくらば・おうしろう)が立ち上がり莉央のパンツを引き下げた。
「ぎゃあ! 旺志郎くん何してんの!?」
「何って、パンツ裏返しだろ。元に戻してやるよ」
「自分でできる! ちょっ! お尻揉まないでっ! 変なとこ触んないでっ!」
「相変わらず肉ねえな。俺の保存食なんだからもうちっと太れ」
そう言いながら莉央の小さめの尻を大きな手で揉み始める。
「んっ、ちょ、あ、や、やめ…っ」
「朝からエロい声出してんじゃねえよ。喘ぐならこのまま続けてやろうか?」
「だ、だからっ、自分でできるっ」
ジタバタ動いていると肘が旺志郎の腹にヒットしたらしい、大男がその場に沈む。
チャンス! と莉央は即座にパンツを脱いで表と裏を返した。
大慌てで準備を進めてふたりは家を出た。
「忘れ物ねえな?」
「ない! 旺志郎くんは? ちゃんと血液パック持った?」
「今日は三パック持ってきた」
「…間に合う?」
「間に合わなかったら保存食のお前の血を飲む」
莉央は少しだけ顔を赤くさせ、ジロリと旺志郎を睨んだ。
「何その言い方」
「何も変なこと言ってねえだろ。保存食が嫌なら…緊急食料?」
「どっちみち食べ物じゃん」
「似たようなもんだろ」
大きな手のひらが伸びてきて頭を撫でられる。くすぐったさに莉央は目をつむった。
ーー塩原莉央と桜場旺志郎は家が隣同士のごく普通の高校一年生同士のごく普通の幼馴染だった。
実は旺志郎が吸血鬼ということを除いて。




(最初っていつだっただろ)
授業中、黒板を見ながらも莉央はぼーっと考えていた。
旺志郎とは幼稚園からの幼馴染だった。家も隣同士で同い年、親同士も仲が良いためよく一緒に遊んだ。
(あれだな…水族館に行ったときだな)
小学校低学年のとき、ふたつの家族で水族館に遊びに行った。たくさんの魚が泳ぐのを見る中、莉央と旺志郎は手を繋いで館内を一緒に見て回っていた。
しかし、旺志郎の様子がどんどんおかしくなっていったのだ。
呼吸が荒く、息苦しそう。行く前に車の中であれだけ一緒にお菓子を食べたのに「おなかがすいた」とずっと言っている。
そのときだった。
幼き日の旺志郎が、幼き日の莉央の首を噛んだ。魚たちが泳ぐ水槽の影に隠れ、ごくごくと喉を鳴らしながら自分の血が飲まれる音というのを初めて聞いた。
その帰り道、旺志郎は実は吸血鬼であることを桜場家から教えられた。
(あの日から僕は旺志郎くんの保存食なんだよなあ)
人間の血を飲んだのは莉央が初めてで、あれから十年は経つがパックに入れられた血液以外では莉央の血しか知らないらしい。
(…僕だけが保存食なのかなあ。そうだったらいいのになあ)
ふと、机に置かれたスマホに通知が入った。莉央はおずおずと手を上げて事情を知る教師に知らせると「行ってこい」と言われて授業中だけれども教室を出て行った。
旺志郎からだった。莉央は少し慌てながら保健室へ向かう。
「失礼しまーす」
「あ、塩原くん。彼ならあっちにいるよ」
保健医はそう言って仕切られたベッドを指差す。
「えっと、血液パックは…」
「持ってきたのは全部飲んじゃったみたい。保健室に常備してあるパックも飲み切っちゃってね」
「足りるかどうか聞いたのになあ…」
「今日の一時間目が体育だったみたい。思ったより体力使っちゃったんだろうね。育ち盛りだし、どうしようもないかも。僕は校内回ってくるよ。鍵かけとくから一時間でいいかな?」
「お手数おかけします…」
小さく頭を下げると保健医は出ていき、鍵のかかった音が聞こえた。
仕切られたカーテンを開けて、小さめのベッドに大きな体を丸くして横になる旺志郎を眺めた。
「旺志郎くん」
呼びかけると薄目を開ける。
「大丈夫?」
「…腹減った」
「今日は三パックじゃ足りなかったみたいだね。保健室に常備のも飲んだみたいだし」
「…ハラヘッタ」
「量増やしてもらうように魔法省? に言ったほうがいいんじゃないかな。最近足りないこと多いし…」
「…はらへった」
同じことしか口にしない旺志郎につい笑ってしまう。莉央もそっと、ベッドに上がった。
保健室のベッドは小さい。小柄な莉央には十分だが、背も高ければ体も大きい旺志郎には狭そうだ。
旺志郎の頭を撫でる。
その手を取られ、口付けられた。そのままガジガジと指先を噛まれる。
早く飲ませろ。そう言っているのがよくわかる。
莉央は自分の指先を見つめる。お腹が空いたときにだけ鋭くなる犬歯が、指を噛んでいる。
あの犬歯で皮膚をーーそう考えた莉央にゾクゾクと甘い震えが走った。
制服のジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外す。全部脱いでしまう前に勢いよく旺志郎に押し倒された。
「旺志郎くん…」
四つん這いの旺志郎に腕を一纏めにされ頭の上で固定された。
目の色が変わっている。フーッ、フーッ、と息が荒い。呼吸するたびに鋭い犬歯がちらりと見えた。
待ちきれないのだろう、だらだらと涎が大量に垂れている。莉央の喉元にぼとりと落ちる。
まるで獣に食べられるようだ……一瞬だけ、本当に一瞬だけゾクリと背筋が震えた。
「もう待てねえ」
大きな口を開けて露わとなった莉央の右肩口に噛み付く。ず、と犬歯の先端が押し当てられ、そのまま皮膚を貫く。
「んっ…」
この瞬間だけは慣れない。やはり痛みが伴う。けれどもそこさえ通り過ぎれば大丈夫だ。
じゅ、じゅ、と肩から音が響く。最初は傷口から溢れるようでこぼれないように旺志郎は少し焦りながら吸うのだ。
次第に、ちゅう、ちゅ、と軽い音に変化し、最後はごくごくと喉が鳴る音だけが聞こえる。
「旺志郎くん…僕は逃げないから、手、外してほしいな」
そう訴えると一纏めにされた腕を解かれ、莉央は旺志郎の頭を撫でた。
「時間はあるからゆっくり飲んでね」
答える代わりに肩口をぺろりと舐められる。再び喉が鳴る音が保健室内に響いた。
莉央はゆっくりと呼吸をする。あまり体に力が入ると飲みづらいらしい。この十年ですっかり学習した。
(僕だけ、でいいんだよね…)
他人の血を飲んだ、という話を旺志郎から聞いたことはない。…聞いていないだけかもしれない。
今だけは、この瞬間だけは僕のものだと、旺志郎に抱きついた。
ーー飲み終わった旺志郎が顔を上げ、莉央の右肩口をじっと見る。
「穴が開いてる」
「そりゃあ今キミが噛み付いて飲んだからね」
「跡がついてる」
「そりゃあ今キミが噛み付いて飲んだからね」
「それもそうか」
満足したように頷き、もう一度ぺろりと莉央の肩を舐めてから顔を上げた。
「絆創膏貼ってやる」
「ん、ありがと」
大きめの絆創膏を貼られた。シャツやジャケットに血がつくと取れないので予防である。
「あー、腹いっぱい。ごっそーさん」
莉央の小柄な体を抱っこしてごろりとベッドに寝転ぶ。
「もっとこっち来い。落ちるぞ」
「う、うん」
「あとどれくらい時間あるんだ?」
「えっと、三十分はあるよ」
「じゃあギリギリまで昼寝だ。腹いっぱいだからねみい」
なぜか旺志郎は血を飲んだあとは必ず莉央を抱っこしてしばらく眠るのだ。
「お前のデコかわいいな」
前髪をかき上げては旺志郎が唇を落とす。
「か、噛まないでよっ!? おでこに穴開いたらちょっと怖い…」
「そんときはでっかい絆創膏貼ってやるよ」
「おでこにそれはちょっと…」
「…絆創膏で顔隠れそうで怖えな。お前普通サイズのマスクしたら顔全部隠れるだろ」
「あー、アレね…マスクっていうかお面だよね…」
「お前は顔ちっちぇえからなあ」
喉奥で笑われてさらに抱きしめられる。耳元で囁かれた。
「いつもありがとな、俺の保存食」
「…保存食呼ばわりされてる」
「じゃあ緊急食料。それが嫌なら…エサ?」
「なんかひどくなってるっ」
「ははっ、いいだろなんでも。なあ莉央。ずっとお前の血を飲ませてくれよな。ずーっとだ」
こくこく、と腕の中で頷くと、旺志郎が嬉しそうに笑った。
しばらくして寝息が聞こえる。莉央はもう少しだけ、とさらに抱きついた。





「お前最近ポテチばっか食ってるだろ」
「なんでわかるの!? 旺志郎くんに隠れて食べてるのに!」
「血の味が違う」
「…わかるものなの?」
「俺はもう少し脂っこい血が飲みたい。油は油でも肉だ。お前、もっと肉を食え。なるべく脂身だ」
「えー…結構食べてるんだけどなあ…」
「だからお前は細いんだ。腰なんてこれくらいしかない。尻も太ももにも肉がない。もっと肉をつけろ!」
「変なとこ触んないでよっ」
「だったらもっと食え。俺の保存食としての自覚を持て!」
「痛い痛いいたいっ! ちょっ、押しつぶされるっ」

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