溺れ愛 ―おぼれあい―

井海博人

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 ほんの出来心だった。



 昔から友人だけにはまぁまぁ恵まれていたけれど、特に成績がいいわけでも部活動で活躍するでもなく、容姿も性格もいたって平凡。

人の輪の中心に立ったこともなければ、重要な立場を任されたことも、何かで目立ったこともない。

もちろん、不満は口にすればキリがないし、自分よりひどい条件の人はいくらだっているだろう。

だから、決して不幸だとは思わなかった。

けれど、これから先の人生に関して、様々な不安を抱えていたのも事実だ。



 わたしって、ずっとこのままなのかな――



 特別悪いこともない代わり、特別いいこともなく、いつもそこそこの幸せを、できる限り噛み締めて生きていく。



 ちょうど将来について面と向かって考えさせられる時期だし、受験のプレッシャーもあったのかもしれない。

そんな十人並みの生き方が見える気がして、高三に進級してから、芙由はずっとそこはかとない鬱屈を抱えていた。



 そこに降って沸いた、指定校推薦の話。

まさか自分にそんな幸運が巡ってくるとは少しも想像していなかった芙由は、かなり舞い上がった気分のままダメ元で受けてみた。



 それが、意外なことにあっさりと合格。

「自分は選ばれた人間なんだ」なんていう驕りを抱くほど天狗にはなれなかったけれど、それでも少なからず自信がついたのは確かだった。



 なのに、卒業間際になって高一の時から付き合っていた彼氏にふられた。



「大学も別々だし、住んでるところも遠くなるし、これからあんまり会えなくなるから、この機会に別れた方がいいと思うんだ」



 なんていう理由で。

飽きたなら飽きた、他に好きな人ができたならできたとハッキリ言ってくれればよかったのに。



「いつまでもズルズル付き合っててもしようがないじゃん? 別れた方が二人のためにもなると思うしさ」



 そんな風に「いい男」ぶられて無性に腹が立った。



 だから、ただ魔が差しただけ。

自分のなけなしの幸運に水を差されたような気がして、むしゃくしゃした気分をどうにかしたくて、学校帰りに立ち寄った近所のコンビニで、目に付いたルージュを衝動的にカバンに放り込んだ。

防犯カメラからも死角になっていたし、店員の目にも入らなかったはず。

あんまりあっさり成功しすぎて拍子抜けした。

罪悪感は覚えたけど気分はすっきりしていて、「ごめんなさい。もう二度としませんから」と心の中で謝罪して、コンビニを後にした。



「ねぇ、姉さんって万引きの常習犯なの?」



 それなのに、家に帰ってから、一つ下の弟にそう話しかけられた時には、驚きすぎて何の言い訳もできなかった。

茫然とする彼女の前で、いつもの優しい表情を潜めた恢琉はにやりと、見たこともない悪魔めいた笑みを浮かべて、こう言った。



「姉さん確か推薦決まってたよね? もし俺が親とか学校とかにこのことチクったらどうなるだろうね。警察沙汰にまではならなくても、推薦取り消されて、明らかに姉さんの人生に傷がつくよね」



 芙由は反論できずに黙り込む。彼はこう続けた。



「でも、俺さえ黙ってればまずバレないし。どうする、姉さん」



 選択の余地はなかった。

今回推薦に受かったのはたまたま運がよかっただけで、彼女は決して優等生ではない。

それだけにようやく手に入れた幸運を手放したくないという思いは強かった。

まして、推薦の有無は確実に彼女の将来を左右する。



 自分勝手と言われればそうかもしれない。

けれど、その分の報いは充分に受けたと思う。

手を合わせて黙っていてくれるよう懇願すると、弟はこんな提案をしてきたのだから。



「じゃあさ、その代わりに姉さんには俺のものになってもらうから」



 意味が分からずに訝しい表情を浮かべる姉に向かって、恢琉はうっすらと笑ってみせた。



「いつでも、俺の好きな時に姉さんを抱かせてよ。そしたら、万引きのことは絶対誰にも言わない」



 実にあっさりと、そんな背徳的な提案を口にした弟の前で、彼女は驚愕に目を瞠みはる。



 それは、明らかな脅迫だった。





















 午前中の中休み。最上級生の教室が並ぶ校舎四階の廊下は生徒たちで溢れ返っていた。

 皆が皆口々にガヤガヤと話し合い、束の間の休息を楽しんでいる。



「でもさぁ、芙由はいいよねぇ」



 他の学生たちと同じように廊下で会話に興じていた芙由は、友人の一人にしみじみとそう言われ、小首を傾げた。



「何が?」

「だってさ、あんなかっこいい弟がいて。もー、この高校の超有名人、だんとつナンバーワンのイケメンじゃん? 恢琉くんと一緒に暮らしてるなんて、考えただけでドキドキしちゃうっ」



 そう言いながら、彼女はもう一人の友人と共にジタバタとその場で足踏みをして「キャーっ」と嬌声を上げる。



「で……でも……弟だし……別に……」

「うそっ、あんなかっこいい弟いて、芙由も意識しちゃったりしないの?」

「意識って?」

「あーっ、分かる! わたしだったら同じ家にいたら絶対襲っちゃうねっ」

「逆でしょー。わたしは襲われたいなぁ。恢琉くんくらいかっこよかったら、近親相姦みたいなアブナイ関係もありだよねー?」

「ありあり。全然あり。むしろ自分から希望しちゃう」



 きゃいきゃいとはしゃぐ友人二人を前に、芙由は曖昧な笑顔を浮かべることしかできなかった。



 彼女たちみたいに、無邪気にはしゃげたらどんなにいいだろう――



 そう考えて気持ちを沈みこませる。

友人たちだって、実際に血の繋がった家族と体の関係を持つことになったら、明るくはしゃいでなどいられないはずだ。





 その時、不意に廊下の空気が変わる気配がした。

それまで周囲に満ちていたのは、てんでバラバラの会話が作り出す、無秩序なざわめきだった。

それが、ある種の秩序を持った、さざなみのようなざわめきへと変化する。



「うっそ……『噂をすれば影』だ……」



 芙由の背後に目をやった友人は、茫然とした様子で喜びの声を上げた。

 彼女の視線を追いかけて、芙由もくるりと振り返る。

 そして、廊下の向こうから歩いてくる弟の姿を見た。

生徒たちによって作られた花道のような通路の真ん中を、ゆっくりと歩く弟。

自分に向けられた周囲の視線など気にする素振りもなく、自信に満ちた表情すら湛え、長い足を交互に踏み出して歩を進める。

背の高い彼は同年代の生徒たちの中で否応なく目立ち、誰しもを惹きつける。



 姉を見つめながらまっすぐに歩み寄ってくる弟の視線に耐え切れず、芙由はとっさに顔をそむけた。



「姉さん」



 すぐそばまで来た恢琉は、バリトンの深い声で姉を呼ぶ。

その声だけで間違いなく数多あまたの女性を魅了できそうな、優れた容姿に恵まれた彼。



 ようやく160センチに身長が届こうかという芙由は、いつも弟に見下ろされながら会話をしなければならない。

しかも、今は顔を伏せてしまっているため、茶色がかったストレートのセミロングで彼女の表情は隠れがちになっていた。



「な、何?」

「ちょっと話があるんだ。今すぐ」



 にこやかで穏やかな微笑み。

芙由の友人たちはもうその笑顔だけで彼に魅せられ、そわそわと落ち着かない様子で姉弟を眺めている。

彼女たちだけではない。

廊下にいた女生徒たちの大半が、ある者は彼に対して媚を売るようにシナを作り、ある者はただうっとりと目を奪われている。

そんな彼の放つ男性フェロモンに当てられたように、廊下にはいくらか浮ついた雰囲気が漂っていた。



「は、話って……何?」



 だが、芙由の声が上ずっているのは決して弟の男性的魅力のせいではない。

彼女は数日前に彼の本性を知ってしまった。

恢琉が決して見かけだけの優しい男ではないことを。



「向こうで話すから着いてきて。すぐ終わるよ」



 廊下の端を指差し、恢琉は極上の笑みを浮かべた。

姉に甘えるような、彼女を信頼仕切っているような、ある意味無邪気とも言える、弟の笑み。

だが、その下に潜むものを知ってしまった今では、芙由には彼の笑顔が以前とは全く違ったものに見えてしまう。



「あ、うん。じゃあ……」



 誰にともなく曖昧な返事をし、芙由は先に立った恢琉の後に続き、どこかオドオドとした様子で歩き出す。



「じゃ、うちら先、教室戻ってるよー」



 友人たちは、そんな彼女の後ろ姿に、相変わらず呑気な声でそう告げた。

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