燕の軌跡

猫絵師

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炎獅子

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「フィー、いい子に待ってるのよ」

馬車に乗る前に、フィリーネの小さな手を握った。

彼女はトゥルンバルト夫人に抱かれながら、お気に入りのお人形を手にしていた。

1歳のお誕生日にと、ワルター様が残して行った人形だ。

彼女はこの人形をとても気に入っていた。

銀髪と藍色の目の人形は、誰を似せたものかすぐに分かる。自分を忘れないようにと用意したのだろう。

私も欲しかったな…と少し羨ましく思った。

「奥様、参りましょう」とシュミット様が出立を促した。

前線で戦うワルター様を慰問し、かねてより進めていた学校を開く許可を頂戴するためだ。

『私がお届けいたします』とシュミット様が仰ってくださったが、私から直接お話をしたかった。

塾を開くようには簡単にいかない。

私が目指しているのは本格的な《学校》だ。

きちんと先生をつけ、勉強できる場所を確保し、子供たちが安心して学べる環境を提供するための場だ。

そのためには、まとまったお金が継続的に必要となる。

色々な課題があるが、その中でも一番問題なのは、今が戦争中という事だ。

こんな時に、大きなお金が動くような事業を私の一存で勝手に進めるのは、さすがに気が引けた。

書面でのやり取りだけでは不十分だ。

彼を納得させられないなら、学校を開くなど夢のまた夢だ。

侍女のアンネを伴って、馬車に乗り込んだ。

馬車の周りを護衛役の騎士たちが取り囲み、馬車がゆっくりと動き出す。

このために用意した書類袋を抱いて、馬車の窓の外を眺めた。

見慣れたブルームバルトの風景は、とても戦争が始まったとは思えないほど今日も長閑のどかだ。

「大丈夫ですか、奥様?」

心配してくれるアンネに「大丈夫よ」と笑顔で返した。

子供たちとブルームバルトの未来を守るのが、私に課せられた使命だ。

「旦那様がご賛同下さると良いですね」

「渋っても、説得してみせるわ。

未来のためですもの」と決意を口にした。

この戦い、私には引く気はなかった。

✩.*˚

何が起きた?!

理解が追いつかない程のスピードで、目の前の風景が目まぐるしく変わった。

意識を引き戻したのはリューデル伯爵の声だった。

「ロロー!」

呼ばれた犬はもう物言わぬ肉塊になっていた。

宙を舞った犬の首が、重い音を立てて地面に落ち、血を撒きながら跳ねた。

「閣下!お下がりください!」と叫んだ近侍が見えない刃に切り裂かれ倒れる姿をただ見ていた。

久しぶりに目の前で人が死にゆく姿を見た…

その姿に、恐怖とは違う感情が湧いた。

「エインズワース!逃げろ!」

俺を逃がそうと伯爵が剣を手に前に出た。

そうか…俺は戦う術のない、ただの鍛冶屋だった…

本営に鞘を届けに来て、帰ろうとした時に本営のテントから出てきたリューデル伯爵に呼び止められた。

顔を合わす気はなかったので面倒に思ったが、彼はわざわざ労うために出てきたらしい。

『仕事の早い男だな!実に結構だ!』

『もう、ブルームバルトに帰りますので…』と答えた。

その返答に、リューデル伯爵は少しだけ驚いたようだったが、『そうか』と頷いた。

『剣を用意してくれて感謝する!カナルの岸は守って見せよう!安心して帰るがよい!』と安請負する男に不安を覚えた。

レオン…本当にここに残るのか?

本当にお前はここに残らなければならないのか?

気持ちが沈むのを感じ、いたたまれずに踵を返した時だった。

俺の足元に魔法陣が出現した。

『エインズワース!』

自分より大きな腕に掴まれて乱暴に投げ飛ばされた。

転がった先で目に飛び込んできたのは、体勢を崩しながら剣を手にしたリューデル伯爵と、魔法陣から出現した白い装いの騎士たちの姿だった。

『死ね!』と呪いの言葉を放った騎士が離れた位置で刃を振るった。刃は届かないはずだった…

目の前を黒い影が横切って、俺を庇ったリューデル伯爵の巨躯を突き飛ばした。

目の前で赤い飛沫が空中に咲いた。

それまでが、あっという間の出来事だ…

飛び散った血は、黒い大きな犬のものだった。命を懸けて、健気に主を守ったのだろう…

「おのれ!よくもロローを!」伯爵の怒声が落雷のように放たれた。元々声の大きな男だが、怒りが上乗せされた声はビリビリと空気を震わせて響いた。

「穢らわしい」と吐き捨てた白い鎧の騎士は剣を振るった。

リューデル伯爵に比べ、見えない刃を振るった騎士は細くか弱く見えた。

それでも、華奢な印象の騎士は伯爵の怒声にも怯まず、睨み返したようだった。

「貴様らが私から奪ったものはこんなものでは無いぞ!貴様の屍をヴェルフェルの城に届けてやる!」

「クィン卿!熱くなり過ぎないで下さい!」と注意を促す声がした。

魔導師のような杖を手にした騎士は、次なる魔法の準備を始めていた。足元にまた魔法陣が浮び上がる。

魔法に関しては門外漢だが、良いものでは無いだろう。発動を阻止しようとした兵士たちが剣を抜いた。

魔法を使う騎士の前に、同じように現れたもう一人の騎士が立ちはだかった。

「《剛腕・熊爪》!」

リューデル伯爵といい勝負の大男の篭手を嵌めた腕から魔力の気配がした。

大振りに振るった拳は、魔法の効力で押し寄せた兵士らを薙ぎ払った。

「オリヴァー!早くしろ!」

「簡単に言って…」とボヤく魔法使いは、手を止めることなく、空中に幾つもの魔法陣を起動させた。

羅針盤のようなものや時計のような魔法陣が空中に浮かんだ。何を始める気だ?!

「…《現在地点座標把握》、《最終記録地点把握》、《自動演算開始》…《転移魔法陣展開》」

「《アンバー式転移魔法》か?!」

「あの魔法使いを止めろ!」

居合わせた幕僚らの下知が飛ぶが、大男に阻まれて誰も近寄ることすら出来ない。あの男、《祝福持ち》か?

「閣下をお守りしろ!」と別の方向から声が上がる。

リューデル伯爵はさっきの騎士と対峙している。

魔法に耐性のある鎧なのか、あの見えない刃に鎧は何とか持ち堪えていた。

加勢しようとする親衛隊は、奇襲した騎士にまるで歯が立たなかった。

「近くの部隊を呼べ!親衛隊!閣下をお守りせよ!」

「手出だし無用だ!」と伯爵は吠えたがそういう訳にもいかないだろう?彼らは大将を守るのが仕事だ。

伯爵の安全が確保されない限り、血は流れ続ける…

加勢するかという思いが頭を過ぎった。

見た限り、この場に魔法使いは居ても、《祝福》を持った奴は居ない…

「何をしている!」と伯爵の焦りを含んだ怒声が空気を震わせた。

彼は部下たちに、耳を疑う言葉を放った。

「その男を安全な場所に連れて行け!

彼はこの国の貴重な《財産》だ!」

下知に応じた騎士が俺の腕を掴んだ。

「閣下のご命令です。急ぎこちらへ…」

腕を引く騎士の目には悔しさが滲んでいた。

己の主でなく、俺を守らねばならないことが、悔しくて堪らないのだろう…

視線を逸らせた僅かな時間に、騎士たちから悲鳴が上がった。

「閣下!」と叫ぶ声に吸い寄せられるように視線が動いた。

鈍色ばかりの色の少ない風景に、赤だけが鮮やかに広がった。

誰の赤かは聞くまでもなかった…

伯爵を倒した騎士の、勝利を確信した哄笑が不愉快に耳朶を打った。

俺が迷ったから…

出し惜しんだから…

頭の奥が鈍く痛んだ。全てがゆっくりに見える風景に、頭の奥で、忘れられない声が響いた…

『暖かいわね、アルフィー』と褒めてくれた母を守れなかった…

『相棒だろぉ?』と俺を求めた男も無様に死なせた…

俺はいつも、遅いのだ…後悔ばかりが着いて回る…

『ありがとう、ギル』悲しい赤い瞳が麻痺した脳裏に過ぎる。

レオン…やはりお前を置いては行けない…

『何をしている?』と炎獅子の声を聞いた気がした。

身体が勝手に動いた。

「相手は《祝福持ち》だ、ロンメルを呼べ」

「お、おい!待て…」静止する声に聞こえないふりをした。

向かってきた俺の姿に、とどめを刺そうとしていた騎士の意識がこちらに向いた。

俺の身体が半分炎に包まれて視界が陽炎に揺れる。炎は俺を焦がさずに留まった。

臆するな…俺は十分戦える…

「《炎の壁ファイヤーウォール》!」

相手が動く前に火の手を放った。

炎がうねり、敵の前に炎の一線が引かれた。越えられない壁が敵を退けた。

「エインズ…ワース…」呻く声が足元で聞こえた。

生きてるなら、本営付きの治癒魔導師が何とか繋いでくれるだろう。

「加勢する」と短く告げて、落ちてた剣を拾った。

刀身に広がる模様に炎の熱が宿る。赤く光る刀身から、鎌首をもたげる蛇のように陽炎が揺らめいた。

炎の壁の向こうで人の動く気配がした。

「《風刃・裂破》!」

炎の壁を魔法が斬り裂いた。

風魔法か…

舌打ちをして炎を纏った拳を振るった。見えない刃が炎の爆発に煽られて霧散する。

見えないが、炎の熱の揺らめきで襲ってくる場所はある程度予測可能だ。

ロンメルがやられたのはこれか…

「クソッ!あと少しだったのに!」と歯噛みする声が聞こえる。相手もまだ倒れてはいない。あの爆風を自分の風で相殺したらしい。

もっと近づいて、直接叩き込まなければ決定打に欠ける。

辺りには、風を切るような不気味な音が絶えず鳴っている。隙があれば打ち込んでくる気だろう。

いいだろう、受けてやる…

「離れてろ」と周りに警告して炎の熱を上げた。

赤から青へ色を変えた炎は従順だった。

「このっ!化け物め!」と俺を罵る声に自嘲する笑みが漏れた。

確かにな、否定できない。

こんな人間見たことも聞いたことも無い。

あの不器用な男と同じく、俺は人間を辞めた…

✩.*˚

なんて事だ…目の前の惨状に嫌な汗が滲んだ。

辺りは一瞬で火の海になった。

「オルセン!私よりクィン卿を…」

「バカを言うな!お前はそっちに集中しろ!」と私を守っていたオルセンが怒鳴り返した。

転移魔法の用意は終わったが、撤収できない。

「あんな奴が居るとは聞いてないぞ!あいつら隠していたな?!」とオルセンが苦く吐き捨てた。

大誤算だ。

これ程までの怪物を隠していたとは恐れ入る。

しかも、その男は、どこにでもいるような町人のような姿をしていた。気づく訳が無い。

この炎の使い手については一切の情報がなかった。

「副団長!無理するな!撤収だ!」

オルセンの声は届いているはずなのに、クィン卿はそれを無視した。

彼の放った風の刃が、リューデル伯爵の右腕を切り裂いた。鎧の隙間を縫って貫いた剣先が胸から血が溢れさせるのを見た。

敵の指揮官に重傷を与えることに成功したのだ。

傷口の塞がらない彼の刃を受けたのだ。既に戦闘が継続できないほどの重傷だろう。放っておいても、遅かれ早かれリューデル伯爵は死ぬ。

意固地になって引き際を逃すべきではない。

目の前に立ちはだかる男の姿が、陽炎を立ち昇らせ歪んだ。

風景まで歪める程の炎の熱を纏いながらも、彼は無傷だ。

あの男は危険だと、今すぐ逃げろと、本能が叫んでいる。

「クィン卿!撤退を…」

熱風に煽られるマントに向かって叫んだ。

『当教会にてお預かりすることになったウィンザー大公の公子様です』と貴方を預かった時の事が頭を過ぎった。

哀れに思うほど幼い少年は、母親の手を離れて神の家に預けられた。

まだ甘えたい盛りだったろうに…

預かったとは体のいい言い訳だ。彼はウィンザー公国を守るための人質に過ぎなかった。

私のような世話係は付いたが、質素で制限だらけの生活を強いられ、同輩の子供たちのように過ごすことは許されなかった。

『帰りたい』と『お母様に会いたい』と嘆く少年を慰めるのは私の役目だった。

彼は年に一度、オークランドに献上される貢物の対価として、両親に会うことを許された。

大国がたった一人の子供を餌に、小国から財を搾り取る様は、私の目には卑しく醜く映った。怒りも感じた。吐き気すら覚えた。

私が彼のためにできたのはそれだけだった…

そして今も、帰り道を用意するくらいしか、私にできることは無い。

オルセンが舌打ちをして私に振り返った。

彼の額には汗が滲んでいた。彼は死を覚悟した時の人の目をしていた。

「お前は動くな!俺が連れ戻す!

副団長を連れて戻れ!」

「オルセン!」

「俺は元よりお前たちの護衛役だ!お前たち二人を生かして返すのが俺の役目だ!」

彼は自分の役目をよく理解していた。

「…《身体強化》、《耐火》、《防護》…」彼に付けられるだけの強化魔法を付与した。これで少しは役に立つはずだ。転移魔法を維持したままなので、効力に不安があるが、ないよりましだ。

「ルフトゥの加護を…」死に行く仲間の背に建前のような言葉で送り出した。

長い付き合いの友人を死地に送り出すにしては、あまりにも貧相な贈る言葉だ。

私は、剛毅で真っ直ぐな性格の貴方が好きだったんですよ…

今生の別れとは思えないほどの軽い印象で、彼は背を向けて手を振って応えた。

「礼を言う、オリヴァー。じゃあな」

それだけですか?

また明日にでも会うような気軽い彼の言葉が、私の焦燥感を煽った。

✩.*˚

懐かしい感覚だ…

あの頃と違うのは、俺自身が炎に焼かれない事と、火傷の痕の無い身体で動きやすいという事だ。

剣は使い慣れてない。相手ほど上手く使えなかったが、盾の代わりくらいにはなった。

「クソッ!」憎しみと苛立ちが相手の兜の下から漏れた。

俺の知ってる鎧のとは違い、特別な防御魔法が付与されているのだろう。俺の炎に焦がれながらも動けているのはそういう事だ。

気を抜いたら、あの厄介な風の刃に切り裂かれる。炎が揺れる感覚だけで風を予測して、避けるか相殺させねばならない。

久しぶりに戦う相手がこれ程の強敵とは…

苦い気持ちが押し寄せた。やはり見て見ぬ振りをすべきだったろうか?それでも手を出した以上、最後まで責任を持つつもりでいた。

できる限り被害は最小限にと思っていたが、相手はそんな生易しい相手では無い。

それに、下手をすれば俺が味方から敵と認識されてもおかしくない。

傍から見れば、炎に包まれた姿の俺の方が化け物じみている。

ロンメルが来るまでに片付けられるか?

つまらない考えに、炎の揺れに一瞬反応が遅れた。

「っ!」風の刃が左の腿を掠めた。

「死ね!化け物め!」物理的な剣の攻撃が目の前に繰り出された。

この剣も、俺の炎で溶けない所を見ると魔剣の部類だろう。《祝福》に耐えうる剣だ。斬られたら無事では済まないかもしれない。

姿勢を低くして地面を転がった。

空振りに終わった剣が向きを変えて追いかけてくる。何とか手にした剣で迎え撃ったが、剣術も体捌きも圧倒的に相手の方が上だ。

風の刃で傷付いてはいたが傷は浅い。

「《劫火》!」体勢を立て直しながら火球を放った。

反撃を危なげなく躱した相手は、少し距離を取って剣を構えた。離れた場所から突きを繰り出そうとする構えに、嫌な感じがした。

「《風刃・神撃》!」

身体を包んでいた炎が、相手に向かって吸い込まれるように揺らめいた。

気味の悪い空気の流れに、反射的に身体が動く。

飛び退いた直後、足元だった地面が抉れた。

さっき放った《裂破》という技より、こちらの方が威力は高そうだ。凝縮した空気を放った風魔法か?

…止めよう…考えても分からん…

「面倒だ」と本音が口から漏れた。

相手は強い。仕方ないと開き直ることにした。

とっくに俺が《祝福持ち》とバレている。

リューデル伯爵も助けたのだ。

目の前の敵を屠るなら、多少被害が出ても構わんだろう?

後の事など知ったことか!

『アルフィー、あんた結構短気で面倒臭がりだよねぇ…』

エドガーの声が脳裏を過って、炎の中で笑った。

そうだ。こういう戦い方の方が俺らしいだろう?

炎はまるで従順な生き物のように、望んだ形に姿を変える。全身を覆っていた青い炎が腕に集まって留まり、両肩から炎の腕が伸びた。

腕は俺の望み通りに動いた。まるで元々あったもののように操作できる。随分化け物じみてしまったが、まぁ、いいだろう。目の前の騎士に炎の腕を伸ばした。

彼は炎の腕の抱擁を拒むように立て続けに風を放った。

腕は風の刃に切り裂かれて霧散したが、すぐに元通りになって彼を襲った。

腕は増やせるか?

さらにもう二本腕が伸び、相手に襲いかかった。炎の腕が騎士に拳を振り下ろし、土煙と土の焼ける匂いが辺りに立ち込めた。

なるほど、なかなか…

「化け物だな」と自分の声が低く俺を嘲笑した。

煙の立ち込める中、沈黙した騎士にとどめを刺そうと歩み寄った。

「ぬうぅ!」雄叫びを上げながら煙から飛び出したのは別の騎士だった。

あの転移魔法陣操る騎士を守ってた奴だ。

デカいくせに早い!

突然の出来事に反応が遅れた。

「《剛腕・破砕》!」

吼えるような声に応じて、魔法の乗った強烈な拳が繰り出された。

咄嗟に、炎の腕と剣を盾にしたが、炎の腕は霧散し、剣は砕け散った。

勢いは削いだが、魔法を乗せた拳は止まらない。身を引こうとして、無防備になった左腕と左肩が犠牲になった。

殴られたそのままの勢いで吹っ飛ばされて、近くのテントに叩き込まれた。

「…う…ぐぁ…」動こうとしたが体の自由が利かない…

油断してモロに食らった…

脳髄まで焼けるような痛みが左半身を支配した。

目眩と吐き気がする…

口の中には鉄の味が広がり、むせ返るような血の匂いが呼吸に混じった。

早く起き上がらないと…

折れた剣を手放し、震える右手で身体を支えて立ち上がった。

動かねばいい的だ…

炎を呼んだ。

身体に纒わり付く炎は、己を奮うように燃え上がった。

デカい騎士はすぐには襲ってこなかった。

代わりに、あの風を操る騎士の怒り狂う声が聞こえてきた。

「オルセン!邪魔するな!」

「副団長、これは任務だ」と大男は細身の騎士を叱っていた。彼は助けた騎士の襟首を掴んで、軽々と投げ飛ばした。投げた先は魔法陣が敷かれた場所だ。

「オリヴァー!行け!」と男の声に応じるように用意されていた魔法陣が光った。

「《開門》!」の声に魔法陣が起動した。

一瞬瞬いた光が収束して、そこには何も無くなった。

仲間を見送った男は俺に向き直った。仲間に置いて行かれて、一人残されたというのに、彼はやりきったような顔をしていた。

「さて…自己紹介もまだだったな。

《黄金樹の騎士団》オルセン・バトーだ。俺の最後を飾ってくれ」彼は死に場所をここに選んだようだった。

俺を殴った右の拳は焼け爛れて赤と黒に汚れていた。もうあの腕は使い物にならないだろう…

「ギルバート・エインズワース…ブルームバルトで鍛冶屋をしてる」

「…それ程の力があるのにか?惜しいな…」

「俺はこの生活を気に入ってる」と死に行く男に答えた。

本心だ。この生活を選んだことを後悔などしていない。

俺が心の底でずっと欲しかったものだ。これ以上は望まない。

ただ、今の俺から奪うことは許さない。

バトーと名乗った騎士は「そうか」と頷いて拳を構えた。死を目の前にしているのに、彼は少し嬉しそうに見えた。

「エインズワース!俺の最後を華々しく飾ってくれ!

《剛腕・竜殺し》!」

バトーの左の肩が盛り上がり、左腕が丸太ほどの太さに変わった。身体強化の魔法か?それにしてもこれは…

「驚いたろう?この身体はもはや人外だ。治癒魔法でなければ元には戻せない」

「…呪われてるな」

「確かにな。《祝福》なんて、案外そんなもんかもしれんぞ」と彼は俺の言葉を笑った。

《祝福持ち》だったのか、と妙に納得した。

相手は大真面目に「参る!」と宣言して人外の拳を振り上げた。

「ちっ!」舌打ちをして炎の熱を上げた。炎の腕を作って構える。

この身体では相手ほど動けない。接近戦に持ち込まれたら一瞬で片がつく。手放しそうになる意識をギリギリで繋ぎ止めた。

アニタ…

彼女の笑う顔が脳裏を過ぎった。

彼女は美人じゃない。料理の腕だって、中の下だ。せっかちだし、不器用で、要領だってそんなに良くない。

それでも、俺は彼女の笑顔が好きだ。歯を見せて元気に笑う、日に焼けた顔が好きだ。

お前の泣く顔なんて、考えたくもない…

「おあぁぁぁ!」今の俺にできるかぎりの炎を右腕に集めた。

青かった炎が今まで見たことの無い色に変わった。

黒く揺らめく炎の温度は分からない。

不意に、頭の中に炎を纏った有翼の獅子の声が届いた。獅子は俺にその炎が何か教えた。

「《地獄炎インフェルノ》」復唱するようにその言葉を口にした。

黒い炎が生き物のように動き、異形になってしまったバトーを捕らえた。

突き出された巨大な拳が俺に届く前に、大蛇のような黒い炎のうねりに飲み込まれた。

彼は、纒わり付く黒い炎を振り払おうと藻掻いたようだったが、それは叶わなかった。

悲鳴さえ上げることが出来ず、踊るように最後まで足掻いた男は、黒い炎を振り払えずにその姿のまま黒く焦げて動かなくなった。

残った黒い炭の塊は、ボロボロと灰を落としながら傾いて倒れた。地面に倒れ込んだ消し炭は砕けて、塵に還った…

その残酷な死を他人事のように見詰めていた。

これを…俺がやったのか?

思考が追いついた時に酷い目眩と吐き気に襲われた。

その場に蹲って吐いた。

今まで散々殺してきた…

その罪悪感が今更になって決壊したように俺を襲った。痺れるような痛みを思い出して動けなくなる。

「…いや…だ」もう戦いたくない…

殺すのも、殺されそうになるのも、今の俺には重すぎる。帰りたい…家族の待つ家に帰りたい…

傷付いた身体をその場に投げ出して、泣きながら痛む肩を抱いた。

しばらくして、炎の引いた焼けた広場に、人の気配が寄って来る気配がした。

「そこのお前!う、動くな!」味方だろうが、この呼びかけでは味方とも言い難い。

「生存者を確認しろ!急げ!」

まだ煙の立ち込めた広場に重い足音が響いた。

俺に歩み寄る兵士の姿を視界に捉えた。槍や剣を手にしてゆっくりと歩み寄る姿に、やはりな、と絶望を感じた。

味方であって味方でない。

俺が助けた相手はそういう相手だったということだ…

俺が重傷で動けないのも、彼らにとっては好都合だろう。こんな奴らのために、命をかけた自分が恨めしい…本当に馬鹿な男だ…

腕を掴まれて無理やり立たされた。抵抗する気は無かったが、痛みで身体が強ばった。それを抵抗と捉えたのか、彼らはさらに俺を乱暴に扱った。

連れていかれそうになった時になってやっと、待っていた男が現れた。

「待て!」

「ロンメル男爵!危険です!お下がりください!本営を焼いた男です!」

その言葉に、ロンメルが声を荒らげて「違う!」反論した。

焼いたのは本当なのだがな…

「その男に関しては俺から直接リューデル閣下に申し開きをする!こっちによこせ!」

「…しかし、それでは…」

「いいからよこせ!俺がキレる前にその男を返せ!」

その言葉は兵士らを怯えさせるのに十分だった。

兵士らは一言二言言葉を交わして俺から手を離した。

「ギル!」

「…遅い…」痛みに顔を顰めながら文句を言った。それでもこの男の顔を見て安堵した自分がいた。

「悪い、すぐにスーを呼んで治療させる。痛むだろうがもう少し我慢しろ」

何も悪くないくせに、謝りながらロンメルは俺に肩を貸した。痛みに顔を歪めると、彼はまた「悪ぃ」と謝った。

「俺より…リューデル伯爵は?」

「分からん」と答えたロンメルの声は硬かった。

あの煩い男の安否が気にったが、俺には知る由もなかった。せっかく用意した剣も折れてしまった。詫びて代わりを用意しなければ…

そんな事を思いながら、安心からか、かろうじて繋いでいた意識を手放した。
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