紅蓮慕情

井海博人

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落花 二

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   部屋へ入ると俺は机の上にバッグを投げ出し、ネイビーブルーのネクタイを緩めてから紺鼠色のブレザーを脱いでベットに放り投げた。

その後で、窓際にある背の低いキャビネットにぎっしり詰まったCDの並びに目を通してベートーベンのピアノソナタ第十四番を探す。

最近じゃ音楽はダウンロード購入が当たり前で、随分長いこと放置されていたそれらはうっすらと埃をかぶっている。

 そんな俺を尻目に、姉は入り口に突っ立ったまま感慨深げに部屋の中を眺めていた。

「何か、和くんの部屋入るの久しぶり」

 四角い部屋の隅から隅まで視線を配ると、姉はそう言って入り口でスリッパを脱ぎ室内へ足を踏み入れる。

「あー、でも、やっぱり男の子だなぁ。ちゃんと片付けなきゃ」

 それから、笑いながら仕方なさそうにつぶやいて、今脱いだ俺の制服のブレザーをハンガーにかけて奥行き二畳はある大きめのウォークインクローゼットの中に吊るし、朝からずっと椅子の背もたれに置かれたままだったパジャマ代わりのスウェットの上下をきちんと畳んで椅子の上に乗せ、フローリングに散乱した読みかけのマンガを一箇所に重ねた。

 名誉のために断っておくが、一般男子高生に比べれば俺の部屋は整理整頓が行き届いている方だ。

「だから、わたしが掃除してあげるって言ってるのに」

 芸術的な曲線を描く細めの眉を少し吊り上げ頬を膨らませると、姉は俺に向かって怒ったように言う。

もちろん、可愛いだけで全く怖くはない。

   姉が高校を卒業するまで俺の家では家政婦を雇っていた。

だが無職の妙齢の女性に与える肩書きというわけではなく、正真正銘姉が家事手伝いをするようになってから、我が家の掃除・洗濯・料理はほぼ全て彼女の手に委ねられている。

それでも、俺は自分の部屋を姉に掃除されることだけは断固拒否していた。

悟志のようにベッドの下やタンスの裏からエロ本が出てくることはまずないが、かといって姉に自分の部屋を見られることは、頭の中を覗かれるのと同じような気がして落ち着かない。

まして、自室に彼女の残り香が漂うのを発見してしまった日には、理性を保っていられる自信などない。

「そういえば『月光』って、姉さんが持ってるんじゃなかったっけ?」

 一通り調べて目的のものがないと分かると、俺は振り向いて尋ねた。

姉はいつの間にか俺のベッドの上に座り、まだキョロキョロと部屋のあちこちに視線を馳せながら足をブラブラと揺らしている。

「そんなことないよぉ。和くん『俺が買うから、聞きたかったら借りに来て』って言ったじゃん」

 すぐには思い出せず、俺は記憶をたどりながらしばらく沈黙した。

 俺も姉も洋楽ファンだが、姉はクラッシック派で俺はポップス派だ。

だが、彼女と共有できるものが増えるのが嬉しくて、クラッシックも聞くしCDも買う。

「月光」は特に曲調が姉のイメージによく合っていて、気に入っていたから自分で買った記憶はある。

それなのにないということは、誰かに貸したまま忘れているのか……。

 何年も前から俺は、家の中で姉の存在を意識せずにはいられなくなっている。

幸い俺の家族は日常的な団欒は食事の時くらいで、家にいる時は自室に籠もってさえいれば顔を合わせずにすんだからまだ何とかなっているが、姉がそばにいると腕を伸ばして抱きすくめたくなる衝動を堪えるのに俺は毎日必死になっていた。

姉の足音が廊下に聞こえるだけで、風呂上りの芳香が漂ってくるだけで体の奥に湧き上がる熱を鎮めるのに精一杯で、何も手につかなくなる。

 もちろん、頭の中じゃ何度も姉を抱いていた。

細くて白い裸身を露わにし長い髪を乱して甘い声で俺の名前を呼びながら、あられもなくよがる姉を想像しただけで何本でも抜ける。

だけど、現実では一度手を伸ばしたら止められなくなるのは分かっていたから、懸命に己を保とうと、極力距離を置くことを選んだ俺を見て、彼女はしごく不服そうに言ったものだ。

「和くん最近なんか冷たいよね、小さい頃は何でもお姉ちゃんお姉ちゃんだったのに、弟って成長しちゃうとつまらないの」と。

――人の気も知らずに。

 今だって、沈黙が下りたとたん部屋全体に感じる姉の気配に圧迫されて押し潰されそうな気分だ。

小柄な姉の体が俺の理性にとっては凶器に等しい。

にもかかわらず弟の心中の葛藤など夢想だにしない彼女は俺の態度に拘泥することもなく、いつも天真爛漫に近寄ってくる。

俺の方は今この瞬間でさえ、姉に意識を引きずられて思考がまとまらず、うまく記憶を手繰ることすらできないのに。

 もしかしてうっかり見落としているんじゃないかと二度三度とCDの列に目をやり続けていると、不意に一つのことを思い出した。

「そうだ、あれ貸したんだ」

「え? そうだったの?」

「やっと思い出した。探してもないはずだよ」

「思い出せないくらい前に貸したの?」

 やや呆れたような、咎めるような声で姉は疑問を追加する。

「貸したのは春休み前だけど……」

 誰に貸したのかについての記憶が曖昧だったから、なかなか思い出せなかっただけだ。

確かダンス部だか演劇部だかの、「女子が卒業公演に必要だから、持ってる人を探してるらしい」と悟志に言われた。

俺がクラッシックを聞くことを悟志も知ってたから、その流れで俺に声を掛けたんだろうと考えて嬉しそうに受け取りにきた学年も名前も知らない女子に渡してやった。

後から悟志に「あの子お前のこと好きなんだぜ」と言われ、そこはかとなく後悔したのを覚えている。

「いくらお友達でも、借りたものはちゃんと返してくれないと、ねぇ?」

 ベッドに座ったまま、俺に同意を求めるように姉は僅かに首を傾げる。

その動作に背中の髪が一方向にサラサラと流れ、微妙に晒された白亜のうなじに俺の視線は一瞬釘付けられた。

「いや、友達っていうか……」

「友達じゃないの?」

 彼女を見つめながら無意識に返した俺の言葉に、姉は反問してくる。

友達どころか、顔すら思い出せないのだから知り合いとさえ言えない。

 何と答えようかと言いよどんでいると、俺の態度に何を悟ったのか、姉が突如明るい表情になるとにわかに声のボリュームを上げた。

「分かった、彼女?」

 ハ?

 思いもよらない言葉が姉の口から飛び出してきたことに、俺は一瞬呆けた。姉からはさぞ間抜けな表情が見られたことだろう。

「彼女に貸したんでしょ?」

 だから言いにくかったんでしょ? 

 言わなくても分かってるわよ、と後に続きそうな口調で、姉は目を輝かせて疑問形で断言する。

その呑気な言葉に俺は昏い苛立ちを覚えた。

「和くんの彼女ってどの子だろ? わたし知ってる? あ、もしかして前見たあの子? 髪が長くて肌の白い、わたしと同じくらいの身長の子?」

 食料品や日用品は近所の出入りの店に配達を頼んでいるし、今はネット通販で何でも手に入る時代だ。

とはいえ、姉もたまには買い物にも行けば月に一度は通信大学のスクーリング授業があるし、学生時代の同窓会に出席することだってある。

そのために、俺は去年の暮れ一度だけ女と歩いているのを姉に目撃されてしまった。

誤解されるのを恐れて、その女とはすぐに手を切った。――でも、やっぱり姉は誤解していたらしい。

「あの子すごく可愛かったもんね。和くん昔からモテるから、付き合ってる女の子たちもレベル高いよね」

 なんて、いかにもそれが姉として誇らしいとでもいうように、満面の笑みで続けられたら、俺はどうしたらいい?
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